「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

くれてゆく年

2006年12月31日 | 塵界茫々
 自分が高齢になるにつれ、一年の過ぎ去る速さを、侘しさと一抹の悲しみを伴ってしみじみと感じさせられます。
 平安時代には7月の盂蘭盆のように、大晦日にも魂(たま)祭りが行われていました。この風習はもう姿を消してしまったようです。僅かに除夜の鐘に仏事の名残をとどめ、神社の初詣が盛んです。

 今年は、昨年大晦日の入院から始まった、母の彼岸への旅立ちを見送ることで年が明け、七日ごとの仏事、四十九日,初彼岸、初施餓鬼、新盆と一連の仏事で月日が過ぎてゆきました。
 その中で、連れ合いの胃がんの全摘出手術という出来事に翻弄される三ヶ月が後半に加わりました。今まだその続きの混乱の中にいます。
 辛うじての彩りは、晩春の慶州への旅と、師走の奈良への温かな思いやりに包まれた旅があったことぐらいです。

 世の中の出来事のうち、スポーツ界では、逆転からの王ジャパンがワールド・ベースボール・クラシックで、初代の優勝を飾ったこと。夏を湧かせた高校野球で、優勝戦が再試合となった感動が印象に残っています。
 その中にあって、様々な「引退」を見ました。
 有馬記念を優勝で飾っての見事なディープ・インパクトの引退は別として、ワールドカップに敗れての中田英寿、自ら力の衰えを自覚しての新庄の引退、イナバウア旋風を起こした荒川静香、まだまだ若い力を残している人たちが、表舞台から去ってゆきました。
 そして数知れぬ無名の「引退」が存在します。やがて団塊の世代という嫌な呼称で括られる人々の引退が控えています。 こうした「引退」にどうしても目が注がれるというのも、自分の人生からの引退に重ねてのことでしょう。

 来る年が穏やかな平安に包まれることをひたすら祈るのみです。この一年を支え励ましてくださった皆様に心より感謝します。ありがとうございました。

     年ゆくと水飲んで水しみとほり     森澄雄



画像は浄土宗総本山、知恩院での除夜の鐘の試し撞き。今月27日 NIKKEI NETより。

今年最後の一枚

2006年12月27日 | 絵とやきもの
 三ヶ月ぶりに絵筆を執りました。今年最後の一枚が、自分ではわりに気にいっていますのでUPすることにしました。
 長く内に篭るものを育んでいるのがいいのかもしれません。
 花の少ない初冬を彩った黄色の石蕗が、今は色を消して垣根の傍にそそけ立つその姿が愛しくて、目にしていたものを、見ないままで絵にしました。

  つわぶきはだんまりの花嫌ひな花  の句を残したのは三橋鷹女ですが、私はその朴訥を好みます。

  静かなる月日の庭や石蕗の花  高浜虚子  虚子の句にしみじみとした共感を持つのも私が歳をとったということでしょう。


忙しい一日

2006年12月25日 | 遊びと楽しみ
 イブの24日が日曜日となって、全国高校女子駅伝に始まり、午後の男子、3時からの有馬記念のディープ・インパクトの最後の走りは必ず目に留めておこうと、一日をスポーツ観戦で過ごすつもりでいました。

 ところが、庭木の剪定を任せている造園業者が、やっと時間が出来たからとやってきました。松を伐ったので、雑木ばかりなのですが、いずれも丈高い古木で、伸び放題に伸びた樹形を刈り込まねば、重苦しい眺めです。作業は二人でまる2日かかります。
 好い天気に恵まれて、仕事もはかどるようでした。私は、庭とテレビの前の忙しい往復になりました。

 下手なドラマより、ずっとドラマがあるのが駅伝でしょう。襷をつなぐ選手配置の監督の作戦も含めて、正月の箱根駅伝をトップに興味は尽きません。チームプレーとはいえ、個々の選手は、単独で自分の区間の責任を果たすわけで、他の団体競技とはいささか趣を異にします。
 20人抜きもさることながら、2区を走った須磨学園の小林さんの伸びのある走りに将来の期待を感じた人も多かったことでしょう。男子の優勝校、世羅のアンカーは一年生、まだ幼さの抜け切れない笑顔が印象に残りました。

 昨晩からの徹夜組を含め中山競馬場は11万を超すファンで熱狂していました。テレビで見る中山競馬場は昔とは様変わりした立派なものになっていましたが、トンネルをくぐってゲートーに向う構造は昔のままのようでした。

 天才馬の最終を飾るにふさわしい華麗な完璧な走りで、すべての人を魅了して優勝。引退の花道を飾れたのは、馬にとっても、騎乗の武豊騎手にとっても稀代の幸福でしょう。

 退き時は人間の場合、ことのほか深遠な課題で、難しいものですが、ディープのインパクトのある引退に思うことが多い向きもあるのではないでしょうか。
 感動と、興奮の忙しい一日でした。


剪定前の樹形と剪定後、庭だけは、さっぱりと来る年を迎える準備が整って



「冬至 冬中 冬初め」

2006年12月22日 | 塵界茫々
 今日は冬至です。亡き母がよく口にしていたのが、「冬至 冬中 冬初め」です。

 冬至という言葉の持つイメージよりも、私たちの地方では、本格的な冬の訪れはずっと遅れ、年を越して、一月下旬から二月にかけてです。従って、冬至とは、本格的な冬支度の始まりの日という捉え方をしています。今日も小春に戻ったような暖かな日差しです。

 冬至は北半球では最も日が短いとされていて、この日を境に日脚が畳の目一つずつ(母は米粒一つずつと言っていました)長くなるといわれています。
 また、冬至は”一陽来復”ともいわれて、陰が極まって、陽に帰る転換の日でもあります。これ以上の災いが訪れることのないよう、祈るとします。
 
 我が家のしきたりも、冬至の日は柚子湯をたて、カボチャを食べるという、どこの家でも行われている習慣と同じですが、それを頑固に踏襲してきました。

 冬至南瓜戦中戦後鮮烈に という小高和子さんの句にあるように戦中派の私には南瓜の黄色は、飢餓の辛い想い出につながるものの、中風と風邪を避けるとあれば、必ず食べねばなりません。南瓜のカロチンは、体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし、感染症などに対する抵抗力をつけてくれるそうですから。

 入院中お世話になった方々へのお礼の挨拶まわりもやっと一段落して、今年は昼間から柚子湯です。
 裏年で実が少ないのですが、喪中とあって、今年はおせち用の取り置を心配しなくていいので湯殿へ心おきなく運びました。

    息災の言葉むなしく柚子の湯に  
    昼の湯に柚子を浮かべて満ちたりぬ
    悲しみも軽く浮かべて柚子寄り来
    ほのぼのと柚子を遊ばす胸の前
    到来の銘酒封切る柚子湯かな

 残り少なくなった今年もやはり、岸田今日子さん、青島幸男さん、と訃報が続いています。

 古い知り合いの、鶴島正男さん(火野葦平資料館館長・襤褸の人・の著者)が亡くなった記事を昨日の夕刊の片隅に見ました。ご冥福を祈ります。


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目の不思議

2006年12月18日 | ああ!日本語
 日本人は顔をことのほか重んじて、こだわってきました。もっとも人間の五官のうちの四つまでが顔に集まっていれば当然なのですが、顔が人格や、名誉、権威、を表すものとして、顔だけ切り離して表現され、「顔をつぶす」「顔に泥を塗る」「顔を立てる」「顔をきかす」「顔が揃う」「顔をかす」「顔役」と、それは賑やかです。

 その中でも、目は最も重要な器官で、口の代わりに働き、ものを教え、時に「殺し」さえ働きます。値段も、「千両」という高値を呼ぶ役者の目もあるようです。100万ボルトとまではいかなくても、紙の裏まで届く眼光を持った人もいました。器用な人は、鼻へ抜けたり、孫を入れて平然としていられる、目を丸くするような技を持つ方もいます。

 辞書を引いても、「目」の項目は目がくらむほど並んでいます。
 極め付きが、中心をあらわす数々でしょう。台風の目、主眼、眼目とそれは見事で、「面目躍如」です。
面は顔ですから、顔の中心が目ということは、目は人格を代表すると飛躍できそうです。
日本人が大事にしてきた「面目」という言葉が象徴的でしょう。

 転じて、接点、切れ目、節目をあらわすのも目です。分け目、境目、合わせ目、継ぎ目、目盛り、升目、筋目などなど。

「いい目」「痛い目」にあうなど重要な体験も目で表現されています。
 この大事な目を、パソコンにとられて、これ以上損なうことのないようお互い注意することにしましょう。

目薬の木 
  
画像は、ようこそ植物園へより


奈良の旅 3日目

2006年12月14日 | 旅の足あと
 京都から新幹線に乗る二人が、どちらもまだ縁がなかった宇治に寄ってみたいというリクエストに応えて義弟が車を走らせてくれました。
 宇治平等院は紅葉の移ろい盛りで、時折の雨に洗われて、一段と鮮やかな色合いでした。

 折から平等院は平成の大修理の最中で、阿弥陀堂(鳳凰堂・国宝)の阿弥陀如来坐像(国宝)は、台座から降りて運び出されて、修理棟の中でした。
思いがけず百年に一度の修理が完成した光背を目の当たりに観ることができました。公開は初めてで最後と聞きました。今回の修理で古代漆の技法を始め、新たな発見が幾つかあったようです。


 如来像を囲む国宝の天蓋、垂板、吹き返しなども目の高さに展示されていて、修理の終わった透かし彫りの法相華の見事さに平安貴族の文化を偲びました。
 鳳凰堂の壁面を飾る雲中供養菩薩像は東京オリンピックの折、東京国立博物館で拝観して以来の再会でした。空中に楽を奏しながら飛行する52体の姿から、人々は極楽浄土への夢を描いたことでしょう。半数が移設展示されていました。

 妹たちもまだ機会がなかったというので、昼食の後,宇治川を渡って、世界遺産の指定を受けた「宇治上神社」に向かいました。宇治川は思いのほかの水量と急流でした。

 源氏物語の宇治十帖ゆかりの“早蕨”の道古跡が参道の傍らの石碑に記されていました。
 宇治川の先陣争いの地点はどのあたりかと評定し、身を投げた浮舟のことを取り沙汰したことでした。

 寺院建築に近い雰囲気のお社は簡素で、平等院と共に世界遺産に登録されています。(国宝)現存する最古の神社建築で、祭神は、応神天皇、菟道稚郎命(ウジノワキイラッコ)仁徳天皇の三柱。

 三日間のリフレッシュの旅を充足して、京都駅まで送ってくれた妹夫妻に心からの感謝で終えることができました。


<宇治の文化遺産
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<宇治平等院
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sakuraさんのソースを頂きました

MIHO・MUSEUM

2006年12月13日 | みやびの世界
 秋季特別展「青山二郎の眼」のパンフレットには、”白州正子の物語も、小林秀雄の骨董も、この男からはじまった。”と記されています。
 もう少し引用します。
 ”希代の目利きといわれた青山二郎は、昭和の文芸サロン「青山学院」の中心人物で、柳宋悦の民芸運動の設立に参画し、小林秀雄、白州正子の骨董の師でもありました。
 その眼に適った中国陶磁や朝鮮白磁の名品、また青山旧蔵の酒器や、小林秀雄、白州正子、北大路魯山人らゆかりの人々の旧蔵品、自身が手がけた装幀作品など約200点を展観し、美の探究者青山二郎の眼にせまります。”とあります。
 2時間ゆっくり回って、例によって、1点だけもらえるとしたらと、思案して、弟は青山が晩年、マンションのベランダで水を打って育てていたという信楽の大甕、私は迷った末、やはり図録のケースになっている光悦の”山月蒔絵文庫”にしました。このところ木彫でお地藏さんを彫っている妹は木喰の地蔵菩薩像が気に入っていました。

 数ある展示品の中には、これがどうしてと首をかしげるものもありました。青山二郎が、「これが手に入るなら、電話ボックスで暮らしても構わないほど欲しい」と執着した磁州窯の梅瓶「自働電話函」は、絵に流れる線の伸びやかな美しさはあっても家屋敷と交換するほどの物とはどうしても思えませんでした。黒織部の茶碗「夕だすき」も、デザインの斬新さはさることながら、自分のものとして持ってみたら、飽きるのではと、思ってしまいました。

 山月蒔絵文庫とどちらにしようかと迷った李朝の白磁面取瓶の乳白色のやわらかな色合いと、上にかかった釉薬の垂れ、口辺の釉薬、首から肩への傾きと面取りのバランスもすべて無理がなく、魯山人の絵瀬戸の鉢も、縦じまのバランスが、絶妙でした。さすが青山二郎と、溜息が出るようなものが並んでいました。

 特設展を出て、南館に回り、常設展示の収蔵品、古代ギリシャや、殷、周の遥か紀元前の中国のものに驚きの目を見張ってMIHOを後にしました。
 


 白釉黒梅瓶「自働電話函」   信楽大甕 室町時代


 白磁面取瓶 李朝17世紀  絵瀬戸鉢 魯山人


 山月蒔絵文庫 本阿弥光悦   黒織部「夕だすき」



奈良の旅 2日目

2006年12月12日 | 旅の足あと

 今回の目的だったMIHO・MUJIAMに妹の運転する車で出かけました。
 雨もあがった奈良を9時に発ち、加茂、木津を経由して、途中、信楽に立ち寄り、滋賀のMIHOをめざすルートを取りました。1時間半の行程です。私たちで3回目となる妹の案内は要領よく、立ち寄りのスポットも、好みを心得ていて迷いがありませんでした。(右画像は途中の和束の茶畑、宇治茶になるそうです)

 信楽ではお定まりの”狸“の大群衆の出迎えを受けました。
 信楽焼きの伝統を辿るべく、信楽伝統産業会館で信楽の技法や、歴史的な代表作を見学、さすがにここの狸は、色つきではない古狸が、2体だけで、伝統的な生活雑器や、いわゆる信楽の壷の時代ごとの様々が展示されていました。
 その後、すぐ傍のスサノオノミコトを祭神とする「紫香楽一乃宮」、新宮神社にお参りしました。(奈良時代の創建ながら、南北朝の兵火、台風の災厄で、現在の本殿は寛文の再建)


信楽名物の狸
サンタ狸
信楽伝統産業会館
江戸時代の信楽の壷
新宮神社 正面
新宮神社 本殿

 昼食は、陶芸家がオーナーのお蕎麦屋で、自作の信楽焼きの器に入れられた蕎麦の昼食を頂き、記念にと気に入った同じ大ぶりの深皿を求め、荷物を増やしてしまいました。

 信楽からは15分ほどでMIHOです。
山二つをすべて取り込んだ美術館は、駐車場近くの案内所から電気自動車でトンネルを通って入口へ向います。勝手に描いていたイメージとはいささか異なる外観でしたが、一歩中に入ると木をふんだんに使った贅沢な建造は、期待通りでした。

3回目ともなれば、妹は余裕の観賞で、思いがけない展示品の解説を披露してくれました。平日なので、人も少なく、ゆっくり午後を「青山二郎の眼」の中で過ごしました。


この稿、続く

奈良の旅 1日目

2006年12月10日 | 旅の足あと

 
本館 正面入口 重要文化財

 小倉を10時に出た“のぞみ”を京都で乗り換え、近鉄奈良駅に降り立つと、古都は細い雨でした。


 正倉院展は11月に終了し、応挙と芦雪の特別展も3日で終わっているので、奈良国立博物館の“仏教美術の名品展”を拝観、法隆寺金堂の飛鳥仏、多聞天立像(右 画像)や、多彩な仏像に会ってきました。
 約束の5時までに、2時間あるので、大和文華館にタクシーを走らせました。ここでは、“18世紀の日本絵画―屏風絵を中心にー“が企画展示されていました。 もしやと期待した松浦屏風は、今回も展示されていなくて、九国博以来の再会は叶いませんでした。
 始興、蕪村、応挙などの個性が一堂に、華を屏風絵に展開していました。


 雨の平日の閉館に近い時間とあって、私たち二人の他には誰もなく、存分に観賞することができました。
思いがけず、光琳の扇面貼交手筥がケースに入って正面で出迎えてくれました。金箔の地紙に扇面画と、団扇絵が琳派の鮮やかな色彩で挨拶してくれました。     
 始興の浜松図屏風、応挙の鱈の絵と、鳥獣戯画を髣髴させる、殿様蛙行列図の6曲一双の屏風絵が二人とも気に入って、表装が粋、筆の勢いがと、勝手な評論を遠慮なく展開しても、人の迷惑になることもなく、閉館までねばって、一味違った観賞風景でした。

 暮れなずむ蛙股池を見下ろすロケーションには紅葉がまだ彩りを残し、静かな別世界を構築していました。

尾形光琳 扇面貼交手筥
扇面貼交手筥 懸子表
殿様蛙行列図 6曲一双
同 右
丸山応挙 鱈
文華館より望む蛙股池

時間のプレゼント

2006年12月07日 | 遊びと楽しみ
 40日近い入院生活から自宅での療養生活に入って2週間が経過しました。
 順調な回復を辿りながらも、当人にしてみれば決して穏やかな日々とはいえないことでしょう。

 手術前から半月以上も付添ってくれた娘が、4日、今度は私に時間の贈り物をするため、東京から帰ってくれました。

 “順調に推移しているみたいだから、しばらく手伝うので、あとは時間を薬にして、私に任せて、羽を伸ばしてきたら。”と言ってくれました。
 何よりものありがたいプレゼントに甘えて、春から心待ちにしていた奈良に出かけることにし、あるじも納得してくれました。

 今回は、弟と二人連れの道中です。留守中が気がかりですので、2泊3日のあわただしい旅に出ます。