「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

おしゃもじ

2009年01月27日 | ああ!日本語
 別に過剰敬意表現などと野暮なことを言うつもりではありません。
 海の彼方で暮らす人からの依頼で、ホームセンターに「昔使っていた竹のおしゃもじ」を探しに行きました。

 最近では日本でも炊飯器を購入するとセットされているのはプラスチック製のものです。ご飯粒がくっ付きにくいとかで表面に小さな突起が並んでいたりします。中には竹炭の成分が入っているとかで真っ黒のものもあります。探し当てた「おしゃもじ」は袋に「竹杓子」と正式名称が記されていました。

 勿論、台所道具として、しゃもじも杓子も同じものですが、手に馴染んで朝夕世話になる道具は、一般には杓子と呼ばずに、「しゃもじ」と呼びます。
“杓文字”は、ご存知の女房言葉で、いわゆる文字ことばの代表で、今も使われているのはこれくらいではないでしょうか。
 鮨を“すもじ”蛸は“たもじ”、烏賊は“いもじ”でした。髪は“かもじ”、お目見えが“おめもじ”です。
 他にも田楽が“おでん”で、豆腐が“おかべ”、トイレは“はばかり”ときりがありませんが、いずれもものそのものをあからさまに指し示すのをはばかる一種の隠語でした。この宮中の習慣が長い年月の間に民間にも使われだしたのでしょう。
 現代もこれに類した言い方で、きれいどころに「ハーさん」とか「フーさん」とか呼ばれて鼻の下を延ばしたのは、今は昔の物語でしょう。釣りバカ日記で、ハマちゃんが鈴木社長をスーさんと呼んでいました。

 ところで、杓子はどうも不当に軽く扱われているようです。「猫も杓子も」は、誰でも彼でもと、節操がなさそうですし、「杓子で腹を切る」も、できるはずもないことをするという形式だけのことを言います。ただいま実例の放映を中継で見ることができます。
 杓子定規は”誤った基準で物事を測ろうとすること”で、定規ではないもので測った基準を譲らず押し通そうとするわからずやの、頑なな考えをからかって言うことが多いようです。同じ計量でも「目分量」のほうは逆に、豊富な経験と、融通が利く才覚、要領のよさを肯定していますが。
 使い込んで手に馴染んだ竹のしゃもじでふっくらとよそったご飯のように、杓子ならぬ”しゃもじ”の柄で物事の尺度を測ったら、ぎくしゃくしないで、ふっくら温かくなれるかもしれません。と誰かがいっていませんでしたか。

 ただひとつ、存在感があるのは“杓子渡し“で、これは姑が嫁に世帯の切り盛りを任せる世代交代を意味して重々しいものでした。してみると、やはり杓子は主婦の座の象徴でありました。



湯湯婆の効用

2009年01月19日 | ああ!日本語
 以前から、エアコンや電気敷毛布を一晩中使用すると、乾燥するし、喉も渇くからと嫌って、夫は湯たんぽを愛用していました。私にもその効用を説いては、しきりに勧めていましたが、一向に同調しないのをみて、ついに自分が使っているのと同じものをプレゼントだといって買ってきました。
 朝の洗面所で使用し、残りは洗い物に空け、忘れていて冷えてしまったときには室内の植物にやっているのを知ってました。
 先日、本を読んでいて夜更かしをし、ベッドに入ろうとすると、パジャマが見当たりません。膨らんでいる布団をめくるとなんと湯たんぽに捲きつけてありました。以後、そのほんのりと暖かい快適さの虜になり、今では湯湯婆が手放せなくなっています。

 幼い日の思い出の湯湯婆は、祖父母はかまぼこ型の陶製のもので、私達のものはブリキでできていました。今は錆の心配もない強化プラスチックで取り扱いも楽になっています。大きく波打っていた形だけは昔のものに似通っていますが、色も鮮やかで、栓もしやすく、軽いのも年寄りには有り難い機能です。

 第一、ストーブにかけて湧いている薬缶のお湯を注ぐだけですから、経費がゼロというのが何よりです。
 コードレスですから、そそっかしい私でも引っ掛かって転ぶこともないし、古くなっても漏電の心配や、着け忘れからの火災も関係なし。ただ、お湯を注ぐ時に火傷をしないように注意して、一気にお湯を注入しないことぐらいでしょう。
 厚いキルトの布で包めば低温火傷の心配はありません。
 かくて「湯湯婆」と書く文字どおりに今では私のほうが熱心な湯湯婆信奉者で、人にもお勧めしています。 ちなみに、湯・婆のタン・ポは、唐音読みだそうで、もうひとつ湯をおまけにくっつけて重ねたものだそうです。柳田国男説では、タンポは、容器を叩いた音からきたという説(方言と昔)で、こちらも楽しくて捨てがたいですね。
 そのうち、愛らしい猫か、ふくろうのアップリケでもした湯湯婆入れでも作るとします。



寒牡丹図 酒井抱一   同じ暖を取るにもこちらは気品溢れて。



結構むずかしい

2009年01月17日 | ああ!日本語
 「結構です。」という慣用句は紛らわしい言葉です。今日、インターホーン越しに、セールスの人が丁寧に商品の紹介をしたいというので、私は調子を合わせて、断りのつもりで「いえ、結構です。」といいました。ところがなんだか弾んだ声で「門を開けていただけますか」というのです。直ぐ気づいて「いえ、購入するつもりはありませんので」と言い直しました。
 考えてみると、結構は本来は成り立ちからも、拒絶の意味は持っていない言葉でした。

 念のため辞書(日本語大辞典)に当たってみても、組み立てて作りあげること。よく出来上がっているさま。手厚いさまといった名詞や形容動詞が解説されています。副詞で使うときも、十分満足というほどではないが、一応よいといえるさま。といった説明が出ていて、直接の断りを意味する説明はどこにも見当たりません。

 「日光を見ずして結構というなかれ」は日光東照宮の建築の美を見た事のない者に建築の美を語る資格はないと、その美しさを絶賛したものですし、お茶席での「結構なお点前で」は、社交辞令のときでも褒め言葉でしょう。が、これらの結構とちがって、プラスとマイナスの中間に慣用句としてよく耳にする「この料理、結構いけるよ」の褒め言葉らしき副詞の「結構」もあります。ではその結構の程度はとなると、これは曰くいいがたいものです。少なくとも、“非常に”とか、“とても”といった意味ではありません。強いて言うなら、まあまあ、かなり。といったところでしょうか。この“かなり”も数量的には曖昧です。が、この曖昧でも、日本人ならお互いに何となく内蔵しているカンピュ―ターが働いて理解します。

 中国語では「大半」は9割を意味し、「多半」が7割ぐらい、「一半」は5割ぐらいと決まっていると聞きました。国会のやり取りを聞いていても、「大半」は自分達の都合によっては半数以下の時にも、又9割のときにも使っていて、本家とは大違いです。

 ところで、「コーヒー、もう一杯いかがですか」「結構です」の会話で、あなたはコーヒーを注ぎますか。それとも持ち上げたポットを置きますか。実際の会話の場では間違うことはまずないと思いますが、書かれた言葉となると微妙です。「結構です」が断りで使われるときは、十分に満足しているので、これ以上は必要ではありませんという婉曲な拒絶。つまり「ノー」を丁寧にいうことになります。同時に「結構ですね」といった時には、その誘いを、遠慮なく頂戴しますと歓迎することになるわけで、つまり「イエス」ということになるわけです。
 こうしたファージィな表現が日本語の、ひいては日本人の思考の特徴でもあるわけですが、私は婉曲な表現が”結構”好きなのですが、最近ではひどく評判が悪く、場合によっては通じなくなっているのは、日本語にとっていいことなのか悪いことなのかよく判りません。
 ただ、拒絶は、明確な表現でなくては「振り込め詐欺」の標的にされ、巧妙なセールスに乗せられることになるので、注意するようにとお小言があり、納得したことでした。
 折りしも今日の新聞に、新しく追加される常用漢字191字が発表されていました。これで、本も福も、良、城、大、などもやっと常用漢字となりました。めでたしめでたしです。




     黄金千両

筆順

2008年10月23日 | ああ!日本語
 

 万事いい加減な性格から、私は文字の筆順も、余り頓着しないで書いていた部分が大きいのです。ただ、右はノを先に左は一からは、さすがに自分の名前の中に含まれているので幼い日に教えられて書き分けます。
 それでも、右も一から始めても不都合はないように思っています。ただし、右はノから書かないと一筆で続けることはできません。ほとんどの人がそうしていると思います。書道に関わってきた人なら、当然筆の運びの合理性から筆順を体得しておいででしょう。(秋きぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる 光悦書)

 この筆順ということで一番驚いたのが、「必」です。私は長年、心を書いてノを最後に入れて、それ以外にないと思っていました。ところが、ソに襷をかけて、最後に両脇に点を打つのが当世流だと知ったときです。
 同年配はまず大抵が私と同じ筆順です。連れ合いも同様でした。
 もともと、筆順は確固とした決まりがあるわけではなく、時代によって変わってきていますので目くじらを立てるほどのことではないのかもしれません。
 それでなくても、日本語を学習する外国人に「悪魔の文字」といわれる国語の表記です。この上、筆順などをあげつらうこともないと、自分に都合よく考えています。
 ただし、片仮名の書き順では、若い人のそれを見て驚くことばかりです。「メ」は、今は点が先で、ノが後というのが大勢のようです。「ヲ」をフの下に一を足している省エネの合理化にもびっくりしました。
 考えてみれば、平仮名の「め」は点が先です。女と言う漢字からきていて、片仮名の場合も同じ漢字からです。その始めは当然点が先だった筈で、メを点から書くのは原初に戻っただけのことかもしれません。筆順は絶対的なものではないのですから。昔は小学校1年では片仮名から教わりました。平仮名は2年生からでした。平仮名から入るので丸文字になるのだといった人もいました。

 もっとも今の時代、ワープロや、パソコンのワードが主流で、活字体の楷書の時代ですから、行書や草書を書くことはほとんどないので、昔のように筆順を知っていなくても、生活してゆく上で何の不自由もないわけです。
 筆順の必要性が極端に減っているのですが、片仮名は、どうも昔教わったのと違う書き方には違和感をぬぐえず居心地が悪いのです。

 かくて、私は流麗な仮名書きに変体仮名が交じる古文書は、全文を読みとれずに途中で投げ出して、ただ線の流れの美しさに見とれているばかりです。
関戸本古今和歌集を、古典文学全集の活字と見比べながらしか読むことができない情けなさをかこっています。

ふちはらのさたかたのあそん
あきならてあふことかたきを
みなへしあまのかはらにおひぬ
ものゆえ
きのつらゆき
たかあきにあらぬものゆえを
みなへしなそいろにいてて
またきうつろふ

関戸本古今和歌集より

文化庁の国語世論調査

2008年07月31日 | ああ!日本語
 朝日新聞が、25日朝刊で「国語に関する世論調査」を取り上げていました。
 言葉のしつけに関しては、面接調査した1975人の59,7%が、子供のころ家庭で注意された経験を持ち、注意したのは母親が63%で、父親の25%と大きく開きがありました。
 特に若い世代では父親の言葉のしつけは影が薄いという報告でした。
 このことはおよそ予測されることですが、驚いたのは、言葉の意味を本来の使い方とは違う捉え方をする人が7割を超えている表現があるということでした。
 7割を超えて使われれば、もはやそれを誤りと言えるかどうかです。赤信号みんなで渡れば怖くない。という、けしからぬ文句が、昔持て囃されたことがありました。7割を超えれば、この伝で、変化したと見るべきかもしれません。
”どちらの言い方を使うか”で
     、論陣を張る(25,3%)    論戦を張る(35,0%)
      をすくわれる(16,7%  足下をすくわれる(74,1%)
”どちらの意味だと思うか”で
 話のさわりだけ聞かせる。のさわりは?
      話などの要点のこと(35,1%) 話などの最初の部分のこと(55,0%)
 憮然として立ち去った。の憮然(ぶぜん)は?
      失望してぼんやりしている様子(17,1% 腹を立てている様子(70,8%)
 檄を飛ばす。
      自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること(19,3%)
      元気のない者に刺激を与え活気づけること(72,9%)

 これらの、本来の使い方が逆転されている現象は、このサンプルに留まらないでしょう。いろは歌留多などでも「情けは人のためならず」の解釈初め、意味の捉え方が変化してきているものも、2,3に留まりません。
 加えてカタカナ語の氾濫です。言葉によるコミュニケーションを考えるとき、日本語の生き残りのために、私たちは何をなすべきか。しばし新聞を手に考えこんでしまいました。



「乱れ」と「変化」

2008年07月20日 | ああ!日本語
 昨日(19日)の朝日新聞の、土曜日に付いてくる”be”紙に、「日本語の乱れを感じますか?」というアンケートの集計が出ていました。(回答者数:4548人)

 「はい」と回答した人が96%という圧倒的な数です。ただ、このアンケートの回答者は任意の抽出ではなく、朝日新聞に自発的に登録しているモニターによるものですから、もともと言語に関して意識している人が多いと思われますので、任意の抽出アンケートだと数値は違ってくることが考えられます。それにしても、乱れを感じないという人が僅か4%という極端は、まだ日本語のために救いがあると嬉しく思ったことです。

 この少数派の人を代表する意見が、「『いまどきの若者』によって文化が変化するから、変化は止められません。」という、乱れではなく変化とする意見が大半を占めています。(61%)
 なかには、「意味がわかればよい」という極端や、「年寄りが受け入れないだけ」という耳の痛い「いいえ」の人もいます。

 さらに、「はい」と答えた人の、日本語を乱す張本人は?の回答の51%がテレビ、次が若者(28%)です。あとは極端に少なくなって一桁ずつです。
乱れを感じるサンプル表現10個をトップから順に挙げると
  1、千円ちょうどからお預かりします(2994人)
  2、飲めれる(2884人)
  3、わたし的にはオッケーです(2842人)
  4、全然大丈夫です(2692人)
  5、コーヒーで良かったでしょうか(2467人)
  6、見れる(2068人)
  7、雨が降るっぽいね(2048人)
  8、終わらさせていただきます(1746人)
  9、○○会社さま(1480人)
 10、超かっこいい(1341人)
以上の順になっています。
 気が付いてみると、この数が示すように、自分で使わないまでも、10のような表現に抵抗感は余りないようになっています。
 謙譲語が尊敬語に流用される現象や、「やる」と「あげる」、「こだわる」の、本来は否定的な意味が、逆転する使い方などにも、以前のようには気にならなくなってきています。
 初めて目にする「さ入れ言葉」「れ足す言葉」という乱れ言葉を表す分類があるのも知りました。ひところ、(6)のような「ら抜き言葉」がよく取り上げられていましたが、今度は、逆に入れたり(8)、足したり(2)する表現が出てきているのですね。1,5はマニュアルでしょうから修正は簡単なはずです。
 若い人たちが仲間うちで使う言葉の、その垣根を壊しているのがマスコミではないかといった趣旨の意見もありました。

 「美しいと感じる日本語は?」には、「ありがとうございます」「かしこまりました」などの挨拶や謙譲語を挙げる人が多く、季節や、自然、色合いを表す日本語が挙げられていたようです。
 敬語を否定するのではなく、逆に過剰な敬意表現を試みようとする若い人たちがいるということは、敬語は美しい言葉と思うからでしょう。してみると『いまどきの若者』も捨てたものではありません。
 大人の責任において正しい表現を示す場が必要となります。
 テレビをはじめとするマスコミの努力も期待されます。方言で会話する人たちも、共通語が理解できない人はまずいないのは、功罪の功のほうの力ですから、出来ないはずはありません。
 そして、大事なことは、形だけどんなに美しく整えられていても相手の気持ちに対する思いやりに欠けた言葉遣いは、敬語以前の問題ということでしょう。
 日本語のような細かな敬語表現がない外国語では、相手の気持ちを刺激するようなことは口にしないという嗜みが発達しているようでした。プライバシーに関することに無神経に踏み込んでくることはしないようです。
 敬意のこころが欠けていると、言葉は時に凶器のような役割を果たしてしまいます。

 あなたの好きな次代に伝えたい日本語はどんな言葉でしょう。「品格」ある美しい日本語は大事にいたわって存続させていきたいものです。



めり・はり

2008年06月26日 | ああ!日本語
 「めりはり」とは、もともとは邦楽出身の言葉のようです。文字も「乙張・減張」と表記されます。緩めると、張るであることは容易に想像がつきます。、
 声の高低、抑揚をいうようですが、歌舞伎では、演技の強弱、伸縮にも用いるようです。「メリ込み」は取引相場では下落を意味します。

 ゆるやかな部分が急な部分を支えて引き立たせているわけで、弱さと強さは、ともに不可欠の要素です。
 メリ調子があるから、それに配されたハリ調子が一段と印象的に映るのは、絵の場合も同様です。描き込みの密と疎、線や色の強弱のバランスが、リズムを生むことになりより鮮明な印象が生まれます。
 全体が強い調子で貫かれていたら、騒々しくて疲れてしまいます。逆は言うまでもなくどこまでも落ち込んでしまい、退屈なものとなり、見るのも嫌になってしまうでしょう。
 今回の蕪村展で、改めてまざまざと実感した「夜色楼台」や、「峨嵋露頂図」での強と弱の配置でした。

 生活の中でも、めりはりがあることが、ストレスの多い現代を生きる知恵となります。
 人の場合、バイオリズムは体の調子だけでなく、感情や、知性にもある抑揚です。
 長く生きていると、毎年の季節の中での体調の好調と不調のカーブや、刻みを描く感情や意欲の変化のリズムの癖もつかめてきます。
 私の場合は、梅雨が明けるころからハリ調子になり、行動的になるのですが、旧盆辺りを境にメリ調子に急速に変化してゆきます。世の人が物思う木の葉の散るころから次第に元気になって年を越します。櫻のころのメリ調子への変化のカーブはこれは緩やかです。

 めりはりをつけて事を処理することが、年々できにくくなってきています。以前はこれでも、もっとてきぱき処理できていたと思うのですが・・・・。メリ調子の期間が一方的に長くなってきています。


木の葉

2008年05月03日 | ああ!日本語
 朝の木の葉掻きをしていて、新聞配達のおにいさんに、「毎日、きの葉が大変ですね」とねぎらわれました。「ええ、もうしばらくのことでしょうから」と挨拶を返して、「木の葉」が少し気になりました。
 「木の葉」は、「きのは」ではなくて「このは」と読みたいのですが、木を「こ」と読む場合は随分少なくなってきているようです。

 木の葉がくれ、木の葉髪、木漏れ日、木陰、木霊、木立。まだまだ健在のようです。ただ、“木の芽和え”は、サンショウの芽を、「きのめ」と呼んで賞味してきました。ですからこれは「きのめあえ」です。

 伝統的に単独で木をいうときは「き」と読みますが、木の・・と複合するときは、「こ」と読んできたと思います。
 なにはづに咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花
 散りかふこの葉の中より青海波の輝き出でたるさま (源氏物語 紅葉賀)のように。また、お能の小道具で、三輪や釆女でシテが手にする榊や、しきみも”このは”といいます。木の実、木の葉猿、木葉鰈、木葉木菟コノハズク。みんな「こ」です。木っ端微塵もありました。

 一方、木から落ちた猿、木に竹を接ぐ、樹静かならんと欲すれども風やまず。と、木は「き」です。

 木漏れ日、木の下闇、木の間隠れ、こうした言葉も、自然の環境が変化して、木の下闇や、木漏れ日をしみじみと味わう余裕も失くした暮らしでは、こと葉もどこかに散りうせて、片隅におしやられて忘れられているのではないでしょうか。
 いまや、多勢に無勢、「こ」は「き」に取って代わられ、次第に化石となる運命を辿るのでしょうか。

 昨年正しい名前が判明したナニワイバラがただいま花盛りです。













お手頃

2008年04月14日 | ああ!日本語
 久しぶりに贈りものの品定めにデパートをのぞきました。
 男物のスポーツ・シャツを眺めていたら、近寄ってきた店員さんに、「セールに入っていますので、お値段もお手頃ですよ。」と勧められました。

 こうした買い物をしばらくしていない私にとって、値頃かどうかは、こちらの財布の中身にかかわるもの。5700円という値段は、「お手頃」よりは高額に思えたのです。
 「お手頃」ということで、こだわってしまいました。確かに”手に余る”ほどでも、”手の届かない”値段でもなかったのですが、また出直しますと引き下がって、お手頃の頃合いを考えてみました。程々、程合い、頃合い、相応、と、すぐ浮かんでくる同類の日本語も多彩です。
 これらは数値的な量も、質も示すものではありえません。極めて曖昧なもので、それでいて、何か人を納得させる通念のような性質を携えています。ただ私の今日の買い物の場合のように、人によってその「お手頃」は異なる厄介なものです。

 契約書や取扱説明書に使われるような表現では、生活の場での会話は成り立たないのは勿論ですが、受け手にとってさまざまに解される表現というのも、生活の言語としては困りものです。にもかかわらず、この頃の朧の月同様、やわらかく、あからさまでない言い方を私たちは従来評価し、好んで使ってきました。
 その一方で、コミュニケーションの手段であるからには、相手に正確に内容が伝わる必要があります。正確に伝えるためには、曖昧な意味を出来るだけ明らかなものに置き換える努力をしなければならないという矛盾の中で生活しているわけです。
 私でも、自分の中に分相応の度合いを計る目盛りは持っているつもりですが、川面に投げるのに手頃な石は、計れても、度を過ごさぬ程度の程々は、お酒の場合と同様、その場の雰囲気でも動くもので、定めがたいものです。

 “いい加減“にしろと、うんざりした顔が浮かんできました。”程々”というのは難しいものです。ということで。「お手軽」なこの項を閉じます。



 

雨の日のことば遊び

2008年04月10日 | ああ!日本語
 予報どおりの雨になりました。部屋の片付けをしていて、一昨年、お見舞いに頂いた本に目が行き、手が止まってしまいました。
ことば遊びの世界」です。お時間のおありの向きはお試しあれ。

 「浪花みやげ」より、美しいところから、三段なぞを少しだけ。
 ○冬の鶯とかけて、破れ障子と解く。こころは?  春(貼る)をまつ
 ○鴨とかけて、二月堂と解く。こころは?     水鳥(お水取)
 ○浄土宗とかけて、うつむく稲と解く。こころは? 豊年の稔り(法然の御法)
 ○お多福の面とかけて、谷の櫻と解く。こころは? 両方(頬)が高くて花(鼻)が低い

 この本によると、“なぞ“の遊びは、連歌の席の余興として発達した由が記されていました。つまり、連歌の賦物フシモノ(約束事)と関連したようです。
賦物の種類として、
一字露顕(同音異義を利用する。例 日を火,気を木などの別の語彙にする。)
二字反音(二音の語彙を転倒させ、別の語にする。例 妻を松、夏を綱とする。)
三字中略(三音の語彙の中央を消去して、別語彙に導く。例 嵐を足、霞を紙に)
四字上下略(上下の一音を消去、例 鶯が杭、苗代が橋などとする)などがあります。

 面白かったのが、「和七」に“とだな“とルビがふられ、「大和、七夕」のヒントが記されていました。白を九十九と読んで、百に一つ足りないとしています。これなどは周知のように今も、「白寿」ということばに残っています。「難字和解」
 「木を書いて、春はつばきに夏えのき、秋はひさぎに、冬はひいらぎ」と短歌形式にしたのを載せていますが、これのパロディー本では、実在しない造語の“嘘字”の遊びが登場しています。
 上の漢字の木偏を人偏に置き換えて、人偏に春として、「うわき」と読ませ、人偏に夏は「げんき」同じく秋は「ふさぎ」冬は「いんき」、最後に人偏に暮と書いて、「まごつき」と読ませています。
 歌にして、「はるうわき、なつはげんきで、あきふさぎ、ふゆはいんきで、くれはまごつき」の狂歌仕立てになっています。お終いを”き”で統一したところが味噌でしょう。
 入門編の最後は前半に無理な問いを置いて、後半で同じ理屈で答えるということば遊び、「無理問答」です。つながるように組み合わせてみてください。

   
 A 小豆に大納言とは如何に、      
 B 水を沸かすに湯を沸かすとは如何に、
 C 天にほうき星とは如何に       
 D 女子の名にあらずしてお神酒とは如何に 
 E 咲きもせずして牡丹餅と言ふが如何に 

1 散りもせねどさくら鯛と言ふが如し。
2 男の名にあらずして源五郎鮒と言ふが如し。
3 米を炊きて飯を炊くと言ふが如し。
4 地に空豆あるが如し
5 鳥にも五位鷺のあるが如し。

 太平の御世の庶民の「ことば遊び」です。
 札の偏と旁の間に池を挟んで、「さいけつ」と読む造字など今もむかしに変わらぬ文字遊びをやっている人もいるようです。先人たちの残したことば遊びに、ささやかな楽しみを見出すひとときです。
    念のための、蛇足。A・5  B・3  C・4  D・2  E・1
     瀬戸馬の目皿 江戸時代後期