パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

日本の印象、思い出はどうだったのだろう

2021年03月31日 08時23分23秒 | 徒然なるままに

彼の父は息子に自分のルーツである日本を見せておきたいと考え行動を起こした
息子は短い滞在ながら、心に何かを深く刻んでブラジルに帰った

何年か後、今度は彼が自分の子どもたちに父がしてくれたように
日本を見せておきたいと考えた
そしてパートナーと二人の子供と一緒に日本にやって来た
彼が日本にやって来たのは単に働く先があるとか
収入がブラジルより恵まれているというわけではなさそうだ
彼は娘に日本名らしい名前をつけた

この二人が(女の子と男の子)がボランティアで自分が担当している
子どもたちで、女の子は6年生、男の子は2年生だった(今年度)

時に甘えたり冗談したり、安心して「わからない」と言えたり
おそらく懐(なつ)いてきたという表現が適切と思われるが
とにかく心の交流を実感するような瞬間が時々あった

でも彼らとは4月からは会えない
ブラジルに帰るのだそうだ
そして多分、戻っては来ないと子どもは屈託なく言う

先日の日曜日、親御さんから最後に自宅にきてほしいとお誘いを受けた
親御さんとはしっかり話したことは無いが、ZOOMでの勉強の様子をみて
車で子どもを迎えに来た時はいつも「ありがとうございます」の言葉があった

ブラジルに帰る理由の一つには、国に残したお母さんのことがあるようだ
夫婦のどちらもお母さんだけが生きている
少しづつ年齢を重ね、彼らは自分の親のことに不安を抱えていた
現在はネットを利用した動画のある会話ができるが、それでも彼らのお母さんは
時々(寂しくて)涙を流すこともあったらしい

日本にいて不安を覚えながらいるよりは、、、
そう考えて彼らはブラジルに帰ることにしたらしい
子どもたちには迷惑を掛けるけれど、、、
彼は、ブラジル特産のコーヒーを勧めながら言った

日本は良いところだったのだろうか?
父が見せたいと思い、自分も子どもたちに見せたいと思った日本は
いい思い出となるような国だったのだろうか
楽しい生活はできたのだろうか
どうしても気になるのはこのことだ

そっと日本とブラジルの違いを聞いてみた
日本は自分勝手じゃない、お互いのことを考えて親切で
それに習慣としてあいさつも当たり前にできているけど
ブラジルは自分だけ良ければいいと考える人が多い

そんな話を聞くと、すこし恥ずかしくなった
本当にそれができているのだろうか
「今だけ、自分だけ、お金だけ」
が現在の日本のように実感しているからなのだ

でも彼の次の言葉で救われたような気がした
「本当は日本に戻って来たい」
彼の心の中には日本はいい国だったと刻まれていたようだ

子どもたちは日本の体験をどのように感じ、記憶として何が残っていくのだろう
彼もまた自分の子どもを日本に行かせたい!と思ってくれるのだろうか

別れるに当たって子どもたちは少しも感傷的ではない
お姉ちゃんの方は少し感じるところはありそうだが、弟の方はいつもと変わらない

せっかく覚えた日本語、自分の英語やドイツ語よりはよく話せる日本語を
このまま忘れてしまうのは勿体ない
そこで二人の子に向こうからでもZOOMで勉強を続けることができるので
気持ちがあるなら協力すると伝えた
時差が12時間あるので思いのほかうまいこといくかもしれない!
とトライする気もあるようだ
連絡のためにフェイスブックの友だち登録をして、連絡はこれを使えばいいと
確認し合った

これが行われるか行われないかは、わからない
でも、たしかに言えることは「気持ちは通じる」という実感だ
この実感を相手も感じてもらえたならば、自分のしてきたことは
少なくとも間違いではなかったと言える気がする

餞別に日本風の名前のお姉ちゃんには「国語辞典」を送ることにした

残り少ない日本での時間、彼らは富士山を見に行った
「きれいだった、行ってよかった」
と口にした

彼らには滞在中、日本はどう映ったのだろうか?

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U24アルゼンチン戦(二試合目)

2021年03月30日 08時32分25秒 | サッカー

先発メンバーのうち9人が代わっているので、多くの選手はアルゼンチンの選手の
スピードとか強度を直接体感としているのではないが
昨日の試合は、まるで一試合経験したかのような対応がなされた
アルゼンチンの激しい球際にプレーに戸惑うこと無く、果敢にボールを取りにいく
プレーが全員でなされ、試合の入り方も良かったので、先の試合の感覚が残っている
アルゼンチンの選手は予想が外れたかもしれない

実際に体験していなくて、ピッチで仲間のプレーを見ていただけだが
それだけで二試合目となった昨日の試合でなすべきことをできたというのは
日本の選手の個々の力もアップしているかもしれない

試合は3−0で完勝
一点目はセンターバックの瀬古からのDF背後への素晴らしいパスを
FWの林が素晴らしいトラップの後、細かなフェイントを入れて
キーパーのタイミングをずらしゴール

2点目、3点目は久保のCKを板倉が頭にドンピシャであわせてゴール
板倉のヘッドも素晴らしかったが、シーンを再生したものを見ると
久保のキックの質もスピードがあって途中から大きく曲がって
あれでは守る方もしんどいと思わせるものだった
それが2回とも同じようにできるというのは、才能の片鱗を見せたというところだ

最近は守りについて考えることが多いが
まずはインターセプトを狙う前を向かせない、採れるボールはチェレンジして奪うのが
良いと思うようになっている
トライするとかわされて被害が大きくなる、、とするのが今までの常識だったが
最近は選手間の距離が短く、一旦かわされても次の選手がボール奪取にトライするようになって
見た目にはバタバタした接近戦が増えてきている

ただし、距離が短いだけでは慣れた選手にはかわされてしまう
そこで必要なのは技術としてのボールを奪う能力
サッカーの基礎技術は、止める蹴るが基礎技術と言われるが、
ファウルしないで相手のボールを採るというのも高度な称賛されるべき技術なのかもしれない

ボールを取る技術とか球際の厳しさは、頭でそういこうと思っても体がすぐについていく訳ではない
体に染み込むような体験としての蓄積が必要と思われる
海外では普段の練習においても(練習試合)ボールを奪い合うシーンでお互いが熱くなって
喧嘩に至る場合も多いそうだ
つまりは、練習の段階から実戦並みに厳しくやっていかないと本番で使えるようにならないということ

このあたりの練習を日本の各クラブチームはどの程度行われているのだろう
きっとグランパスは練習段階でもゴリゴリやってる気がする

昨日の試合は個人的にはボランチの田中碧が良かったように思う
ボールを散らすだけでなく、慌てないし必要以上にパススピードをあげないのが気に入った
パススピードは日本の課題だと言われる
だが一事が万事スピードを上げる必要はない
イニエスタがそうだが、彼は近くの選手には時々ゆるく見えるパスを出す
ゆるいのでもらう方はミス無く次のプレイに移ることができる
このゆるいパスは、小野伸二、柿谷曜一朗、本田圭佑のプレーの中にもしばしば見られた
それらはセンスの一言で片付いてしまうかもしれないが、このパスのスピードを見ると
選手の持っている何かを感じることができる

昨日はアルゼンチンの選手の良さを先の試合ほど感じられなかったが
不意に日本の選手に欠けている一つのことを思い出した
それはボールを持って前を走っている選手のボールを奪う能力だ
ワールドカップ等では流石に万度ではないが、しばしば後ろから追いかけてきた選手が
ボールを奪うシーンが見られる
日本では併走するまでは行けてもボールを奪うまではなかなかいかない

ということで、今後伸ばしてほしいのは、後ろから追いかける選手の守り方の技術
そして、これはいつも思うがシュート技術で、絶対ゴール上に吹かさないこと
先日の日韓戦での鎌田のシュートはよく抑えたもので、それだけで彼の技術の高さを
感じるものだった

それにしてもU24の選手の選択は難しくなったようだ
堂安も富安も昨日はいなかったが、いて当然という気もする
当事者である選手たちは大変だろうが、ちょっと贅沢な悩みかもしれない




 

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「質問に答えてください」

2021年03月28日 08時12分07秒 | あれこれ考えること

偶然見かけたニュースのなかに、アメリカのIT業者にたいする国会(?)での問いかけがあった
連邦議事堂に押し入った暴徒たちについて、フェイスブックのザッカーバーグ氏に
「あなたたちのSNSが(結果的に)あのような行動を誘発したと思いますか?」
との問に彼は
「私達のSNSの目的とか意義とか方針は、、、」(正確に記憶していないがこのような内容)
と答えた
それを聞いた質問者はすぐさま
「質問に答えていません。きちんと答えてください」
と話を逸らすことを拒んだ、、、とあった

そんな当たり前のやり取りが、羨ましいと感じられるのが今の日本だ
聞かれていることに答えない
あるいは答えるべき人ではなくて、別の人間が答える
その答えも世間常識からすれば違和感を覚えるものであって
単に言葉の上では突っ込みどころがないものに終止する
それは官僚の得意とする文書解釈による実態とは違う答弁だ

ドラマ半沢直樹では「そんなのはあなたたちの理屈で世間では通用しない」
とスカッと言い切ったが、この国の一番大事なところでは曖昧な議論に終止している

最近ここは裁判の場か?と思ったりする国会
そこは議論の場というものの実態は政府側の説明の不備を追求する場になっている
そして一番の違和感は「嘘を言っている」と感じられることも
それ以上の追求ができなくなっていることだ

自白をしないので、いつまで経っても自白を促すみたいな状況になっている
だが、当事者とすれば都合の悪いことは正直に話すはずがない
それが人間というもので、それを人はこうあるべきだとの理屈で追い詰めても
現実的ではないように思われる

話は飛ぶが以前、行政裁判を経験したころ流れたテレビ番組で
「行政裁判で偽証罪にならない人は誰か?」とのクイズがあった
答えは原告と被告なのだそうだ
この双方は自分たちの都合の良い話をしたがる傾向があって
人間というものはそういうものだから、それぞれの言い分を精査するというのは
現実的でないから、あえてそこには深く踏み込まないということらしい

そういえば、証言も家族とか身内からのものは、嘘を言ってかばう可能性が高いので
無条件には信用されないらしい

いつまで経っても本人の口から正直に(望む答えを)でてくるのを待つというのは
現実的でないと思われる
その(証言の)代わりの方法として証拠による追求があるが、これもまた資料の破棄や
改ざんや、いろいろ理由をつけてでてこないので追求の手は停滞する

このような状況をメディアはどこか他人事のように「野党は攻めきれず」と報道してしまう
だが、前に進まないのは誠実に答えていないからなのだ
アメリカの議会のように「質問に答えていません、きちんと答えてください」
と仕切り屋がコントロールすれば状況はもう少し変わると思われるが
この仕切り屋を決めるのも数の力で都合のいい人になっている

最近ほど「民主主義」という言葉が表にでてくる時はなかったかもしれない
遠くミャンマーでの出来事もそうだが、一見民主主義のステップを踏んでも
結果的に世界は独裁のような国家が増えているという
その時に都合よく使われるのが多数決という物事の決定の一方法で
これは日本でも無条件に万能とのように思われているが、
物事には多数決で決めるべきでないことある
例えば数学的なABC予想の証明は正しいか?などは素人の多数決をしても意味がない
これに白黒をつけるのは知識と能力のある専門家しか資格がない
つまりは、多数決をするにしてもそれに対する判断材料や知識が必要であって
自分たちの組織の損得で決めるのは数の暴力に過ぎない

とまあ、いつものように話が飛んでまとまらなくなったが
これが最近頭の中でイライラしていること
歳を取るとストレスが増えるのかもしれないが、
正直なところ、このようなことで増えるとは想像していなかった

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基本的な技術と逞しさの差(U24アルゼンチン戦)

2021年03月27日 09時10分05秒 | サッカー

高校時代サッカーの試合で負けたときは、いつも基本的な技術の差を実感したのだった
次のことを考えて適切な位置に止める、正確なコースとスピードとタイミングで蹴る
ボールを取られないような体の使い方をする
そんな当たり前のことが強いチームと当たったときは自分たち(自分に)欠けていると思ったものだった

昨日のU24(オリンピック代表候補)のアルゼンチン戦は、久々にこのような思いに至った
試合自体は0−1の僅差での負けで、時にはゴールチャンスもあった
しかし、正直なところ一対一の基本的なところで差を感じてしまった
日本人は基本的に戦術論が好きな傾向があって、ブロックの作り方とか人数のかけ方とかに関心が行く
だが昨日の試合はスターがいるわけでもないアルゼンチンの個々のプレーヤーの現実的な
身についた技術に少し手こずった印象をもった
まずはボールを奪うことができない
強くいくとかわされたりボールを下げたりする、チャンス到来とどちらが採るかというボールも
際どいところでアルゼンチンの選手の方にいく
そしてスレスレのところでもちゃんと味方にパスができている

一方日本は真面目だが、言われた通りのことをするというレベルを超えていない
自己主張をするにしても、一か八か的な感じで余裕があるわけじゃない
三苫も一対一の戦いは解説者が言ってたように、Jリーグで見られるような活躍はできていなかった
そのくらいは体が慣れている、、といったような対応ぶりだった

全体としての印象はたくましさの違い
それは出足の速さだけでなく判断力の差にもつながるが、採れるボールは採るといった迫力のある対処に
日本チームは余裕がなくなりパスミスを連発することになっていた

ただこれは練習試合の範疇で、これを実感できたのは良かった
世界はこうした現実的な戦いをするということだ

そこで思い出したのが昔、同じくアルゼンチンと戦った若い世代の試合だ
小野を始めとするあの世代の選手が、当時相当強いとされていたアルゼンチンと戦った試合で
若い世代の試合は相手の良いところを潰すというよりは、自分たちの良いところを出しあう傾向が強いので
比較的面白い試合になることが多いが、この試合もそうだった
と言っても現実的なアルゼンチンは厳しく激しく来る
今でも覚えているがこのときの日本チームは、その激しさのなかでも意地になって細かいパスを通した
それこそ意地の張り合いのような戦いが各所で見られた

確かこの試合は中村俊輔がふわっとしたシュートで勝ちを収めたと記憶しているが
何よりも意地の張り合いのプレーが面白く、個々の技術は負けていないと感じたものだった
でも昨日は、あの試合の日本チームの逞しさが感じられなかった

U24は、少し期間をおいてまたアルゼンチンと戦う予定らしい
昨日の試合をどのように受け止めて、どのように対処できるようになったか
次の試合の見所は試合結果よりもそちらだな





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審判が選手を育てる

2021年03月26日 08時32分50秒 | サッカー

昨日のサッカー日韓戦
2連敗中でいつもの激しい戦いが見られるか?と予想したが
結果は3−0で完封勝ち(得点は山根、鎌田、遠藤)
少し拍子抜けした感じだった

韓国にエースのソン・フンミンがいないこともあってか迫力がなかった
遠藤と守田の両ボランチが的確に機能していたとか
吉田、富安の経験が生きている守りがどうの、、というよりは
韓国に覇気が感じられなかった

いつもなら多少メンバーが集まらない状況下でも韓国チームは闘志だけは表に出て、
試合後半は足をつるような選手が出てくるのに、そんな様子は全然なかった

監督が丁寧に繋いで、崩していくチームづくりをしていたせいか
多少アバウトなボールを競いあってこぼれ球をそつなく狙うとか
強引な突破を目指すということはなくて、守りはその分予想がつきそうな流れだった

日本としては従来のフィジカルの差を活用した戦い方のほうが嫌な感じがしたが
韓国はワールドカップ等の経験から、そのような戦い方ではもう一つレベルアップが
できないとして、新しい戦い方を模索しているのだろう

でも戦いの場であるときは、メンタルとか闘志というものが想像以上に大きな差となる
昨日の韓国は一時期の日本の姿を見ているような気がした

球際は厳しく、、、というのが最近当たり前のようになっている
そこで最近気がついたのがJリーグの審判の笛だ
今期は接触プレーで滅多なことでは笛は吹かないようだ
海外の選手との戦いの際に日本選手はひ弱な姿を見せることが多い
そのくらい耐えろよ!と相手の選手も国際審判も思うことが
日本の審判の笛に慣れた選手は、倒れたりボールを失ったりする
パススピードが世界標準ではないのと同じように
日本は接触プレーの強度も世界標準ではなかったように思う
それが、少しづつだが厳しいフィジカルの戦いを認める流れになっているようだ

こうなると、審判が選手を育てることになりそうな気がする
選手はそのうちに激しいコンタクトにも慣れるから、それが当たり前になって
経験するうちにそれぞれが対処法を身につける
それが広い意味での技術とか経験となっていく

ということで、選手を育てるのは監督・コーチだけでない
ということを考えるこの頃

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内部告発

2021年03月24日 09時39分13秒 | 市政、市議会に関することなど

文春砲が炸裂して、国会がその問題にかかりっきりになって
肝心な問題を話し合う時間がない!と、一部の人は批判的に物申すが
もし文春砲が無くて、みんなが知らないままでいたならばと考えると
それはそれで恐ろしいことのように思われる

文春砲のキッカケとなった情報は、どこから出たのかは知る由もないが
想像するに内部告発的なものが存在したのではないか
事情を知っている人が、正義感あるいは何か別の意図をもって
そっと外部に情報を暗示するというのは、どこにでもいつでもありそうなことだ

このような事柄は国レベルだけでなく、地方でも存在するようだ
最近、ちょっとした内部告発のような情報を目にした
それは2013年の出来事、ある地方自治体の応援する事業がうまく行かなくなって
事業者が撤退することになった
困るのはその事業用地の今後の活用だが、同じタイプの事業をしたほうが良いだろう
との判断で、その土地の活用に公募をかけた
エントリーしたのは29社だったが、17社に絞られ、その後5社まで更に絞り込まれた
最後の5社に絞り込んだ中心人物は県会議員と知り合いの方で
現在はその事業の代表のような立場にある

残った5社はプレゼンで、どこが一番ふさわしいかを競うことになったが
そこでは当然のことながら財務情報も重要なポイントとなる(のちのちこれが問題となる)
ところが、この財務内容を示す書類がプレゼンで出されたときは手書きの雑なもので
会計印や社印がないものだったそうだ(情報開示請求で確かめたらしい)

実はこのプレゼン合戦の前に、関係者同士での会合があったようで
そこで大枠が決められた可能性が高い、、と内部告発の文章に書かれている

公募から外されプレゼンに至らなかった事業者には電話で、その結果が
伝えられたということだ
億単位の案件であるのに電話一本で済ませてしまうというのは
少しばかり違和感を感じさせるものだ

この手続きは公式には、きちんとしたステップを踏んで行われたと説明され
議会も承認したようだが、こういう時の説明は肝心なところを省いたり
ぼかしたりして、一見正当に行なわれたかのような印象を与えるものなっている

最近は、言葉というのは都合の良いもので、なんとでも言い訳できると感じることが多い
実態を良く知ってみないとその言葉を信じてはならない!と学習するわけだが
その実態の情報を掴むのが難しい

この内部告発は、たしかに関係している人しか知り得ない情報に満ちている

この不思議な一社が受けつことになった事業は、現在、芳しくない経営状況を招くことになり
それに関しては、近いうちに何らかの発表がありそうな情報も流れている

情報に対して、最初から疑ってかかるのは少しばかり人間性を疑われるようなところもあるが
時と場合によっては、疑ってかからないと本質にたどり着けないこともある

内部告発は重要な情報源で、結果的に正常化を促す役割もあるので
内部告発をした人物は守られる制度が存在するようだ
(制度はあってもその組織内での人間関係がうまくいくかはわからないが)

だが、こうして生々しい情報を目にすると、言葉の上の説明とか手続きの正当性とは
なんだろうと考えざるを得ない
この問題は新城市の人間なら、あのことか!と想像つくと思うけれど
わからない人も相当数存在すると思われる
実は、それが、一番の問題かもしれない

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消極的な選択は、庶民の気持ちを反映しているのだろうか?

2021年03月23日 15時42分17秒 | あれこれ考えること

内閣支持率等の世論調査は、その結果だけを見ていると
木を見て森を見ず状態になってしまうかもしれない
フジサンケイグループの杜撰な調査は、他社の調査でも行われていないか
と、心配になるところだが、各媒体の内閣支持率はその媒体の傾向通り
(朝日は低く、読売は高いといったような)になることが多いので
そもそも世論調査の母集団の選び方とか質問の仕方に問題がありそう
とも考えられる

地元の中日新聞にも支持率が報道されていた
気になったのは支持する理由のなかに「他に代わる人がいない」
という項目の数字が「首相が信頼できる」とか「自公の政権だから」を
大きく超えていたことだ

首相も政権も頼りにならないが、他にも頼りになりそうのがないから仕方ない
といった気持ちの現われと思われそうだが、これは実態を表しているのだろうか

質問があるから答えるというのは、常々感じたり考えていることとは違う
ということはないだろうか

どれも当てはまらないと実感していても、何かを選ばなければならないときに
仕方なくそれを選ぶ
その結果をメディアが大きく報道する
その報道を見聞きして影響され、庶民が自分自身による選択という行為を
他の多くの人と同じが無難と判断してしまうことにならないのだろうか

そもそも選択という行為は覚悟をもって行うべき類のもので
その選択の結果、一気に社会が良くなるなどということは現実にはありえない
覚悟というのはある時期の停滞や不手際は仕方ないと考えることだ
そしてその停滞や不手際を批判しながらも、育てる意識を持って見守るのも
社会には必要なのではないかと思ってしまう

何事も一気によくなることはない
良くするには不断の努力が上にも下にも必要ということで
ブーメランと言ってあら捜しをして、誰がやっても変わらないなどと
通ぶった斜めに構えた批評家風になるのは、自分たちで自分たちの生活を
良くしていくという気概に欠けていると思えてしまう

だが、庶民がシティズンシップを身につけるのはどうすれば良いのか
については、ホント、どうすれば良いのだろう

ちょっと、愚痴ってみた

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「ロッキード」「キツネ目」を読んで

2021年03月22日 08時54分05秒 | 

2つのノンフィクションを一気読みした
「ロッキード」 真山仁


「キツネ目」 岩瀬達哉


ロッキードは1976年
グリコ森永事件は1984年の出来事で
まだ生まれていなかった今の若い人は知らない出来事かもしれない
と言っても現実的にその時代に生きていた自分でさえ
知っていることはメディアを通しての報道によるもので
それらはすぐに忘れられ、なんとなく印象として残っているに過ぎない

こうして、幾多の資料を元に書かれた調査を読むと
2つとも奇妙な事件だったとの思いが残る
確か田原総一朗氏の本だと記憶しているが、ロッキードのことを書いた中に
2つの不思議なことが書かれていた
そのことはこの本にも書かれていたが、とても重要な証拠となる種類が間違って
よりによって一番行ってはいけない先に郵送されたということ
そして裁判ざたになった田中角栄氏への金銭授受(ホテルオークラでの)が、
当日の東京は雪の日の交通渋滞で、その時間には行えない出来事だったとするものだ

この本の最後の部分に書かれているが、ロッキード事件の少し前、立花隆氏の記事によって
田中角栄氏は金権・汚職まみれの人間的なイメージが世間にできつつあった
少し前までは今太閤として、コンピュータ付きのブルドーザと言われて絶大な人気を
誇っていたが、まるでその反動のように今度は嫌悪の対象となっていた

あの金に細かい人物(田中)は、ロッキードでもそうするに違いない
との全国民的な思い込みがあったのではないのかとしているが
とにかく、有無を言わさず悪いのは田中という空気ができていた

もし仮に裁判が丁寧に行われたいたならば、この件に関しての田中角栄氏の疑いは
正当性を欠くものだったとなったかもしれないとしている
だが、肝心な関係者は(本人も)もうこの世にはいない

民間機の導入に総理大臣が口を挟むというのは、少し変なことで
本当のロッキードの目的はP3ーCだったとの説が書かれているが
当時P3-Cという言葉を聞いた記憶がかすかに残っていて
この本を読んで、事件の全体像は(この人の解釈によるが)わかった気がする
しかし、それも今や想像の域を超えない


キツネ目の男の肖像画は今でも思い出すことができる
きつい印象で、悪いことをしそうな、、とすぐさま感じさせるものだったが
今回この本を読んでつくづく感じたのは、犯人はものすごく頭の良い人間ではないのかという点だ
頭が良いと書くとそれは違う!とお叱りを受けそうだが
彼の残した手紙・指示・皮肉は背景知識としての総量がかなり大きなものとして感じられる
それは勢いで物事を行う感じの人間ではないように思える

彼は結局、内密にどこかの企業から多額の金額を手に入れたかもしれない(それはわからない)
ただあれだけの事件を起こして、事件関係者に死んだ人間がいないというのは
驚くべきことかもしれない
いや、亡くなった方はいた
警察の方で、捜査ミスというか手続きミスで、せっかくの逮捕のチャンスを失った方が
その責任を負って焼身自殺された
また、最初のグリコ事件の際に、車でデートしていた若い男女は犯人たちに脅されて
ある役割を果たさざるを得なくなった
もう少しで結婚というところまでいた彼・彼女は、この事件がトラウマのようになって
お互いがかつてのように付き合う事ができず、別れることになった
そしてある日、偶然、二人は顔を合わすことになった
それぞれが子どもと一緒にいるところを確認した

時間は戻らない
キツネ目の男が現実的には誰も殺人を犯していないとしても
間接的には一人の死・二人の人生に大きな影を落としたのは事実だ

この2つの人フィクションを読んで、一般人の知りうることは
つくづくホンの少しだと感じる
大半はニュースとかそこから醸し出される空気に支配されている
そしてそれを自覚していない

我々はあのとき何を知っていたのか
何を感じたのか?
時間が経つということは、過去を冷静に振り返ることができるようになるかもしれない
この2つの事件は、時間がたった今こそ再検討されるべきかもしれない

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何かが違うフルトヴェングラーの演奏

2021年03月21日 08時42分32秒 | 音楽

やっぱり不思議だな!といつも思う
それは相性の一言で片付けられるものだろうか
そして感じ方には個人差があって、安易に一般化などできない
と言った一見正しそうな考え方に集約されるのだろうか

ハイデルベルクの墓参りまでいったフルトヴェングラーの演奏の印象のことだ
この人の演奏の時間の経過が、他の人のそれとは全く違うように感じられる
時間の経過だけでなく、音から感情に影響し、それがさらにもっと深いところまで達して
一つの実体験のように思われる演奏
これが不思議で仕方ない、例えばトリスタンとイゾルデの2幕 有名な二重奏のところ

Flagstad/ Suthaus, Wagner: Tristan und Isolde, Love Duet

これなどは、濃厚な時間経過そのものだ
徐々に音量をあげていく、そしてテンポを落とす、そうした物理的な作業がなんでそんなにも
印象として違ってくるのかが不思議で仕方ない

もう少しポピュラーな曲の例ではスメタナのモルダウがある
フルトヴェングラーのタイプの曲ではないが、ここでも冒頭のフルートの掛け合いが
単に心地よい音としてではなく、二人の奏者が会話をしているように感じてしまう
そしてそれは感覚の世界ではなく、もう少し深いとこまで響く

Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951)
スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー

そしてあの有名なメロディが奏される時の憧れに満ちた思い

こうした感じ方は、フルトヴェングラー信者の戯言に過ぎないのだろうか
しかし、たしかにそう感じるのだ
そしてそれは唯一無二だ

ただこれは時代背景とか背景知識の違いによって感じ方も変わってくるかもしれない
現代の人には、トリスタンはクライバーの演奏とかティーレマンのほうが
しっくり来るのかもしれない(自分には物足りなく感じても)

どうも新しいものを受け入れるのが難しくなってきているようだが
その代わりフルトヴェングラーの味わいを異様なほど感じられるのなら
その世界に沈潜する時間の過ごし方も悪くないだろう


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直感・第一感は信用できる(?)

2021年03月19日 08時18分10秒 | あれこれ考えること

人、あるいは動物は危険を感じたときはすぐさま行動を起こす
例えば暴力を奮おうとする人を目の前にすると
その表情、雰囲気から察知して逃げるという行動を選ぶ
それはじっくり考慮した結果ではない
そんなことをしていると間に合わないので、感覚であるいは直感で判断をする

危険に対するときだけでなく別の場面でも人は表情・雰囲気からいろんな思いを読み取る
例えば悲しみに打ち震える人を見ると、我がことのように心動かされて
涙を流すといったことは珍しくもない

それらは目からの情報把握がメインではあるが、じっくり考えたうえでの
行動ではなくて、条件反射のように素早い反応だ

この素早い判断は、熟慮と比較して間違いが多いか否か?
というのは、難しい問題だ

人という生物が生き延びてきたのは、このすぐさま判断することが
高い確率で間違っていないかったことの証明なのかもしれない

話は飛ぶが、囲碁の番組で秒読みになった棋士に、解説者(棋士)は
「こういうときは最初に思い浮かんだ手をうつのが良いのです。大概は、間違いありません」
と自らの経験を踏まえて解説した
ある研究によると将棋のプロと筋金入りの素人とは読みの深さはさほど違いはないが、
大きく違うのは最初に思いつく手の正しさなのだそうだ
まずは思いついてそれを検証する、、それに時間を費やすのだが
最初が間違っていると、検証すると間違いに気づいて、また別の手を考えなければならなくなる
この効率の良さ悪さがプロと素人の違いだそうだ

ここで話を選挙という生々しい選択について置き換えると
人が自らの直感を信じて選んだものと、マニフェストをじっくり読み込んだ人の判断と
結果的にどちらが正しい確率が高いのだろう

自分のことは言えないが、顔や表情はその人の生き様だと言われる
ある程度の年齢の人間になると、見るだけで直感的にその人がどんな人物であるかを
想像できるような気さえする(荒んだ生活をしている人は表情に現れる)

現在の政治家(国も市も)の表情を見ると、果たして肯定的に見られる人がどれだけいるのか
少し不安になる
意志が強そうとか頑固そう!というのと、その人が意地悪そうというのは少し違う
一番の悲しい現実は、我が市の市議会議員の人相が段々悪くなってきているように見えることだ

確かに心痛を伴う事態に陥っている現実は彼らの中にはある(政治倫理審査会とか裁判とか)
だがそれ自体も、彼ら自身が招いたと言えないことはない

市議会議員だけでなく首長はどうか?
影響力の大きいポジションだけに単なる直感で選んでお終いというわけにはいかない
普通は自らの正当性を訴えるために、一見冷静で理性的に見えるマニフェストなるものを提示する

しかし、肝心なのは例えばここ最近のような例のないことが起きてしまって
マニフェスト達成が不可能になったときに、マニフェスト達成にこだわるか
それとも急遽方針を変更して今ある問題に取り組むかの判断ができる人かということで
結果責任を負う立場の人としては、現実的な手を打てる人(覚悟のある人)が
庶民にとっては正しい選択のように思える

困難な時期にその人が行いそうな判断をも予想して投票をする
というのが、正しい(?)選択のような気がするが、その予想というのが
個人差がありすぎて理性的ではないの一言で無視されるのが相場のような気もする

とはいえ、人は割合多くの場面で直感とか感覚に従って生きている
この人と馬が合いそう、、というのは話した結果ではなく、ふとそう思ったという場合が多い

将棋とか囲碁のプロのように、まずは第一感が正しい選択をするのがベストと思われるが
それが身につくにはそれなりの経験も必要なんだろう

いつものまとまらない話!

コメント
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