パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

官僚(職員)の答え方

2021年05月31日 10時04分46秒 | あれこれ考えること

あまり面白くもない話

オリンピックの会場運営費の委託費(人件費)が高すぎないか?
という問題が先日の国会(衆議院文部科学委員会)で追求された
(高すぎるのではないか!との指摘は毎日新聞でも報道された)

野党の質問者は委託業者と組織委員会の契約書を見せながら
この議論が誤解なくされるためには、委員会に出席している全ての議員に
この契約書の写しを配るようにしてほしいとしたが
それは与党の反対で実現されなかった(何故、それができなかったのか?)

明らかにされた人件費は常識的には高いものだった
それは1日30万円とか45万円とかの数字で
委託業務に関する別の書類に明細として記載されていた

ここでの官僚さんの答えが、「官僚さんはこういう答え方をするのか!」
と、(新城市で起きた)いろんなことを思い出した

官僚さんの言い分は、そこには人件費の項目に書いてあるが、そこには会場の管理費とか
人件費以外の項目も含まれているので決して高いものではない
また、その明細は参考のためにあるもので、最終的なものではない
と答えて、ものには言いようがあるものだとか、言葉の上だけの実態を伴わない理屈が
あの場所では通るのだろうかと少しばかり怒リを覚えたのだが
この景色は地元でも以前見た景色だった

まずは人件費とされている明細には、それ以外の項目が含まれているとする説明
これとよく似た新城市の出来事は、今も裁判ざたになっている新城名古屋直行バスの
減価償却費の項目の市職員の説明で、彼ら(職員)は

減価償却費として市に請求したのではなく、平成28年3月24日に締結した業務委託契約に基づき
通常必要な運行経費を請求したものである。
これは、新城名古屋間高速バス運行に係る業務委託料として、
本車両の故障や事故等があった場合に対応する予備車両を含めた償却費を運行経費に積算したものである

と答えている
そもそもこの問題が大ごとになったのは、当初運行していたバスが古いバスで
既に減価償却が終了しているにもかかわらず、年間相当な金額の減価償却費が請求されていて
それは不当な請求ではないのか、、という疑問がきっかけだった

その答えが、減価償却という言葉にはそれ以外のものも含んだ費用のことであると
説明していて、今回の国会の人件費以外のものも含まれるとされる説明と似ている

もう一つ、費用明細は参考にするもので最終的なものではないとする官僚さんの説明
と似ている新城市の例は、これも裁判になってしまったが
庁舎建設用地以外の移転保障費についての出来事で
問題となる用地外の土地家屋は、建設用地内にある家族の生活と一体化はしておらず
用地外の土地家屋には移転補償費を払わなくてもいいとするコンサルタント会社の
レポート(これが決定的な証拠となったが)があったのだが、
職員はそれは途中の段階の参考資料にすぎず、最終的なものではない
とひらきなおっていた
だが、ほんの3ヶ月の間にコンサルタント会社がまるっきる反対の意見を書いて提出したのは
いかにも不自然で、職員の説明は裁判においては説得力をもたなかった
その後、職員は裁判所で証人尋問がおこなわれた際には、裁判官に不信感を持たれる事になった

ただ強く感じたのは官僚であれ地方自治体の職員であれ、文書主義の人たちの言い分というものは
素人が細かく追求できないような理屈を並べて、概念上の可能性のみで議論を展開していて
(それをエリート主義と言うかもしれないが)実態を反映しない言葉だけの理屈が幅を効かせている現実は
庶民から政治とか行政への関心を奪っていることになりそうと考えてしまった
(半沢直樹風に言えば、そんな理屈は世間では通らないの一言なのに)

庶民の感覚が全て正しいとは思わないが、それでも何か常識と違うなと思えることが
上の人たちの無理筋の理屈で通っている実態を見るにつけ、
庶民も賢くならないとあかんな!と思う昨今

 

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ワクチン接種(付添)

2021年05月30日 09時25分32秒 | 徒然なるままに

新城市では5月19日にワクチン接種の予約スタート
まずは85歳以上の高齢者対象
母の分はどこの家庭と同じように本人ではなくて
インターネット予約に抵抗感のない自分が行った

一週間ほど経ってワクチン接種が始まり
昨日(5月29日)指定の時間に、集団接種会場(旧新城東高校)へでかけた
どの人も高齢なので現場までは、まだ運転できる年齢の人が連れてきたようだ

いくつかの確認するコーナーに分かれていて、少し担当者と話したかと思うと
次の場所に移動
その一つ一つが何の確認かわからなかったが、慎重に進めていることは確かだ

数回の確認を終えて、いざ摂取
かかった時間は、あっという間
あっけない程だ
それから副反応を見るための待機時間
接種後に渡された紙が白とピンクの2つに分かれて、
白は15分、ピンクは30分椅子に座って待つことになっている
さいわいこちらは15分の短い方で済んだ
(次回の接種の予定は半ば自動的に決められた)

85歳以上の人がそこにはいるのだが、その様子は千差万別だ
いかにもお年寄りとしみじみ感じるひともいれば、しゃんとしてる人もいる
大切な人は見慣れているせいか(?)しっかりしているように見える(そう思いたい)

この時期だからそこでの会話は殆どない
だがお年寄りがたくさん集まって、たくさんの人がいる時感じるような
熱気とか、あったかい感じがそこにはあったような気がした
つい、人は人と触れ合わないと、接しないとあかんな、、と思ったりした

腕が上がらなくなる人がいるとか、周りが赤くなる人がいるとか
そんな話は聞いていた
昨日はなんてことなかったが、今朝、ちょっと腕が上がりにくいと
日課のラジオ体操をしながらつぶやいた
困るほどではないが、2回目はもう少しこの傾向は強く現れるのだろうか

仕方ない、、あれもこれも完璧には人の知恵ではできない
あちらを立てればこちらが立たずで、どちらかを選ぶかはリスクの少な方への確率の問題となる

とりあえず何事もなく早く接種が終わることを願うしかない

自分の分はもう少しあとになる



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個の力(それに対する考え方)

2021年05月29日 10時16分34秒 | サッカー

ワールドカップカタール大会 アジア一次予選のミャンマー戦は
FIFAランキングをそのまま反映して10−0の大差だった
大迫は大当たりの5得点で、テレビ解説者も言ってたが、いい場所に位置取りしていた

いい場所とは、点の取り易い真ん中でゴールに近いところで、
あのメッシですらも遠い場所からのシュートよりはこの位置からのゴールが多い気がする
クリスティアーノ・ロナウドはズドンと中距離のシュートをねじ込んでしまうが
確率的にはいい場所(真ん中・近距離)からの方が良いはずだ
大五郎カットのロナウドもどちらかと言えば、あの体格を生かしてのドカンといったシュートよりは
キーパーを交わして確実にシュートの印象が強い

問題は今回大迫があの位置にいられたのは何故か?という点で
それは選手の個々の力の差がチームの差になって現れたからだと思われる
海外組の日本代表は身体の中に染み込んだヨーロッパ選手のスピードやフィジカルの経験から
アジアのこのレベルではさほどパニックにならず対応できた
そのために大迫は強いチームと戦うときほど左右に流れてチャンスをつくる作業をしなくて済む
つまりは、どんと中央にいれば他の選手がそれなりにお膳立てをしてくれるので
彼はフィニッシャーの役割を果たせば良いことになる

日本ではチームで戦うという言葉がもてはやされ、個が補えないところは数で補う
(確率としての)ことが美化される
岡崎や南野も日本では献身的な守備が評価される
だが、彼らのポジションに要求されるのは結果としての得点だ
いくら献身的に走り回ったとしても点が取れない選手は監督から見ると使いづらい
監督によっては真面目な走り回る選手が好きな人もいるが、勝利が評価対象の監督は
結局は前目のポジションでは点の取れる選手を重要視せざるをえない
走り回らなくても、試合中に消える時間が長くても、ワンチャンスを何故か決めてしまう
そういった選手が頼りになったり、彼にかけようとする気持ちはわかる

走り回った選手が得点をコンスタントに取れるか、それとも職人のようなシュートだけがうまい選手が
(ドイツのボンバーとあだ名されたゲルト・ミューラーは点を取ることは異様に上手かった)
点を取りやすいかは、なかなか難しい問題で、日本人は真面な姿を評価しやすいが
結果にこだわるヨーロッパの方では多少違う気がする

海外で戦っている選手の、そこで得た実感は「個の力のアップが必要」と答える人が多いようだ
チームのために働く犠牲心よりは、結果としての役立つ個の力
そもそも個の力が優れていなけばスタメンに起用されないからもあるが
そこにはチームとして戦うといった責任逃れの安易な言葉は通用しない

だがここからが問題だが、日本人はひたむきには動かないが、肝心なところは結果を出す選手を
受け入れるだろうかという点だ
サッカーのような点の少ないゲームでは、点を取るというそれだけで大変な才能と思われる
それは才能という言葉しか見つからないが、そうした人にありがちなちょっと変わったメンタリティを
日本人は許すことができるのだろうか?

みんなで残業をして一生懸命働いているような一体感よりは
各人がそれぞれの分野のプロとしてこなして行って、手際よく済ませた者は定時に帰る
もしかしたら変わり者と評価されやすいこの手の人を日本社会は受け入れるのだろうか

日本の社会とサッカーを照らし合わせてみると、サッカーのスタイルは国民性を現しているものだと思うが
強くなるためにはサッカーは世界標準にならなけれなならないが
日本社会も世界標準にならねばならないと思ったりする


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3.5%の閾値

2021年05月28日 10時25分52秒 | あれこれ考えること

正確に覚えていないのが情けないが、民主主義の起源のようなギリシアのポリスでは
全員が集まって話し合うのは現実的ではなく、その場にいられるのは抽選で選ばれたのだそうだ
日々の生活の細々したことは奴隷が行っているので、のんびりした生活ができて
少しばかり抽象的な政治の話をする余裕が市民にはあったようだ
でも抽選に当たった人の中には、面倒くさい!と感じる人もいたのではないか
みんながみんな意識高い系でいられるのは、現実的ではないと思われる

最近読んだ「人新世の資本論」(齋藤幸平)の中にフランスで行われた「気候市民会議」
のことが紹介されていた
それは150人の市民が集まって温室ガスの削減等について議論を交わしたのだが
何よりも参加する市民の選び方が興味深かった
それは選挙ではなく、くじ引きで選ばれたのだ
と言っても完全にランダムというわけではなく、年齢、性別、学歴、居住地など
実際の国民の構成になるように調整された
そうすると環境問題に意識高い系ばかりでなく、横着な人も一定数いることになる
(流石に150人の中にはいないかもしれないいが、いたほうが実態を現していそう)

もっとも関心のない人が一定数いるとしても、何も知らない状態で議論を進めるのは
現実的ではないので最初は専門家からのレクチャーが行われたようだ
(専門家の説明の方向性が気になるが)

世の中はこうるべき!と理屈(理想)で思っても、現実世界では全員がそんな風に思ったり
行動することはありえない(環境問題に対する意識とか政治に対する意識とか)
時が経ち、多くの人が理想を当たり前のように感じるようになるとしても、初期の段階では
無関心だったり、傍観者が多いことは容易に想像がつく

物事に社会的な変化を起こす数字は、3.5%だそうだ
何かを訴える人々がいて、その数が全体の3.5%を超えるとその運動は一気に広がりをもつらしい
これはイノベーター理論っぽくて、新商品をすぐに手に入れる人(イノベーター)
それを追いかける人、広がったのを見て手に入れる人、、、、と説明される
(これはスマホの普及の際がそうだったような気がする)
つまりは正規分布の左側の層が、ある閾値(3.5%)を超えると運動や考え方は
誰にでも当たり前の事柄として認識されるようになりそうということだ

新城市では、地域自治区やら若者議会やら女性議会やら福祉円卓会議やら
市長選候補者による公開討論会条例やら、外形的な制度は揃っている(かもしれない)
だがこれらの理解に、この閾値(3.5%)が現実に超えているかどうかを想像すると
かなり心もとない気がしてならない

多くの人々は、代表制民主主義を自分たちが楽ちんだから支持しているのではないか
自分たちが費やす時間の代わりを、自分たちが選んだ人たちに任せる
選ばれた人(議員)は、自分の選択はみんなの選択の現れとして判断を行う
でも彼らの判断は本当に市民の思いの縮図を表現したものか?

これをチェックしなければ、結局物事は少数者の言いなりになってしまう
だが、ここでまた問題が出てくる
彼らをチェックしようとする人々は3.5%の閾値を超えて存在するか、、

でも嘆いていても仕方ない、できることからやるしかない
さて何をすべきか、、


 

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リコールの署名数

2021年05月26日 19時53分45秒 | あれこれ考えること

地元新城市の隣の東栄町では、町長リコールの運動が展開され
先月末に必要署名数の906筆を上回る969筆(当事者調べ)が選挙管理委員会に提出された

選管の確認作業も終わり、有効とされるものは956筆とされたが、これからが署名の縦覧期間だ
この縦覧は署名したにもかかわらずハネられたり、書いた覚えがないのに署名されている
といったものを当事者が確認するためのものだ
この東栄町のリコール運動は、例の高須克弥氏と河村名古屋市長が中心となった愛知県知事リコールと
少し関連している

それは維新やネトウヨとの関係ではなくて、まったくもって情けない話がきっかけとなっている
東栄町では今まで町営病院で行われていた人工透析が経費等の関係で他地区に依存するようになった
それに困った人たちが、存続するように署名活動を行った
この署名活動に対して現町長が、情けないチラシを折り込んだのだ(ポスティングした)
そこには「本当にあなたが署名しましたか?」
とあの高須克弥氏等が行った不正署名を匂わせるような内容のものだった

これにカチンと来たのは真面目に取り組んできた人たちで、勢い町長リコールの流れになってしまったのだ
人工透析継続の署名活動をしていた人を知っているが、透析維持ができない経営上の困難も想像がつくので
誰かが嫌われてもどちらかに決めるしかない、、と思っていて、それは当事者でしか決められないと思っていた
それがこのような形になるとは、残念なことだ

このどちらが良いか(継続か他地区依存か)とか、町長の選択になるのは政治的な要素で
事情をよく知らない者がとやかく口を挟むのは憚られるので個人としての意見の表明は抑えることにする

ただ気になるのは、有効署名数のことで、通常真面目にリコール運動をすれば
選管でハネられる数や確率は、あの愛知県知事のような数にはならない
実際に自分たちも経験した市長リコールのときも、無効数の確率は巷で想定されている中に収まった
このときは必要数には達しなかったので(必要数は14000ほど、集まったのは9000ほど)
選管が知らべるまでに至らなかったがリコール反対を訴えた人(議員)の中には、
リコール運動をした人の発表した数字は正しいのか、不正の署名が多く紛れ込んでいたのではないか?
と人々に暗示するような発言やらを行った
(この議員は何かと問題の多い議員で、新城市の地域自治区の活動交付金事業において
  費用弁済の実績がない領収証を用いて市から受領したことがあった
 この事実が明らかになって、交付金の返却が要求され、さらに政治倫理審査会が開かれ
 議員辞職の勧告という状況なまでなってしまった)

つまりは、いろいろあっても、真面目にリコール運動をすれば当事者たちは
何よりも日々の署名数が気になって、目標に今いくつ足りないか、、
どうすれば増やすことができるか、とかを話し合うのがごく自然で
愛知県知事リコールのように代表者が署名数(実数)を知らなかったというのは、
経験上とても信じられない

愛知県知事のリコールは不正署名ばかりが話題になっているが、ちゃんと署名されたのは
43万筆の2割の8万ちょっと、つまり必要数の10分の1にしかならない
そもそもこのような数字になるということを、運動をしようとした人は想像もしなかったのか
いわゆる市場調査もしないで無謀に突っ走ったのか?

実は一番の頭にきているのはこのことで、リコール運動が世間に受け入れられるか否かは
とても深刻な問題で、自分たちはしない方が良い、いやすべきだとの意見交換が何度も行われた
このとき運動をすすめる根拠としたのは受任者数で、想定した数以上ならばそれなりの支持は得られる
と判断したのだった

それと比べると、あの愛知県知事のリコールは勢いとか気合だけで、空回りどころか、全く支持されていない
メディアの報道がなかったからだとか、リコール陣営は言っているが、そんなものではない
実際のところ、我が市で行われた愛知県知事リコールの署名活動はまったくもって活気のないもので
あれで必要数に達すると思うほうが変だ

大きなことを言うのは勝手だが、それを言ったためにおかしなことになる、、
というのは、よくあることであることで、それなりの立場の人間は気をつけねばならないのに、、、

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人の一生

2021年05月25日 09時04分23秒 | 徒然なるままに

ライオンの身体と人間の顔をもったスフィンクスは旅人に
「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足は何だ?」
と問いかけ、答えられない者を食べてしまったとの話がある

不幸な運命を背負った男(エディプス)は「人間」と答えて難を逃れた
赤ちゃん時代はハイハイで4本足、成人になると2本足、
そして老人になると杖が必要になって3本足になることから
人間の一生を現していると答えたのだ

先日偶然見かけた、こうした一生を面白く表現したものに次のようなものがある
赤ちゃん時代は今(現在)ばかり、
子どもから青年時代は未来ばかり(夢ばかり語る)
壮年時代は未来と過去が同居して
老人になると過去ばかり(思い出に浸るばかり)
最後は今(現在)ばかり(病気で臥せっていたりすると今しか存在しないかのよう)

なるほど、これも面白い
で関心となるのは、自分が今どの位置にいるのか?という点だ
残念ながら未来が果てしなくあるというわけにはいかない
出不精になった今は、山も海外も行った後の疲れを思うと気がすすまない
と言って過去ばかりに浸るのはまだ早い!と思い込もうとしている
(いずれそうなったとしても、今はまだいい)

今の気分としては、若い人には嫌われそうだが、「こうした方が良いよ!」
とアドバイス(説教)したがっている気がする
その気持は年々大きくなっているかもしれない
この気持ちも年齢の為せる技か、、、

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「神の見えざる手」には前提がある

2021年05月24日 10時55分04秒 | Weblog

有名なアダム・スミスの「神の見えざる手」は、少し誤解されて引用されていることが多いそうだ
需要と供給側が釣り合った時点で適切な価格が決められて、それはまるで人以外のなにかの力が
働いているかのように思えるから「神の見えざる手」と表現したらしいが、、、
よく引用されるのは、市場に任せておけば、適切な自動的な調整弁が働いてうまくいく
という説明に使われる
アダム・スミスが「国富論」の中でこの話をもってきた時、それには前提があるとしている
それは道徳とか共感とか同情とか、、そう言ったものを多くの人がもっているとすれば
と限定条件をつけているらしい
それは「国富論」の前に「道徳感情論」という著作を残していることから、道徳とか共感とかを
彼は欠くことができないものとしている

数値化できないために少しばかり曖昧な概念である共感とか道徳は、客観化できないが故に
効率優先の社会では居場所が見つけられないでいる
こうした傾向に拍車をかけているのが、現在の社会ではないか、、
と薄々感じるようになった人が増えつつあるとすれば、それはなんとなく腑に落ちる

いま日本に住む自分たちが生きているのは資本主義社会、民主主義社会とされている
そしてそれは当たり前に存在しているように思えるが、必然的に生まれてしまう弱者や
頑張れない人たちを見てしまうと、そもそも今の社会は適切なものだろうか
と考えてしまうことが最近の個人的な傾向だ

日本では疑問視されない資本主義がそもそも適切なものか?
現在を享受していても、この問は消し去ることはできない

話は変わって、アメリカのZ世代(1900年後半から2000年代に生まれた世代)の人々は
資本主義に肯定的が45%  社会主義に肯定的51%
と調査結果が出ていて、資本主義の本家のような国でも資本主義が万能だとは思っていないらしい
それはこの世代の人たちが現実に格差等の被害を受けて、明るい未来や展望も見られなくなっているから
と解説されている

それは日本でも同じではないか、、と想像するが、何故か日本はそうではないらしい
日本の社会の格差や不平等がそこまで(アメリカほどには)至ってないからなのか
それとも、見て見ぬ振りをしているのか、いつかは我がことと想像することができないのか
あるいは社会主義が無条件に唾棄すべきものとしての認識しかないからなのか

少し前に反知性主義のことを取り上げたが、よく考えると自然に浮かぶ「そもそもの前提を疑う」
(資本主義を疑う)といった思考法は、この国ではなかなかできにくいのだろうか

昨今のオリンピックに絡む報道を見ていると、現在の社会は資本主義のあるいは商業主義の暴走のもとに
成り立っているのではないか、、と思えてしまう
開催か中止か、この難しい選択を行うのは、自分たちが選挙で選んだ人たちだ(IOCに決定権があるというものの)

だが、その選ばれた人たちは、我々の代弁者か、、
庶民の近視眼的な意志が必ずしも正しいとは思わないが、それでも直感的に感じる不安とか選択の良し悪しは
なんとでも言いようのある説明よりは納得が行くような気もする

そうなると、長所短所を含めて、そもそもの代表制民主主義、直接制民主主義の意義とかあるべき姿を
考え求めなければならないと思うが、この問題は意識高い系の人の専門的な問題になってしまって
万人の問題とならない、、、

一体どうすれば良いのか、、、ストレスが溜まりそう、、、

 

 

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自分で解決するしかない!

2021年05月23日 10時28分34秒 | あれこれ考えること

メッシの所属するFCバルセロナには当然のことながら
育成を目的としたジュニアコース・ユースコースがある
そこに入るだけで大変なことだが、どうやら一年ごとに進級できるかどうか
判定されて、何人かはそれより先に進めないことになっている

ショックを受けるのはその宣告をされた選手で、それまではサッカーが全て!
と、気持ちも時間も費やしてきたものが無駄に終わるのは
外から想像するだけでしんどいものと思われる

そうした精神的な問題に対処するために、あるスタアッフは
「サッカーだけが人生ではない」と常々教えているそうだ
そうは言われても「そうですか」と簡単に切り替えられるとは思わないし
そのような人は最初から上に行く資格はなかったかもしれない

でも、綺麗事におもえるこのスタッフも真実の一つは伝えている
「〇〇だけが人生ではない」
それは間違いのない現実だ
〇〇が非情に結果で選別される場合、当人は自分自身で気持ちと折り合いをつけなければならない
結局のところ、気持ちとの折り合いをつけてその先どのような生き方をするのかは
全て個人が選択せざるをえない
高度な環境でサッカーができなくても太陽はいつものように昇り、友人や家族はルーティンのような
生活を続けている
今は惨めに思えても、これからの時間のほうが圧倒的に長いとすれば、どうやって自分との折り合いをつけるか
それは本当の自分との戦いなのかもしれない

池江璃花子さんがブランクを乗り越えてリレーの選手に選ばれた
それは劇的なニュースであり、それに至るまでも壮絶な努力も想像できる
しかし、着順で結果が出るこの世界には彼女に破れた選手がいる
破れた選手も必死に努力し、人生をかけるくらいの気持ちで取り組んでいたに違いない
だが、ブランクを乗り越えたハンディキャップがあるはずの彼女に負けた

ニュースは池江璃花子さんの視点ばかりで報道するが、破れた側は理不尽な思いを募らせる
才能(努力があるとしても)ちょっとやそっとの努力ではおいつけないもの
それは確かに不公平(理不尽)に存在する
悲しいことにそれは多分戦った選手が実感として一番感じうるものだろう

〇〇の分野で壮絶な才能があるとしても、それで人生が幸せなわけじゃない
こうした自分を納得させる言い分は、長い時間をかけて十字架として自分自身で解決するしかないだろう

今回のコロナ禍の中でのオリンピックについて、人生をかけてきた人たちの努力や思いを考えると
中止すべきだと言えるのか、、、との声がある
一番のトラブルの原因は、安心安全な大会への気持ちばかり優先して、具体的な機械的なシステムとして
どのように実現されうるかを明らかにしない関係者たちの無責任ぶりだが、
現実的には、そして人道的にも今回は無理だと思わざるを得ない

いきなり、今までの努力が無駄になったと、放り出される形になる選手たちは、、どうなる、、

でも、それは冷たい言い方だが、それは選手個人の中で折り合いをつけていくしかない
人はなり小なり、乗り越えていくしかないものを経験する
それが長期に渡るか短期に終わるかわからないが、解決したらまた新たな問題が現れる
生きている時間とはそういうものだ、、と今は思う

それにしても、今回のオリンピックほど資本主義(商業主義)とか代表制民主主義について
考えさせられることはなかった(いつまで経っても、もやもや感が拭えない)


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サッカーのキャプテンは、どのポジションの人が多いか?

2021年05月21日 10時01分41秒 | サッカー

サッカーにおいて、キャプテンはどのポジションの選手が多いか?
をチェックすると、多くは後ろ目のポジションの人が多い
センターバックとかボランチがどの国でも多いようだ

これはポジション別の選手の性格を想像すると納得がいく
プレーにおいて後ろの選手は、前で起きていることを冷静に眺め
次に起きそうなことに対処すべく行動を起こす(位置の変更とか声をかけるとか)
彼のポジションはミスがないことが要求される

FWの選手が何回もミスっても、たった一回のチャンスをものにすれば英雄視される
のと比べると大きな違いだ
積極的な守備があるとしても、基本的には守備は対処だ
ボールを動かされて、体力の消耗をさせられて、それでも集中力を切らさずに
黙々と自分のプレーを続ける
まるでマゾっ気の多いようなポジションだが、やる方はこれが(予想する、読むのが)
結構楽しいと感じたり充実感を覚えている

この後ろのポジションの人にFWのポジションをさせてみると(コーチ時代に子どもにやらせたが)
彼はプレーが守りのような対処ではなくて、自らが広大な前の空間をどのように開拓していくか
が要求されるので、何をどうしたら良いかわからないとこぼした

一方FW志向の選手は、自分が何をやっても許されるので嬉しくて仕方がない
大きくなって、また強くなればなるほど攻めも決まりが多くなって、子供時代ほど自由ではないが
それでも肝心な時はひらめきに似た感性が要求される
先程の反対で、FWの選手にDFのポジションをやらせると、小学生のレベルではボールのある方につられ動いてしまい
イライラを募らせることになった

人にはいろんな性格があって、いい組み合わせがいいチームをつくることになるが
これをまとめるのは直感的なひらめきをするタイプより、我慢強い分析的な考えをする人のほうが信用されやすい
ポジション別性格は、FWは目立ちたりがりや、バンドならヴォーカル的な人
MF,DFは温厚で冷静なタイプが多い気がする(闘莉王とか柱谷という例外もいたが)

今の日本は、(サッカーにおける)先を読んで適切な対処ができて
しかも怒らないキャプテンのような性格の人材が求められすぎていないだろうか
先が読めない時は、先を自らが作っていくちょいと自由すぎる性格の人が必要だと思うが
このタイプを許容する雰囲気があまりにも欠けていないか

韓国の良いFW(最近はソンフンミン)が生まれるにの対し、
日本は責任が余り問われることのないMFに良い選手が多いのは、偶然ではないような気がしている



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主権者のいない国

2021年05月20日 10時11分33秒 | 

図書館から借りて一気読みした「主権者のいない国」白井聡著

どの立場から書かれた本かといえば、SNSで「反日!」とあの界隈の人々から
猛烈な批判の嵐が起きそうな内容の本だ
一方、この方と立場を同じくする自分にとっては、怒り、焦燥、不安、絶望感
そうしたものが我がことのようにリアリティーを持って感じられる本だった

本の最後に日本の特殊性を現したエピソードが書かれている
政府のコロナ対策に対する評価は、先進国の中では最低となっている
このような緊急事態には、普通はどの国も政府の支持率は上昇する
それは現実的な対処は政府に任せるしかないし、それを信用せざるを得ないからだと思われる
しかし、日本はそうはならなかった
このような一般人の政府の信頼度の低さは、平時においても各種アンケートにも見られる
つまり日本は国家権力に対して不満を持っており懐疑的に見ている人が多い
ところが、「政権も政府もダメだ」と思っているにもかかわらず、選挙になるとその反対の投票行動が明らかになる
著者は、それを2009年の政権交代の失望からと理由づけするにはあまりにも表面的すぎるとし
この問題を根本から考えなければならないとする

安倍さんが神妙な顔をして辞意を表明した頃は世間の風当たりは強く「もう引っ込め、このバカ野郎」
という雰囲気になっていたが、会見の後になると「難病に耐えながら長い間激務を務めてくれてありがとう」
と雰囲気は一気に変わった
それは安倍さん側の、ものすごくうまい対処方法(参謀は誰だったか?)のおかげで、退陣が決まったあとの
政権支持率上昇を果たしている
だが、それは戦略の旨さ、空気のコントロールの技術で説明できてしまうことなのか
もしかしたら、日本人は自身を主権者と考えることができていないのでないか?
と著者は考える

ここからの考察は社会的な観点からだけでなく、個人の内的体験、意識に深く関わる事柄となり
最近軽視されがちな教養とかリベラルアーツの分野の関係してくる
人は社会との関係、人との関係において様々な経験をして、より良い人間性を完成していくと
された理想主義が、たとえ建前主義であったとしても、かつてはそれで通用していたものが
いつの間にか、本音(自制することのない)の大きな力に振り回されているとしている

いくつかの章にわかれたこの本で強く興味を持ったのが、「反知性主義」を扱った部分だ
最近よく聞く、反知性主義だがその定義は
知的な生き方およびそれを代表されるという人々に対する憤りと疑惑
とされている
ここで問題は、
反知性主義とは積極的に攻撃的な原理であるということだ
それは知的な事柄に対して無関心であったり、知性が不在であったりするということ、言いかえれば、非知性的であることとは異なるのである
知的な事柄に対して単に無関心なのではなく、知性の本質的な意味での働きに対して侮蔑的で攻撃的な態度を取ることに反知性主義の核心は見出される。

つまりは一部の人の間には、知識人と見える人(エリート、学者など)に対しての嫌悪感がそこにあり
それを言葉に出したり、行動することで(多分)自己を守る、あるいは仕返し(ルサンチマン)の気持ちになれるとしている
その心理は

「〇〇が私より知的に見えるのは、知的な振りをしているからである」という思考において、
「〇〇が私より優れているから」という可能性があらかじめ排除する。
そして客観的事実促されて「〇〇」の知的優位を「私」が認めざるを得なくなったとき、
それでもなお「平等」を維持するためには「知的な事柄全体が本当は役に立たない余計なものに過ぎない」
という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。

つまりは全否定からスタートする
ここでは全否定と言うより否認という言葉を用い、その存在(価値)すら認めないメンタリティになっているとする

こうした考えは、最近のSNS(ツイッター)の奇妙な投稿を見たりすると、まさにその通りだと思う

この本は借りた本だが、購入して手元において何度も読み返した方が良いかもしれない
いろいろ教えられたり、考えたりする部分が多い

 



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