幕末を代表する歌人、大隈言道(ことみち)の研究家としてしられる桑原廉靖先生とは、同じ福岡の乗馬クラブに所属していて、馬術連盟の理事を夫が務めていた関係で、深いお付き合いでした。最後にお目にかかったのは平成13年の櫻の散る頃でした。
お酒がはいると、温顔をほてらして言道讃歌を熱っぽく語られたお姿をありありと思い出します。
開業医の忙しいお仕事の傍ら、「歌と評論」の同人として、また、歌誌「かささぎ」の主幹としても活躍していらっしゃいました。お宅に伺っては奥様から、丹精の見事なバラをいただいて帰ったものでした。
先生は、よく「現代の歌を詠おう」と主張した歌道革新の先駆者が言道だ。」と仰っていました。「天保の俵万智」とも。そして桑原先生ご自身も率直な属目を詠われていました。
言道は約200年前、裕福な博多町人の家に生まれ、明治と年号の変わる年に71歳で亡くなっています。櫻が好きで、酒を好み、三味線、琴、小鼓、書に篆刻と多趣味の人で、酒が入ると浄瑠璃も語るさばけた人だったようです。
日田の咸宜園に42歳で入門願を出し、驚いた淡窓は客分扱いにしています。このことに関して、桑原先生は、「独自の平明な歌を心掛けていた言道が、漢詩にすぐれ、人真似を退け、個性を尊重する学者だった淡窓に、自分と通じるものをみて、自分の歩みを確かめてみたかったのだと思う」といっておられました。
一日百首の修行も行っていますから、言道の、遺した歌も6万首余です。ただし、岩波文庫になっている「草径集」の自選歌は971首だけです。
100人を超える弟子のなかには、大阪の緒方洪庵(註1)、博多では野村望東尼(註2)といった有名人がいます。あの筑前勤皇のヒロインが、言道のお気に入りのお弟子さんでした。
天保に生きた言道は、西行に劣らぬ相当な櫻への入れ込みようで、櫻を歌った和歌は、2600首という多数です。桑原先生に「大隈言道の櫻」の著書ががあります。
幕末の二大歌人として並び称される橘曙覧も福井の人で、共に地方人だったのも時代を象徴しているように思えます。
維新以後の西洋礼賛の流れの中で忘れ去られていた二人が蘇生するのは、明治もなかばを過ぎてからです。「歌よみに与ふる書」の正岡子規が橘曙覧を、言道のほうは、学者であり、有名な歌人でもあった佐々木信綱が、行きつけの神田の古本屋で言道の「草径集」を発見したのです。明治31年のことです。
桑原先生は木版刷りの和綴じ「草径集」3冊(百部出版)を「私の宝物」と、大事にしておられました。
言道の歌と、桑原先生の歌を次に挙げます。多数の中からの勝手な選択で、泉下で苦笑されているかもしれませんが、おおらかな先生のこと、お許しくださると思います。
大隈言道
待ち佗ぶる人も思はずさくらばなこころしずかに今日咲きにけり
春来ればいづこに行くも憂かりけり出でなと花は言はぬものから
さくらばな肩に袖にも散りくれどなつかしげなる膝の上かな
みゆる日もありとはいへど荒津の沖いづれの雲か新羅なるらむ
かへり見ぬ人あらましや故さとの今ぞ隠せる立花の山
ほととぎす行へをしらに隠したる大城のやまの松のむら立ち
山陰のさとの茅ぶき板やぶき雪つむ時ぞげにあはれなる
桑原廉靖
武者絵馬に少年の日の名はありて兵には召され発ちてゆきたり
数知らぬ命をききし聴診器象牙の色のいたく黄にさぶ
真実を告げむか偽り通さむか手を洗ふ間に心きまらず
今日もまた人の死ぬる日菜の花の盛りの野道戻り来にけり
海にむけ木の鳥居立つ防人のむかしよ絶えぬいくさの嘆き
昼ながら赤提灯に灯をともし足わるき老い蛸焼きを売る
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左上 歌集「象牙の聴診器」
色紙は持参の馬上杯を喜ばれての揮毫
左は、歌集の見開きの短歌
駈足に移る坂道馬逸り宝満山は冬を晴れたる
3冊は恵贈くださった中から |
註1 黒田藩の蔵屋敷は洪庵の往診先でした。言道は大阪ではここにしばらく滞在、後にも出版のため、10年大阪に単身で住んでいます。
註2 高杉晋作の臨終に立会い「おもしろきこともなきよをおもしろく」晋作「すみなすものはこころなりけり」望東尼の付け合いはよく知られています。