パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

真っ赤な太陽

2021年07月31日 08時16分02秒 | 徒然なるままに

二階の部屋の東側のカーテンを開けると地平線のあたりで
丸く真っ赤なものが目に入った
少しづつ遅くなりつつある太陽が顔を出したのだ
こんなに赤いものだったのか、、と今更ながら驚いた

驚いたのは自分だけではなかった
朝の散歩から帰った同居人が興奮気味に話しかけてきた
「おっきな真っ赤な太陽な出てた
 ほら、なんかそんな題名の歌ってあったじゃない」

部屋からそれを見たとき、自分も思い出したのはその歌だった
「美空ひばりの真っ赤な太陽、ね」

だが、そこで少し考えてしまった
真っ赤な太陽は、たった今見たように朝の太陽だ
歌詞にあるような昼間の海の太陽は赤くは感じない
ものすごく照りつけているから、太陽は凄まじい物理学的な反応を起こしているのはわかる
だが赤くはない

赤といえば、昔、槍ヶ岳から見たモルゲンロートはすごかった
常念岳の方から太陽が昇ると、紫とか赤っぽい色が辺りを包んでいく
太陽が昇るのと反対の笠ヶ岳とか双六岳の方は、言葉にできないほどの神秘的な色合いに包まれた
今でも、すごかったという印象は残っている

歌はリアルな描写をしてるわけじゃないな、、
あくまでもイメージの世界だな
フトそんなことを思った

それで人は(あるいは歌は)実態としての世界を生きているのではなく、
イメージの中の世界を生きているのかもしれない、、などと思ってしまった
 

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負けず嫌い

2021年07月30日 07時38分29秒 | 徒然なるままに

良いアスリートに共通する性格は「負けず嫌い」だそうだ
子供のうちは誰もが「負けず嫌い」だが
大人になっても半端ない負けず嫌いの人にサッカー選手のストイコヴィッチがいた
彼はほんの些細なことでも負けるのが大嫌いで、大人げないの言葉も出たらしい
負けず嫌いはジーコもそうだったし、今回メダルを取るようなアスリートはみんなそうらしい

銅メダルを手にした伊藤美誠さんは、メダルよりも先に負けた試合のほうが悔しくてならなかったようだ
それが次に繋がる練習のモチベーションになるようで、オリンピックはもしかしたら
「負けず嫌いの世界選手権」なのかもしれない

良いアスリートのもう一つは練習量だ
それも負けず嫌いが為せる技だが、常人が眺めると呆れてしまうかもしれない
だが、この一つのことに延々とできる性格は、スポーツの世界だけでなく他の分野にもある
以前、母の時間つぶしにのために購入した塗り絵の中に葛飾北斎の富嶽三十六景神奈川沖浪裏があったが
いざ塗り始めて見ると、波のしずくが嫌になってしまいそうなものすごい量だった
完璧な絵のためにはその量が必要だったというよりは、彼はそれを描いていた時に
幸せを感じていたのではないかとさえ思えていまう(そうでなければあの量は理解できない)

だが全てに受動的な小市民の自分は、とんでもなく負けず嫌いでもなく
こだわりを持った美意識とか、延々と同じことを続ける気合も気力もない
それは、ぐでたまとかドジのパンダに共感を覚えるような、どこにでもいるような
チコちゃんに叱られそうな人間だ

小市民は与えられたことを味わうだけかもしれないが、
それでも今回のオリンピックは「それは違う」と思えることを否定できない
これはいつまでも思い続けているから、実は自分も案外しつこいのかもしれない

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暑いと頭がまわらない(言い訳か?)

2021年07月29日 08時58分12秒 | 徒然なるままに

昔、漫画の「エイトマン」ではヒーローであるエイトマンは時々タバコのようなものを吸った
少年漫画でタバコ、、、は誰もが違和感を感じるが
タバコのようなのは実は冷却機能を果たすものだった
電子頭脳をもったヒーローは、電位部品に熱を持ってしまうと冷やすことが必要だったのだ
これは今の時代なら無条件にわかる

暑いとかなわんな、、は電子部品だけでなく、人間もそうだ
幸い田舎の自宅では下の階で、窓を開けて寝ればとりあえずはエアコン無しでも寝られる
だが、起きた後気持ちよく動けるかといえば、どこかぼんやりした感じ

夏は、駄目だな
年々そう思えてくる
子供の頃は朝のうちに日誌を片付けて、10時くらいに友達を遊びに誘いに行った
今と昔の気候は違うかもしれないが、それでも、よくやったものだ、、
と少しばかり呆れてしまう

この夏、エアコンを付けてオリンピック三昧は、あえてしないでいる
日中のエアコンは仕方ないが、全世界に嘘をついた酷暑の気候の後ろめたい気持ちは
無邪気にメダルを喜ぶ気持ちになれない

「パンとサーカス」の作戦には乗らないぞ!
と言いたいところだが、その作戦に乗ってしまっているような人の多いことに少し不安を覚える
だが彼らのほうがもっとしたたかで、オリンピクを楽しむことと、
政治の支持とは全く別と考えているかもしれない

何れにせよ、暑いので頭が回らない、、

夏は夜、、枕草子ではホタルの飛び交うのがをかし、、とあるが
そんな余裕はなくて、夏そものもを憎みたくなったりする

そういえば、不意に思い出したが、日本は国旗に太陽を描いているが
太陽ではなくて月を描いた国も多いらしい
なんでも太陽は厳しい暑さをもたらすので嬉しくない存在
一方、冷ややかな月は愛おしむべき存在となっているからだそうだ

それにしても、暑すぎるのはかなわんな、、

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ブラジルにいる2人と、一週間ぶりにzoomで勉強

2021年07月28日 19時45分37秒 | 子どもたちのこと

先週、ブラジルでコロナにかかってできなかったZoomでの勉強を一週遅れで行った
コロナの影響は、お姉ちゃんと弟の症状は味覚が無かったとのこと
弟のAくんがこれ(味覚障害)を日本語で説明するのには少し難しかった
でもジェスチャーで説明しようとしていたから、程なくわかった

最近はお姉ちゃんのほうが勉強する気満々だ
日本から離れて、ただ単に日本語の勉強をするのは面白くないので
同学年の子でも知らないことをちょいと教えている
その一つは新城市に来た戦国武士の話だが、
前回は織田信長、鳥居強右衛門、松尾芭蕉、亀姫だった
今朝はその続きで、新城に残る伝承として武田信玄が野田城で銃に撃たれた
というエピソードを伝えた(女の子には面白くない話かな?)

武田信玄が野田城攻めのある晩、笛の音色に誘われてふらっと出たところを
銃で狙い撃ちにされて大怪我をしたという話だ
その銃は現在「信玄砲」と名付けられ設楽原歴史資料館に展示されている
その写真を見せて、君たちの今までいた新城は面白いところだったでしょう、、
と今更の情報をつたえた

ここまでは、普通のお話
それにプラスして黒澤明監督の映画「影武者」の冒頭とラストシーンの話をした
ファーストシーンは野田城で銃に撃たれるエピソード、そして最後は長篠の戦いで
馬防柵から馬に乗った兵士が撃たれるシーンで、最初と最後は新城が舞台なんだよ
と伝えたら、お姉ちゃんは影武者のポスターの文字を、手元に文字として残した
彼女は先程は、鳥居強右衛門の名前も書き残したと思われる

この他、自分ですこし考えた雑学的なお話をしてみた(万葉集や百人一首など)
これは機会があれば次の機会に、、
勉強はしなければならないと思うと面白くないが、人が知らないと思われることを
自分だけが知っているというのは面白い
だから、その手の話をすると彼女はいやいやの勉強ではなく興味津々の感じだ

弟のAくんは、日本語の会話の絶対量が足りないので、前より言葉を忘れている
そこで、また最初にもどって普通の会話ができるようにおしゃべりをしてみた
彼は今縄跳びをして、89回連続してできたと嬉しそうにいう
「二重跳びはできる?」
「二重跳び?」
ここで二重跳びの説明を画面越しに行う
こんな時間が結構楽しい

「それじゃ、バイバイ、また来週ね」
画面の向こうの2人の表情は、次もきっとやる!と実感させるものだった
さて、お姉ちゃんの面白いネタを、こちらもしっかり準備しなければ

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次に誰を応援するか?

2021年07月27日 09時32分40秒 | あれこれ考えること

高校野球は当たり前のように地元の高校を応援する
まずは地区予選では市の代表を応援して、市のチームが負けたら隣の市のチームを応援する
甲子園の本番では県の代表を応援する

ここからが今日のテーマだが、地元の代表が負けた後、次は何を応援するか?
愛知県民である自分の家族は、愛知県代表が負けると隣の県である岐阜県、静岡県のチームを応援する
たとえ応援はしなくても気にしている(隣でも三重県にはあまりそういうことはないようだが)

話をオリンピック、あるいはワールドカップに変えると、応援するのは当たり前だが自国だ
だが、それが敗退してしまうと日本人はどこを応援するだろうか
一部のマニアックな人を除いて、地元だから応援していたような人はどこを応援するか
先の高校野球の例からすれば、隣の国となるかと思えば、それはどうだろう

日本ではなくアフリカの国、中米の国では自国が敗退した後は
同じ地区に存在するのチームを応援するらしいと耳にしたことがある
それは、アフリカ全体対他の地区の戦い、中米対ヨーロッパの戦いと
解釈をし直すからだと言われる

世界戦でアジアの一員である日本が負けたら、同じアジアの韓国とか中国を
日本人は応援するだろうか
それはどうもそうではなさそう、、と想像できてしまう
韓国や中国が活躍しても同じアジアの一員として頑張れと応援する気になれるかは
感情的に無理なような気がする

仮に応援できる人がいるとすればそれは韓国・中国に知人のいる人
あるいは韓国・中国のチームと戦ったことのある人ではないだろうか
戦ったことのある人は同じ競技者としてのリスペクトができるので
彼らを応援するのはごく自然にできる
ところが、少なくとも隣の国には負けたくない、、と思う大半の人は
範囲を広げてアジアの一員として頑張れ!という気にはなれないのではないか

自分たちが負けて隣の国が勝ち残ると、そこに生まれるのは嫉妬心だ
もしかしたらアフリカでも南米でも、やはり隣の国の活躍は素直に喜べないのも現実化もしれない
(アルゼンチンがブラジルの活躍を素直に喜べない気持ちは想像できる)

これはみっともない、、というよりは、こころの行う仕方ない傾向のような気がする
本来ならば、応援すべき、、と理念上思われても、感情が受け付けずそれができない、、
というのはありうることだ
人はそんなに簡単にすべきこと、行動をできるわけではない

その矛盾した存在自体が人というものだが、今大会の開会式では(見なかったが)
ジョン・レノンの「イマジン」が使われたらしい
イマジンの歌詞には「国境なんてないと想像してごらん」との一説がある
地球人としてグローバルな視点をもった人になろうと歌っているのだが
皮肉なのはオリンピックはむしるナショナリズムを意識させる場であることだ

メダルの数や色を競うのは、個人だけの問題に収まらず国対国の問題となっている
そして現実に、昨日今日の報道でも「日本のメダルは、、、」と興奮気味に伝える
最近の日本のメダルが増える傾向にあるのは「強化費」の増大のおかげという人がいる
確かに経済的に豊かな国は、そうでない国よりはメダルも取れているし
ワールドカップでもいい成績を収めている
とすれば、スポーツの戦いでありながら少しは経済の戦いでもあるような気さえする

話が例のごとくあっちこっちしてしまったが、他国を応援するというのは難しいということ

人はジャイアント・キリング(下剋上)のような番狂わせを望む一方
スーパースターのいるチームの権威がそのまま保たれるのを望んでいるのはないか
特に日本人は権威付けされたものに対して、それが守られる方を望んでしまいそうなはないか

馴染みであるスーパースターのいるチーム(あるいは権威)への共感は、
政治の面では、毎日のようにテレビにでてくる政権与党への信頼に結びついているのではないか

とういうより、露出によってメディアはそうした傾向を加速する力をもつということで
人は馴染みであるということそれだけで信頼してはいけないのだが
現実は、それに気づいて、意識的に行動するのは、、、難しそうだ

常識的に考えると、これだけの失態を重ねる現政権は次の選挙で十分すぎるほどの
お灸を据えられて当然と思うのだが、結果はやってみないとわからない
もしかして、権威に弱い姿(変化を好まない姿)を露呈して
地盤の力(あるいは露出量の差)でねじ伏せられてしまうのだろうか

最近のパンとサーカスで狂喜しているような姿を見ると、少し心配


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勝負に臨む心構え

2021年07月26日 09時18分12秒 | 徒然なるままに

いくらこの時期のオリンピックに賛成できなくても
洪水のように流される日本人選手の活躍を知れば
心が高揚するのは仕方がない

昨日は柔道で阿部詩、一二三の妹、兄が金メダルを手にした
へそ曲がりなので感動物語ではなく、別の視点(思いつき)から
ちょいと眺めてみる

妹の詩は試合後のインタビューで「絶対勝つ」と気合を入れて
勝負に望んだと答えている
試合に臨むのに、このような強い気持ちが当たり前になったのは
いつからだろうと考えてしまう

美空ひばりの歌に「柔」がある
その歌は「勝つと思うな、思えば負けよ 負けてもともと、、、」と続く
少なくとも勝ちに拘った感じではない
この歌の作詞家は現場(戦う人)の気持ちを、実感としてどれだけ理解していたかわからないが
このような気持ちの持ち方をしたほうが良いとする社会的・文化的な雰囲気が
当時はあったのかもしれない

だがそれは徐々に変わっていったように思う
いろんな柔道に限らずサッカー等の戦いでも選手たちは
「絶対に勝つ」という気持ちで臨むことが多くなった

それが主流になったのは、そう思って臨むほうがいい結果が得られるからなのだろう
となると「柔」の歌は少し観念的すぎて、勝負師ではない素人の感覚に近いのかもしれない
と同時に、「負けともともと」という感覚も、今の感覚からすると違ってくるかもしれない
「負けてもともと」の歌詞は既にどこかで保険をかけている感じだ
退路を断って、覚悟を決めての気持ちとは随分と違う

野球でバッターがノーストライク、スリーボールになったとき、
次のボールをどのように迎え撃つかを考えると、アメリカ人と日本人は
少し違う考え方をするらしい
野村さんを始めとする日本人の典型的な考え方は、次のボールは見送る
それはフォアボールになって塁に進める確率が高いからのようだ
(コントロールの良いプロの選手でもミスすることはあるので)
ところが違う考え方をする人は、次はピッチャーはストライクを取らねばならないので
ストライク優先で多少甘いコースのボールが来る可能異性があるので撃つチャンスと考えるようだ

結局のところ、どの考え方が正しいかどうかは、結果でしか判断はできない
勝負師は結果が全てだ
勝ち負けがはっきり出るのは過酷な世界の住人だと思う(囲碁将棋のプロも)

ということで、戦いに臨む気持ちから、いろいろ思いついたこと

それにしても酷暑の中のため、ついにテニスの選手から試合時間の変更を要求されたが
出るべくして出た問題で、そんなのは前からわかっていたことで、この大会の運営に腹が立つ

問題は、東京に招致する時のプレゼンには「この時期は温暖で理想的な気候」と記されている点で
「こんなのは嘘だ!」と常識的な日本人なら思うことだ
それが「書かれたことは正しい」の文書主義(?)で、おきかねない問題は先送りの
無責任体制で進められていくことになった(それが当日になって表に出て)
だが、この嘘を見て見ぬ振りをしたのは、関係者だけだったのか、
それとも甘い言葉に無視を決め込んだ我々だったのか、、、
それを思うと少し暗い気持ちになってしまいそう




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人が感じる、人あるいは国家の全体量

2021年07月25日 08時43分13秒 | あれこれ考えること

国立競技場前でオリンピックの雰囲気を味わいたい人たちが集合した
その同じ場所にオリンピック反対を訴えるデモ参加者もいた
「うるさい!」
始まってしまったからには、みんなで楽しんで応援しようと
考える人にとっては、確かにこういう声が出るのはわかる

だが、自分もそうだが、なし崩し的にある一部の人たちの都合で開かれてしまった
この大会はどうしても、今でも、反対の気持ちを捨てることはできない
ドイツにいる人が、ドイツ国内のオリンピックに関するニュースをyoutubeで紹介していたが
当初はオリンピック開催は無理だろうとの雰囲気があり、途中からは賛成反対の分断化が起きて
政府が無理やり推し進めたというトーンの報道がなされていたとしている

始まったら、どうすべきか、、は昨日、おせっかいにも心配したメディアが
その不安を一気に加速させる
テレビ番組はどの局もオリンピックばかりだ
あえて見ないようにしていても、時々のニュースにオリンピクが挟まれる

それにしても、こんなに高揚感のないお祭りは初めてだ
それは単に分断化されたからだけではなくて、今回のいろんな経過で
日本という国が、すごく劣化していると感じざるを得なかったことが大きい

いきなり話は飛ぶが、人と話していて、その人の総量を感じることがある
会話をしていて、その人の会話以外の知識の量とか感情の深さとか
つまりは全体として感じる人間性を、なんとなく感じる
一般的には雄弁であれば人としての総量は多いとされるかもしれないが
雄弁はその分野の(他人が知らない)知識、あるいは経験を話すことによって
信用できるものとされる
しかし、よく知ってるな、、と感心しても、
全人格的ではないな、、と、その人の総量に不満を覚えることは時々ある

極論的に言えば、言語化されない概念は役に立たなかったり、
精緻な考察はできないかもしれないが、言葉として発露する限界があるのも事実だ
言葉を(あるいは考えを)出すことすら無意味と思われるとき(新たな議論を生んで)
沈黙は言葉以上の意味を持ちうる
カラマーゾフの兄弟では、イワンのあの大審問官のエピソードの中で雄弁な大審問官に向かって
キリストの生まれ変わりとされる人物は無言で、ただ大審問官に口づけだけをする
このように言葉には言葉ではなくて、無言で相手に対応し、言葉以上の効果をあげる例は
このやたらと密度の濃い小説の中で、あと2回ほどあったような記憶がある
言葉は発しなくても相手の受け取るイメージなり印象は、全体としてその人を捉える

話は戻って、日本の劣化という言葉を使ってしまったが、この劣化を感じるのは
日本の表に出ていること(例えば開会式の演出)に背景としての深さがないように思えてならないからだ
議論は条件反射のような瞬発力とか自説の強引な押し付け
そしてその数が多ければそれが当然受け入れるべきものとされるような風潮
エンタメは今面白いか、、(背景知識を必要としないで)トレンディか、みんなと同じか
そんな価値基準が幅を効かせすぎているような気がしてならない

年取ると今の若いもんは、、と説教したくなるが、説教とまではいかないが
人としての総量のなさを感じざるを得ない人物の多いことに不安を感じる

これを一言で言ってしまえば、リベラルアーツが身についていない人が多すぎる
ということになるかもしれない
だが、ここでややこしくなるのは、リベラルアーツを身につけて諭す人に対して
ある種の人びとはエリート意識が高い、、と批判の声を挙げそうなことだ
(それを反知性主義というらしいが)

だが「大衆の反逆」の著者オルテガによれば、エリートは必ずしも知識人の層に
いる人だけでなく、日々の仕事に常に問題意識をもって取り組む職人さんの
考え方もエリートそのものだとしている
つまりは自分の内部に生まれる声に向かっている人がエリートで、
それが十分になされている人が人としての総量が多い、、と自分は思えてならない

ということで、まとまらない抽象的な話

ところでワクチンの影響は、今のところ摂取箇所が少し重い感じで
それ以外は何もなし、、、このままで行くと良いのだが


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ワクチン接種2回目

2021年07月24日 17時01分06秒 | 徒然なるままに

朝から流されているオリンピックの番組は無視して
いつものような生活をしようとしている

今日はワクチン接種の二回目だ
既に一度経験しているから準備は万全
予診票を書いて、熱を測って、本人確認種類を準備して、お薬手帳と
待ち時間のための本とハズキルーペをバッグに入れた

所定の時間(15時半)より少し早く行くが、上には上がいるのは今日も実感
自分は遅い方だった
本人確認書類は免許書ではなくて、使いみちがないパスポートの出番とした

何の滞りもなく次へ次へと続く
いざワクチン接種となると血液サラサラの薬のことを尋ねられた
今は一種類だが、お薬手帳の前のページには二種類となっているので
気になったらしい
今は違うと伝えて、今度は別のことをこちらから聞いてみた
「腰痛のため湿布薬を用いているが、それは使わないほうが良いのか」と
「ロキソニン系、、ね、我慢できるなら使わないほうが良いかも
 少し影響があるかもしれないので」
これを確かめたのは、先日、知り合いから、「湿布薬は摂取の前後は使わないほうが良い」
とする専門家の説を聞いたからだ

ということで、我慢できないほどではないので、二三日は湿布なしにしよう

最近、2回目を終えた人に、その様子を聞いてみた
1人は翌日昼過ぎから熱が出たとのこと
もうひとりは一回目よりもどうってことはなかった
つまりは個人差がある
できることなら自分は、どうってことない、、立場になりたい

ワクチン接種はとりあえず終了
さて明日はどんな感じか、、

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オリンピックを伝えるメディア(に対する不安)

2021年07月24日 09時30分55秒 | あれこれ考えること

オリンピックが始まった(開会式はあえて見なかった)
分断を招いたオリンピック
そもそもオリンピックは誰のため、何のために開かれるか
明らかにされないまま、なし崩しに開かれることになった

コロナ感染者の拡大が起きなければいいと願うばかりだが
(熱中症も心配)
これからの2週間ばかりの出来事で興味があるのは
メダルの数ではなくメディアの伝え方とその量だ

先の大戦でメディアの果たした役割は無視できない
厭戦気分が漂うかと思えば、いつの間にか感情的な勇ましい
それいけどんどん的な雰囲気にもなった
(太平洋戦争と新聞、戦争と新聞を読むと)

その時代の代表的なメディアは新聞で、その中には腹を据えて
戦争反対の意見を危険を覚えながらも訴えた人がいた
だがそういう人も、暴力の力に次第に押されていく
そして世間の空気は、まさに空気といった不可思議な実態のないものに
支配されていく

その経緯は、どこか現在進行中の出来事に似ている
オリンピック反対を訴える人は「反日」
その決めつけは戦争反対を訴える人は「非国民」と決めつけた過去の出来事を思い出させる
そしてメダル報道が増えると、きっと高揚した気分になりそう

そして何よりも怖いのは、あたりに充満する空気が
上からの命令に従うとか従わざるを得ないといったことではなくて
むしろ知らないうちに出来上がっているかも知れないということだ
厭戦気分から高揚した戦いの気分になったのは、必ずしも上からの力だけのせいではない
その一つがメディアの果たした役割だと思う
(松岡洋右が国際連盟脱退した時の新聞の書き方は、今見るとショックを覚える)

人の気分、無意識的なものに働きかけるのは、結局は情報だ
「人は人、自分は自分」と考えることが少なく、
絶えず他人の目を気にする傾向のある日本人は、多数の人はどう考えるかを気にする
そして自分が多数の中の1人でいることに安心感を覚える

一人ひとりが個人の判断で何かを行うというのは、必然的に責任を伴う
判断に困るような決断は自分ではしたくない
例えば父母のがん手術とか延命治療の有無の判断は、担当医師のアドバイスを
聞き入れることで自己責任から逃れられるので、ありがたいものとなるのと同じで
自分はそうではなかった、、といつもどこかに逃げ口を確保しているようなものだ


意識の分断されたオリンピック
これで感染者が想像以上に多くなれば、だからすべきではなかった!と
後でメディアはいうかもしれない
(それを正当化するためには、ひっそりとそのような情報も流しておく)
だが、報道のメインとなるのは高揚した気分を煽るものとなると思われるし
人々もついそれに接してしまう

メディアも営利企業の一つで、売れるもの求められるものを提供しているに過ぎない
かもしれないが、その果たす役割が大きすぎるので、人はその扱いとか受け取り方には
注意が必要だ

先日、「世界価値観調査レポート」最大77カ国比較から浮かび上がった日本の特徴
という報告書をネットで知った
興味深い調査結果が出ていたが、今回取り上げるのはメディアについてで
調査によれば「日本はマスメディアを信頼、新聞・テレビから毎日情報を得る」が48カ国中一位
となっていた

新聞社やテレビ局が各々の媒体の良さをアピールするための調査ではなく
単なる国際比較の点が面白い
組織や制度を信頼できるか「新聞・雑誌」についての調査は
信頼できるとするのが、日本はベトナム、フィリピン、バングラディッシュについで4位だ
(69.5%が信頼できるとしている)
ちなみに韓国は18位(49.6%)ドイツ32位(36.7%)
イタリア45位(30.2%)、フランス46位(29.7%)、アメリカ47位(29.6%)
つまりはマスメディアに対する信頼感は日本は高いということだ

情報源となるマディアとしてテレビを挙げているのが日本が一位
2位がフィリピン、3位がボリビア、4位韓国、5位トルコ
ドイツは14位、アメリカは36位となっている

ただここでふと考えてしまった
日本がマスメディアに対する信頼が高いのは、信頼しているからではなくて
楽に情報を得られるからではないのかと
日本では自らの手で調べて情報を手にするプル型は面倒くさいので
勝手にやって来るプッシュ型の情報提供に慣れすぎているのではないか

例えば今回のオリンピックに関しても海外はどう思っているかは
現実には英語とか他の言語のニュースを調べなければならない

だがプッシュ型の報道では、海外ではこのような事になってます
と誰かが選んだ報道内容を伝えることになる
そしてそれはもしかしたら多数の空気ではないのかもしれなない

つまりは何かを知るということは、向こうから勝手にやってくるものではなくて
こちらから探しに出かけないと身につかないのかもしれないということ
しかし自ら探しに出る情報は、自分好みの情報のみを探してしまう可能性・危険性もある

話は逸れたが、今回のオリンピックは次のためにも
メディアが何をなし得たか(何をしでかしてしまったのか)をチェックしておきたいと思う

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勝ちと負け

2021年07月22日 09時22分31秒 | あれこれ考えること

プロの音楽家(演奏家)を目指していた友達が、ある時
「スポーツが良いよな!勝ち負けがはっきり出るから!
 その点、このまま音楽の道で良いのか悪いのかは答えがなくて
 ずっと悩みっぱなしでいなければならない!
 スポーツのように結果が出れば、スッキリ諦められるのに、、」
とこぼしたことがあった

オリンピックが始まる
へそ曲がりな自分は、今回は素直に喜べない気持ちでいる
テレビ中継も自分からは見る気がしないし(一部を除いて)
スポンサー企業の製品もあえて購入しない気持ちでさえいる

一部の競技は見るとするがそれはサッカー男子だ
だが、それはオリンピックだからというよりは、強い相手と戦う姿と
自分たちの改善点と、試合の中の気持ちとか戦術の変更を見たいがためだ
それが可能なら、オリンピックでなくても良い

勝ち負けがはっきりする勝負事は、負けることによって何かを得る機会となる
東大の学生が囲碁を覚えるのは良いことだ、、
と「ヒカルの碁」でブームになった時、ある人が声にした
それは負けることを知らない成功者としての東大生が
負けるということを知る良い機会になるからだ、、との意味が込められていた

スポーツや囲碁将棋は、勝ちと負け、答えははっきり出る
オリンピックに話を戻すと、日本選手以外のどの選手にも
それぞれの涙を誘うストーリーがあるに違いない
勝った人だけが壮絶な努力をしているわけじゃない
だが身内びいきの報道は(それはある程度仕方ないが)感情的なストーリーを伝える
(勝利した場合は特に)
そしてその勝利は人に高揚感を与える
見ているだけで自分が努力して果たした結果ではないのに、我がことのように喜ぶ
この気持ちがどうして生じるかはわからないが、そうなることは理解できる

だが正直なところ、自分は今回のオリンピックはそうした自国の勝利者にさえ
高揚感を覚えないかもしれない、、とさえ思う

何かが根本的なところから違う、このやり方で良しとしていいいのか
と疑問や違和感がずっとついて回っているからだ
コロナ問題以前から、このオリンピックはこの時期の猛烈な暑さ故に抵抗感があった
絶対に行う時期が違う、、と感じていた
テレビ放映の都合でこの時期になったとされるが、そのような商業システムに振り回されて
一種の見世物的になってしまって、つまりは現代の商業主義的なイベントに
大義名分をつけて行われるオリンピックは、本当に良きものなのか、、が疑問で仕方ない

勝負事は勝ち負けがはっきり出る
運不運を含めて4年に一度の残酷さ、それも人には理解できない天の采配かもしれない
それらの結果は当事者が、時間をかけて内的な消化をして、
いつかその結果は正当なものであったと思えるようになるしかないだろう

だが、オリンピックがこうした選手一人一人の内的な物語をつくる機会だとしても
今回のオリンピックは、勝ち負けの荘厳さ(残酷さ)を単なる見世物化したようで
とても気分が良くない

そしてホスト国の日本
一体、どうしちゃったんだ、、と思うようなことが後から後から出てくる
かつては日本は現場がしっかりしていると言われたが、今出ているのは
現場の想像力のなさから生まれる情けないことばかりだ
この一連の情けないドタバタは、
既に日本の劣化が始まっていた、、という説に、つい納得してしまう

勝ち負けから判断すれば、日本は既に負けの状態であったものを
それを認められすに長いこといたのかもしれない、、とさえ思う

オリンピックを前にしても、少しもウキウキしない
この気分でいることは、形としてここに残しておく




 

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