「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

「夕鶴」の訃報

2006年11月30日 | 塵界茫々

 今朝の朝刊の一面には、硬骨の演劇人、“木下順二さん死去”の文字が記されていました。

 漢字博士の白川さんの死を惜しむコメントを入れられた香HILLさんへの返事に、「何故か年の終わりが近くなると、偉大な仕事を遺された方の訃報が決まってあります。」と、書いたばかりでした。

 山本安英の演ずる“つう”は、能の舞台に通う幽玄の雰囲気をかもして、舞台装置も極度に省略され、抽象化されて美しく、照明も優雅でした。
 全国1037回の公演を重ね、オペラでも上演されています。

 「民話劇の無垢な魂をうたい、戦争責任と人間のモラルを厳しく問い、天空から人の営みと運命を見つめる壮大な叙事詩劇に到達した、戦後新劇の良心だった。」
朝日新聞のこの記事が簡潔に、不足なく彼の業績を纏め上げています。

 私たち世代にとっては、青春の日の思い出の一齣と重なり、未熟な思考に指針をもたらすよき代弁者でもあった忘れがたい人です。

 最後まで妥協とは無縁の、硬骨の生涯を貫いて、今年4月、「審判」上演の際の、「過去というものが、きれいさっぱりと清算できるものでない以上、清算への努力は怠りたくない」という言葉を残されています。
 あらゆる名誉ある賞、勲章の類を固辞し、芸術院会員にとの選出も辞退されたその生き方に、今、あらためて頭を下げ、心よりご冥福を祈ります。
 今年も巨きな星が子午線のかなたに翔び去りました。

言葉あそび

2006年11月27日 | ああ!日本語
 今朝の朝日新聞の、“折々のうた“は、閑吟集からでした。
  「きづかさやよせさにしざひもお
 “室町歌謡が遊びの気分をたっぷり含んでいたことを一目瞭然示している歌謡。一体何を言っているのか、はじめはわからない。下から逆さに読めば意味は簡単。「思ひ差しに差せよや盃」。思ひ差しとは、わが思う相手に盃をさすこと。なんでもない事のようだが、男女の間の親密さが、こういうことば遊びにも見事に現れている。”と、大岡 信さんが、解説されていました。

 入院中、家族ぐるみのお付き合いがある夫の友人が、夫人同伴でお見舞いに来てくださいました。その折、閑吟集に造詣の深い夫人が、もう読み終わったので、古本だけど、よかったら退屈しのぎに。と持ってきてくださった本の中に、“ことば遊びの世界”小野恭靖著があったのを思い出して早速広げてみました。“折々のうた”に出ていたのと並んで、
むらあやでこもひよこたま」  閑吟集 273  が出ていました。
 「また今宵も来でやあらむ」となる“倒言”ということば遊びだそうです。恋人の訪れを願う一種の呪文として、意味内容の反転を願って、逆さまに歌ったもののようです。
 このほかにも、文字を並べ替えて別の新たな意味を持つ配列を作り出す”アナグラム“の「いろは歌」と多彩です。

 面白かったのは、“嘘字”と“鈍字”です。これはことば遊びというより、文字遊びです。
 古くは小野篁の十二の「子」の読解や、「無悪善」の読解にもみられるのですが、「木をかいて、春つばきに、夏ゑのき、秋はひさぎに、冬はひらぎよ」と椿、榎、楸、柊の漢字を短歌形式にしています。これをなぞったパロディーが、木偏を人偏に置き換えて、人偏に春で、うわき、人偏に夏でげんき、秋はふさぎ、冬はいんき、同じく人偏に暮は、まごつき、と、嘘字(うそじ)とよばれる創作漢字は、自分ならどう読むかと考えると、時間が経つのを忘れます。

 鈍字(どんじ)は、嘘字と並んで面白い漢字による文字遊びです。これは、実際の漢字の一部を細工改変して、面白おかしく読ませる趣向です。今でも、「社」ヤシロという字を,偏と旁の間をあけて「ネ 土」として、八代亜紀と読ませる遊びもあるようですから、日本語の表記に漢字が用いられる限りは、”浜の真砂は尽きるとも”でしょう。お江戸の鈍字から二つだけ引用します。御用とお急ぎでない方は、雨の日のつれずれにどうぞ。


鈍字では昔と言う漢字を「弘法大師」と読ませています。その解説は、「昔からご縁日」と記されています。
 漢字「昔」を分解すると、〔廾(二十)・一・日]21日は弘法さんの縁日です。

 瓦版なので、絵は墨の単色摺りで、極めて素朴なものです。


「次」を「男世帯」と読みます。
”女の姿が見えない。”と解説されています。
 「姿」という漢字から「女」を除いたものです。元の瓦版の刷り上がりが悪いので、見にくいです。
「内に人がない」ので、「留守」と読解させるものです。そのほか、口で、人名、田中十内などはわかりやすい鈍字です。



退院

2006年11月24日 | 塵界茫々
 今日やっと退院してきました。
 


38日間の入院は、胃の全摘手術では、長いのか短いのか、とにかく高齢での大きな手術に耐えてくれたこと、医師たちの熱心なご尽力に感謝しています。




 今朝は、昨日の時雨の雨とはうって変わって、よく晴れ、パジャマをスーツに着替え、すこしだけ、シャッキリとして、お世話になった病院の皆さんに挨拶をしていました。
 医師たちや看護師の方の、「退院おめでとうどざいます。」の晴れやかな笑顔に送られて、病棟を後にしました。

 ブログのご縁で、お顔も存じ上げない方々からも、やさしいお心遣いと、励ましをいただきました。この場をお借りして篤くお礼申し上げます。

 まだ、本復とは縁遠い状態で、二人とも不安で一杯ですが、病院食よりはましな食事と、山のさわやかな空気とで、回復への努力を試みます。
 買い込んだ”胃の手術を受けた人の食事”に関する本(沢山の種類に、胃の病気の人が多いのを確認しました)の、レシピと相談しながら、気長に取り組みます。

 ここ当分は、まだ1日6回の分割食で、しかも少量で品数を作らねばなりません。台所に立つ時間が必然的に長くなります。ママゴト遊びと発想を転換して楽しむことにしました。つきあって、私の体重も減少するといいのですが。



大相撲九州場所

2006年11月21日 | 遊びと楽しみ
 夏から予約して確保してあった九州場所の桝席に、今年も弟から招待がありました。
 もともとは相撲好きのあるじのためだったのですが、只今入院中とあって、私には躊躇いがありました。
 調子もいいことだし、家に帰ったら出にくくなるだろうから、気分転換に出かけてきたら。と逆に病人にすすめられて、午後から早引けで、弟の家へと車を走らせました。

 3時過ぎに到着した福岡国際センターには、力士の四股名の入った幟が十一月場所の雰囲気を盛り上げ、マイクから流れる櫓太鼓の音や、相撲甚句が博多の街の初冬を告げていました。

 出かけてきたからにはと、スイッチを切り換えすべてを忘れて、取り組みに専念することにしました。
 人気の高見盛が、玉春日との取り組みで、勝星を挙げはしたものの、鼻血で、そうでなくてもの、勝った時のパフォマンスが一段と誇張された形となり、笑いが起こっていました。 贔屓の普天王は白星でしたが、前日勝ち越しを決めた地元出身の魁皇は、角番を脱出した安堵からか栃東に破れ、会場は溜息に包まれました。
 毎年の事ながら三三七拍子の大拍手は、贔屓の引き倒しのプレッシャーになるのではと、心配するほどです。
 枡は、西四番の12、仕切りをする力士たちの肌に浮かぶ汗、艶のいい見事な肌が次第に紅潮してゆくさまや、立会いで体がぶつかった時の小さな音もはっきりと聞こえて、テレビ観戦とは一味違った迫力があります。

 今年は50回の記念とあって、お土産に頂いた大入り袋も盛り沢山で、記念品も配られました。
 きれいどころからの、”振る舞い酒”をはじめていただきました。
 写真は、撮りはしたものの、白房と黒房の丁度真ん中辺りの席で、西の力士のお尻ばかり、取り組みに興奮していて、よい写真は撮れていませんでした。楽しいひとときに感謝して帰途についたことでした。


大相撲九州場所
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  写真は順に 幕内土俵入り 
中入りの呼び出しさん 
取り組み (高見盛・玉春日) 
        博多のきれいどころ 
        盛り沢山のお土産 
        元麒麟児 北陣親方 
        勝ち名乗り(普天王)

移ろう季節

2006年11月19日 | 季節のうつろい
深秋といふことのあり人も亦
彼一語我一語秋深みかも


 どちらも高浜虚子の句です。
 季題の「深秋」「秋深し」は、歳時記によると、「すべてのものが冬に移ろうとする静けさを湛えたことをいうのだが、心の持ち方によって、浅くも深くも感じられる。・・・一年のうち最も自然の姿の身に沁みる時季であろう」と解説されています。

 昔はわかりにくいと思っていたこの句を、今はたまらなくいとおしんでいます。 人の心の中にもたしかにまた、「深秋」は存在します。それを言葉で表現するのはむつかしいのですが、胸に去来する感情、いや激情と呼んでいいものを持ちながら、それを沈潜させ、しかも諦観までには至らずに、深く湛えている状態とでも表現したらいいでしょうか。
 やがて遠からず冬の季節に入ってゆくのをじっと見据えている気分が深秋でしょう。


 退院を予告されてもう二回の延期です。昨日も、もう大丈夫でしょうから、来週あたり退院ですねと、告げられました。三度目の正直とも言いますから、今度こそと期待しています。
 入院も一ヶ月を超すと、緊張感を持った危険な状態ではないだけに、さすがに飽き飽きして、病人も、付添うほうも将来への展望も明るいものではなくなります。
 延期の原因は、MRSAという菌が検出され、そのため状態が安定しないからです。
 つまり、大手術後の弱った抵抗力の体に細菌が感染したものです。耐性の細菌で、抗生物質が効きにくいのだそうです。
 出入りする看護師の方たちは、マスクに手袋です。付き添う私への感染を心配する患者に、健康な人への感染はありませんと告げていました。

 最先端の技術を駆使した高度な手術が成功しても、術後の対応に少し配慮が欠けていたのかもしれません。病院内の細菌を管理することは不可能でしょうが、忠実に指示に従っていて、個室で療養に専念している立場からは、毎日訪問してくださる医師たちの熱意に感謝の念を持つ一方で、癌の手術だけであれば、もう、2週間も前に退院できていたのにと思うと一抹の不満を拭えません。

 前向きの考え方が難しくなっている病人を前にして、山を越えただけに、様々な思いが湧いてきます。
 入院が長引くことでご心配くださる方々へのご報告です。

画像は毎日通う病院へのお気に入りのコースの銀杏並木です。


晴れ姿

2006年11月15日 | 塵界茫々
 きれいに忘れていましたが、今日15日は七五三でした。病院のエレベーターを降りた途端、出会いがしらに華やかな彩りが目の前に飛び込んできました。兄妹と思われる二人が正装して、少しはにかんで千歳飴の袋を提げて立っていました。この子たちのような3歳と5歳はまだ天使の仲間です。
 多分、入院中の祖父か、祖母に見せるための訪問だったのでしょう。いささか場違いながら、それだけに家族の温かい気持ちが伝わり、周りに祝福の微笑が拡がっていました。
 この地方では、男女とも3歳の髪置きと、男の子は5歳、女の子は7歳でお祝いをしています。5歳は袴着、7歳は帯解きと呼んで、ひも付きの着物から、本仕立ての着物、帯をつけます。
 もと、陰暦の11月、満月の15日、氏神様へ収穫感謝の祭事が行われていたのに兼ね併せて、子供の成長を感謝し、これからもの加護を願ったのが始まりのようです。

 おりしも今夕、この子たちの将来に関わる教育基本法改正案が、衆議院特別委員会で野党欠席のまま採決され、本会議へ回されることになりました。誘導された「国民の声」教育改革TMも、ここ数日新聞紙上を賑わしています。


写真はフォトギャラリーより。

住めば都

2006年11月13日 | ああ!日本語
 この諺を「住むならやはり、都、東京が一番いい。」という意味で使っている人に時々出会います。いまや文化的な事業を筆頭に、経済も、高度医療、行政も、すべてが東京に一極集中している現象を見れば、当然ともいえる誤解です。

 ただし、その意味でなら、仮定条件で「住まば都」となるわけで、“住めば“という確定条件では、「どんなに辺鄙な処でも、住み慣れると、都に住んでいるように快適なものになる。」という意味になります。

 さらには、人はみな、自分の住んでいる里を、よい所と思って満足している。といった意味に発展させる人もあります。つまり、荀子にいう「越人は越に安んじ、楚人は楚に安んず」と同じ意味です。

 また、住んでみれば、何処も同じことで、あまり変わりはない。という使い方もあったようです。
「鳥も通わぬ山なれど、住めば都よ、わが里よ」松の葉 ということでしょうか。

 地方自体にも問題がないわけではなく、企画といえば常に「ミニ東京」版の真似事に終始して、なにか引け目を持っていて、胸を張った独自性は、「和」を前面に出す京都以外には少ないと見受けます。(京は古くからの都です)

 同じ日本国民なのに、住んでいる地域によって、享受できる恩恵の格差は、さらに拡大していると感じるこのごろです。




 昨日の日曜日、病院への往きに思いがけなく九州一周各県対抗駅伝に出会い、交通規制で車を停められました。中継所まで約700mの地点なので、走者はかなり疲れていました。トップは宮崎、次が福岡の順でした。おかげで応援の一齣が写せました。







“教育再生”の記事

2006年11月11日 | ああ!日本語
 今まで習慣にしていた朝のゆっくり新聞を読む時間がなくなり、大急ぎで仕事を片付けて病院に向かう日々です。やっとお粥に戻りました。
 新聞を広げるのは9時、病室に着いてからです。長い記事は後回しにしていますが、昨日溜まった新聞の整理をしていて、7日の夕刊一面“わたしの教育再生”の、ピーター・フランクさんの記事が目に留まりました。
 彼は、数学者として広く知られる人ですが、街角で大道芸を披露したりする一面も持っています。母国語のハンガリー語のほかに、日、英、仏、中国語も操る53歳です。
 彼の提言のうち、2点、納得するものがありました。
 一つは、学校の部活、それも運動部の異常と思える練習。朝練から始まって、放課後、土日も夏休みもない、まるで「中毒」と述べ、「自分のやっているスポーツ以外にも、自分の視野を広める有意義な活動が世の中にはいろいろあるのに」と言っています。
 部活によって培われるもの、その意義も、成果も、たしかに貴重なものがあります。しかし、中高生という多感な時期に、人間関係も限られた範囲となりがちで、人生の基盤となる多方面にわたる文化に触れることも、時間の制約で乏しくなるとしたら、考慮を要することでしょう。

 もう一つは、小学生からの英語教育についてです。「そんなに先を急ぐことはない」と結論しています。
 そして、「日本人の、英語ができない最大の理由は、日本語ができないこと。つまり自己表現力の低さ。自分の考えを相手にわかりやすく、簡単な言葉で説明する能力があれば、どの外国語もある程度短期間でかなりのレベルまでできるようになる。自分の知っている少ない英語の語彙を何とか並べて自分の気持ちをあらわすのは、本当はとても楽しい作業なのだから。」と述べています。

 南米で新しい言語の習得に苦しんだ経験から、共感できる見方と思いました。
 現在の伊吹文科相も、「美しい日本語ができないのに、外国語をやっても駄目」と言っておられ、必修化には否定的な見解のようです。中教審はどんな結論を出すのでしょう。


徒然草の法然上人

2006年11月09日 | 塵界茫々

法然上人絵巻 39巻 法然上人初七日の法要 (国宝)

 先日の御十夜法要に参列しながら、頭の中に去来していた想いがあります。
徒然草の三十九段です。短いので全文を引用します。

 或る人、法然上人に、「念仏の時、睡におかされて行を怠り侍る事、いかがし てこの障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は、一定と思へば、一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。また、「疑いながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これも、また、尊し。    
註 往生・・・念仏の功徳によって死後、阿弥陀仏の浄土である極楽に往き生れること。
一定・・・たしかに往生できると思えばたしかにできる。ふたしかだと思えば、ふたしかだ。(日本古典文学大系)


 私の生家は、浄土真宗で、祖父と母親は、かなり熱心な信仰を持っていました。それで、幼い日から仏壇の前に坐る日常は、その後の、お下がり物への不純な期待があるにしても慣れていました。
 婚家は浄土宗で、同じ仏教徒とはいえ、行事も、しきたりの違いにも戸惑うことが多かったのですが、今ではすっかり家刀自として仕切っています。さりながら、 それは正直、信仰の世界とは異なっているようです。自分自身への安心のためとでもいえばよいのでしょうか。逆らわず、流れに任せれば抵抗がないというだけではなく、歴代の方々への感謝の念であり、供養とも考えています。

 法然上人の言葉「疑いながらも念仏すれば往生す」とは、私にとってこの上もない都合のよいものですが、これこそ信仰の真髄でしょう。
 最初の叱られることを予測しての問いに対しての「目の醒めたらんほど」の温かい理解の言葉に接した「或る人」の感激が伝わります。

御十夜の供養

2006年11月07日 | 塵界茫々

 今年の御十夜は、母にとっての初十夜になりますので、なんとかして最後の御満座供養には出たいと思っていました。
 幸い、病人も、続いていた熱が朝方から下がって、気分もよさそうなので、早めに帰宅し、姪の運転する車で菩提寺の御満座供養に参列して来ました。


 御十夜の法要は浄土宗三大法要でも、特に力を入れたお勤めがおこなわれます。
「無量寿経」に基づいて、「この世において十日十夜の間、善行をなすことは、仏の国で千年間、善行をなすことよりも尊い」と説かれている事から始まった法要と伝えられています。善行すなわち念仏を、心をこめて唱えれば、千年の善行にも勝る功徳を積めるとあれば、せめて一夜、亡き人への感謝を、真心こめてお念仏に託すことにしました。
 「三垢消滅 身意柔軟」とはいかないまでも、会衆とのひたすらの念仏は心が和らぎます。
 かつては文字通りの十日十夜の間行われていたのでしょうが、今では三日、あるいは二日、一日と短縮されています。大願寺では二日間今年は五日と六日、午前と午後、法要、供養、法話(講師 河波昌 東洋大名誉教授)が繰り返されました。

 午後7時に始まった御十夜の御満座供養は、厳粛なもので、供養の塔婆がよみあげられ、念仏と法要の経が上げられた後、法話で締めくくられ、最後は初十夜諷誦供養の鐘が激しく打ち鳴らされ、蝋燭の灯りだけの中で僧侶たちの五体投地の礼拝が行われました。
 初十夜を迎えた家々によって供えられた紅白の餅、果物などのお下がりものをいただいて、10時、晴れやかな気分で帰宅しました。