パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

蕎麦

2019年12月31日 13時34分16秒 | 徒然なるままに

大晦日といえば年越し蕎麦
昔からそうではなく我が家でそうなったのはここ10年くらいから前からだ
この地域は蕎麦よりもうどんの方が馴染みが深く
駅の立ち食いは「立ち食いうどん」のほうが通りが良かった
高校時代も帰りに豊橋駅の壺屋で食べたのはうどんの方だったように記憶している

それがいつの頃からか蕎麦を好むようになってきた
そうなると通ぶって、セイロ蕎麦で汁を少ししか漬けずに食べるようになった
それは理由のあることで蕎麦の香りとか甘みがその方が感じるからだ

蕎麦屋はいろいろなところを回った
その結果いろんなことが分かってきた
蕎麦の有名なところと言えば信州が一番に頭に浮かぶが
その他にも越前蕎麦、出雲蕎麦、会津蕎麦などが続く
でも味が微妙に違う
信州そばはセイロが一番
越前蕎麦はおろし蕎麦が良いし、出雲蕎麦は、、、なんだろう
会津蕎麦は一度しか食べていないので断言できないが歯ごたえが有ったような、、

もちろん店によって違ってこんなに簡単に一般化できないだろう
でも自分の中では、この区別は絶対に正しいと思い込んでいる
(この中では信州そばが一番好きかな)

今晩は年越し蕎麦を食べることになっているが、こんなことをしてるせいで
蕎麦屋に行きたくなってしまった
地元の蕎麦屋では豊橋の福むら、高むら、豊(移転してしまったようだが)が好き
有名どころの東京庵や信州庵は、蕎麦屋というよりは麺屋さんという感じ
豊川では玄人、つれづれ 蒲郡ではかわせみが良い
これらはみんな人に聞いて行くようになったのだが、蕎麦好きは情報を交換し合う

年の終わりに食い物の話で緊張感がないが、ま、いいか!



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興味深いサッカーのデータ

2019年12月30日 10時47分48秒 | サッカー

スペインが優勝した南アフリカでのサッカーワールドカップ
この時のデータに興味深いものがあった
(今でも印象的だったので覚えているが)
それはパスを一本もらうまでの選手の走行距離のデータで
なんと日本は出場国の中で一番長かった(よく走らなければパスはもらえない)
一方一番短いのがスペインだった(バルサ風のパスのチームだったせいもあるが)

これとは別に気になったのが、ボールを取られてから相手側の最初のパスを
成功させない確率も発表されていたが、これも先程の順位と一緒で
日本はボールを奪われてから相手にしっかりパスをさせてしまっているが
スペインはミスを誘って簡単にパスを通させないでいた

単に選手間の距離の問題だけではなさそう
一昨日のジャマイカ戦(U22)の前線からのプレスを見てこのことを思い出した
9-0で圧勝し、ゲーム的にはスリル感もなくて面白くなかったが
一つだけ、ボールを失った瞬間に相手のボールを取るという気持ちのこもった
攻撃から守備の切り替えの速さは良い点だった

いつも日本のゲームで不満なのはプレスの中途半端なこと
ブロックを作って入らせないのは良いがボールが取れない
いつもいつも取れるとは思わないが、これぞというときにはその気になって
ボール奪取を図るってのが必要と思っている

サッカー技術にはトラップ、パス、ドリブル、キック等があるが
その他にもボール奪取力という項目もあって、この部分を日本はもう少し
レベルアップしないとアカンといつも思う

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音楽について考えた

2019年12月30日 08時32分49秒 | あれこれ考えること

クラシック音楽が好きだ(特にモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー)
だがこれは一般的にイメージされるような高尚なものとはあまり思っていない
好きなのは実感として充実感を得ることができるからだ
それはサッカーの試合を見たときとか、プロレスの試合を見たときとか
夢中になって本を読んだ時と同じ感覚として捉えている

何かを感じて心の中に残っていくもの、何かを感じるというその量と強度
それらが真面目に聴いた時のクラシック音楽体験は、まるで人生体験と呼べるほどの
インパクトを持つことがある
そして一旦それを知ってしまうと何度もその快感を求めたくなってしまう

ところで、クラシック音楽は楽譜に残されたとはいえ、そこに存在しているものではない
誰かによって演奏されて初めて存在することになる
ここに少し問題があって、演奏された音楽は作曲家の思いとか意図を表現しているのか
それとも演奏家の解釈・工夫を表現しているのか不明なところがある

実体験として初めて聴く曲は演奏家の解釈とか音楽表現には関心がいかない
(演奏家の解釈の違い等は他と比べることによってわかる)
むしろ作曲家の思いとか表現したいものを全身で味わうことになる
聴いてるときは作曲家の意図とか曲の構造とかに関心が行く
問題なのは、この初めて聴く曲を誰の演奏を聴くかという点で
初めて耳にした演奏(音楽)がその人の基準となってしまう

最初のイメージは強烈で、フルトヴェングラーの指揮する第九とか
カール・リヒターの指揮するマタイ受難曲を最初に体験してしまうと
その後体験することになる演奏はこの演奏との比較になってしまう

だがこの経験をした人たちは、ある程度年齢を重ねた人たちで年々少なくなっていく
それは人間に寿命があるので仕方ないが、この自然現象の他に時代の変化による聞き手の変化もある

フルトヴェングラーやリヒターの真面目な音楽対し、別の角度から違う表現を追求して
その時代の空気にあってスマートな表現とか若々しい感じを、時代自身が求めるようになっていった
時代は深刻な何かを感じたり考えさせたりするよりは、消えてなくなる音として心地よいものを
求める様になる(あるいは別の角度からのオリジナルな解釈とか表現の競い合い)

録音・映像技術の進歩にのって全世界に確固たる地位を確保したのがカラヤン
カラヤンはフルトヴェングラーと比較の上で新鮮な面があった
そして多くの人々はカラヤンの音楽が一種標準になっていった

音楽を聴いて(体験して)体の中に残るもの
それを録音媒体を通じて経験すると、フルトヴェングラーとかリヒターのものは
現在の演奏家のものとはかなり違う
それらの音楽を聴いていたのが自分の感性豊かな時で、今はすべて過去との比較に
終止しそうなこともあるが、記憶に残っていて再度追体験したい音楽は
ズシンと何かはわからないが全体として体に残る

現在の音楽は、このニュアンスとか響きが今風だとか部分的な違いが記憶として残る
残るのはこの違いの積み重ねで、全体としてのなにかは(多分自分の年齢のせいもあるが)
あまり感じなくなっている
(今年のウィーン・フィルとベルリン・フィルのブルックナーの8番は曲というより
 両オーケストラの音色の違いが記憶に残った)

でもそれは年齢のせいなのか、それとも時代がもはやそうした全体験的な要素のある音楽(表現)を
求めていないのかはわからない

音楽は言葉ではない、感情に訴えるといわれるが、そうした情緒的なものばかりとは言えない
詩的という言葉が、感情的とか情緒的というものから独立したもので成り立つものなら
音楽は音で書かれた詩とも言える

フルトヴェングラーの曲の大づかみの把握、あの図太い音、ロマンティックな音色、忘我の瞬間
そうしたものはもはや時代遅れになりつつあるのだろうか
音楽に求めるものが、、変わってきている
仮に過去の遺物となりつつあるのなら、その遺物の偉大さを知ってるものとしては
それらを大事に扱わなければならない



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自分の考えたのと一緒だ!という実感

2019年12月29日 08時37分09秒 | 

記録をつけるとそれが心理的影響を及ぼすことがある
例えば、体重計に載って日々の変化を記録すると自然とダイエットを気にするようになるとか
家計簿をつけると節約気味になるとか(それどころかケチになる実感)
読み終えた本を書き残すと今までの読書量の記録に挑戦したくなるとか
良いことはこうした実益だけではなく、時間が経って記録を見ながら
思い出に浸ることができることもある

今年よく頑張った読書も来年はさらなる記録をと、アマゾンのほしいものリストから
年末のドタバタになって購入した

来年用に取っておこうとしたが、「マックス・ウェーバー入門」は一気読みしてしまった
社会学とか経済学が心理的・哲学的な要素が省かれたモデル化された世界で語られることへの
アンチ・テーゼがマックス・ウェーバーの真骨頂で、これは現在起きている国や市の状況を
思い浮かべるとリアルなものとして実感できた
ところどころ再読しようと印をつけたが、そこだけ読むと何故印をつけたのかわからない、、
というのが情けないが、それが自分の実力だから仕方ない

「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ)は次に向かった本で、時間については個人的にも昔から興味があった
これはあくまでも物理学者の視点からの解説で、仏教の(色即是空空即是色)の解釈学
ようなものとは違って筋道が通っていて面白い
まだ途中だが、円錐状の時間・空間の説明はこの手の本によく出てくるがイマイチよくわからない
それは仕方ないとして読む進めると、驚く部分に出くわした
それはアリストテレスの時間に対する考え方で「自然学」のなかの
「何かが動かなければ、時間は存在しない。なぜなら時間は動きの痕跡でしかないものだから」

このアリストテレスの考え方は今まで知らなかったが、昔、自分も時間について考えた時
全く同じようなことを考えたのだった
それでついウキウキして、アリストテレスとニュートンの時間についての考え方の比較の章は
読むことができた
「自分の考えたのと一緒だ!」
最近は本を読んでいると何か新しい事を知るだけでなく、このような実感を度々経験する
むしろそのほうが多いかもしれない
それが年齢を重ねるということかもしれない

ということで、大掃除も年賀状も一応終わった日曜日の朝、
心にうつりゆくよしないごとを、そこはかとなく書き留めてみた


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今年の名詞のいろいろ

2019年12月28日 18時13分20秒 | 徒然なるままに

昔のヒット曲「よこはま・たそがれ」は名詞の羅列でイメージづくりをしている

名詞の羅列で今年の自分をイメージできるかもしれない
源氏物語  几帳  宇治十帖  葵祭  斎宮  浮舟  黄櫨染御袍  笹屋伊織どら焼き
ウィーンフィル  ベルリン・フィル ブルックナー交響曲8番 エヴィータ ベートーヴェン32番のピアノ・ソナタ
プレ教育 七夕 短冊 従順  自殺行為  市民モニター・アンケート 行政裁判 真正を怠る事実
従軍慰安婦 主戦場 東京裁判 輔弼 ソロモン・アッシュの実験 世論  群集心理 マックス・ウェーバー
ケインズの美人投票 新聞記者  条例 諮問機関  作業部会   政務活動費 議会事務局  傍聴、、

パッと思いつくのがこのような言葉
お楽しみの源氏物語絡み、子どもたちの勉強の手伝い、世間の世論に対する疑問、少し関わっている市の関係のこと
現代の政治に対する不満  音楽のこと等など  

「人は食べているものからできている」と言われるが、今年自分が食べたのはこのような言葉だった

しかし数年後、果たしてこれを今思っているように覚えているか?
(案外覚えているような気もするが)



 

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嬉しかったこと

2019年12月26日 09時28分40秒 | 子どもたちのこと

自分のあちらのブログからののコピペ(嬉しい内容なので)

今年を振り返る時期になってきた
何事も無いのが良いこと!と思い込まなくても
ささやかな嬉しいことはあった

一番に思い出すのが、月木のあいさつ推進運動で仲良くなった子どもが
「遊ぼう!」と誘いに来て、そうこうするうちに地面に「おじさんの絵」
と言って、じょうろでこのような絵を描いてくれたこと


「おじさん二号」といって描いてくれたのがこれ


なんだかミロの絵みたい

これは本当に嬉しかった
消えてしまうのが勿体なくて直ぐにスマホで撮影した
そして、時々知り合いに自慢して見せたりした
(子どもたちはこんなに喜んでいることを知っていないだろうな)

これは今年3月25日の投稿で取り上げている

その他にも、近所の子と喧嘩してしまった子が「おじさんちょっと!」
と言って仲裁を頼みに来たけれど、自分は何をして良いのか判らず
結局は何もできなかったのだが、その後でその子が
「おじさんを巻き込んでしまってごめんなさい」
と書いた小さな紙切れをポストの中に入れておいてくれたことがあった
この小さな紙切れも宝物だ(大きくなったら返そうかな)

あいさつ運動の外にもボランティアで外国人を親に持つ子どもの
勉強の手伝いをしている時(毎回が戦いなのだが)
一人の少し日本語に不安がある子に集中して向かい合っていたら
同級生の男の子が自分の膝の上に座り込んで会話の邪魔をして
「僕、見てもらっていない!」と不満を口にした
その刹那、邪魔をしている彼をとても愛おしく感じたのだった

子どもたちはこうして気まぐれにちょっとだけプレゼントをくれる
そしてそれが、彼らのために頑張らねば!というよりも
気持が通じたという感覚を味わいたいために頑張れるようになる

子どもたちには、子どもらしい時期をちゃんと過ごさせてあげたいと思う
(彼らの原風景が良いものあれば、将来に判断ミスをしなくなると思いたい)


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大掃除

2019年12月25日 10時47分23秒 | 徒然なるままに

右にあったものを左に移して、何か書かれているがもう見ることはなさそうな紙類を
思い切ってゴミ箱に移動させて、積読状態の本を本棚に押し込んで
こうして自分の部屋から大掃除は始まっていく

流石に始まる前は自分の部屋ながらきれいとは言えず、ゴミ屋敷まではいかないとしても
褒められたものではない
だが、本のありかは無秩序状態でもどこにあるかは頭に中に入っているので
その位置を変えることには少し不安を覚える

毎年の行事、大掃除
毎日少しづつやっておけば、まとめて大掃除などすることはない
と今年も思い知る(少しも反省していないのは今の政権のよう?)

集中力が続くのはわずか二時間
それをすぎると飽きてくるが
部屋はゴミや本が片付いて前より広くなっている
やっぱりやった甲斐はあるものだ

日常業務の得意な命令を下すお方は、相変わらず黙々と仕事を探して体や手を動かす

毎年の同じ光景(昨日のこと)
だがフト、幸せというものはこうした当たり前の日常にあるのではないかと思ったりする
昨日あったことが今日もある
去年したことを今年もする
限られた時間の中では、時間を味わうこと自体に意味があるのかもしれない

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今年読んだ本

2019年12月23日 15時03分47秒 | 

昨日の中日新聞に各分野の著名人たちの「今年の3冊」が掲載されていた
その本が新刊に限ったものか、それとも古典まで含まれているのか注意して見なかったが
この手の情報は次に読む本の参考になったり、この人の好みは自分と似ているとか
選者にも関心が行くようになる

10月までは順調に進んでいた読書は、11月になって思いっきりブレーキが掛かってしまったが
例年に比べると、たくさん読んだ方の年に入る
そのリストは

丸がついているのが図書館から借りてきた本で、今年は図書館からもよく借りてきた

この中で読んで良かったと思うのが、瀬戸内寂聴さんの現代語訳の「源氏物語」
名前だけは有名なこの物語
読み終えることができたなら、少しは人にええカッコシイもできると、良からぬ思いも頭に浮かんだが
そうした邪念はそのうち忘れて、次に次にと物語を追っかけることになった

クライマックスは光源氏がしっぺ返しを食う「若菜」の上下
それから宇治十帖も個人的には面白かった
だが不思議なのは読み終えた頃はストーリーに関心がいったのだが、今はそれ以外の部分も面白く感じる
例えばその時代の風習とか衣装だとか光源氏のそもそものセンスとか
そういったものを読み直して実体験として味わってみようというような気持ちになる

今年の京都への日帰りの旅は源氏物語絡みが多かった
「宇治十帖」の舞台の宇治、葵祭の御所、六条院跡、夕顔の跡、野宮神社、それらはそれぞれのシーンを
思い出しながら、見るというより体験することになった
源氏物語を読んだことは今年のホームランだったと今でも思う

12月の100分de名著は「カラマーゾフの兄弟」だが、これは再読になるが以前とは全く違った楽しみ方ができた
以前は真正面な哲学論争的な部分、イワンの大審問官が説得力があるのか、
それともゾシマ長老やアリョーシャの哀れみを心に持つ姿勢が正しいのか、
あるいは行動とか直感によって判断を下していく生命力に富んだミーチャが正しいのか
といった部分が気になったが、今回読み直してみるとドストエフスキーの小説の作り方、仕掛けに驚きを覚えた
それとなく表現されていたミーチャの胸のポケットのことは、あとになるとその意味が解ってくる
おしゃべりの多い登場人物の、それゆえにこういう人はどこにでも居そうと感じさせるリアリティ
そして裁判場面のスリリングなことと世間の空気に左右されてしまう判決
こうした小説世界を作り上げる上でのテクニックが今回は興味深かった

今年は政治がらみの本も多く読んだかもしれない
今の日本の政治や市政にも疑問を感じているので、ついついそのとき時の話題になった本を
アマゾンの推奨リストの誘惑に負けて購入してしまった
その中では、マックス・ウェーバーの「職業としての政治」を読み直すことが多くて
この本は今年の一冊から外すことはできない

ということで、今年の三冊は
「源氏物語」「カラマーゾフの兄弟」「職業としての政治」が第一候補

古典ばかりでなく今を考える意味では
明石順平の「データが語る日本財政の未来」「国家の統計破壊」
NHKの番組絡みで丸山俊一氏の「欲望の資本主義1」「欲望の資本主義2」
慰安婦問題絡みで「帝国の慰安婦」「パンタレオン大尉と女たち」
戦争絡みで山崎雅弘氏の「天皇機関説事件」「戦前回帰 大日本病の再発」
加藤陽子氏の「それでも日本人は戦争を選んだ」「戦争の論理」「「昭和天皇と戦争の世紀」
それから世論に関することとか民主主義に関することでリップマンの「世論」
ギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」
ヤン・ヴェルナー・ミュラーの「試される民主主義」
などが、切実感をもって迫っていた

しかし上記の政治とか社会学の本は、大事な本かもしれないが本質的には自分の好みと違う
こうした本ばかり読んでいると心が荒んでいきそうな気がしている
そこでヘッセの「ガラス玉演技」とかリルケの「ドゥイノの悲歌」とか夏目漱石の「草枕」といった本や
適当なところを抜き出して読める「万葉集」とか「新古今和歌集」みたいなものを求めるようになってしまう

去年は三冊は確か「失われた時を求めて」プルースト(縮小版)
「朗読者」ベルンハルト・シュリンク
「法学の基礎」団藤重光
だった記憶がある

好みではないが、年々政治的とか社会学的な要素の本が増えていきそうなのは
今の時代仕方ないのかもしれない

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12月の第4日曜日

2019年12月22日 14時06分09秒 | 徒然なるままに

先週の金曜日は忘年会のピークだったんだろうか
自分たちは前日の木曜日に行ったが、飲まない人が多くて
今はそういう時代を感じさせられる

今週は世間はクリスマス一色のなると思いきや
今年はあまりザワザワした感じがしない
そういえばハロウィンもボージョレ・ヌーヴォーも田舎のここでは
拍子抜けするくらいの静けさだった

だが第4日曜の今日はちょっとだけ町がざわついていたかもしれない
新城市では第4日曜日には道路を通行止めして「軽トラック市」が行われる
自分はウォーキングを兼ねて見に行くことにしている

市役所のジャリ駐車場に車を止めて現場に向かうと市庁舎前でチラシを配っている
それで庁舎を見てみると中に人影が見える
つい好奇心が働いて入ってみた

そう言えば、クリスマスコンサートらしきものを庁舎の交流スペースで行うらしいことを思い出した
クラリネットを主体としたメンバーの演奏が聴けたが、挨拶をした女性は以前、設楽原歴史資料館で
吹奏楽のコンサートが行われた時にも曲紹介をした方だった

いつも思うのがクラリネットの音色は生で聴くとすごく魅力的に聴こえる
CDやレコードの音よりも深々として柔らかくて、高音部は過度に刺激的にならずいい音だ
ただこの会場は天井が低かったせいなのか、音が反射ししぎて少しばかり音の強弱のバカンスに困ったようだ
管楽器を小さな音で演奏するのは難しいのかな!と思ったりする
この時期の定番、山下達郎の「クリスマスイブ」の演奏を聴いて会場を後にした

軽トラック市は道路を通行止めにして行うので、これが非日常的な感覚でこの歳でも少しウキウキする
夏の夜店でも交通止めが行われるが、名古屋の栄でも、豊橋の広小路でも歩行者天国というのは
車ではなく人間が主役のようでホッとする
(そう言えばウィーンのケルントナー通りは車を見なかったような、、)

まずは一通りどんなものを売っているか確かめるための端から端まで歩く
途中でただで貰えるものを警察が配っていた
赤青黄色の信号餅がそれで、ただで貰えるものはやはり人気がある
自分も列に並んで頂いた
これで昼ごはんが節約できる

ということで帰り道は目星をつけた食品を購入することにした
「あれ、いつものひとは?」
「柿の始末が大変で今日は来れないんですよ」
毎度ありがとうございます、、の声が出る、干し柿の出店者は若い人に代わっている

端から端まで歩いても、結局は毎回同じものを買う
男は食に関しては保守的という言葉を思い出す
食堂(居酒屋)の壁にはられたメニューを全部食べてみようという試みは、大概の場合実行されす
いつも同じものを頼む

今日の町はいろいろ行事があったが、もう一箇所クリスマスイベントみたいなことをやっていた
その場所は割合近所の古民家で、以前別の人が喫茶店をやっていた時に一度訪れたことがある
確かこの古民家は昔医者だったようだ

入るやいなや少し場違いのような気持ちに襲われた
眼の前にあるものが全部女性好みっぽい
明らかに男の好む色とは違う赤やピンクや黄色などが目に入る
それで恥ずかしくなって、たいして見もせずに部屋の中に入る
でもそこでもやはり行事は女性用のもの、、
結局、すぐに退散することになった

ところで、家の入口にブロンドの髪の外国人の女性がいた
どこかで見かけて人だな、、と記憶をたどってみると
イタリアのトリエステ出身の方で、以前田口で行われたシンポジウムで
言葉を交わしたことがある方だった

最近、須賀敦子のエッセイ集「トリエステの坂道」を読んでいるので
どこか共時性のようなものを感じて、少しだけ話しをしてみた

自分も忘れていたが彼女の方も忘れていた
いつか行きたい(機会があれば)トリエステのことを聞いて
(トリエステに行くならヨットがズラッと海岸に並ぶ10月の第二週が良いとか)
それから彼女のインテリア用品の店の場所を聞いて、その古民家を後にした

12月の日曜日、町であちこち何かしている割には
静かに感じてしまうのは年齢のせいなんだろうか

 

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おばあちゃん子

2019年12月20日 18時44分03秒 | 子どもたちのこと

昨日の木曜日(12月19日)は今年最後の勉強の手伝いだった(外国人を親に持つ子供の)
このボランティアの仕切り屋さんが、この時期にふさわしく年賀状を書くようにと
子どもたちに葉書を手渡した

実は火曜日の低学年にも同じことをしたのだが、このときは大変だった
年賀状が何かわからない、、挨拶文は当然わからない
住所という言葉もわからない
宛名の先生の名前もちょいと怪しい
そしてなによりも、最初から騒いで言われたことをするのが難しい

この学年の子の落ち着きの無さは、一般的にどのくらいか判らないので対応に困る
学校で先生に何と言われるか、、と聞いてみると
「うるさい!静かにしろ」と言われるようだ
彼のその言い方で少し心配になった(何が?)

結局、「あけまして おめでとう ございます」
と書いて空きスペースは好き勝手な絵を書きなぐった

これと比べると6年生はいろいろ解っている
宛名も挨拶文も(言われたことをしているだけだが)とりあえずこなしていく
(口が動く時間が多いので時間はかかっている)
いつもケンカばかりしている男の子と女の子と先日相談に乗ってくれた少し太めの男の子が
自分の係で、最初の二人は葉書をもらって気に入ったところから書き始める
でももう一人の彼は自分の膝の上にのって彼らの様子を見ている

「あれ、Gくん、年賀状は?もらってない?書かないの?」
その刹那だった
「おばあちゃんが死んだので、、、」
眼の前の彼は急に耐えきれないように表情が崩れ、目はいきなり赤くなり、瞳が潤み始めた
そして机に顔を伏せて泣き始めた
彼の表情が崩れていく瞬間、それはほんの僅かな時間だったが、彼の表情の変化と同じくらいの速さで
自分の感情が震え、涙が出そうになった

「あっ、ごめん」
声をかけた人は謝った
自分は彼に掛ける言葉がなくて見守るだけとなった

彼はきっとおばあちゃんに大事にされたのだろう
彼もそこに応えて、おばあちゃんが大好きだったんだろう
でもその大好きな人と会えなくなってしまった
彼の中では、死という理屈は解ってもまだ感情が受け入れられない、、

しばらくの間、彼は机に顔を伏せて泣いていた
でもそれはおばあちゃんへの最高の贈り物のような気もした
彼は「おばあちゃん子」だったに違いない

自分もおばあちゃん子だった
無条件に(愛という言葉を日本人が使うのは抵抗感があるが)自分を愛していてくれた
ずっと小さな時は、おばあちゃんと一緒に寝たし、いつも見守られているような気がした
やがて体力的に逆転して自分が見守る時になっても、その存在だけで見守られているような気がしたものだった
そして今でも時々、祖母の夢を見る

こうして勉強風景だけでなく少しづつ彼らの内面を知っていくと
彼らが可愛くて仕方なくなる
そして将来幸せな生活が送れるようにと切に思う(おばあちゃんの代わりはできないが)




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