パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「責任と判断」{付箋部分の拾い読み)

2020年03月30日 10時38分48秒 | あれこれ考えること

尿路結石は良くなったと思ったら、時々薬を飲まないと
そのことが気になって仕方ない状態
以前ほどではないというものの、ちょいと憂鬱

気力も低下しがちでぼんやりしているが、それでも今、気になって仕方ないのは
官僚さんは上司の命令に何故従ってしまうのか、、という点
(普通に考えるとすべきでないことも)

法令的に、職務上の上司の命令に従わなければならないとの決まりがあるからか
とかマックス・ウェーバーの著作でいろいろ解説されているが
読んだときはわかった気になれても、感情にストンと納得できないままでいる

それで再読し始めたのがハンナ・アーレントの「責任と判断」
といっても長いセンテンスで気楽に読めるたぐいではないので
前回付箋を付けておいたところを読み返している

すると「個人」とか「道徳心」とかの概念がとても重要なキーワードとなっている
「自分は歯車に過ぎない。自分がしなかったら他の誰かが行う。
  自分が行わなかったら自分が殺される。
 その境遇になったことのない人が果たして自分を裁けるのか?」
これらはアイヒマンが訴えた点で、そのような考え方を当然のことながらアーレントは批判している
「どのような理由で歯車でいることを受け入れたのか?
  良心はどうなったのか?良心は何故機能しなかったのか?」

この良心につながる道徳心は一種の義務の感覚
この感覚はどこからきているのか、、と精緻に考察されていく
すると明らかに当然のこととされていることに「自分の中のもうひとり」の概念がある
社会とは「人と人との関係」だけでなく「自分の中のもうひとりの自分との関係」
とまで言い切っている
この「もう一人の声」が道徳心とか良心に通じるもので、最近読んだ
「戦場のピアニストを救ったドイツ国防軍将校」のヴィレム・ホーゼンフェルトとか
週刊文春で明らかにされた赤木さんは「内側から起き上がってくるこのもう一人の声」
に従った、、、ということになりそうと勝手に思っている

現在の官僚さんの姿を中継で見る限りは、この内的な自分の声を聞いている印象は
持つことができない
感じられるのは「自分の利益に向かって活動する経済活動」のような
それ故に行動すら計算によって予測されそうな、それは果たして自由な人間か
と思わせるような、、パターン化された人間像

でも、道徳心とか、良心とか、内的な自分の声を聞いている人物は
確率的には絶対にいるはず
問題はそういう人たちが、いつになったら声を上げるか、、ということ
そして思うに、そういう人たちは一次資料となる文書をきっと残しているだろう
それが「自分との関係の折り合い」に違いない、、と思ってしまう

それにしても、アーレントは深い、、、
 


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戦場のピアニストを救ったドイツ軍将校

2020年03月27日 19時35分18秒 | 

やはり同じ様に感じていた人はいたようだ
何年か前、映画「戦場のピアニスト」を見た時に気になって仕方なかったシーンが有った
それは映画の最後あたりで、隠れていたシュピルマン(ピアニスト)を見つけたドイツ軍将校が
彼を捕獲するのはなく、ピアノを聴かせてくれと依頼して
それを聴き終わったドイツ人将校は、そのうちに救助が来るからと告げて去っていったシーンだ

映画が終わったあと、あのドイツ軍将校はどうなったのだろう、、
と気になって仕方なかった
それが今の今まで続いていたが、図書館でこんな本を見つけた

この本の訳者もあの映画のシーン(や彼の人生・その後)が
「喉に刺さった骨」のように心に引っかかっていたようだ

よくこんな本が図書館にあったな、、と思いつつ
コロナ対策で閉館中の図書館から借りてきた

気になる彼の名前は「ヴィルム・ホーゼンフェルト」
カソリックの信仰がベースにあるごく普通の立場の人間
その彼が歴史資料としてよく言われる「一次資料」なる手紙を
膨大な量残している
それは奥さんとの手紙のやり取りで、家族間のこともあれば
目前で起きている事態(残虐な行い)の報告やそれに対する嫌悪感
そして一人の人間として行ってきたことなどが書かれている
(ポーランド人・ユダヤ人の救出など)

手紙は深刻なものばかりではない
休暇で奥さんの元に帰ったときなどは、自然の中でホッとするところや
夫婦が会えないがゆえに互いに異性関係ができてしまわないか、、と不安に
思うところなどは、、ごく日常的であるがゆえに、同時に起きている
ドイツ軍のおぞましい行いが際立ってくる

この人の内面の変化、最初はヒトラーを否定はしていなかったのが
徐々に目前で行われていることを見るにつれ批判的に見るようになる
そして、ユダヤ人やポーランド人を(身内には)わからないように人道的に
(死から)救うような行為にいたる

そして威張りくさった態度でポーランド人やユダヤ人に相対するのではなく
人が人として向かうべき態度で、、最初から最後まで(それは彼の生き方として)実践される

フト、読んでて自分はこの立場になったなら、このようにできただろうか、、
気持ちやあるべき姿は理解できるが、果たしてできるかといえば、
正直なところとても自信が持てない
そうなると考えるのは、彼はその生き方のバックボーンに一体何があったのだろうか
ということになる
彼はカソリックの信仰が生き方に影響していたようだ
このカソリック(キリスト教)の信仰(の影響)は白バラ通信のショル兄妹にも共通することで
一神教はとかく争いを招きやすいと言われるが、このような人類愛に満ちた行動を導くのも
これまた事実のようだ

ユダヤ人の虐殺にローマカソリックは何もできなかった
との批判もある一方で、このような小市民の勇気ある行動もあるという現実
宗教は何をなしうるか、、、少し考えてしまう
一時期日本では実質的に無宗教だが、新渡戸稲造は日本には「武士道」があると
書いていたが、なんか少しばかり説得力のないものに思えてきた

歴史にはこうした表に出ることのない資料が必要だ
読んでいて連想したもう一つは、週刊文春で特集された赤木さんの詳細な手記のこと
これがあるとないでは後の歴史の検証が全く違ってくる
現時点では政権の都合でまともに扱ってもらえなくても、未来の一時期には
きっと重要な資料となるに違いない
赤木さんは少し意識して、ホーゼンフェルトは無意識に重要な資料を残した
時間はまるで意志があるかのように、その時々に少しだけヒントを与える
重要な資料を見つけるか、眠ったままになるか、、、

ホーゼンフェルトは普通の人格者で、シンドラーとか杉原千畝のような
ものすごいことをしたわけではない
だが、彼の行いを知ることは、、「人は生きるに値するか?」
とカミュがシーシュポスの神話で問うたことに
明らかに「是」の答えを出すべきだと思えてくる

まだいろいろあるが、とりあえず、、、

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情報の鵜呑みには注意を(「議会報告」に書かれたことの実態は)

2020年03月26日 10時38分36秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市の話題
少し頭にきたことがあったので、あちらのをここでも以下にコピペで、、

新コロナウィルス騒動で大変な時期だが、それとは関係のない少し面倒な話
でもこれも個人的には新城市の大事な話だと思っている

国会中継を生で見た人とニュース番組だけでその内容を知る人では
感じ方は大分違うと思われる
現実に我が家のお歳を召した偉い方も、国会中継を見てポツリと口から出たのは
真面目に話を聞こうとしない答弁側の人への批判だった

市議会でも同様なことがあるに違いない
文書化された議会の広報誌だけではわからないことは、その現場では沢山ある
一番いいのは傍聴に出かけて自分が何を感じるか確かめることだが
現実的には時間に余裕のある人ばかりではないので、広報誌に頼らざるを得ないのは仕方ない

議会が主体となって各戸に配布される広報誌とは別に、議員は「議会報告」なる印刷物を
新聞折込をすることができる
ところが、この「個人の議会報告は必ずしも正確な情報ばかりではない」ことがある
まして現在のように議員間に少しばかり怪しい緊張関係がある場合は
意図的に何かを匂わせるような表現の仕方をしているところが見られる

今朝、ある議員の「議会報告」の印刷物が折り込まれた(長篠・設楽原市議会通信)
この議員の前回の「議会報告」の印刷物にもあったが、浅谷地区の養鶏場を市が買い上げる件について
この議案に反対した議員4名の名前が列挙されいた
この部分だけ読むと、従来から悪臭とコバエの発生により地元から苦情が出ていたことが
市の買上げによってクリアできる様になった
にもかかわらず、反対している不届きな議員が4名いる
とのニュアンスを感じる

ところが、現場で傍聴していると現実は大分違う
その一番大きな点は、この4名は「買上げに反対をしているわけではない」という点だ
4名が反対しているのは、この事案の進め方が突然の臨時議会でいきなり債務保証という手続きをとって
その後の定例会ですぐに買い上げの議決を迫るやり方に対して疑問を感じているので
もう少し時間をかけて(間に合うのだから)ほしいという意味での反対意志だ

この件の奇妙な点とは、買上げ金額の正当性を担保する不動産鑑定士との契約が
臨時議会で債務保証が議決されたその日に行われ
不動産鑑定にかかる期間も妙に短時間(長期連休があったにもかかわらず)で行われ
しかも価格の比較となる土地が新城市内ではなく豊橋市(豊川市?)であったこと
(これを聞いた人はみんな「なんで?」と声を発する)
対象となる土地の面積に若干の数字の違いが見られること、
更に問題となる鶏糞の処分はどの様に行われるのか、それは安全なものか
工業団地としての購入としているがその計画はどのようなものか
その整地のためにかかる費用はどのくらいか
また仮契約においても通常の契約とは違うような先方に有利過ぎるようなところも見られるので
この際、もう少し丁寧に審議したほうが良く、次回の定例会で議決したほうが良いのではないか、、、
との趣旨の討論を行っている

これを見ると、好き嫌いはあるとしても、どちらが丁寧な議員活動をしているか
よく分かると思われる
ちなみに印刷物で戦犯扱いされた4人(山口・浅尾・澤田・山田議員)は
直近の定例会の予算・決算委員会でも分厚い資料を読み込んで質疑を行っている

一方この印刷物の発行者は、前回の選挙で当選以来ずっと一般質問は行っていなかった
それがやっとのこと今回一般質問をしたのだが、そこでは
「久しぶりなので、、、、」と自分の頭をかくシーンがあった

以前の投稿で情報の不公平を嘆いたことがあったが、それに関連することになるが
市政に関心のある仲間は情報提供として広報誌を作成している
ところが、この広報誌は新聞折り込みができない
(政治的なニュアンスのあるものは不可のようで)
ところが、議員には「議会報告」という形でこのような一方的な情報を伝えることができる

いたずらに対立を煽ったり、誰かを批判するつもりはなく
ただ現在起きていることを、ちょいと市民目線で批判的に捉えて報告できれば
結局はみんなのためになるだろうと思っていても
それがなかなかできないもどかしさは、つい諦めにまで至ってしまいそうになる
(でもしつこいから、、諦めないが)

ところで、市議会議員(全員ではない)には批判的な自分たちだが
他の人たちは市議会議員に対してどの様に思っているかがわかる資料がある
それは「特別職報酬等審議会議事録」で、議員さんの報酬について
アップしたほうが良いか現状維持がふさわしいかを話し合う会議の記録だ
ここには
「議員については最近問題が多すぎると感じている。もう少ししっかり働いていただきたい」
「議員については市民の意見交換の場が少なく、市民の意見を取り入れていないという面も
 あると思う」

とある
やはり同じような印象を持たれているものと思われる

それにしても、情報はある程度自分の方から働きかけて取り寄せないと
ちゃんとしたものは手に入らない世の中なのだと実感するこの頃
(情報の鵜呑みには気をつけなくては!)

 

 

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「経済学と倫理学」を読んで連想したこと

2020年03月25日 08時28分38秒 | 

最近、理解できるかどうかが不確かでも小難しい本を読んでいる
少し前はフーコーの「監獄の誕生」「処罰社会」
確かにわからないことが多いが、それでも簡単に読み飛ばせる本を読んでいる時よりは
充実感があるような気がして、つまりはより強い刺激を求めて、更に更にと求めてしまう
(読書にブレーキが掛かったときはお気楽なミステリーは良いアクセル役になる)

昨日読み終えたのがアマルティア・センの「経済学と倫理学」

世の中には知らない事が多い
この本に出てくる「厚生経済学」「パレート最適」などは初めて目にする言葉で
経済学を習ったことのある人には、知ってて当然のことでも素人はいちいち「厚生経済学」
をネットで調べて、わかったような気になって本を読む進めることになる

相変わらずの消化不良だったが、読んでいて納得できたのは多分この人が一番言いたかったことで
経済学の工学的アプローチ優先の姿勢は、人間は自己利益の追求を単純にモデル化しているので
それだけでは人間社会はカバーしきれないし、幸せにはなっていけない、、、ということ

そこで読んでいて頭に浮かんだのが、少し関係ないが最近の国会の官僚さんたちのこと
国会中継を見た多くの人は官僚さんの無理筋な答弁、弁解に疑問を感じる(怒りも)
そしてそれは公務員の法的な縛りによるもの(上司の職務上の命令には従わなければならない)
よりも、人事権を内閣に握られて出世するには内閣の求める様にしなければならないという考え方で
つまりは個人の利益(出世)のために官僚の多くは働いているに違いない、、
と単純化された考え方が一部の人の中には広がっているが
それは本当にそうだろうか、、ということ
確かにそう考えるとわかりやすいし、その可能性はかなり高い(工学的に説明できる)
しかし、どういうわけか世の中には例外が存在する

災害ユートピアという言葉がある
災害が起きた時に(短期間でも)人々が力を合わせて助け合う様を表現している
同時に火事場泥棒という言葉もある
ドサクサに紛れて自分だけが得しようとする人たちのことだ
自己利益の追求を数学的にモデル化するだけでは、この火事場泥棒のようなひとを
典型的な人間の行動様式として定義してしまうのではないのか、、、と

世の中には本当にいい人がいる
その人が一日のいつの時間もいい人であることは難しいが、それでもその人が関わる行為は
その自発的な心意気は「いい人だな」他人に思わせるなにかがある
どういうわけか、いい人も悪い人もいる(のが世の中)
それは人が生き延びるために自然に備わった確率的なものだろうか(と考えてしまうことがある)

ということで人をモデル化とか単純化することは、総合的な理解は進むかもしれないが
それだけでは充分では無いということ

話は飛ぶが(市民の)モデル化という例では、自分が関わったことでは選挙絡みのことがある(公開討論会)
だが市民は主権者、納税者、生活者のそれぞれの立場を無意識に生きている
選挙時において普段意識していない「主権者」の立場を要求され、その主権者がモデル化された
なんでも知ってるな市民とされるのは、、
実はどこにも存在していない架空の人たちを前提にしているようで、リアリティを感じない

ということで、連想は行き先を定めず勝手に羽ばたいて支離滅裂な事になってしまったが
まとまりのないのは毎度のこと、仕方ない(ボケ防止にはなっているだろう)

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冴えない一日

2020年03月24日 18時25分38秒 | 徒然なるままに

夜中に腰のあたりが痛くなった
いつもの腰痛よりも少しばかりタチが悪そう
湿布薬を貼ったが痛みは消えるどころか、お腹の方まで広がる

もしかして、あれか、、
数年前、ひどい目にあった尿路結石
これに又なってしまったのかと想像した

思い出してみると前回とそっくりの症状(痛みと嘔吐)
ただ救われるのは今回は前回ほどじゃない
だが、病院が始まる時間まで耐えられそうにない
それで市民病院に電話をして行くことにした

やはり、尿路結石だった
画像には小さな石が見える
こいつのおかげで夜中はしんどい思いをした
原因は分かったが痛み止めはなかなか処置してくれない
早く痛み止めを、、、
頭に浮かぶのはそんなことばかりだった

市民病院は市議会でも取り上げられるが、現在は常駐の医師が少なく
ほとんど機能していない状況
それで救急処置が済んだ後は、近くの泌尿専門医院の紹介状を書いてもらって
そこに行くことになった

今日はツイてない
そんなことを思いながら午前中に市民病院の支払いに出かけ
その後で紹介された泌尿専門病院に寄った
専門医は流石に違う、、より詳しく説明がある
石がおしっこを邪魔して、そのために溢れたおしっこが腎臓のあたりまで達している、、
これは菌が増殖しないようにしなければならない
そのための薬と石を溶けやすく(流しやすく)する薬とをもらうことになった

ヤレヤレ、これで一安心(痛みは時々場所を変えてやってくる)
処方箋をもらって駐車場に戻ると、この日の泣きっ面にハチのような運命が待っていた
車が、、変だ
なんと車の前輪の右側のホイールカバーがない
見えるのは直にタイヤを装着している味も素っ気もないタイヤ部分

懸命に記憶をたどっても、ホイールカバーが外れたようなシーンはない
今日走ったのは普通の平坦な道で外れる要素などない
それに、そもそもそんなに簡単に外れるわけがない
しかし、現実はホイールカバーは無い、、、

なんて日だ
時々、悪いことが重なるような日がある
今日はその一日だ、、と思うことにしたが、ホント冴えない日だ

少しづつ痛みは収まりつつある(?)が
水を1日、1.5リットルくらい飲むようにしてください、、
との医師のアドバイスを守るのは、結構しんどそう

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目覚めに不意に浮かんだ歌(和歌)

2020年03月23日 08時38分55秒 | 徒然なるままに

 目覚めの頃、窓から差し込む日差しを感じて不意に
「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらん」
が頭に浮かんだ

最近は晴れると光の色が違う
コロナウィルス騒動で世間は落ち着かないが
自然はいつものようにやってきて、庭の木瓜の花も
ユキノシタもトサミズキもヒュウガミズキも
何事もなかったかのように咲いている

のどかだな、、
この歌ののどかな感じはどこからきてるんだろう、、
それは「ひさかたの」から来てるのかな、、
ひさかたのはどんな意味かな
久しぶりとの意味なのかな、、
そんなことをつらつらと思い浮かべた

それでネットで調べてみると「ひさかたの」は
日、月、空にかかる枕詞だそうだ
なんだ全然違う
「ひさかたの」が「久しぶりの」などと勝手に思い込んでいたので
人に言いふらしていなくてホッとしたところ

そういえば、のどかなのは他にもあったぞ!と連想気味に思いだしたのが
「ひねもす」の言葉が使われている俳句
だが「ひねもすのたりのたりかな」は思いついたが、
最初は何だったかな!と出てこない
またもやネットの力を借りてみると
「春の海ひねもすのたりのたりかな」だった

小林一茶の俳句で、この柔らかい音が穏やかな海の様子を連想させ
のんびりした感じを醸し出している

最近は余裕のない社会になってきている
潤滑油が欠けた余裕のないギスギスした雰囲気に満ちている
だが、それ故に現実世界には全然役に立ちそうにない
このようなのんびりした感じを連想させるなにか、、は必要だと感じる
それは非日常、、というのか、それとも真の日常なのかわからない

世の中は生活に必要なもの(経済活動)だけでは、つまらない、、
勉強ではなくて心が楽しむための、こうした一見無駄なもの、、
こうしたものが好きだな、、、とつくづく自覚する

※「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらん」
  百人一首にも収められているこの歌は紀友則の作で
  この人は紀貫之のいとこだとか

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今朝の高速バスのチラシについては奇妙な点が、、、

2020年03月22日 08時49分21秒 | 市政、市議会に関することなど

今朝(3月22日)新聞に折り込まれていたチラシがあった
それがこれ

しかしよく考えると、このチラシは奇妙なことがある

この事業は3月31日の実証実験で一旦切りになっていて
その後については新年度の予算可決を経て継続されることになっている

事業は先日の議会で可決し来年度も継続することになった
ところが議決されたのは、3月19日の午後だ
このチラシが折り込まれたのは今朝の3月22日

何が奇妙かと言えば、普通チラシの折り込みは前もって販売店なり配送センターに
届けておかなければならない
だいたい二日前くらいに届けるようになっている
土日とか祝日が入るともう少し早く届けなければならない
今朝のチラシは間(あいだ)に春分の日が入っているので、だいぶ前に販売店に持ち込まなければならない

ところがこの事業にゴーサインの議決がなされたたのは19日の午後
どうやらその時にはすでに販売店に届けられていたことになる(常識的にはこのように想像できる)
折り込み手配だけでなく印刷のことを考えると、随分前から委託企業は継続か中止かわからない状態で
印刷を進めてしまっていることになる

仮に議決されずに事業中止となれば、販売店はこのチラシの折り込み中止せざるをえないし
それをするのには大変な労力がかかって、現実的には一部は不可能な地区も出てきそうだ

でも折り込みの手配はすでになされている
継続か継続かがわからない状態で、どんどん進めてしまっているのは何故だろう?
と考えるのは当然のこと

委託会社は予算案が可決するに違いないと覚悟を決めて印刷・折り込みの手配したのか
それとも何かの確証があって物事を進めたのか、、
いずれにしても、時系列的にはとても奇妙なことだ

このことを普通に考えると、議会は馬鹿にされているとか軽視されている
と怒りを覚えるのが普通だと思えるが、わが市の議員はどのように感じたのだろう
(もしかして奇妙だということにも気付かない?)

 

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新コロナウイルスの影響

2020年03月21日 18時51分01秒 | 徒然なるままに

新城市の昼間の長さは、春分の日の昨日でさえ数分長くなっている
日の出が早くなったよりも日の入りが遅くなってきた実感がある
昨日はぼた餅を近くのAコープに買いに行った
(ウォーキングをかねて)

店頭に特別に販売コーナーを設けて彼岸団子とぼた餅を販売していたが
カードにポイントが欲しいので店内で購入することにした

いつもなら小豆・きな粉・胡麻のぼた餅が自分の好きなだけ
取れるように並んでいて、トングとパックがそこに置いてある
ところが、昨日は全部パック詰めになっていた
小豆ときな粉、小豆だけ、きな粉だけ、胡麻だけの状態で
2つづつ詰めてある

そうか、、、あれのせいか、、

こんなところにもコロナウィルスの影響がある
誰が使うかわからないトングの使用は避けるために
最初からパック詰めになっていたのだ

幸い地元新城市は罹患者は発表されていないが
今日明日行われることになっていた地元の神社のお祭の
子どもはもちろん大人も楽しみにしていたイベント(ビンゴ大会・飲食)は中止
今年は神社のお役目が少しだけあったが、それもなくなった
(神事は上の立場の数人でを行うことに)

来月に公民館での開催を予定されていた組長会も、組長は予定時刻にきて
関係資料とパック詰めの食事をもらってそれで終了
後は区長を始めとするスタッフにお任せということになるとのこと
(お任せの承認の印鑑は必要とされているが)

まだ他にもある、近所の仕出し屋さんでの組長引き継ぎ会(宴会)は
自分たちの組は行ったが、同日開催予定の組は2、3がキャンセルになった
と店主は嘆いていた

そういえば、明日、第4日曜日に開催の軽トラック市はどうなるんだろう?
大人しくしているのは現実的だが、経済的にも、精神的にはあまり良くないようだ
これでは、子どもたちはストレスが溜まるだろうな

 

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ハプニング発生(新城市議会最終日)

2020年03月19日 19時34分20秒 | 市政、市議会に関することなど

新城市の市議会関連の話題(あちらにもアップ)

やはり生(ライブ)は面白い
それは市議会でも同じこと
突然、思いがけないハプニングが発生し、それにアタフタする各議員の反応や
そのハプニングの意味・意図を想像すると、、、
これはミステリー的な楽しみ方ができる

今日は新城市議会3月定例会の最終日
議案の議決が行われる日で、それまでは粛々と進められていった
少し疑問の残る令和2年度の予算が、反対・賛成の討論が行われ
多数決によって原案どおり可決の結論が出た
その刹那、ハプニングは起きた
小野田議員から「休憩!を要請する動議」が提出された

???
一体、何が起きているのかさぱりわからない
小野田議員は席を移動して何か手に持って別の議員のところに歩み寄っている
バタバタしているうちに「動議に賛成か反対か?」の議決がとられて
賛成多数で一時議会は休憩となった

でも残念ながら議会のルールを知らない自分らは何が起きたか、一向にわからない
何が起きているのかわからないのは、議会に参加の幹部職員もそうだろう
(予算案も可決したし、ヤレヤレと思った職員もいただろう)
ポカーンとする間に、議会は結局のところ場所を移動して
急遽全員協議会が開かれることになった
(幹部職員はずっと待たされることになった)

場所を移した全員協議会で出てきたのが、今回の国会でも出てきた「付帯決議」なる言葉
どうやら議会として予算案可決に際し「付帯決議」を追加しようとの考えらしい
ところが、ここから先が議論が紛糾した
この付帯決議の内容を既に知っている議員がいれば、全く知らされていない議員がいる
ところでその前に、付帯決議とは何だ?との疑問が湧いてくるが、ネットで調べると
「議案を議決する際に付け加えられる議会の要望のことをいいます。
法律的な効果(強制力)はなく、政治的に尊重されるべきものとされています。」
とある

つまりは、今回の場合は、予算は議会として可決するけれど
行政には一言追加しておく要望があります!という内容を追加したいらしい

さてその内容はどんなものか?
となるのだが、付帯決議の内容を知っている議員と全然知らされていない議員がいる
議会の付帯決議は数人の提案でなされても法的には問題無いそうだが
議会から行政に要望するのに少数の議員では説得力やら切実感に欠ける
そのために一般的には付帯決議は「全会一致」の状態でなされるのが普通で
今までの新城市でもその様になされてきたのだそうだ

付帯決議の内容の良い悪いは別として
その付帯決議を予め知らされていた議員と、全く知らされていない議員の間では
素直に付帯決議の討論や賛成に加われない気持ちはわかる
結局のところ、ここからは手続き論の良し悪しや、付帯決議の中身に入った議論が
幾度となく繰り返されることになった

ところで、付帯決議の内容は一体どういったものか?
傍聴者には詳しくはわかりにくかったが、高速バス「山の湊号」に関することらしい
市民の間の中にも議員の中にも意見の相違があるこの件については
議会は無条件に了とするものではなく、絶えずチェックをするので、、、、して欲しい
といったニュアンスを加えたかったらしい(と想像する)

でも問題は、何故急にこの話が出てきたか?という点
付帯決議の内容や存在が良い悪いではなく
何故急に出てきたのか、しかも一部の議員しか知らされず、、、、

実はここに現在の新城市の議会の問題点が集約されているように思われる
何故急にこの案が出てきたか、、、
自分にはだいたいの想像がつくが、、さて

 

 

 

 

 

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彼は何故詳細な記録を残したのか(社会に対する責任?)

2020年03月18日 18時26分09秒 | あれこれ考えること

週刊文春を購入した
森友学園の文書改ざんに携わり自殺した方の手記が
相当なページを費やして掲載されている

読んでいて涙が出て仕方なかった
自ら死を選択しなければならなかった苦悩、愛する人の死を現実として
受け入れざるを得なかった奥さんの気持を思うと
とても普通に読み終えることはできなかった

あったことはなかったことにしてはいけない
この単純な当たり前のことが何故か実現されない現在
このままでは未来の人たちに「あの時、あなた達は何をしていたのだ!」
と批判をされてしまいそうだ
それでなくても、今生きている自分たちはこの問題に対して真摯に向かう責任があると思う

そして、何よりも深く心に残ったのは
自死を選んだ方がこの手記をものすごく詳細に残されていることで
それは何故彼はそこまできちんと残したのだろうか?との連想につながる

でも自分はこの人の気持がわかる気がする
彼は行ったことを詳細に残すことで、社会に対する自分の責任を残そうとしたのではないか

これは先日の我が市の高速バスの事業継続についての
市民側から見た記録を残そうとした気持ち(それが社会に対する責任)につながる
(その前の行政裁判のことや住民投票の記録を残したのも同じ理由だ)

世の中は表に出ている情報だけで本質は判断できない
表に出ているものはむしろ加工されている可能性がある
歴史書は過去の過ちを繰り返さないために必要なものであるとしたら
それは尚のこと実態を多方面から見たものから作成されていなくてはならない

そして現在読む人はあまりいないこのブログも、投稿し続けることで
多少なりとも社会的に意味あることだ!
と勇気づけられたような気分になるのだった

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