パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

雲隠

2024年01月31日 13時39分25秒 | 妹のこと

1月31日  10時50分頃

 

 

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何ができるのだろう

2024年01月29日 08時59分47秒 | 妹のこと

やる気が出ない
気分が沈みがちだ
音楽も聞く気になれない

理由はわかっている
高校時代に習った宮沢賢治の「春と修羅」の中に
「永訣の朝」という悲しい歌がある

「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」
妹が兄に願った最後のこと

自分は妹に何ができるだろう
横にいて手を握ってあげるくらいしかできない
言葉はもう通じない、、
でも手の感触は伝わっていると医師はいう

できること、妹が喜び、自分も納得できること
それをするしか無い、、

こうして何かに残すことは、妹が存在したことの証

今はできることをするしか無い

 

永訣の朝

けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)

はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
おまへは わたくしに たのんだのだ

銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……

…ふたきれの みかげせきざいに
みぞれは さびしく たまってゐる

わたくしは そのうへに あぶなくたち
雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
すきとほる つめたい雫に みちた
このつややかな 松のえだから
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう

わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
もう けふ おまへは わかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)

ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ

ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ

この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ

(うまれで くるたて
  こんどは こたに わりやの ごとばかりで
   くるしまなあよに うまれてくる)

おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ

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判決に、一般人の感覚を活かしてほしい行政訴訟

2024年01月27日 08時05分12秒 | あれこれ考えること

無理矢理にでも別のことを考えないと涙が出てきてしまう
誰もがいつか来る運命で仕方ないとしても
気持ちがまだ受け入れられない
その時間が間近に迫ってきている

無理矢理考えようとして、頭の片隅に残っているのは
例の養鶏場の裁判のこと(気持ちを無理矢理そっちに持っていった)

テレビ、新聞の報道では京都アニメーションスタジオの事件を
起こした人物の判決が死刑と出たことを伝えている
この裁判は、裁判員制度が活用されていて、全くの素人が
重要な判断をしなければならなかった

人の死を決めかねない判断は、猛烈な心理的な負担を覚えるだろう
被害者の立場への心情、自分の判断で人の命を奪う恐怖
誰かが判断しなければならないとしても、素人にそれを任せるのは酷な気がする

裁判員制度は一般人の感覚を裁判に活かす目的で採用されたと聞く
ある人は、裁判員制度をいきなり刑事事件で採用したが
これは民事から進めるべきだったと指摘している

そうだ、そのとおりだ、一般人の感覚とか常識を裁判に活用するのはそちらの方だ!
自分がずっとしつこく取り上げている行政訴訟の件、その不安と不満は
一般人の感覚が生かされないのではないか?という点で
自分が説明した人は(少し偏っているとしても)大概の人が
どこか疑わしいところがあると口にする

この庶民の感覚が裁判官という専門職の高度な(?)知識故に
軽く扱われてしまうのではないか、、という不安が拭い去ることができない
だからこそ、こうした裁判こそ一般人の意見を取り入れてほしいと思う

今日は、このあとホスピスに行く予定
埼玉の妹も朝一番の列車でやってくる
つらい、、、




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一旦は関心を持っても、広がりを実現するのは難しい

2024年01月26日 09時17分23秒 | あれこれ考えること

またまた個人的な話
市民活動をしていても、それが表に出ないのでは意味がないとの声を聞いて
ここ何日は、とりあえず知人に現在の状況(特に裁判の話)等を話すようにしている

話してみると面白いことに気がつく(大半が裁判が行われているのを知らない)
話の途中ですぐに声を挟む人
無表情で聞いている人(自分の説明が気に入らないのか不安になる)
とりあえず最後まで聞く人などなど

すぐに口を挟む人は自己の経験と正義感を照らし合わせて
問題となっている養鶏場の買収についてはそうした話はありえない等
熱くなって語りだす
彼は旧養鶏場の近くに住んでいて、あの価格で市が買ってくれるなら
売りたい人は何人もいる
そんな価格自体がおかしい
不動産鑑定士などは信用できないとストレートに怒りをあらわす


また養鶏場の近所にかつて住んでいて、鶏糞の悪臭に悩まされた経験を持つ友人は
あの状況がなくなるのは、買上げ金額が適切かどうかは分からないがありがたいと思う
でも、そんな裁判は行われていたとは知らなかった

ずっと静かに聞いていて、顔が険しくなっていった自分が知らない人は
(もしかしたらかつて市職員かと想像したが)、それでも感想を聞くと
不動産鑑定の価格を出すのに、地元ではなくて豊川市を選んだのはおかしい
との感想を述べた

つまりは、だいたいは同じような点に疑問を持ち、同じような怒りを覚えるようだ
だが問題はその先で、それについてなにかするかどうかは
「自分は(やらなくて)いい」との判断をする人が圧倒的のようだ

黙っていること、それは選挙の投票に出かけない人と似ている気がするが
それらの行動は、結果的にそうした奇妙な(あやしい)お金のやり取りも
認めてしまうことになると思う

理屈をこねだすと一般市民は絶対公務員に勝てない
彼らはずっと法の中で生きていて、それなりに自分を信じる根拠がある
その情報量は圧倒的だ
一般市民が勝てる要素があるとすれば、ある時、弁護士が語ったのは
一般的な常識とか正義感とか自らが身につけた経験からの善悪の感覚
議員さんや市民はこれを根拠に行動すれば良い、、とのアドバイスだ

だが、それでも知らないで済んでいくことの多いこと、、
一歩ずつというものの、どうやって行けば良いのだろう

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想像されることは、どう評価されるのだろう

2024年01月25日 09時38分00秒 | あれこれ考えること

昨日、弁護士の話題を扱ったので今朝も引き続いてその話題
ただし、今日は世間様がご存知の吉本興業の松本人志氏に関すること

彼は弁護士を通じて週刊文春と文言春秋社に名誉毀損したとして
5億5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのだが
その弁護士は田代政弘氏で、この方はその世界では有名な人らしい

それは優れた能力故に知られているのではなく
ちょいとみっともない事件のせいで知られているのだ
これはX(旧ツイッター)に投稿されているのを見るとこう書いてあった

松本氏の代理人の田代政弘弁護士は法曹界では著名人です。
陸山会事件/容疑者/石川知裕の捜査報告書に虚偽の記載をしたとして/虚偽公文書作成及び行使罪で告発されたが
不起訴/法務大臣からは減給6ヶ月100分の20の懲戒処分を受け検察官を辞職

ウキペディアでは
田代 政弘 (たしろ まさひろ、1967年1月 - )は、日本の元検察官で、現在は弁護士税理士[1]
東京地方検察庁特別捜査部勤務の際、陸山会事件の捜査において、容疑者であった石川知裕の捜査報告書に
虚偽の記載をしたとして、健全な法治国家のために声をあげる市民の会から虚偽公文書作成及び行使罪で告発され[2]
不起訴となったものの、法務大臣からは、減給6ヶ月、100分の20の懲戒処分を受け、検察官を辞職した[3]

元検察官でこの様な方が弁護士として活動しているのが不思議だが
世の中はいろんな需要があるものだ

名誉毀損は記事に至るまでにちゃんとした証拠があれば文春側に有利だが
証拠がなくても、そのような事実があったと(文春側が)思えるようなことがあったならば
それも文春側に有利に働くらしい

ここでいきなり、ここ数日扱っている養鶏場の裁判について
この裁判の内容を何も知らない人に話すと大半の人が出来レースだった!と口を揃える
そして自分が違和感を持ったように、不動産鑑定のための比較場所が
地元新城市ではなく、4箇所のうち3箇所が豊川市だったことにも
何故だろうと(変だ)と感じている

ここで文春の裁判に戻ると、記事にした内容が
そのような事実があったと信じられるような(記事しても問題ないと判断する)ものがあれば
文春側の有利とした話に関連付けると、養鶏場の裁判は大半の人が違和感を覚える傾向は
実際の裁判においてどのくらい検討されるのだろうか?

そもそも不動産鑑定の価格が不自然!として訴えられたたのだが
訴えられた側は不動産鑑定士は有資格者だから、ちゃんとした仕事をしている
との前提に立って話を進めているが、そこが訴えた側と捉え方が違う
有資格者だとしても、ちゃんとやっていないのではないか!
その証拠に、コレコレのことが例外的に行われていると指摘する

これらの状況証拠(?)みたいなものは、どのくらい評価されるのだろう
普通の人が普通に感じる何かが、専門家によって普通の人では理解出来ないような判断を下すのだろうか

ということで、なんでも養鶏場の話に結びつけてしまったということ
2月1日の判決の日までの数日は、こうした気分になるのは仕方ないか

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民主主義のコスト?

2024年01月24日 09時48分21秒 | あれこれ考えること

面倒くさい話

行政裁判などは無い(しない)ほうが良い
でも、やるべきと時にやらないと大事なことが有耶無耶にされてしまう
上の文章は行政裁判は無いに越したことはない!
と言い換えるべきかもしれない

裁判には現実的に多額のお金がかかる
裁判自体はさほどかからないが、大きな金額を要するのは弁護士費用だ
この弁護士費用がかかるために、正義感に燃えて行政訴訟した方でも少し悩んでしまう

訴えた側は自腹を切って弁護士費用を捻出する
だが行政裁判は自治体に対して、これこれの金額を〇〇してほしいと
市を被告として訴えるので、被告の市は税金を使って弁護士費用を賄う

問題は市が関わる弁護士費用が馬鹿にならないのだ
弁護士は優秀な人、そうでない人などがあるので適切な価格がわからない
だから日本弁護士連合会は報酬基準を決めて、従来はそれを利用してきた
ところが弁護士法の改正に伴って、平成16年4月1日から旧規定を廃止されることになった
以後は行政と弁護士の当事者同士で話し合いで報酬金額を決めることになった
ところが、旧報酬基準を使ってはならない、、ということではないので
相変わらず旧報酬基準をもとに委託している自治体は多いようだ
(この基準を一部見たが、これによると結構お金がかかることが分かる)

行政裁判は不法行為によって生じた損害(金額)を取り戻すことを目的としている
そして行政の弁護士費用は、訴えられた訴額をもとに算出されるようだ(あるいは経済的利益)
訴額とか経済的利益というものが素人にはわかりにくいが、訴状にかかれた金額を
想像して大きな間違いではなさそうだ
つまりは問題とされる金額が大きいと弁護士費用も大きくなるということだ

訴えた側が勝てば、市に訴えた金額が戻ってくるので(大半は市に戻ってくるようにしてほしいという内容)
弁護士費用はそれでカバーできる(金額によっては足りない場合もあるが)
だが市が勝った場合は、弁護士費用は報酬という形で大きな金額を弁護士に支払う
市は原告に対し弁護士費用請求は行わないので、勝ったからと言ってお金が入るわけではなく
税金の中から支出することになる

少し悩ましいのはこの事実だ
正義感に燃えて、そしてある程度の根拠を持って自治体が被った損害を少しでも取り戻そう
とする行為は、自治体に弁護士費用という予定外のお金を使わせることになっているということ
そしてその金額が大きい場合は、、と考えると、平気ではいられない

新城の隣町の東栄町で行政訴訟があった
町長は国からの補助金がもらえないのがわかっていながら、もらえる前提で事業を行い
結果的にもらえなかった分の金額は町の税金から支出することになった
そこで町民有志が町長に対し、余計な出費となった分の支払いを町長に要求した裁判だが
これは、別の補助金の名前でこれらの金額は東栄町に急遽入ることになった
訴えた側は、当初損した金額を戻すようしたかったが、この補助金が入金されたので
金額的な問題(争点)はなくなった
そこで原告は裁判を取り下げたのだった

ここまでは、別の補助金が出るようになったのは自民党の力を借りたんだろうな!
と想像するくらいで、ありそうな話だったが、東栄町では驚くことにある町会議員から
「裁判など起こすから町の税金の中から弁護士費用を出さなかればならなくなった
 町が使った裁判費用を原告側が支払え」とのチラシが入ったそうだ

なんということを!
と腹が立つが、税金から予定外の支出が生じたのは事実だ

我が市でも東栄町でも、予定外の裁判の弁護士費用が税金から捻出される
それは「民主主義のコスト」として考え、仕方ないとする考えがあるようだが
その金額が大きな場合は、そんな言葉で納得できる気分にはなれない

だが、訴えることが間違いだったとは思えないのも事実だ

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関心のないことは忘れやすい

2024年01月23日 09時21分40秒 | 養鶏所騒動

人の記憶はどのくらい持続するものだろうか
2021年9月9日 地元の中日新聞にこんな記事が載った

ここで、時々取り上げている話題だ
この裁判は2年ちょっと経過して近々判決が下される

先日、ジムでよく会う話しやすい人に
「もうじき裁判の判決が出る」と伝えたところ
「何の裁判?」の答えが返ってきた

そこで、ざっくりと内容と経過を伝えたところ、お叱りを受けた
「そんなに一生懸命やっていたって、誰も知っていないじゃん
 もっと、周知させなきゃダメだよ」(痛いところをつかれた)
「でもね、チラシは折り込めないし、、」
「それならポスティングするとか、努力しなきゃ」
確かに言われる通りだ、努力不足だったかもしれない

そこで反省して、今更ながら中学時代の友達にこれを伝えると
どんな感想を持つか聞きに行った
出てきたのは「何の裁判?」の言葉だった
彼は上にあげた新聞記事を見逃すタイプではないと思うが
見ていたとしても、忘れているようだった

この話はできる限り公平に正確に説明しようとすると時間がかかる
つまりは面倒くさい話だ
時々一対一で人に説明したことがあったが
聞いている人の表情は飽き飽きしていると思われることが少なくなかった
自分らはいろんなことを知っているが、それを一気に聞かされる方とすれば
頭が混乱しそうなのはわかる
それでも少しは関心を持ってもらえれば良いのだが現実は怒りさえ持ってもらえない

と言って何もしないでいても意味はないので、先の日曜日の午後行われたA議員の議会報告会で
「少し時間を割いて裁判の話をしてよいか?」
と聞いたところ了解を得たので、話をしてみた
報告会に来た人ので裁判の話を知っているのが2.3名
あとは初めて聞く人ばかりだ
(初めて聞く人はどんな感想を持つか興味があった)
話すことによって個人的にはストレス解消になったが
それが効果的だったかどうかはわからない
(でも多くの人が知るようになったことは大きいと思う)

このように、面倒くさいことに関心を持ってもらうのはとても難しい
自分たちの主張の正当性だけを訴えると、頭ごなし的なニュアンスがあるので
それを嫌う人もいるのは分からないでもない
だが、不自然な段取りによる理不尽な出費には自分は自然に怒りが湧き出てしまうが
この怒りはみんながみんな同じように持つわけではないことも歴然とした事実

先日の議会報告会での帰り道、以前議員さんだった方が
「◯◯さん、オンブズマンと名乗って行動したほうが良いよ」
とアドバイスがあった
少し考えたほうが良いかもしれない

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「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」を読書中

2024年01月22日 16時21分41秒 | 

読み終わっていない本を紹介するのは気がひけるが
今、夢中になっているのが「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」
ナンシー・フレイザー

時々、ワクワクしてページを進めるのがもったいないような気がする
本があるが、この本もそのような本の一つ
とても面白い

面白いというのは軽い表現すぎるかもしれない
だが間違いなくワクワクする
とても重要なことが書かれていて、それらは自分が薄々感じていたことを
見事に言語化とその実例を示しているからだ

本の最初の方に「資本主義」の新しい考え方を紹介している
利益第一の経済が機能するためには非経済的な支援が必要であり、その支援を捕食する
権限が経済に与えられた社会秩序である。
たとえば自然と非支配民から収奪した富、たとえその価値を認められたとしても
常に過小評価されるケア労働(育児や介護など)。
資本が必要としながらも削減しようとする公共財と公的権力。労働者の活力や創造力など。
これらの富はどれも企業のバランスシートには表れないが、企業の利益を追求するための前提条件だ。
資本の蓄積を支える需要な基盤であり、資本主義秩序の本質的な構成要素でもある。
したがって「資本主義」とは経済の種類ではなく、社会の問題として捉えるようにしている

つまりは、なんとなく理解している(?)資本論の考え方の商品とか価格に内蔵する労働が
持つものによる持たざるものへの(搾取)によって不公平な社会を作り出しているだけではなくて
貿易等の原料輸出国への先進国の勝手な仕切り、女性一般への不当な扱い(収奪)等こそが
資本主義という社会システムを可能にしているとしている

ここで気になったのは(搾取)と(収奪)という言葉
「搾取」は本来もらえる分を誤魔化されたりかすめ取られる状況
労働力に対する不均衡な支払いなどだが、
「収奪」はもっと酷いもので、権利も何もなく否応なく奪い取られるもので
昔の植民地における原住民との貿易の不公平さなどがある
植民地主義者の経済を回していたのはこうした収奪であったとして
つまりは社会の問題として扱わないと物事の理解は不十分としている

資本主義は社会の問題、これは当たり前のようだが
こうして真正面から扱われることはなかったようなので
これらの事例がいくつでも紹介され、自分が思っていたのは(気になっていたのは)
このことだったのか!とスッキリする場面も多い

どうも人間の作るものはどこか不完全だ
資本主義も共産主義も、、
そこに、自然法における正義感とか倫理観が存在しないと
人の世界は不毛な戦いの場だけになってしまいそう

この本はまだ3分の1くらい読んだだけ、
この先を読んで自分は何を感じるのだろうか

上手く紹介できなかったこの本、読む価値は絶対あると断言できる



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海外視察報告会

2024年01月21日 10時07分28秒 | 新城・地元に関すること

昨日、新城市庁舎で行われたイベントを見聞きしにいった
昨年秋ごろにチェコで行われた「ニューキャッスル・アライアンス会議」
に参加したユース2名、一般1名の視察報告がそれだ

ニューキャッスル・アライアンスとは「新城」と名前がつく世界の都市同士が
連携を持って何か行動を起こしたり、共通認識を持とうとするもので
言い出しっぺはなんと地元の新城市
現在参加しているのは20都市くらい(だったかな)

あまり大きな都市は環境が違いすぎるので、比較的似たような規模の都市に
声がけをしているようだ
言い出しっぺは最初「ニューキャッスル・サミット」という名で
政治的にトップ同士の関わり合いを目的としたようだが
現在は名前をサミットからアライアンスと変え
若い人、一般の人同士の交流等がメインとなっている

ニューキャッスル・アライアンス会議は2年に一度行われ、参加している都市の持ち回りで
数年前は新城市、今年はチェコの都市、次回はラトヴィアの都市となっている

「若いってことは良いなあ!」
視察報告をした高校生、大学生の話を聞いて思ったのはこのことだ
興奮気味に話す彼らは、確かに異文化での暮らしとか同世代の生き方に刺激を受けたようだ
数年前もイギリスのニュー・キャッスル(武藤が所属していたサッカーチームのある都市)に
視察した若い人たちの報告会があったが、その時も高揚感のような気持ちが現れる報告だった

報告された内容は予想されたように
英語の重要性、自分の意見を話す意志の力(英語力が力不足でも)
素早い行動を起こすことの意欲、コミュニケーションを取ろうとする気持ち
自分たちの国とか街とか歴史を知ることの重要性が
本当に身にしみて感じらたことがわかるものだった

参加した3名の渡航費用は市が負担
この人数は割当の数字ではなく、市が財政等を考慮して独自に決めた数で
参加予定者を募たところ、17名の応募があったとのこと

動画とか本とか映画で何となく見聞きして知っている様なヨーロッパの国々とか習慣
だが実際に行って生身で感じることは、その切実感が違う
そしてその強烈な印象は、もしかしたらその後の彼らの生き方すら変えてしまうかもしれない

市の税金を使って単なる会議に旅行に行くことに、抵抗感をおぼえる人がいるのは事実だが
可能性という意味において、自分はこれはもったいなくない出費と考える

海外旅行をしたことのある人は、それが単にお遊びのためだとしても
そこでの時間を過ごすうちに自然発生的に「自分の国、自分の街」との比較をしてしまう
つまり外に出るということは、凝り固まった自分の世界を広げる効果がある
ただこのショックは大きくて、必ずしもヨーロッパ等の先進国優先の価値観とはならないようだ

どこで読んだか忘れてしまったが、明治時代にヨーロッパとかアメリカを訪れた人の中には
その圧倒的な法とか秩序優先、科学優先の生き方についていけない人もいて
帰国したら途端に、日本の文化とか伝統とか生き方こそが唯一無二のものとして
いわゆる保守派(伝統主義者)になってしまった人もいたそうだ
(大半は進んだ欧米の概念とか法を取り入れるよう身にしみて感じたようだが)

自分の疾風怒濤の時代にヨーロッパを放浪した時、知らず知らず自分の国との比較をしてしまった
普段考えることない自分の国のこと、それが誰かに命令されたわけでもないのに国や街のことを考える
これは海外に行くと、きっと誰にでも起こる心理的な作用だと思われる

その変化が彼らにも起きた!と思われるような3名の報告だった
若い人にはこの経験を活かす時間がたっぷりある!
それがとても羨ましく思えるのだった

自分が感じた何か、ついつい頭ごなしにこうだと言いたくなってしまいそうになるが
彼らの感じ方は時代背景も知識も違うから、自分と同じように感じるとは限らない
結果的にいつかは自分と似たような到達点になるかもしれないが
その到達点は彼ら自身が手にするもので、教える必要もない

だが明らかに何かを感じた若い人、活かす時間がたっぷりある人に
何かを感じる機会を与えるということは、実は大人のすべきことではないかと思ったりする

大人は答えを教えるのではなく、若い人が自分で考え、行動する機会を与える
その答えが大人と違っていても無闇に口を挟まない
彼らがリアルタイムで感じていることを大事にし、なにか行動を起こすのを期待する
そうしたことも市のお金の使い方としてありだと思う
(反対する人もいるだろうし、反対の意見があることは正常な社会だとも思う)

ところで、こうした視察に出かけられた人々は、比較的恵まれた家庭の人たちを思われる
応募されていることを知る家庭、海外経験をさせる気持ちになれる家庭
言い方は悪いが、生活に切羽詰まっている家庭はこのようなことはその機会すらない

経験の機会の不公平性、そうしたものが現実には絶対存在すると思われる
「親ガチャ」の勝ち組は、これらの機会を得ることができるが、負け組は全く縁がないだろう
問題は、それで良いのか?という点
視察希望者は恵まれた家庭の人や、やる気のある人だけでなく
少し恵まれない家庭の人、物事に対する意識の低い人にも
抽選で機会を与えることも考える意味はあると思う

どんな人も、現地に行けば、自分の中のなにかが変わる
その変わることが、いつか地元にもなにかの形で戻ってくるに違いない
それなりの年齢の自分が、今の世の中とか市のことを考えていても
実際にこれから生きるのは若い人たち
その若い人たちが適切な判断をすべく機会を与えることは、無駄ではないと思う

とういことで、自分の経験を踏まえて昨日の報告会で感じたこと
それにしても、時間がたっぷりある若い人は良いなあ、、とつくづく感じる

ただし、新城市で行われている若者政策の「若者会議」については
個人的には安易に肯定できない気持ちでいるが、、

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完敗(アジア杯 イラク戦)

2024年01月20日 09時00分17秒 | サッカー

ランキングではなく、勝ったほうが強かった!
という当たり前の事実を再確認せされらたような昨日のアジアカップのイラク戦
明らかに勝ちに値するのはイラクの方だと試合途中から思わざるを得なかった

強さは戦術面、スキル面、体力面、経験、そして気持ちの面が一体となって
現れた結果だが、昨日のイラクは気合が違っていた
それが端的に現れたのがPKかと思われたシーン
一旦主審はPKを選択したが、VARで確認するとイラク選手の足が先に
ボールに触れていてノーファウルとなった

その他にも必死になって右サイドからのセンタリングを防いだシーンがあった
それは執念とも言えるプレーだった
イラク選手は後半、足のつった選手が多くいた
大歓声に煽られて普段の力以上の走りをしたためと思われる

イラクの戦い方は案外シンプルだった
大きく蹴って身長・体重を活かして競り合って、そこでこぼれたボールを奪う
美しくはないが現実的な戦い方で、最初の方は日本の選手は競り負けて後手を踏んでいた

昨日のイラクの戦い方を見て、次の日本の対戦相手はイラクのような戦い方を
選択するだろうと予想する
特に韓国と当たることになったら、韓国はフィジカル的な強さを活かして
美しくはなくても現実的な戦い方をすると思うし、自分が韓国の監督だったら
そのような作戦をとる

日本の選手は失点して焦ってたようだ
前半左サイドで浅野が抜け出した時、彼はシュートを選択したが
あれは右に走っていた伊東にセンタリングすれば得点の可能性は高かっただろう

サッカーは選手同士の相性とか組み合わせとか、監督の好みで戦い方は変わる
個人的には左サイドが南野、トップが浅野では機能するのか不安だったが
前半は彼らの出番は殆どなかった
南野は左サイドを縦に抜いていくタイプではないし
浅野はブロックを作って守っている戦いに長けた選手ではない
現在は力のある選手が多く、誰が出てもそれなりの活躍ができると言われているが
本質的な部分での個性とか選手間の相性は馬鹿にできないと思う

負け試合は犯人探しがされることが多い
選手、監督、プレーの質と選択、気持ちの強さ
それらは厳しく採点される
それらは厳しくても仕方ないことだ
イタリア、スペイン、イングランドなどの主要リーグでは
勝てば天国負ければ地獄のような扱いと評価がなされる
結局、プロの世界とはそう言うものなのだろう

昨日はワールドカップでドイツ・スペインに向った日本の戦いをイラクが行った
と言っていいかもしれない
ランキングではなく「勝ったほうが強かった!」としてふんどしを締め直すことが必要

一試合目は2失点、2試合目も2失点、狂ってしまったリズムとか流れだが
この事態を監督・選手はどう立て直すか、試合結果よりその過程の方が面白いかもしれない



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