「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

梅を心の冬ごもり

2009年01月30日 | 歌びとたち
       夜色楼台雪萬家 蕪村 部分

 この地には珍しいほど雪の降った日以来、憧れの蕪村の「夜色楼台雪萬家図」を図録で打ち返し眺めては、その詩情を辿っています。
画家蕪村としての最高傑作と勝手に思い込んでいるので、昨年も5月の終わりにこの一枚のために滋賀のMIHOまで出かけたことでした。

 この夜色楼台雪萬家のたれこめた雪のなか、太郎を眠らせ、次郎を眠らせ、降り積む雪の下には、老いた詩人も、ひっそりと「うづみ火や我かくれ家も雪の中」と篭り居を愉しんでいます。
 雪景色を描いてそこに篭る人々の円居のぬくもりまで感じさせる点で、「十宜図」の「宜冬」よりも、直接的に蕪村俳句の世界に近いものがあります。俳諧と絵画の二筋道を歩き続けた蕪村の晩年の、豊饒の世界が統合された到達点だったと思えるのです。

 何度も触発されは、雪萬家を試みてはみるのですが手がかりすら求められません。それでも手探りの途上で“桃源の路次の細さよ冬ごもり”の詩情の安息感だけは受け取ることができます。
 冬ごもりの句を多く遺した蕪村が身近なものに思えるひとときを愉しんでいます。
    屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
    桃源の路次の細さよ冬ごもり
    うづみ火や終には煮ゆる鍋のもの

 最後の句は好きな句です。煮えるともなく煮えている。鍋の中のものが何なのか。それが何時煮えるのかわからないながら、いつかは煮えると落ち着き払って泰然としている清貧の老隠者閑居の図です。羨ましい境地です。
「家にのみありてうき世のわざにくるしむ」ー檜笠辞ーといった、篭り居の詩人蕪村がとらえた町中の細い路次の奧にある自分だけの桃源が、その細さがいとおしいのです。
 わが細き路次の奧なる、桃ならぬ梅の桃源も、あと二三日でほころびそうです。 春の枕詞としての冬ごもりではなく、実感を伴って立春となることでしょう。

冬の歌ごよみ

2008年12月19日 | 歌びとたち
 宗達下絵に、光悦が三十六歌仙の和歌を記した“お気に入り”の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を図録で眺めながら、琳派の人々の和歌や古典への研鑽のほどを思っていました。  
 画題発想の根底にあるものを手元の新古今和歌集、冬歌の巻(日本古典文学大系)で辿ってみました。
 思いのほかに多くの冬の歌が上がっていました。

  うつり行く雲に嵐の声すなり散るかまさきのかづらきの山  藤原雅経
  しがの浦や遠ざかりゆく浪間より氷りて出づる有明の月   家隆朝臣
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮れ  定家朝臣

 謡曲の詞章にもしばしばとられているこれらの歌は、画家達も好んで題材に選んで描いています。


鈴木其一 四季歌意図巻 部分


 本歌取りの重層構造が複雑な情感を漂わせ、構築される幽玄の世界が創作の意欲を呼ぶのでしょう。
 季節の進む順に組まれた冬歌の終わりの方には、歳末の慌しい中にも悲しみの陰影を詠っていますが、その中で、過ぎ行く年を送る老いの身の嘆き、悲しみをよんだ切実な歌にも出会いました。

  かぞふれば年の残りもなかりけり老いぬるばかりかなしきはなし  和泉式部
  思ひきや八十の年の暮なればいかばかりかは物はかなしき     小侍従

 冬の厳しい季節感は、私の思い込みの中では俳句の方が表現形式としてはぴったり来るのではと思っていたのですが、和歌の世界も、しみじみと年の名残の哀愁をうたいあげ棄てたものではありませんでした。

 俳句の世界で、私の好きな冬の句はなぜか海を素材にして詠ったものが多いのです。冬ごもりのつれづれに鮮烈な切り取りを印象深く味わっています。
  凩の果てはありけり海の音    池西言水
  海に出て木枯し帰るところなし  山口誓子
  木がらしや目刺にのこる海の色  芥川龍之介
  流氷や宗谷の門波荒れやまず   山口誓子
  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  久保田万太郎
  冬菊のまとふはおのがひかりのみ   水原秋桜子

   思いつくままの句は、終わりの二句以外は、こがらしと冬の海です。



鷹女幻影

2008年12月06日 | 歌びとたち
 庭はいま満天星躑躅も、錦木も、そしていろは紅葉も盛りの時を迎えて狂おしく燃えたっています。この時季には何時も三橋鷹女の句を思います。
    この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
 私は下手な紅葉の山を描いては「夕映えに鬼女舞ひいでよ」と賛をしたのも、いわばこの句の本歌取りを気取ったものでした。
 この頃では、鷹女の代表句の、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」は高等学校の教科書に出ているそうです。鷹女52歳、激しい生き方で73年の生涯を生き抜いて最後まで毅然として去っていかれた尊敬してやまない女流俳人です。魅力的な明治生まれの女性です。

 初めて目にしたとき、強い衝撃を受けた句集「羊歯地獄」の序文はを忘れません。
   一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である
   四十代に入って初めてこの事を識った
   五十の坂を登りながら気付いたことは
   剥奪した鱗の跡が 新しい鱗の芽生えによって補はれている事であった
   だが然し 六十歳のこの期に及んでは
   失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の侭である
   今ここに その見苦しい傷痕を眺め
   わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数をかぞへながら
   独り 呟く・・・・・・
     一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である
     一片の鱗の剥奪は 生きていることの証だと思ふ
     一片づつ 一片づつ剥奪して全身赤裸となる日の為に
     「生きて 書け・・・」と心を励ます

 この激しさ、厳しい探求があの数々の句の根底に流れているのを誰でも納得させられます。
 自分が年老いて、鷹女の年齢をとうに超えても見えてくるものは何もない貧しさ、剥ぐべき鱗すら持たぬまま、無為に朽ち果てるのをただ情けなく自嘲するのみです。

 私の好む女流は杉田久女にしても、時実新子にしても、共通した激しいものがあります。ある方の説によりますと、人は自分に欠落しているものに惹かれるのだとか。そうかもしれません。恥多く、安逸の中に妥協してばかりの歩みだったような気がしています。

白露や死んでゆく日も帯締めて

老いながら椿となって踊りけり             

    夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

    薄氷へわが影ゆきて溺死せり

    秋風や水より淡き魚のひれ 



庭の盛りの紅葉


   註 鞦韆(しゅうせん)ぶらんこ
     満天星躑躅(どうだんつつじ)

英彦山散策 2

2008年10月30日 | 歌びとたち
 

 英彦山には、古くから、多くの文人墨客が訪れています。小杉法庵、野口雨情、吉井勇などの足跡が著名です。この項では英彦山の文学関係を中心に記すことにします。

 今回のコースでは最初の訪問地が豊前坊でした。私には昔からの呼びかた豊前坊のほうがしっくりきます。神仏分離で廃仏毀釈が行なわれる前の呼び名です。
 ここが豊前坊天狗の本拠で、今年も、もうすぐ11月3日この境内で、山伏達の吹き鳴らす法螺貝の音が紅葉を震わせるなかで護摩焚きが行なわれ、火渡りがあることでしょう。
 今では高住神社と呼ばれる社の背後の巨岩、天狗岩に食い込んだ形の社に祭られている天狗の面は昔のままでした。此の境内の大きな橡の木の傍らに、杉田久女の句碑がひっそりと建っています。
橡の実のつぶて颪や豊前坊」 この句が日本新名所俳句 英彦山の部で銀賞受賞の句です。(写真)
 杉田久女の名前が俳句界に広く知られるようになったのは、ここ英彦山を詠んだ句で、最優秀賞の金牌賞と銀賞を受賞してからです。
 眼前にしきりに落ちてくるトチの実を「つぶておろし」ととらえた斬新さが目をひきます。
 一方、最優秀賞の句は、「谺して山ほととぎすほしいまま」で、彼女の代表句の一つとしてよく知られるところです。
 こちらは、スケールの大きい空間が描かれ、ホトトギスの澄んだ音色の鳴き声が木霊として反響する壮大な舞台が鮮やかです。
 この句碑は、奉幣殿のすぐ下の石段脇にひっそりと建っていました。俳句を嗜んだ伯母と見た幼い日の記憶とは場所が違っているように思いました。(写真) 
 小倉の禅寺、円通寺には英彦山で得た「三山の高嶺つづきや紅葉狩り」の句碑も建っています。

 棟方志功の版画「天狗の柵」の原点は小杉法庵の「此の山に棲むといふなる天狗共あらはれて舞へわれ酔ひにたり」や私の好きな吉井勇の歌にあるようです。この版画は一時持っていましたが、海外にも持参して、帰国の折に人にあげて、今は手元にありません。
 高千穂峰女にも、「観楓や英彦山天狗いで舞へよ]という句や、「老杉に鬼棲み夏の雲かける」の句があります。
         
今回初めて訪ねた英彦山権現神社(滝の坊)の境内にも峰女の句碑が建てられていました。
権現のえにしにつどふ岩もみぢ
 歌舞伎の“彦山権現誓助剣”はご当地もので、博多座でも上演されていました。
 謡曲「花月」の舞台もここ彦山から始まります。彦山で天狗に攫われたわが子を探す父親が、清水寺で再会を果たすといった筋書きです。

 最後に吉井勇の歌をあげます。
 「寂しければ酒ほがひせむこよひかも彦山天狗あらはれて来よ」 
 「英彦山はおもしろき山杉の山天狗棲む山むささびの山」 
 「彦山に来て夜がたりに聴くときは山岳教もおもしろきかな」

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久女の句碑2枚

峰女の句碑 権現のえにしにつどふ岩もみぢ

泣き笑いして

2008年10月19日 | 歌びとたち
 昨日から仕事をしていて、口をついて出てくる歌があるのですが、それが誰の詩だったのか、途中の1節が思い出せず、繰り返してもそこで止まってしまうのでもどかしい思いをしていました。若い日に繰り返し歌っていた歌なのです。
 ほろ苦い思い出と共に浮かぶ青春の日の思い出の歌をネットで検索してみることに気づきました。
 たちどころに全容解明です。氷解を感謝する後から、過ぎ去った日々が丸裸で人目に晒されているような、何か不安で空恐ろしい思いがこみ上げてきました。
 検索の結果は歌の背景が、作詞者堀口大学の経歴のおまけつきで出てきました。 男声合唱のための曲だったのを知りました。朧になってゆく記憶のために、”泣き笑い”の足跡をとどめておくことにしました。  

秋のピエロ        堀口大学作詞 清水脩作曲
  
  泣き笑いしてわがピエロ
  泣き笑いしてわがピエロ
  秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり 歌うなり


  O(オー)の形の口をして
  Oの形の口をして
  秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり

  月のようなる白粉(おしろい)の
  顔が涙を流すなり

  身すぎ世すぎの是非もなく
  おどけたれどもわがピエロ ピエロ ピエロ

  月のようなる白粉の
  顔が涙を流すなり

  身すぎ世すぎの是非もなく
  おどけたれどもわがピエロ ピエロ ピエロ

  秋はしみじみ身に滲(し)みて
  秋はしみじみ身に滲みて
  真実(しんじつ)なみだを流すなり 流すなり
  真実なみだを流すなり

秋の色

2008年09月26日 | 歌びとたち
 秋を色で表現するとしたらどんな色になるのでしょう。
 単純な私は、山吹茶や、能衣装の金茶色、丁子色や朽葉色を思い浮かべます。秋を彩る樹木が身にまとう華やいだ衣の色。そして季節の深まりと共に衣の色を変えてゆき、落ち葉となって地に還ってゆく姿に、この季節の「もののあはれ」を感じるのです。

 郷土の詩人北原白秋は秋を白で捉えて号としたようです。
 先日から話題を呼んでいるキトラ古墳の神獣も、秋を表す白が西の方位を守護する白虎として描かれています。
 中国思想からだけでなく、古来すぐれた詩人たちは秋の季節に「白」を感じています。芭蕉も、「石山の石より白し」と秋の風の色を「白」と表現しました。
「秋の空は紅に悲しめる」なら、よく理解できます。赤を悲哀の色と捉えるのは、さほど飛躍はありません。沈み行く茜の夕映えの空に向って、そうした情感をいだくのはごく普通でしょう。ですが、秋を「白」という捉え方をするようになったのは、私はずっと後だったような気がします。
 ただし、昔も今もこの「白」は、和紙の持つ、やわらかでほのかな色合いを内に含む奉書紙や、鳥の子紙の白で、シャープな刃物のようなホワイトではないでしょう。

 王朝物語に登場する衣服の、秋の襲(かさね)の色目でも、たとえば萩襲は表が白、裏が赤紫。花薄は表が白で裏が縹(はなだ)です。(表と裏が逆という異説もありますが)
 若い日には、「寂しさは秋の色」と感じてはいても、古歌に詠われる悲しみの秋の色に、「白」を実感として捉えることはできませんでした。

  しろたえの袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく  定家 新古今集

 後鳥羽院愛唱のこの歌も身にしむ秋風を白と詠っていました。

 秋の風の色を白と感じた最初も、久住高原のどこまでも広がる薄原を車で走っている時、即物的な色としての白いすすきの穂を揺らす風に白を捉えていました。

 秋の透明な空気の冷たさを、白だと感じるようになったのはそう遠い日ではありません。自分の頭に混じる白い色が多くなってきたころでした。



寺山修司の海

2008年06月23日 | 歌びとたち
 今年は寺山修司が亡くなって25年になります。「職業は寺山修司です。」と名乗ったように、晩年の演劇実験としての「天井桟敷」の主宰をはじめ、文芸のあらゆる分野に、詩、短歌、俳句、小説、エッセー、評論と、幅広く活動して、47歳の生涯を駆け抜けた寺山です。若者のカリスマ的存在だった寺山は、人によってさまざまな像でとらえられるのは当然ですが、私の中では寺山はいつもマリンブルーのイメージと結びついて浮かんできます。

あの代表作の
   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
にも、そしてカルメン。マキによって歌われて大ヒットとなった”時には母のない子のように”の歌詞にも「だまって海をみつめていたい」と歌われていました。

 学生運動が盛んだった時代、「身捨つるほどの祖国はありや」ありやしない。と反語で言い切る寺山の目に宿る霧の海も、だまって見つめる海も、日常報告的な、あるいは、花鳥諷詠のスケッ風俳句とは異質の、もっと奧にあるものを見据える思いがうたわれます。

 17歳で高校生俳句会議を主催し、青春の日にのめりこんだ彼の俳句にしばしば登場するのが「青い海」です。

   海に星振りし帽子をかぶり直す
   冬の葬出て望遠鏡に海のこる
   胡桃割る閉じても地図の海青し
   鉛筆で指す海青し卒業歌

 彼が未来を見るとき、踏み出そうとする時には、そこには決まって青い海が詠われているようです。
   軒燕古書売りし日は海へ行く (われに五月を)
 大事な古書を売り払わねばならないほどの貧困があったとは考えにくいにしても、「現実よりもあるべき現実」を尊重し構築する寺山にとって、どうやら海は原風景であり、マリンブルーは彼の青春の色そのもので、そこへ回帰するための海だったと思えるのです。
 梅雨の晴れ間のこの季節には、勝手な自分のイメージの寺山を思い出します。

  


写真は日向岬のクルスの海です。
 

大隈言道と桑原先生

2008年04月23日 | 歌びとたち

 幕末を代表する歌人、大隈言道(ことみち)の研究家としてしられる桑原廉靖先生とは、同じ福岡の乗馬クラブに所属していて、馬術連盟の理事を夫が務めていた関係で、深いお付き合いでした。最後にお目にかかったのは平成13年の櫻の散る頃でした。

 お酒がはいると、温顔をほてらして言道讃歌を熱っぽく語られたお姿をありありと思い出します。
 開業医の忙しいお仕事の傍ら、「歌と評論」の同人として、また、歌誌「かささぎ」の主幹としても活躍していらっしゃいました。お宅に伺っては奥様から、丹精の見事なバラをいただいて帰ったものでした。

 先生は、よく「現代の歌を詠おう」と主張した歌道革新の先駆者が言道だ。」と仰っていました。「天保の俵万智」とも。そして桑原先生ご自身も率直な属目を詠われていました。


 言道は約200年前、裕福な博多町人の家に生まれ、明治と年号の変わる年に71歳で亡くなっています。櫻が好きで、酒を好み、三味線、琴、小鼓、書に篆刻と多趣味の人で、酒が入ると浄瑠璃も語るさばけた人だったようです。
 日田の咸宜園に42歳で入門願を出し、驚いた淡窓は客分扱いにしています。このことに関して、桑原先生は、「独自の平明な歌を心掛けていた言道が、漢詩にすぐれ、人真似を退け、個性を尊重する学者だった淡窓に、自分と通じるものをみて、自分の歩みを確かめてみたかったのだと思う」といっておられました。

 一日百首の修行も行っていますから、言道の、遺した歌も6万首余です。ただし、岩波文庫になっている「草径集」の自選歌は971首だけです。
 100人を超える弟子のなかには、大阪の緒方洪庵(註1)、博多では野村望東尼(註2)といった有名人がいます。あの筑前勤皇のヒロインが、言道のお気に入りのお弟子さんでした。

 天保に生きた言道は、西行に劣らぬ相当な櫻への入れ込みようで、櫻を歌った和歌は、2600首という多数です。桑原先生に「大隈言道の櫻」の著書ががあります。

 幕末の二大歌人として並び称される橘曙覧も福井の人で、共に地方人だったのも時代を象徴しているように思えます。
 維新以後の西洋礼賛の流れの中で忘れ去られていた二人が蘇生するのは、明治もなかばを過ぎてからです。「歌よみに与ふる書」の正岡子規が橘曙覧を、言道のほうは、学者であり、有名な歌人でもあった佐々木信綱が、行きつけの神田の古本屋で言道の「草径集」を発見したのです。明治31年のことです。
 桑原先生は木版刷りの和綴じ「草径集」3冊(百部出版)を「私の宝物」と、大事にしておられました。

 言道の歌と、桑原先生の歌を次に挙げます。多数の中からの勝手な選択で、泉下で苦笑されているかもしれませんが、おおらかな先生のこと、お許しくださると思います。

大隈言道
  待ち佗ぶる人も思はずさくらばなこころしずかに今日咲きにけり
  春来ればいづこに行くも憂かりけり出でなと花は言はぬものから
  さくらばな肩に袖にも散りくれどなつかしげなる膝の上かな
  
  みゆる日もありとはいへど荒津の沖いづれの雲か新羅なるらむ
  かへり見ぬ人あらましや故さとの今ぞ隠せる立花の山
  ほととぎす行へをしらに隠したる大城のやまの松のむら立ち
  山陰のさとの茅ぶき板やぶき雪つむ時ぞげにあはれなる

桑原廉靖
  武者絵馬に少年の日の名はありて兵には召され発ちてゆきたり
  数知らぬ命をききし聴診器象牙の色のいたく黄にさぶ
  真実を告げむか偽り通さむか手を洗ふ間に心きまらず
  今日もまた人の死ぬる日菜の花の盛りの野道戻り来にけり
  海にむけ木の鳥居立つ防人のむかしよ絶えぬいくさの嘆き
  昼ながら赤提灯に灯をともし足わるき老い蛸焼きを売る
  
左上 歌集「象牙の聴診器」
色紙は持参の馬上杯を喜ばれての揮毫 
左は、歌集の見開きの短歌
駈足に移る坂道馬逸り宝満山は冬を晴れたる
3冊は恵贈くださった中から

註1 黒田藩の蔵屋敷は洪庵の往診先でした。言道は大阪ではここにしばらく滞在、後にも出版のため、10年大阪に単身で住んでいます。
註2 高杉晋作の臨終に立会い「おもしろきこともなきよをおもしろく」晋作「すみなすものはこころなりけり」望東尼の付け合いはよく知られています。

万葉集の恋人たち

2008年03月01日 | 歌びとたち
 万葉集の恋歌のなかには、遊宴の折の余興のようなものや、戯れの挨拶的なものもありますが、ここでは、ひたむきの思いを切実に歌い上げたものを拾いました。

 遠い記憶が蘇るような初々しい恋の歌から、切ない片恋の嘆き歌、身を切り裂くような絶唱まで、王朝の恋歌とは趣を異にしています。
 また寒さがもどった春寒の日、万葉集が炬燵のつれずれの相手をしてくれました。

 青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立処ならすも  (巻十四)
 張らろ(ハ)川門(カワト)清水(セミド)立処(タチド)と繰り返す東国の方言が一つのリズムを生んで、弾むような早春の日の初々しい恋の始まりがあります。
 水汲み場で、春の日差しをあびて、柳と戯れながらそわそわと落ち着かずに土を踏み平らしているいる娘、「汝」ナと呼ぶからは、待つ相手はうら若い年下の青年だったのかもしれません。東歌と呼ばれる一群はリズムがよく東国方言も活きています。
 多摩川に晒す調布さらさらに何ぞこの子のここだ愛しき も感じの良い民謡です。

 ところで万葉集では、まだ恋歌という名目はなく、“相聞歌”と呼んでいます。互いの思いを問い交わすのですから、恋歌に限定はされませんが、殆どが恋歌です。
 笠郎女はかなり達者なうた人ですが、大伴家持への片恋をせつなく詠い続けています。家持に送った二十四首の中からです。
 君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも  (巻四)
 恋焦がれる思いをどうするすべもない。奈良山の小松のもとで、むなしくため息をついて立ち続けていることです。
 夕されば物思いまさる見し人の言問ふ姿面影にして  (巻四)
 夕暮れは、今はつれないお方ながら、やさしかった日の姿が忘れられない。というのです。
 あの手この手の訴えですが、奈良山は低い丘陵の平坦な山です。家持の屋敷のある佐保の里はすぐ目の先です。屋敷のうちを見下ろされ、嘆かれている家持はどんな気持だったでしょう。ついには片思いに耐えきれず「餓鬼の後へに」とあびせかけています。家持もこの攻撃には閉口したことでしょう。
 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へに額づくごとし  (巻四)

 印象に残る歌は中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子の間に交わされた63首の歌です。流罪となって、旅立つ夫宅守に向かって詠いかけた歌は、一種の迫力があります。 吹き上がる情熱を勢いに任せて率直に表白していきます。
 君が行く道の長程を繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも  (巻十五)長程ナガテ
 天地の辺陲のうらに我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ  辺陲ソコヒ
 還りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
 二人の恋の行方は知りません。 
 但馬皇女の許されぬ恋を詠った歌と双璧の絶唱です。
 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る  (巻二)
 天武天皇の皇女但馬皇女は異母兄高市皇子の妻の一人。高市は、天武亡き後、持統天皇の信任篤い太政大臣です。同じ異母兄の穂積皇子と恋をし、世間の噂になったときのもの。「朝川渡る」果敢な行動を、あえて恋を貫く決意として、激しい情熱で詠いあげたものです。
 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背
 世間の噂を避けてか、近江に遣わされる穂積皇子に呼びかけたものです。この二人の恋の行方もどうなったのでしょう。


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女
今年はアシビの花の盛りが半月も早いようです。

車塵集の訳詩

2008年02月27日 | 歌びとたち
 漢詩を楽しんでいて、遠い日の記憶の底から、佐藤春夫の車塵集が浮かんできました。
 昭和初期の、この春夫の訳詩は、単なる訳詩の域を超え、すでに一個の独立した作品になっていると感動していたことなどを思い出しています。古風な七五調の訳が、藤村の抒情詩などのように、女学生の情感をくすぐっていたのでしょう。

 車塵集に取り上げられているのは、いずれも閨秀詩人たちの詠んだものです。詩集の題名、”車塵集”も「美人の香骨 化して車塵と成る」からです。
 正統の詩歌集にはまず採られることはないだろうと思われる、普通の女性たちの小品のとりあつめです。
 詩句からどんな美しい人の溜息だろうと想像するのも楽しいものです。事実、魚玄機など美人としても知られていたようですから。
  音に啼く鳥     薛涛
    檻草結同心      ま垣の草をゆひ結び
    将以遺知音       なさけ知る人にしるべせむ
    春愁正断絶      春のうれひのきはまりて
    春鳥復哀吟       春の鳥こそ音にも啼け

  秋ふかくして    魚玄機
    自嘆多情是足愁   わかきなやみに得も堪えで
    況当風月満庭秋   わがなかなかに頼むかな
    洞房偏与更声近   今はた秋もふけまさる
    夜夜燈前欲白頭   夜ごとの閨に白みゆく髪

   春のをとめ     薛涛
風花日将老   しづ心なく散る花に
佳期猶渺渺   なげきぞながきわが袂
不結同心人   情をつくす君をなみ
空結同心草   つむや愁ひのつくづくし

このような調子です。
 自分で手探りの訳を愉しんでみる折に、春夫の訳詩は、古風ながら上手いなぁとあらためて感心します。
 ただ、今の私は、結城の対に各帯を締めたようなこうした訳詩よりも、木綿の着流しに兵児帯を巻きつけただけのような、井伏鱒二の訳詩を喜んでいます。 鱒二には「サヨナラ」ダケガ人生ダの名訳があります。

 花発多風雨   花発スレバ風雨多シ     ハナニアラシノタトエモアルゾ
 人生足別離   人生別離タル        「サヨナラ」ダケガ人生ダ