「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

スタンダールのメッセージ

2007年05月31日 | 遊びと楽しみ
 旅行者としても知られているスタンダールに、「見知らぬ土地にいったら、博物館へ行く労をいとうな」という忠告のメッセージがあることを、どなただったか書いておられたのを読んで以来、お勧めに従っています。

 今では、世界各国、どこに出かけても画一化された機能の、ホテルや、レストランが多いのは、旅人としては味気ないものです。
 もちろんその国には国独自の生活があり、文化があるのですが、一過性の旅人には見えるものは限られています。

 一日の空白の時間ができたとき、リゾートならぼんやり過ごすのも意味がありますが、さてと迷うときには、忠告に従って博物館へ出かけることにしています。博物館が無理なときには、美術館にします。市場に行くことで、その国のどんな経済情報を読むより、直に国民性までもが見えてくるのとセットにして楽しむことにしています。

 博物館では必ずと言っていいほど、“来てよかった”という収穫を得て満足します。
入場料金も僅かばかりで、日曜日は市民に開放されていて、無料という所が多いようです。

 このところ立て続けの展覧会あるきでしたが、国立博物館での催しでも、日本ではかなりの金額を支払わねばなりません。すくなくとも若い学生たちには無料の制度があってもいいのではないかと残念に思うことがあります。瑞々しい感性に刻み込んでほしいものを提供するのは、指導的立場にある方たちの未来を見据えた義務とさえ思ってしまいます。

 今回の一連の美術館めぐりで受けた刺激が、描かねばという思いを引き出してくれました。どんなに低い次元であるにせよ、それなりに表したいものは存在しているわけですから。
 今日で5月も過ぎてゆきます。季節のさわやかを楽しむのもあと少しでしょう。

忘れられた貝母」で写真に収めたゆすらも実になっています。




展覧会あるき

2007年05月28日 | 絵とやきもの


“示現会”の招待券をもらっているから、福岡市立美術館に行く、といいだした夫に付き合いました。古くからの、気の合う友人が示現会会員で、昨年は、大きな賞ももらわれました。

 示現会の絵は、具象を追及するなかで、新しいものを生み出す試みだけに、形を現す手段や技法が豊富な分、色と題材の切り取り方に綱渡りにも似た緊張が強いられると思います。
 全般に澄んだ明るい色調の作品が多いように見受けました。

 この60周年の記念展は、東京展1007点の中から選抜の60点に、地元出品を加えた167点が展示されていました。
 わたしが一番目を向けたのは、地元物故者の一連の作品でした。創立会員でもあった大内田茂士のブラックが効いた“写実に抽象をのみこんだ”絵でした。ある種の気迫で迫ります。





 美術館のレストランは大濠公園を見下ろすロケーションで、スパゲティーもコーヒーもなかなかのものでした。松永コレクションの仁清の色絵吉野山図茶壷にも敬意を表して、市立美術館を後にしました。

いつもコメントをお寄せくださるラグタイムさんのブログに関連記事があります。




 私のこの日の目的は別にあって、ガレの華やかなアール・ヌーヴォー、ラリックのアール・デコの世界を覗くことにありました。こちらは福岡県立美術館です。
 平日の美術館は駐車場も会場もゆっくりしていて、国内外からの約130点の華麗なガラス工芸の世界を堪能しました。
 サンパウロ美術館の下で毎週日曜日に開かれる骨董市や、リオの骨董街で見ていたガレの工房作品とはレベルも異なり、力のある物が揃っていました。
近代フランスのガラス工芸の三大ブランドの競演です。

ガレの独創から、ドーム兄弟の堅実な職人技を経て、次の世紀、ラリックの、アール・デコへの展開も一目瞭然で、小規模だけに系統だって理解することができました。
 やはり、開拓者ガレの、インパクトのある大胆が、日本的なモチーフをも見事に自分のものとして翻案していて、他を圧倒していました。
 巷には光化学スモッグの警報が出ていましたが、萩の景徳鎮に始まり、九国博と続いた展覧会めぐりで、いささか飽和状態に近い様相を呈しています。満足の余韻を抱えて、ガラス工芸の薀蓄を聞きながら車を走らせました。
上 ドーム ななかまど60x21 1902年頃 北沢美術館蔵


ラリック 花器つむじかぜ1926年



泰山石経と浄土経美術

2007年05月25日 | みやびの世界
 30代のころ、泰山金剛経の、伸びやかで丸みを持った線質でいて、内に力を感じさせる文字に憧れて、臨書本で練習をしていたことがあります。例のごとくものにならないままで終ってしまいましたが。
 今回は、理解がいまひとつ難しくて、敬遠していた浄土美術とともに、巨大な泰山石経の拓本が展示されている九国博特別展を、「みまき会」の企画で訪ねました。



 国宝15点、重要文化財も50点と、仏教美術の名宝が一堂に展示されると、さすがに見応えがあり、仏法への強い信仰のもたらす力に、ある種の畏れさえ感じました。
 末法の只中に生きる今、露天の岩肌に、1文字50センチを超す経文を最大30メートルもある長さで刻み込んだ執念は、仏の教えを後世に遺すこと以上の圧倒する迫力で迫ります。わが国での、書写した経文を銅の経筒の中に納めて、土中に埋めるやわらかな作業と思いあわせるとき、その思いはひとしおです。

期待していた“餓鬼草紙”よりも、国宝の“辟邪絵 栴檀乾闥婆”センダンカンダツバ(後期展示)の、疫鬼を退ける善神とされる姿が楽しめました。後白河法皇のコレクションの一つと推測されているのだそうです。
パンフレットに部分が採られている来迎図も後期の展示で拝観することができました。

そのほか、求菩提山や宝満山出土の経塚の遺宝は地元とあって、50点を超す多数多彩で、小さな銅板法華経33枚と・収納す銅筥は珍しいものでした。(国宝求菩提出土)
紺紙に金や銀字、また金銀交互といった装飾経も多数出ていましたが、平家納経がなかったのは残念でした。

入館前には、いずれ近いうちにご縁があるのだから、しっかり見ておこうなどと軽口をたたいていた従兄弟たちも、みんな口数も少なく、一日を堪能して帰途につきました。

 右上の”うそ”は、妹が買った太宰府天満宮のおみくじ。下の赤い紐を引くと中から出てきます。(H、5cm)

<未来への贈りもの>
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展覧会の画像はパンフレット、絵葉書からお借りしました。

今年の「みまき会」

2007年05月24日 | 遊びと楽しみ
 毎年一度、母方のいとこたちで集まりを持つ「みまき会」は、今年の幹事は太宰府を企画しました。

 9時半に地元を出発、16人を乗せた貸切のマイクロバスは、1時間余で目的地に到着しました。
 会食の会場は“まほろばの里大蔵”が用意されていました。都府楼駅のすぐ近くのこじんまりした和食処でした。

 都府楼跡を思い思いに散策したのち、会場に入ることになりました。初夏の心地よい風の中、都府楼跡の 草原に車座になった若い人たちの中には、笙の練習に余念がない人がいました。
 
 何度かブログでも取り上げた場所ですが、奈良から参加の妹を案内して、展示館を訪ねました。許可をいただいて、展示されている資料を写真に撮ることもできました。

 食事の後は、九州国立博物館で開催中の特別企画展、“中国泰山石経と浄土教美術”を4時集合までの2時間半をゆっくり鑑賞できました。(この項は次回)

<みまき会と太宰府>
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旅のひとこま

2007年05月21日 | 旅の足あと
 海が見える宿をという希望で、萩で温泉のある宿に限定して、ネットで検索しました。
 “海のゆりかご 萩小町”というお誂え向きの旅館がみつかりました。
 リーズナブルなので、あまり期待しないで出かけましたが、時期がずれているのと、萩のはずれなので、人も少なく、昨年夏過ぎにリニューアルしたという部屋は、ヒノキの香りが漂う清潔な宿で、得した気分でした。

 向かいの島の灯台を眺めながら潮騒に包まれての露天風呂、天然の岩を取り込んだ大浴場も一味違っていました。
 料理もなかなか手が込んでいて、食べきれないほどでした。日本海の魚の刺身、ひらめのつくりには満足しました。朝食の会場は海の上に突き出ているような感じの畳の部屋に椅子で、内容も豊かでした。

 帰途は、秋吉台を越えて、無事美祢インターから中国自動車道に乗ることができました。
 時折、降ってくる小雨のなか、やわらかな若草の草柳色の広がりはゆったりとした時間を感じさせてくれました。



萩の美術館 浦上記念館

2007年05月20日 | みやびの世界
 今回の小旅行の目的は、山口県立萩美術館・浦上記念館で開催中の“景徳鎮千年展”を見るためでした。青磁をこよなく愛する人に誘われて出掛けてきました。

 この美術館は、萩出身の浦上敏明が寄贈したコレクションを基に開館されたもので、浮世絵版画約5000点と、中国・朝鮮をはじめとする東洋磁器(約400点)専門の特徴ある、萩焼の地元にふさわしい美術館です。
“景徳鎮“は、130点ほどのこじんまりとした規模で、ゆっくり時間を掛けて鑑賞できました。
 景徳鎮の磁器は世界的に高い評価を得ていますが、北宋の景徳の年号から呼ばれるようになったもので、歴代、宮廷で使われるものを焼成するための官窯です。

 例によっての、お気に入りの1点は、「青白磁獅子紐水注・承盤」でした。(下の写真)水差しを受ける盤は6弁のかすかなカーブが、やわらかで、気品があり、青白磁のもつ時代を経ての風合いも加わって、しばらく見とれていました。
 蓋のつまみの愛らしい獅子は、豊かな尻尾をはねてユーモラスでさえあります。 この一組は11世紀(北宋)の製作とあります。

 古い時代のもの(北宋,元、明)のほうに惹かれるものがありました。青花(せいか),五彩には、モダンとさえ思える抽象化した図柄の力強いものがありました。
 今回、日本で初公開と聞く、毛沢東の日常使いの食器が、半数を占めていましたが、「7501工程」とよばれたこれらの磁器は、確かに白磁の「玉のように白く、鏡のように明るく」はあっても、さまざまな用具に、これでもかとばかり繰り返される紅梅の図柄に辟易します。おまけに、権力者によって、北京に送られた完品1000点のほかは、破棄せよとの指示があったと聞いては、目を留めたくもなく、するすると過ぎました。
 現存するものは、密かに破棄をまぬかれて保存されていたもので、毛沢東の没後、関係者に配られた個人所蔵のものだそうです。

 むしろ、同時開催の「古染付と天啓赤絵―もう一つの景徳鎮―」のほうが、「現代の官窯」景徳鎮よりしっくりと馴染むものがありました。


詳細をご覧になりたい方は景徳鎮千年展のリンクからお入りください。

東光寺と城下町・萩

2007年05月19日 | 旅の足あと
 東光寺は黄檗宗の禅寺です。山号は護国山、中国風の建築でしられる毛利家の廟所です。
 若くして黄檗に帰依した萩藩三代藩主、毛利吉就が建立(1691年)したものです。吉就の没後、ここを墓所としてのちは、毛利家の菩提寺となったもので、最盛期には40棟もの堂塔があったのだそうです。
 明時代末の黄檗の伽藍様式で、赤い総門,山門(最初の画像)、鐘楼、本堂の大雄宝殿の四つは、いずれも重要文化財です。

 ここは、灯篭荘々といわれる、およそ500基の、重臣や諸家より献上の灯篭で知られています。
 本殿の裏手、一番奥に、山を背後にして、生い茂る老杉の木立に囲まれる緩やかな斜面に整列するおびただしい灯篭は、その数が多いのに、不思議な静かさをかもし出しています。

 萩の町は、そのまま明治維新の歴史資料館の様相を呈していて、そこここに幕末の面影を留めながら現代の生活が営まれています。
 古い築地塀に囲まれた家々に今の暮らしがあることを、驚いていました。連休明けで観光客の姿もほとんど無く、ゆっくりした時間が流れていました。

<城下町 萩>
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萩へ

2007年05月17日 | 旅の足あと
 山口県立美術館 浦上記念館で開催中の「景徳鎮千年展」を見るのを目的にして、萩を目指しました。
 毎年のように萩には出かけていますが、ここの企画展は、九州では見られないものが多いのです。巡回する展覧会も、浦上記念館までというのがかなりあります。

 今年はもう一度、10月17日から始まる、あの“青磁を極めた”鬼才「岡部嶺男」展を見るために浦上記念館を訪れるのを、今から楽しみに期待しています。

 今回は、手術後の経過を自分の目で確かめるべく、先週木曜日、連休明けを待って帰省してきた娘を同伴しての三人での旅となりました。いつもは日帰りなのですが、夫の体力を考えて、急遽、越ヶ浜の旅館を1泊予約しました。

 心地よい晴天に恵まれたので、久しぶりに秋吉台を走るコースを取る予定でした。
 中国自動車道を美祢インターで降りるつもりが、盛り上がっていた車中の会話に気をとられて、インターへの出口をパスしてしまい、小郡まで走る羽目になりました。
 落ち込む私に、「道に迷うと、思いがけない発見がいつもあるから」と、自分のパリでの経験を話して執り成してくれました。

 それなら、彼女には始めての山口を回って、携帯にもその詩を入れているほどのファンの中原中也記念館と瑠璃光寺に行くと決めました。間違えたのを感謝されて、今年生誕百年を迎えて、記念行事や多くの企画がなされている記念館で、感激の時を過ごしました。
 有名な東京庵で手打ち蕎麦の昼食にして、その後、萩への道順で瑠璃光寺に立ち寄りました。
 5月の緑の中に、国宝の重量感を見せて立つ五重の塔に息を呑んで、大内文化の精髄を堪能していました。

 山口からの萩入りは、車も少なく、整備された道路は快適でした。明日は天気が崩れそうだからというので、美術館を明日に回して、萩の代表的なスポットを一つだけ見るというので迷いましたが、松蔭神社を通り過ぎて、“東光寺”に案内しました。何度も萩に来ている夫は、奥の霊廟までは歩きが長いからというので、時間を決めての別行動です。
 こちらも、萩焼の窯元で話が弾んで、予期しなかった収穫もあったようでした。
予定のチェックインの時間を30分オーバーして3時半に到着しました。

上の画像は湯田温泉の大きな医院だった中也の生家跡に建つ記念館。公共建築物百選に選ばれた宮崎浩氏の作品。下はお洒落な東光寺の入場券


<山口から萩へ>
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江戸の色

2007年05月13日 | みやびの世界
 四十八茶百鼡―しじゅうはっちゃひやくねず(み)―幼い日に耳から入ってすりこまれたこの口調のいい言葉が、江戸の庶民が開拓した茶と鼡色に関わる言葉と知ったのは、かなり後のことでした。
 女学生のころ、”城ヶ島の雨“を口ずさみながら、”利休鼡の雨“って、どんな雨かと、漠然とお抹茶がかった灰色の雨を思い浮かべていました。

 江戸幕府は、町人たちの贅沢に手を焼いて、次々に奢侈禁止令を出して、庶民の生活を縛りました。しかし台頭する力は、表面的には“おふれ”に従いながら、禁じられるからこその反発で、さまざまな工夫を凝らしました。あるときは表からは見えない裏に、禁じられた紅絹(もみ)や、紫の派手な色や舶来のものを使い、贅を尽くした「裏優り」うらまさりの趣向で鬱憤を晴らしました。

 役者を描いた浮世絵にみる茶の種々相に、江戸の粋が集約されているのを感じます。この歌舞伎役者の影響から庶民の間では茶が流行色になっていたようです。

 四十八茶といっても数えてみたわけではありませんが、要するに多数を意味しての48だったのでしょうが、もしかすると実際にはもっと多くの色が用いられていたのかもしれません。

 ねずみ色は灰色とも呼びますが、こちらは木を燃した後の灰の色からでしょうし、ねずみのほうは、鼠の毛の色からでしょう。百鼠と聞いただけで、おぞましいのですが、この百匹のなかには、桜鼠や柳鼠、浮き草鼠、呉竹鼠、紅消鼠に銀鼠、深川鼠、湊ねずみ、千草鼠、はては鴨川鼠や淀川鼠といった上方のもいます。小町鼠までいますから、美人コンテストもやれそうです。
 もっとも中には、どぶ鼠や、素鼠も混じっていますが。

 微妙な色合いにそれぞれ名前をつけて使い分けるところに、江戸時代に生きた人々の美意識が窺えるというものでしょう。

 画像は山口県立萩美術館 浦上記念館所蔵  勝川春章 五世市川団十郎

椎の葉の雨

2007年05月10日 | 季節のうつろい
 夜来の雨は上がったはずなのに、また雨音を聞いたと思って雨戸を繰りました。
椎の落葉が、五月の風に乗って降りしきる音とすぐわかりました。

 片付けに何度この落ち葉を運ぶことかと、一瞬のたじろぎの後、こうした,椎の葉が衣更えで脱ぎ捨てる葉音を、雨と聞くことができる仕合せは、今の世の中では贅沢で貴重なものと思い極めることにしました。
 かすかな乾いた音が、風の気配に混じって降り注いでいます。

 五月はものみな、時の勢いを得て、まっすぐに伸び上がってゆく、活気に溢れた命の盛んな月ですが、さわやかに静かな命の引き継ぎもおこなわれているのです。

 坪庭の金明竹も、今しも成長する若竹に、竹の秋の挨拶の声を掛けては、こちらは細身の葉を音もなくひらり舞わせて落ちてきます。

 周りの樹木が、緑の明度、彩度をたがえながらも、いっせいに緑に賑わい立つなか、地を柴染めに、丁子色にと、古葉で染めるものもあるのです。

 庭仕事に一段落が訪れるころは、梅の実が熟して、今度は梅仕事が始まります。


    椎落葉石畳から隣まで 作者不詳
  
    開けたてに軋む裏戸や竹の秋   唐沢静男
    手も入れぬ庭やふたりの竹の秋  藤井昌治

 今の私の思いをうまく言い表した句に出会えました。竹の秋の季語は、それだけで十分に情趣を表す語、素人が扱える季語ではなさそうです。