パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

音楽を聴いて思い浮かべる絵画

2019年04月30日 08時53分43秒 | 音楽
連休中の暇に任せて、心にうつりゆくよしなしごとを、、、

音楽を聞いて連想する絵は何か?
との問いが、あるSNSであった
すぐさま思い立ったのがヴィターリのシャコンヌを聴いて思い出す絵画のこと

シャコンヌと言えばバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ二番の最後の楽章のそれが有名だが
ヴィターリのそれもなかなか感情表現が濃くて印象に残る
クラシック音楽に関心があった小泉純一郎氏もこのヴィターリのシャコンヌのことを
なにかの本で取り上げていた

Youtubeにはたくさんの演奏があがっている
その中の1つがこれ

T.A.ヴィタリ 「シャコンヌ」 演奏:漆原啓子


この濃厚な感情の音楽を聴いた最初の頃から頭に浮かんだのはこの絵画


ボッティチェッリの「シモネッタの肖像」
正確にはこの肖像を思い出したと言うより、この絵を描いているボッティチェッリの姿を想像したというところ
シモネッタ・ヴェスプッチはその当時(メディチ家が隆盛を極めたルネサンス期)の美女の一人とされており
残念ながら若くして亡くなってしまったが、メディチ家のジュリアーノの愛人(恋人)とも噂されている
その美人を朝の空気のなかでスケッチしているボッティチェッリが何故か頭に浮かんで仕方ない

ボッティチェッリの描く女性の顔はこのシモネッタに似たパターンが多いので
彼は単なる対象としてのシモネッタというより、彼自身もシモネッタにある感情を持っていたに違いない
と勝手に思い込んでいる(知らえぬ恋は苦しきものを、、)

ところでYoutubeにはヴィターリのシャコンヌの動画が沢山アップされているが
男と女の演奏では曲に対する共感の度合いが女性の方が強いように思われる
冒頭から女性は内側から湧き上がってくる情念のようなものを感じさせる(小さな子でも)が
男性は変奏曲形式であるこの楽曲をどこか冷静に眺めているような印象を持つ

ということでこの曲に関しては女性の演奏するもののほうが好きかな
(オイストラフの演奏で知ったので、この演奏も好きだが)

続いて音楽を聞いて思い浮かべる風景は、、
となると、昔からヴァーグナーのジークフリート牧歌を聴くと
青空の下、緑の麦畑がそよそよと風になびく風景が浮かんでくる
この頭の中の風景は1976年にバイロイトに行ったとき祝祭歌劇場の近くで
見かけたものとそっくりだが、その時まで見たことのない風景だったのに
なんで見たこともない光景が頭に浮かぶのか、、と不思議に思ったものだった
(残念ながらその緑の風景は現在は住宅等が建っていて見られない)

音楽を聴いて連想する風景ではないが、風景と音楽のミスマッチみたいなのが
ベートーヴェンが田園を作曲したとき散歩していたとされる道だ


このハイリゲンシュタットの寂しい小さな川沿いの道からは「田園」を全くと言っていいほど想像できない
その場所に行ってみないと作曲家・作品の本質の理解ができないと言われるが
これは思い切り例外のような気がする
(この風景からあの楽曲をつくるベートーヴェンの凄さを再確認する)

しかしこの道(ベートーヴェンガッセ)ではなく、ハイリゲンシュタットの村の道とか建物の風景を
皇帝の二楽章を聴くとなんとなく思い浮かぶのは、これもまた不思議な気持ち

以上、徒然なるままに日ぐらし、心にうつりゆくよしなしごと、、、
それにしても、思い浮かぶことは、なんで脈絡もないのだろう  
人は無意識に想像以上に支配されているってこと?

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寂しがり屋

2019年04月29日 08時45分43秒 | 徒然なるままに
お金は寂しがり屋だそうだ
だから多くの仲間のいるところに集まる
結局お金持ちの人のところに更に集まるようになるという
最近の経済的な真面目くさった話は横において
ゴールデンウィークの人手もついこの言葉を思い出してしまう

ニュースは元号と10連休の話に終始しているが
馬力と気力がないので最初から混雑が予想されるところは
全く出かける気がない
でも、集まるところは集まるが故に集まっているかのよう
お金だけでなく日本人は寂しがり屋なんだろうか

みんなと同じことをしているとなんとなく安心する
ベストセラー商品を手にする
みんなが見てる映画を見る
みんなと同じような店や観光地に行って写真を撮ってSNSにあげる
「世界に一つだけの花」というものの、現実は群れから離れることを
恐れているかのように思うのは考えすぎか、、、

でも流石に10日間もダラダラとしているのは飽きてしまうし
人がいないところに出かけるのも拍子抜けしてしまいそう
結局そのうち人のいそうなところにモソモソと出かけることになるのかも
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会場にいた人たちのメンタリティ・属性は、、

2019年04月27日 09時29分52秒 | あれこれ考えること
昨晩、この選挙区の自民党議員の国会報告会(語る会)が近くの会場であった
この会を設定した人たちには、いろいろな経過から違和感を感じさせただろうが
気になることがあってでかけた

そこでわかったと言うか実感することが少なからずあった
自民党の応援団とか支持者というのは、このようなメンタリティの人たちなのか
彼らの希望することはそのようなことなのか、、、ということ

現実的と言えば現実的で、集まった人の代議士さんに対する要望は地域の少しばかり気になることへの
解決としての事業の予算化
そういうことが出てくるのはある程度仕方ないと思われる
市議会の議会報告会に置いても、また選挙時の謳い文句にも議員さんは地元のために、、と連呼するのだから

市議会議員や国会議員は、単なる地元のためだけではなくて市全体や国全体の視野でどうあるべきか
それを考え行政のチェックをするのが本来の役割だろうが、現実の世界は庶民にその視点は少ない

そこでフト感じたのだが、あの会場にいた人たちは国会中継を見ているだろうか
与党の答弁を、菅さんの記者会見を、どのように評価しているのだろうか、、ということ
あれを見ていてそれでも支持するのはある意味信念があるかもしれない
でも見ないで(知らないで)無条件に良きものとしているとしたら、、、

デリケートな民主主義は、選挙のときだけの民主主義になってはいないだろうか
と不安になった
細かい話は省くが、空気を読まないのが得意なので会場をひんやりさせるような質問
意見を述べさせてもらったが、つくづく誰にでも選挙権が存在するというのは
良いことの反面、とても怖いことだと感じる昨今だ





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 実写化して欲しい漫画・小説は?「共犯幻想」

2019年04月26日 16時21分04秒 | Weblog

絶対無理だと思うが、自分が映画監督ならこの映画を撮ってみたいと思っていた。
「されど我らが日々」とか「ノルウェイの森」「二十歳の原点」に通じるような
あの時でしか感じられないような焦燥感に満ちた作品

今でもこの漫画に出てきた
「今したいことはなんですか?」
「死ぬと分かっていたらしたいことはなんですか?」
「その2つの答えは同じですか?」
の問いを考えてしまうことがある。
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「それから」と万葉集の一句

2019年04月26日 08時43分46秒 | 徒然なるままに

寝床には「万葉集」の文庫本が置いてある
時々指差しで適当なページを開いて良さそうな歌を見つけて
覚えるとはなしに味わうと、おおらかなストレートな表現が
伸び伸びとしていて心地よいと感じる

実は万葉集のなかで一番好きな歌は、少し女性っぽいかもしれないが
坂の上郎女の
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ

有名な「茜さす、、」の額田王の歌も音もリズムいいが、ある映画とセットになって
こちらのほうが印象に残っている
最初にこの歌を見たときの本は最後の「そ」が「を」と印刷されていた

夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを」

個人的にはこちらのほうが切ない感じで好ましく思うけれど、どうやら「そ」
のほうが正しいらしい(残念)

ところである映画とは森田芳光監督の「それから」
松田優作と藤谷美和子が主演の映画で、淡々としかし徐々に緊張感を感じさせる映画だ
この万葉集の歌のように「知らえぬ恋」を代助と三千代がお互いに秘めているとして
映画を最初から見始めると、、、それはそれは切ないものとなる

ストレートに感情を表せない、、その仕草だけで感じてほしい、、
そのところが、受けての想像力を刺激してとても余韻のあるものとしている
どうも何事もストレートにわかり易すぎる表現よりは、ちょいと考えさせたりするほうが
好きなようだ(京都人はそういう傾向があるとか、、もっとも京都人ではないけれど)

ところで万葉集の中からもう一つ、山上憶良の
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも
これは、初めて教科書で読んだ時、大人たちはそう感じていてくれるのか、、と
嬉しく思ったことを覚えている

今年は元号の関係で万葉集が話題になるらしい、、
話題にならないよりは良いが、変に日本はすごい!のキャンペーンに使われないといいのだが




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覚えられない実感

2019年04月24日 08時39分17秒 | 徒然なるままに

昔のことはよく覚えているが最近のことはさっぱり、、
これが年令を重ねた人間のパターン
まして歳をとってから何かを覚えようとすることなど
恐ろしく不可能なこととさえ思えてくる
新しく外国語を覚えようとしても忘れるスピードが覚えるスピードを上回っているし
ミステリー小説を読んでいても一旦寝てしまうと登場人物の人間関係があやふやになる

と言っても、本当に肝心なことは歳をとっても必要に迫られて覚えられるかもしれない
(しかし、記憶に残っているのは本質に関係ないことも多いのは何故だろう)

最近外国出身の子供たちの勉強を見ているが、特に低学年の子が
漢字が読めなかったり、カタカナが書けなかったり、九九がスラスラと言えなかったりするのを
目の当たりにすると、この子たちの将来は大丈夫かと不安になる
しかし、考えてみれば心配なのは歳を重ねたこちらのほうかもしれない
(新しいことを覚えられないという点で)

最近つくづく実感するのは、覚えられないという感覚で
昨日読んだはずの小説の登場人物やストーリーがどこかに飛んでしまっている
(読んでいくうちになんとなく思い出すが)
まして新しいこと(外国語や文法)などはすぐさま出し入れ可能な記憶にまではなっていない
これがもしかしたら子どもたちの頭の中で起きていることに近いかもしれないとしたら
なるほどこのような状態なら面倒を見る立場の大人がいろいろ言っても、
わからないものはわからない、、となるだろう

ところで昔サッカーのコーチをしていた時、週一回の練習で前の週に習ったことを次の週に
できるようになっているかといえば残念ながら、前の週の技術は身についていず
再び前の週の練習時点からスタートするしかなかった
少しも身につかないなあ、、と思ったりしたが、それでも一年前の姿と比べると明らかに進歩していて
身についている(覚えている)
結局は基礎は何度も繰り返すしかない、、ということなんだろうが、子供のうちはテンポがゆっくりながら
まだまだ入っいく要素がある
しかし、大人たちは、、、、

ホント覚えられないことは覚えられない、、、
しかしそれじゃ困るので、どうすれば覚えられるか、、ということを考えなくてはならない
何回も何回も読んだり書いて覚えるか、、誰かに話すことによって覚えるか、、
大人たちは何かに記録しておくという形で記憶力の低下をカバーしているが
それは必要に迫られた手段というものの、それ故に全部が全部記憶しなくてもいいとの
心理となっているのかもしれない

ところで覚えられないことは多いが、それでも人と話すと(比較できるのだが)
変な記憶が優先す傾向はあるが、それでもまだいろいろ覚えているほうかな、、と
少し安心したりする

しかし、覚えているのは相変わらずどうでもいいことが多い
それが性格・キャラクターなんだろうが



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ドウダンツツジとシャラ(ナツツバキ)

2019年04月23日 08時51分23秒 | 徒然なるままに

この時期の楽しみは庭の木々の緑の変化
毎年驚くほど一気に新緑へと進む
ところが今年はどうも木々に元気がなく、オトコヨウゾメはまるっきり葉が出てくる雰囲気がないし
エゴノキも葉は出てるには出てるがどこか弱々しい
庭師さんに見てもらうと、オトコヨウゾメは既に駄目な状態
エゴノキも今は僅かに元気を保っているが時間の問題、、とのこと
(2本とも10年近く頑張ってきたのに)

生きているものが元気を失っていく姿を見るのは動植物を問わず
少しばかり悲しいものだ
そこで、思い切ってこの2本は抜いてもらって別の木を植え替えることにした
代わりの木を選択しようにもこちらは何の知識もないので庭師さんにお任せした
そこで提案されたのが、オトコヨウゾメの代わりにドウダンツツジ

昨日早速植え替えてもらった(上の写真)
ドウダンツツジは我が家のもう一つの庭(日本風)にも植わっていて現在はこんな状態

写真では花が少ないように見えるが全体的には元気な感じで、
この木は我が家の環境(土・日当たり)と相性が良いのだろうと勝手に想像して提案に同意した

エゴノキは大きな目立つ木だったので、それがなくなってしまうのはとても寂しい
同居人は大きな木は好みではないが(大きくなるのは嫌だ、、と)
自分は木漏れ日を作るような大きな存在感のあるものが欲しい
庭師さんが提案してくれたのがシャラ(ナツツバキ)だった
普通は白い花が咲くが、植え替えたばかりの今年に間に合うかどうかはわからないとのこと

毎年5月の定点観測時(毎月1日に庭の写真を撮っている)には、生命の勢いのようなものを感じさせる
瑞々しい柔らかな緑が目を楽しませてくれるが、今年は少しばかり控えめな新緑になるのかもしれない


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何故か気持ちが悪い!(アイドルグループのこと)

2019年04月22日 08時20分49秒 | 徒然なるままに

 玉手箱を開けた浦島太郎ではないが、今起こっていることでわからないことが少なからずある
AAAの誰かが見知らぬ女性に平手うちをしたとか、ピエール瀧という俳優さんがコカインを使用したとか
新潟のローカルタレントが卒業するとか、、
これらはテレビのワイドショーで大きく扱われているが、その人達の名前どころか存在すら知らない

浦島太郎状態はもう1つある
それはゲームの世界のこと
スーパーマリオもファイナルファンタジーも信長の野望も、、見たこともやったこともない
それで世間に遅れているとか焦りを覚えるかと言えば、そんなことは全く無い

年令を重ねて新しいことに関心が行かなくなったのかもしれないが
その代り別の自分だけの楽しみが深化していく
そして同時におっさんにありがちな現代の批判とか愚痴が多くなっていく

そのなかでずっと違和感を感じていたのはAKBなどのアイドルグループのことで、何故か「気持ちが悪い」と感じていた
メンバーの一人ひとりも知らないし、その人たちがどんな考えを持っているか知らないが
(それであれこれ言うのは問題かもしれないが)とにかく気持ちが悪い、、という感覚を最初から覚えた

何が気持ち悪いのか
それは普通ならやってはいけないことを、掟破りで受けるからやってしまう、、という気持ちが透けて見えること
もっともこの感覚はずっと前の「おニャン子クラブ」でも感じていた
どうもこの手の仕掛け人である方の感性が自分にとっては気持ちが悪いということだ

経済的に社会的に大きな影響を与えようが、どうしてもそれらのムーブメントを肯定的に捉えることができない
いろいろ屁理屈を探すと気に入らないのは多分、幼稚性(そしてある対象としての存在)
音楽でも複雑にハモって音楽自体の楽しみを実現するよりは聞きやすかったり歌いやすかったりに終始
またダンスもかわゆく、、の振り付けが多いような、、

少しづつ頑固で偏屈になりつつあるかもしれない
ま、田舎のおっさんがあれこれ言ったところどうなるものでもないが、、
毒にも薬にもならないお話

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得はしていない!

2019年04月21日 09時59分47秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

昨日は久しぶりにトヨタスタジアムにサッカー観戦にいった
いろいろ気づくところもあって、本来ならばその感想がここでの投稿となるのが普通なのだろうが
ちょいと真面目な部分の(本来はぼーっとしてるほうが好き)自分の頭には別のことが占めており
まずはそちらの方を優先して

と言っても、日曜で面倒なので自分のあちらからのコピペで、以下

先日の行政訴訟の中日新聞の記事を見て
「原告は得したね!」
とつぶやいたそれなりの立場の人がいた。
裁判の解決金として穂積市長が125万円が支払うことになっているから
そのような発言になったのだろうが、原告は何も得などしていない

解決金125万円のうち100万円は市に入ることになっている
残りの25万円は、原告側の弁護士費用の一部として支払われる(4月13日東日新聞に掲載)
弁護士費用の一部の表現があるように、実際はもう少し多く費やされており
その負担は市民の自発的な募金で賄われており「得」と表現する金額には遠く及ばない

そもそもこの行政訴訟自体が、不適切な契約・判断で市が受けた損害をそれを見逃した(見過ごした)
責任者(首長)は市に損害金額を返却して欲しいという内容だ
こうした公的なお金に関することなので、原告側が勝手に(自分たちが得するために)和解をすることはできないとされており、
和解という表現はふさわしくなく、終結判決によらない解決策という少し面倒な表現が使われている

得をした人が存在するならば、明らかに得をしたのは「市」だ
これに似ているのが、例の活動交付金の取り消された件で、これも一部の議員さんと市民の活動によって最終的には130万円ほどの金額が市に返却されることになった
両者ともおせっかいな市民等が騒ぐことにより100万円台の金額が市の懐の入ることになった

得したのは誰かの話から離れるが、行政訴訟の解決の記事は中日新聞と東日新聞に掲載されていたが、よく見るとその2つの記事は微妙にニュアンスが違う
合意内容について東日新聞は肝心なところが抜けている
東日新聞がどのようなニュースソースからその記事を作成したのかは不明だが、記事には「市が発表した」との表現があるので、何らかの形(FAX?)で、肝心な部分を除いてリリースされたのではないかと思われる
更にその記事にある市長のコメントが裁判の解決案との整合性がない
裁判所からの解決案は、疑義が完全に払拭されるにいたらない、、、とあるにもかかわらず
市長のコメントは、自分たちは適法に処理し、移転補償の是非は裁判の内外で保証基準の基準を満たしている
と勝手に言いきっている
繰り返すが裁判所はこうした一連の作業に疑義が生じることを認めており、必ずしも適切ではなかったとしている
新聞記事の一番怖いところはこのところで、詳しい内容を知らない人たちは新聞記事をそのまま信じてしまう
その記事が一部しか伝えてなくても(意図的に)、間違った内容であっても一旦掲載されてしまえば
そのまま記憶されるので、実情を知っている人たちがその記事は不完全と訴えても考えを変えさせることはとても難しい

ところで、新城市は26日に臨時議会が開催される
この時期に一体何が話し合われ議決されるのか、、、
ちょいと足を運ぶと面白いことが聞ける、、、かも

引用はここまで

昨日のサッカーの対戦はグランパス対ジュビロで、グランパスが1-0で勝利
サポーターも試合に参加している感じは生でこそよく感じられる
試合自体は地味な試合に終止したが、とりあえず勝利を収めたグランパスはサポーターともども一安心といったところ
一方ツキがなかったジュビロは、、、ちょいと心配な雰囲気で
やることなすこと裏目にでるパターンにはまらないと良いのだが、、
ところで、試合前の練習はどういう意図でその練習・アップをしているか、このうち練習に使えるものはあるか
などというコーチ時代の見方をついついしてしまった








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「カラマーゾフの兄弟」(何十年ぶりの再読)

2019年04月19日 19時39分43秒 | 

やはり最後の法廷のシーンは我を忘れるくらいに夢中になった
それはまるでミステリー小説のようで、読者は犯人を知っているのでもどかしい面があるが、
これが小説の中の陪審員のように初めて検察官と弁護士の話を聞いたらなば、自分なら果たしてどちらに
軍配を上げるか、、少し迷うところだ

何十年ぶりに急に思い立って読み始めたのが「カラマーゾフの兄弟」

登場人物のキャラが濃くて、その毒気に当てられそうで、名作と言われながらも
なかなか読み返す気持ちになれずにいたが、何故か読む気になった
すると、思いの外苦労せずにページが進んだ
つまらないと思われた最初の部分も、後のストーリーのための仕込みみたいなところがあって
小説家としてのドストエフスキーの技術を見るような気さえした

この本を最初に読んだのは高校時代
当時は自己主張の強い登場人物と気分の移り変わりの多いセリフに圧倒されて、書いていた日記に文体も
ストレートに進むというよりは、あっちこっちに行ったり来たりして随分影響を受けたものだった
圧倒されて批判的に見る余裕などはなかったが、今回は流石に年令を重ねている分だけ欠点と思えるようなところも気がついた
少し生意気だが、それは女性のキャラクターが割合似ているということ
グルーシェニカもカテリーナも気の強い女性で、割合似ている感じ
もっともカテリーナの最初の屈辱的な記憶を、自分で何らかの形で落とし前をつけないとやりきれない気持ちはわかるし
結局は(愛する)イワンを守りたいという気持ちが法廷であの証拠の品を見せることになるがこの気持も今はわかる気がする
以前はこの部分は大して気にならずにイワンとアリョーシャのどちらが正しいのか(大審問官とゾシマ長老の章ではどちらが説得力があるか)
ばかりが気になったが、人生経験を積むということは、、少しは弱い人の気持ちがわかるようになるということなんだろう

この本で一番有名なのがイワンの叙事詩、大審問官とその前の子供への虐待に対する部分
この部分は初めて読んだときからずっと記憶に残っていて、その後の対となっているゾシマ長老のエピソードよりは
説得力があった(自分にとっては)
大審問官の部分はフロムの「自由からの逃走」を連想させる
人はパンのみにて生きるにあらず、、、とされても、弱い人間は奇跡を期待する
奇跡がありさえすれば、、、、
しかし、奇跡ばかりを期待することは真に自由とは言えない、、、
その時に大審問官は救世主になり変わってわかりやすい行動指針や説教を行う
もう本当の救世主は必要とされない、、、
その大審問官の行いに救世主は何も言わず、彼に口づけるだけ
このロシア的な宗教観はこの後にも現れて、雄弁な感情のやり取りの後にすべてを受け入れるような
無言の肯定が、(理性ではわからないが)感情が生命力をもって、そういうものだと示す
それは結局ドストエフスキーの希望でもいあったかもしれない

本を読んでいない人には何を言ってるのかわからないと思われるが、今回自分が感じたのはこれらの事柄で
時を経て読み返すということは、なかなか良いもんだ、、、と実感


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