「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

春の先ぶれ

2007年01月31日 | 季節のうつろい
 梅の開花を待ちわびて、庭に降り立った足許で蕗の薹を見つけました。

 10センチほどの若い葉の生い茂る中に、愛らしい丸っこい玉がちょこんと納まっているのを、そっと摘みとると、手に独特の香がまつわり漂います。

 薄く衣をつけた天ぷらが一番好きです。次が蕗味噌、吸い物の具にも。ただし、開いた苦味の強いものは敬遠です。
 ひな祭りの頃には、丈も30センチくらいに伸びて、茎も逞しくなり、先端にびっしりと管状花をつけます。画題には恰好の風情がありますが、もう食べることはできません。
 冬眠から醒めたヒグマが、真っ先に口にするのが蕗の薹とか。春のエネルギーを摂りこむのでしょう。

 ほんのりピンクの薄紅を根元に差して、はにかんでいるかの風情は春の使者に相応しい姿容です。

 七草の日には、探すほどだった芹も、今日は存分に摘むことができました。
 そういえば、早堀りの合馬の筍が、関東に向けて出荷されたとニュースが告げていました。確実に季節は進行しています。もうすぐ節分、春は先触れの使者を送っていました。

 2005年の記事に”春の使者”と題して、1月27日に同じ蕗の薹を取り上げていたのを思い出し、題名を変更しました。してみると、毎年同じようなことを考え、同じようなことを繰り返しているわけです。

  蕗の薹寒のむらさき切りきざむ   橋本多佳子





知足

2007年01月28日 | みやびの世界


「虎の子渡し」の石庭で知られる竜安寺に、もう一つ有名なものに「知足」の蹲があります。

 禅の言葉を謎解きのように、つくばいの表面に彫り出したものです。
 彫られている文字は「吾唯知足」(われ ただ たるを しる)とあります。
中央の水溜を口の字にして、この口を偏や旁に共有する文字を配置したも
のです。
 つまり、”知足のものは、貧しといえども富めり。不知足のものは、富めりといえども貧し。”ということです。
「人生足るを知らず隴を得て蜀を望む」といったのは後漢の祖、光武帝です。200年の後の曹操は「自分は光武帝ではない、すでに隴を得たからは、なんで蜀を望もう」と言いました。

 「足るを知れば辱しめられず。止まるを知れば殆(あやう)からず。もって長久なるべし。」(老子)も、「もう十分ということを知る者は恥をかくようなこともない。程よい処に止まって行過ぎなければ危ういこともない。長く身を安全に置くことができる。」も近い意味でしょう。

 人間足ることを知れば、恐ろしいものは無くなるわけで、何処まで行っても足らずとするのが通常でしょう。
 歳を重ねれば、所詮これが身の丈相応、というところは、嫌でも自覚させられます。

 ところで、私の記憶違いでなければ、この知足を、「足すを知る」と読むのではないかとおっしゃった方がありました。
 なるほど、世俗と隔絶した禅寺への寄進(水戸光圀)に「吾唯知足」もなかろうというものです。吾とは誰に向かって発せられた語かと考える時、この蹲の据えられている場所が茶室の入口ともなれば、人の用に黙々として水を足し続ける吾ということで、なかなかに洒落ているし、これも立派な禅の精神です。他動詞に読むという発想が、世の中にはなんとやわらかな頭脳の持ち主がいることかと感心させられたことでした。
 今朝の新聞の広告に使われているのを見て思い出しました。
(現在いつでも見られる方丈横の知足のつくばいは、レプリカです。)
映像は 写真便り#0062 より

一周忌法要

2007年01月24日 | 塵界茫々

 母の一周忌法要を営みました。これで一区切りです。
 料亭での会食が終わって帰宅した後、1年の間掛けていた、仏事用の掛け軸を、早春の華やいだ画軸に替え、座布団も重ねて、片付いた座敷に座って去来する思いをかみしめていました。

 贈られた蘭や百合の豪華な花々に飾られ、供物の中で母の肖像はにこやかに微笑んでいます。

 思えば慌しい1年でした。そうでなくても、年を重ねるごとに歳月の過ぎるのが早く感じられるのですが、1月に母を送って以来、周辺に彼岸へと旅立つ人も相継ぎました。お互いにそういう年齢に達したと言うことです。

 仏事が山を越し、秋風の立つ頃、あるじに胃癌が発見され、どうにか手術にこぎつけたものの、感染症で思いがけない長期の入院となりました。
 お正月を自宅で迎えられ、その後の回復が極めて順調なのをよしとしなくてはなりません。
 亡き人たちの加護があったと感謝しています。お顔を見知らぬブログの方々からも胸に迫るお見舞いや、励ましのお言葉をいただきました。


 兄弟、親族が集い、こうした形での供養が営めるのは、私の場合、三回忌までと思っています。その後は、どのような法要になることだろうと思ってしまいます。 もう、体のほうが思いとは別に、動いてくれません。
 こうしてだんだんと身軽になってゆくのもいいものかもしれません。
”老いの品格”は、所詮凡俗の身に、期待しようもなく、これが今の実態です。
 
 

「千秋楽」という言葉

2007年01月22日 | ああ!日本語

 大相撲初場所も,代わり映えもなく朝青龍の優勝20回目で千秋楽となりました。贔屓の豊真将は勝ち越しならず、魁皇は辛うじて勝ち越しました。ひとり琴奨菊が新三役昇進が期待できる成績でした。

 この「千秋楽」という言葉は、もともとは奈良時代に伝わった雅楽の曲目の一つで、仏教の法会最終日に必ずこの曲を奏したことから出たとされています。
 これが、芸能や相撲の世界に広がり、興行期日の最終日を意味するようになったもののようです。縮めて「楽日」とも使われています。
 サービスのつもりでしょうが、現在大相撲では毎日弓取り式がおこなわれ、「この一番にて本日の千秋楽・・・・」と行事が告げています。もともとは、「これより三役」の最初の勝者が矢を、次の勝者が弓弦を受け、結びの勝者が弓を「役相撲に適う」という勝ち名乗りで最終日に受けたもののようです。

 最も保守的な能楽では、能組み(能のプログラム)の最後は、必ず祝言を添えるという約束は今も踏襲されています。

 祝言という語は、一般的には婚礼を意味しています。それも、婚礼の席で「高砂」などの祝言の謡が謡われることからのようです。松の精の高砂の尉と姥にあやかるようにとの祝福です。能では「四海波静かに」治まる御代を繰り返し祝福します。

 千秋は、いうまでもなく千年、千歳の意味です。「千秋楽」「万歳楽」から、やがて千秋万歳(せんずまんざい)といった職業的な芸人が生れています。

 祝言をもって締めくくる、これは、民間の文芸では「めでたし、めでたし」で終わり、「治まる御代こそめでたけれ」という納めの文言となります。
 日本の文芸の背景には、どうやら祝福というテーマが存在していたようです。こうした祝福を素朴に受け継ぐことができる世の中でありたいと願うものです。

「三輪壽雪の世界」展

2007年01月19日 | 絵とやきもの
 先日、出不精になっていた私を誘って、弟夫婦が博多三越ギャラりーでの「三輪壽雪の世界展」に連れ出してくれました。

「自分の生命のこもった、借り物でない作品を作りたい。その気持ちだけはいつも持ち続けて来たし、これからも持ち続けて行きたい」といった頃の「休雪」の呼び名のほうに親しみを持っていますが、今は子息の竜作氏が「休雪」を襲名しておられるので、「壽雪」とお呼びするしかありません。


 この企画は「開店10周年文化企画第1弾」と銘打ってありました。
 三輪家は萩焼の伝統を伝える名家で、壽雪で、11代です。96歳の今も現役の陶芸家で作陶に励んでおられ、兄の10代休雪(後の休和)に続いて人間国宝の指定を受けられました。

 今回の回顧展では、80年に及ぶ陶芸家としての仕事を、4つの時代に分けて作品展示がなされていました。

       1章 修業と「休」の時代
       2章 十一代「休雪」襲名
       3章 大器「鬼萩」の創世
       4章 「壽雪」造形の清雅

 茶碗を中心に、水指、花入、陶筥などが展示され、会場の隅には、焼成までの工程が大きな写真パネルにして展示され、迫力を添えていました。

 好みからいえば、私は十代の休和白の「休和」の作陶のほうがピッタリくるのですが、展覧会の会場では、華やかな壽雪の鬼萩の世界は目を惹きます。
 90歳を越えての作陶にみられる気迫は、年齢に逆行するかのようで、やはり、ただものではないと思わせます。

 会場では、裏千家の方たちによる薄茶が、「人間国宝、壽雪の茶碗」で点出しされていて、予約していた人だけという盛況でした。

 長い時間を空けられない私を気遣って、直行して、そのまま何処にも寄り道せずの帰宅です。

2003年 鬼萩花冠高台茶碗2003年 鬼萩花冠高台茶碗
銘 命の開花
 
「休雪」の号を子息に譲り、「壽雪」と号した最初の作陶
2006年鬼萩割高台茶碗2006年 鬼萩割高台茶碗

老いてますます力強く荒々しいまでの逞しささえ窺える茶碗。
紅萩菱形水指1969年 紅萩菱形水指

銘 花篝 

片身変わりの一種モダンな雰囲気が強い造形の中に漂っています。
1965年 <br>
白萩手桶花入1965年 白萩手桶花入

山口県立萩美術館以来の再会でした。
三輪家の若手作家もこの手の形の佳いものを伝承していました。初期花入の代表作といわれています。

蝋梅

2007年01月16日 | 季節のうつろい
 蝋梅が蘭に似たかぐわしい香りを漂わせて、彩の少ない庭の一隅で今が盛りです。月末頃が満開と思っていましたら、このところの暖かな日差しの中で、咲き急ぎました。

 名前の通りの、半透明の花弁は蝋細工のような質感で、小さな花が下を向いて香りをそそいでいます。五分咲きぐらいがこの花には似合うように思います。
 今年はお正月には、まだ葉を残していましたが、花の今はきれいさっぱりと落としています。

 蝋梅の香の一歩づつありそめし   稲畑汀子

 蝋梅の咲きうつむくを勢ひとす   皆吉爽雨

 蝋梅に金の暈おく日射かな     稲丘 長






下の2枚は2005年1月10日撮影

歌会始の儀

2007年01月15日 | 歌びとたち
 今日の歌会始の儀で、元日からの一連の宮中行事が終わります。この町内でも正月の飾りを焼く”どんどやき“も終了して平常が戻ってきました。
 昨年は母の付添いで、歌会始などは飛んでいましたが、今年は注意して、テレビの中継をみました。室町時代から続いている宮中行事とか。お題は「月」でした。


 それにしても、このようなゆったりと典雅な、王朝さながらの歌会が残存することを、不思議とも貴重とも感じながらの歌のひとときでした。

 独特の節回しで、長く尾を引いて読師に披講される入選歌は、25000余首の詠進歌から選ばれた10首で、いずれも生活の実感が素直に詠まれていました。
 奥村の道子さんの、「黒板に大き三日月吊されて園児らはいまし昼寝のさなか
 金川の允子さんの、「台風に倒れ稲架(はさ)を組みなほし稲束を掛く月のあかりに」など好感をもって聞いたことです。

 入選歌の次は選者、召人(めしうど)、皇族代表として、正仁親王妃華子さまの歌、と進み、東宮妃(雅子さま)、東宮(皇太子さま、ひつぎのみこ)、皇后さま、天皇陛下と、披講されていきました。衣冠束帯でないのがむしろ異様に思える世界です。

 来年のお題は「火」です。どなたか詠進に応募してごらんになりませんか。宛先は宮内庁です。一昨年も歌会始の儀を書いていました。
写真は2006年宮内庁より

「ピカソとモディリアーニの時代」展

2007年01月13日 | 絵とやきもの

 昨年11月から始まった展覧会も14日で会期を終えようとしています。

 誘ったのですが、夫は、人混みで、風邪をもらうのが怖いから、一人で行ってきたら。というので、午後、間食の用意だけして、慌しく出かけてきました。
北九州美術館は、平日というのに、予想に反した人でした。入口に2万人突破という貼紙も出ていました。

 この展覧会は、フランスのダスク市にあるリール近代美術館の収蔵作品が貸し出されたものですです。

 今回は、何の予備知識もなく出かけたのでしたが、思いがけず20世紀初頭の美術史を一堂に辿ることができて、いい学習ができました。
 第1室は、「ピカソ・キュビスムの世紀」、「モディリアーニ・芸術の都パリ」。
 第二室は、「ミロ・シュルレアリズムから抽象画へ」「ビュッフェと素朴派・二極化する具象表現」と分類されていて、丁寧な解説が添えられていました。
 
 1室は、ピカソとの出会いから、フォーヴィスムを脱出したブラックの作品が、最初に展示され、まだセザンヌの影を残しながらの幾何学化がみられました。 右画像、モンマルトルのサクレ・クール寺院(1910年)1940年代の作品は幾何学的ではなく、私たちがよく知っている色彩に富んだスタイルへと進展していました。

ピカソも、1909年前後と1940年代の作品の変化が目の当たりにできました。

 お目当てのモディリアーニは、憂愁を湛えて、優雅な曲線のリズムで、瞳のない目を向けて出迎えてくれました。やはり図録の表紙や、入場券に使用された「母と子」(1919)が一番目を惹きました。

 第2室はミロが入口正面で、奥正面はビュッフェの大画面でした。
 ミロの油彩は大型(97×130)で、背景処理の微妙なグラデーションもよく窺えました。
 鋭角的なフォルムと、黒い線、独特の色彩のビュッフェも、間近で見ると、むしろ伸びやかなゆたかさがありました。

 1室で時間をかけすぎて、2室は大急ぎの鑑賞になってしまったのは残念でした。

 

いい加減

2007年01月11日 | ああ!日本語
 このところ、家に引き篭ってばかりのせいか、何事につけてもいい加減で、意欲的に取り組むことができにくくなっています。

 この「いい加減」という言葉、気がついてみれば不思議な意味合いです。

 本来は、丁度よい具合、よい程あい、というのでしょうが、私は徹底していなくて、投げやりという意味で使いました。

 風呂の湯加減だと、丁度入浴に適した、頃あいの「いい加減」のことでしょうし、料理の味付けの塩梅だと、それは、食べるのに丁度よい味加減ということでしょう。

 子供の悪戯を叱る時の「いい加減にしなさい!」「いい加減にしないと目を悪くするよ」とパソコンへ向かう時間が長い時にいわれるのは、これらとはまた違って、程ほどにして、もうその辺で止めなさいという事ですし、「いい加減疲れてきた。」の場合は、相当に、の意味で使われています。
 
 こうした正から負へ、さらにはその中間と、かなり幅のある振幅を識別して理解する私たち日本人は、たいした語感を身につけているということでしょうか。

 それこそ、いい加減にしておかないと、煩さがられそうですから、今宵はこの辺で。


初場所 3日目

2007年01月09日 | 遊びと楽しみ
 不敗を続けていた朝青龍(26歳)に土がつきました。
 殊勲の金星を挙げたのは元大関の出島。色白の顔を紅潮させてのインタビュールームの喜びの姿は、32歳とは思えないすがすがしさでした。
 一人勝ちをつづける朝青龍には、文化の違いからか、一見ふてぶてしくさえ見えるその態度に反撥する人も多く、判官贔屓の国民性が拍車をかけて、座布団が舞いまわる仕儀となりました。

 初場所3日目は、この最終取り組みの他にも、波乱の一日となりました。
郷土力士の魁皇も安美錦に寄り切られて3連勝とは行きませんでした。これで3日目にして上位陣の勝ちっ放しが早くも無くなりました。その分、優勝争いのほうは面白くなりそうです。

 贔屓の琴将菊(福岡)が、把瑠都との22歳対決を、見事なガブリ寄りを見せて制したのは嬉しかったのですが、車椅子で退場した把瑠都が気がかりです。
 一番期待している真っ向勝負の豊真将(下関)は、大関琴欧州を寄り倒して初日を出しました。 これは私には嬉しい3日目でした。


 ところで、相撲も含めて、スポーツ選手の年齢を考えてしまいます。種目にもよるのでしょうが、水泳も、フィギアースケートも、年々その盛りの年齢が下がってきています。
 どうやら25歳を過ぎれば、中年で、30歳を過ぎれば老境とみなされるかの様相を呈しています。水泳など20歳がピークとなりかねない勢いで低年齢化が進んでいます。

 相撲の世界でも、現在幕内の最高齢は、35歳の皇司と玉春日で、魁皇なども34歳となれば、高齢者ということになります。力技をもって勝負するわけですから、体力がすべてではないまでも、台頭する若いエネルギーに対抗するのは容易ではないでしょう。
 年季の入った高齢の力士たちに精一杯のエールを送ることにします。

  写真は時事通信社より