パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

誰かの言葉を借りて自分の思いを語ると

2024年01月17日 09時11分34秒 | あれこれ考えること

パソコンの中には読んで気になった文章とかコメントが残されている
似たようなことを感じても自分の発言は説得力がないので
今日は、残しておいた中からの抜き出しをピックアップ

世の中のネトウヨと言われる人々のヒステリックな対応を
思い浮かべるのが、ル・ボンの「群衆心理」からのこの言葉

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。


次にオルテガの「大衆の反逆」から

大衆とは、みずからを、特別な理由によって、---よいとも悪いとも---評価しようとせず、自分が《みんなと同じだ》と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。

オルテガ大衆批判は辛辣を極めている。ただし彼が批判する「大衆」とはよく誤解されるように特定の階層のことではない。階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに大勢に流されるような人間たちの事を大衆と呼ぶのである。従って富裕層や支配者層に属していても、空気に左右されやすいような性格を持っているのであれば、その人間は「大衆」の一員なのである。

大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。
エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。


「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

 

フロムの「自由からの逃走」から

無力な存在を支配する力を得たいと言う欲望と並んで、圧倒的に強い力に服従し、自己を絶滅したいという欲望が存在する。大衆は繰り返し繰り返し、個人はとるに足らず問題にならないと聞かされる。個人はこの自己の無意識さを承認し、自己をより高い力のなかに解消して、この高い力の強さと栄光に参加することに誇りを感じなければならない。彼は理想主義の定義のなかで、この考えを明白に表現している。すなわち、「理想主義だけが、ひとびとに力と強さの特権を自発的に承認するようにさせ、そして人々を宇宙を形成する秩序の中かの一片の塵にさせる。


少しばかり深刻な内容なのがハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)からの部分

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

無関心層が少数者の支配を可能にしているとか、弱い庶民は強い方に帰属して安心していたいとか
大雑把に理解した思想をまるで宗教のように信じ込み、それに反対する輩に対しての攻撃的な姿勢とる
これらは、どの時代にも見られる傾向で、避けられないかもしれないが
それらを知っていることは、きっと何かの役に立つと思う

それにしても、わかりにくい文章が多いのは何故なんだろうか?

 

コメント
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