パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

市の予算の使い方

2022年06月30日 09時09分39秒 | 市政、市議会に関することなど

エアコンのない生活なんて今は考えられないですね!
木曜日の朝、校門で皆を待っている校長先生に話しかける
既にエアコンのある世界が当たり前になっているので
かれは大きくうなずく

でも、理科室とか図工室とか音楽室などは、まだ入っていないんですよ
まずは第1段階の計画として教室に入れて、次に特別教室に5年以内くらいに
いれるものと思っていたのですが、いつ入るかわからないみたい

その予算はどのように要求するのですか?

教育委員会に依頼して、、、
でも教育委員会は他の部署の予算との取り合いに頑張っているので
具体的なエアコンは進まないかも、、、

こうした話はずっと前から同じようだ
給食室の老化で傷んだ箇所を直す予算も、体育館の切れた電球を直す予算も
他に優先すべきところがあって、市はそちらに回す余裕がないらしい

ならば、他の部署の優先すべき予算は、なんだろう?
と想像してみると、詳しい情報を知っていない一般市民としての立場では
2つ3つ無駄ではないか!と思われるものが目につく

先日の市議会の一般質問で、事務事業評価を取り上げた議員がいた
それによると事務事業評価はどうやら庁内で行われることが多いらしい
客観的な外部評価をしているのは日本の地方自治体でも多くないとか

自分たちの内輪で事業評価をすれば、抽象的な文言による甘い結果になることは想像できるし、
実際に一般質問でよく問われる高速バスとか地域自治区、若者議会市民まちづくり集会
などの評価は、効果があるかどうかはわからないが、実績の報告で評価とされている

ある条例を作成する為の会議に参加したことがあったが
そのとき話は少しそれたが行政に強く望んだのは、事業の評価をキチンとしてほしいことだった
それには抽象的な言葉で済まされるのではなく、具体的な(数字的な)評価基準を設けて
行ってほしいということで、つまりはまずは評価基準の明確さを求めたのだった

だが、それは検討されることはなかった

何に優先的にお金を使うか?
実は現場が一番知っているかもしれない
だが、その現場の自己主張が強く競うようになると、今度は予算が足りなくなってしまう
そこで予算配当枠方式という方法があって、目標値が設定されてその範囲内で
各部署が予算を要求するらしい

現場がよく知っている不足部分よりも予算が優先されるのは
選挙で選ばれた首長のマニフェストらしい
市民がそれで選んだ人なので、首長の方向性は無視できないということで
まずは確保されるのは首長マニフェストということになるらしい
首長マニフェストに入っていたのが、自分の評価の低い高速バスや
市民自治の活動の一環とされる、やたらと会議の多い事業だ

となると、一見素晴らしそうなマニフェストに選挙は
ある意味で現場を反映できなくなってしまう恐れがありそうな気がする

とまあ、勝手な想像をしてしまったが、現実の話で教室にエアコンがあっても
理科室、図工室、音楽室にエアコンが無いというのは、子どもたちがかわいそうだ
何とかならないものか


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サーキュレーター

2022年06月29日 08時45分26秒 | 徒然なるままに

昨年は近くのスーパーの特設売り場にUSBの扇風機が売られていた
首にかけたり手に持って使い、猛暑の様子を紹介するニュースでも目にするあれだ
我が家もあまり安くない、しかし高くないそれを購入して、そろそろ活躍し始めている

今年、スーパーに並んでいるのはサーキュレーターだ
例のごとく価格は安いものから中間、少し値が張るものまでいろいろだ

始末屋の偉い人にそのことを伝えると、珍しく「買おうか!」の一言
我が家のエアコンは部屋の中の温度の調整が難しい
涼しすぎるところもあれば、一向に涼しくない場所がある
自動的にセンサーが働いてそうはならないはずだが、、

善は急げ!で家電屋に向かう
スーパーでもいいが、なんだか家電屋のほうが安心するらしい

ところが、それは目立つ場所に置いていない
意外な気もしたが、奥で見つけて、どのクラスを購入するかを決める
価格帯がバラバラすぎると少し困る
安いものはすぐ壊れそうな気がするし
かといって高いものは外れると気持ちよくないし
結局、松竹梅の真ん中の商品を購入した

で、暑かった昨日、初運転をした
冷房時はエアコンを背にして使うらしい

効果あるのかな?
直接的な効果はあまり感じない
放ったらかしにしてしばらくすると、室内の照明が静かに揺れ始めている
なるほど空気は動いていると目に見える
室内の場所による極端な気温差は減った気もする

効果あるかもしれないと強く感じたのは階段を登ったときだ
今まではエアコンを着けていても、最後の2.3段のところは温かい空気がとどまっていた
ところが、昨日は思いの外そこは涼しい
床もいつものような床暖のようではないような気がする

ということで、自分たちの出費を正当化するために、その効果を認めようとしている
そんなに高くなかったし、、ま、良いか!

サーキュレーターの一箇所には、例のごとくマジックで購入日が書かれている






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バカにする人、される人

2022年06月28日 06時18分08秒 | あれこれ考えること

東海地方も昨日、梅雨明け宣言が出た
雨は嫌だが、あまり降らないとダム水量が心配になる
今朝も涼しいうちのボケ防止を

庶民がバカにしている政治家よりも危険なのは
庶民をバカにしている政治家!という言葉がある

庶民をバカにしている人(政治家)とはどんな人かを
参議院選挙を機会によく考えてみることは必要だと思われる

日本の選挙は考えてみると、不思議というか理不尽なことが多い
国政選挙にトライするには供託金が必要で参議院は300万円
立候補するだけでそれだけのお金が必要になる
その他にいろんな出費があるから、現実的に普通の人は立候補できない

立候補できるのは党の応援がある人で、
その中には「とんでも(ない)」人物も現れる

民主主義と選挙という制度は、どうも相性が良くないようで
あるべき姿よりは現実として「数は力だとする」多数決主義がまかり通っている
当然ながら、党は多数決の頭数を増やすために選挙の勝ちを目指す
その時、選挙に強いのは誰か?と思い浮かべると、一番簡単なのは「著名人」となる

その著名人が政治的な背景や深い思いとか熱意があれば良いのだが
単に「著名人」というだけの商品価値しかない人がいる
メディアが候補者に政策に関してアンケートをとった
そのアンケートに「回答なし」と答えたある女性候補が
現状分析ではその地区のトップ当選をしそうだとの報道もある

これなどは理解不能な、納得したくない出来事で
党自身が庶民をバカにしているとしか思えない
(更に残念なのは、バカにされている庶民がそれに気づかないことだ)

一人一票しかない選挙人の力は、大衆とかの言葉で代表される
非理性的な行動を起こしやすい
個人個人がそれぞれの意志とか判断を持つよりは、風向きを気にして
その主流にいることで自分が安心してしまいそうなメンタリティを
ついつい発揮しがちな人々

そうした庶民を意識高い系の庶民がバカにしても仕方ない
ただ現実はそこにある
問題は、こうした危うい状況をどうすれば変えていくことができるか
となるのだが、これが答えなしの難題だ

今回の選挙、投票率はどうなのだろう
庶民は庶民自身の力で何かを変えようとするのだろうか

後世の人に「あのとき何をした!」
と問い詰められないような選択をしなければならないが
少なくとも自分は自分に言い訳できるような選択をするつもりだ

それにしても、、、




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長袖の服を持ってきた理由は、、、

2022年06月27日 09時09分50秒 | 徒然なるままに

暑いのに彼女は長袖の服を手に持っている
暑いから手を離そう!
と言って、ずっと続いてきた手をつなぎながらの登校は
これを機会に最後になるかも

月曜日のルーティンワークは、近所の子どもと小学校の校門までの付添
土曜日は球技大会だったので、今朝は代休かと思ったが普段どおりだった
(球技大会は皆がするわけではないかららしい)
なんで暑いのに長袖の服持ってるの?
うんとね、エアコンと扇風機の風があたってね、それでね、、、
なるほど、そういう訳か

朝8時前でも、じんわりと汗が出てくる
日陰がとてもありがたい
木陰というのは本当にありがたい
昔、三ヶ日で行われた夏休みのサッカーの大会では
選手の控えの場所は木が茂った中にしたが
湿度を持った土とか、日を遮る葉っぱのありがたさを感じたものだった

校門近くの日陰になると、ああ涼しい!といって一息つく
日傘をさしてくる生徒もいる
今日は水泳があると言って、その荷物を自分に手渡した子もいる
遅れた弟を無視して集団登校をし始めたお兄ちゃんがいる

つまりは、いつもの光景だ
それにしても暑い
駐在さんは日陰を探して椅子に座って進入禁止の車のチェック

そういえば、まだ蝉の声は聞こえない
今日は我が家でもエアコンを使うようになるかな、、




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暑くなってきた!

2022年06月25日 08時16分13秒 | 徒然なるままに

二階の部屋にはエアコンがない
滞在時間が少ないので必要性を感じないからだ
だがボケ防止のこの投稿は二階の部屋で行っている

涼しいうちにやっときんよ!
いつも正しい指摘をする人が言う
日が昇らないうちにお墓参りに行って
涼しいうちに買い物に出かける人だ

二階はPCだけでなく、オーディの機器も鎮座している
毎年夏になると音楽を聴く時間が少なくなるのは
そこで聴いていられないせいだ

8時ちょっと過ぎ
今のところは扇風機で我慢できる
だがそのうち床が床暖房のようになる

仕方ない
限られた中で対応するしかない

暑くなると頭がボーッとしてしまいそうなのは
漫画のエイトマンで、頭を冷やすためにタバコのような冷却剤を使ってたのを思い出す
(今思うと少年漫画でタバコを吸ってるようなシーンはどうだったのかと思う)

年々、夏が嫌いになる
まだ6月で夏は始まったばかり
ついため息が出そうになる、、困ったものだ

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説得力

2022年06月25日 08時16分13秒 | あれこれ考えること

今日も暑くならないうちにチャチャッとボケ防止を!
でも、日曜日らしくない面倒な話

説得力について思うこと
同じような話をしても説得力のある人とない人がいる
それは話し手の力量とか人格によるものだが
今日の話は、話の内容についての違い

説得力は聞き手の力量によってもかなり違う
力強く断言してシンプルに対立点を浮き立たせて、自説を訴えるパターンがある
聞き手の中に、それは一方的な視点すぎるとか、肝心な部分を敢えて触れないでいる
と感じる人も出てくると、疑いが生じて、その主張は説得力を持たなくなる
だから客観的に反対からの視点も混じえて、それでもなおかつ自説のほうが良い
と話すほうが、冷静で客観的と評価され説得力をもつ

ところが、聞き手の方には多様な視点からの話をされると迷ってしまう人がいる
普段からその内容について考えていなかったり、情報が少ない人などがそれに当たる
その人たちにとっては客観的な話は、頭が混乱するだけで説得力は持たない
「一体何が本当なのだ、手っ取り早く、こうだ!と説明してほしい」
と考える人が出てくるのは容易に想像される

つまりは話し方は、聞き手の力量によって変えるべきということになる
この聞き手の力量がどうあるべきかとか、そのくらいが現実的かという問題は
かなり深刻な問題のように思われる

一部の「意識高い系」と称される人々には、客観的な多様な視点からの主張が好まれるが
絶対数からはシンプルに断言してもらったほうが良いと思う人のほうが多いのではないか
(わかりやすいために納得しやすい?)

このシンプルな断言系は一歩間違うとポピュリズムに陥りそうだ
物事の知り始めは妙に過度な自信を持ってしまうダニング・クルーガー効果というのがあって
シンプルなわかりやすい情報を好む人はこれに陥ってしまいそう

現実問題として多数の人が客観的な判断ができるようになるのが望ましいが
この数字の割合が国の民力を示しているかもしれない
(最近は選挙を控えて、巷にセンセーショナルな言説が多いのでつい不安を覚えてしまう)

結局のところ、教育の問題かな、、、とつくづく思う





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敗北感と絶望感に襲われた

2022年06月24日 09時35分49秒 | あれこれ考えること

木曜日のボランティア、外国にルーツのある子どもたちの日本語の勉強の手伝い
(自分の担当は小学校5年生の男の子)
それが終わって帰るときは、敗北感とか絶望感に陥ることが多い
それは、この子たちは将来どうなってしまうのだろう?
という不安と
彼らは見捨てられているかもしれない!
という実感のせいだ

自分が小学生の時を思えば、真面目にその時間を過ごすのは簡単でないことはわかる
自分はそろばん教室に行ったふりをして、遊んでいたこともあった
授業が終わったあとに、3時からまた勉強をしなければならないのは
それが将来にとって大事なことだとしても、子どもにとって苦痛なのかもしれない

昨日はやる気のない様子でスタートした
いつものように漢字を1ページ埋めるのだが、最近は漢字だけ、熟語だけを書くのではなく
短い文章にして書いている(ひざの傷が治る等)
ところが、書かなければならないその1ページは、ずっと同じものが続いている
少なくとも一週間は同じ字を書いている
前にそれに気づいたときに、文章を変えようと彼と相談して書くべき漢字を変えた
それは良いのだが、今度はそれが変わっていない

「〇〇くん、新しい文字覚えよう!」
と声をかけるが乗り気でない
漢字スキルノートを見て、覚えて欲しい文字を探す
そしていくつか候補をあげる
普段なら10個くらいの漢字を書くのだが、やる気がなさそうなので半分の5つにした
だが、新しく覚える漢字は画数が多くて面倒くさそうだ
その文字を見ただけで彼の顔が曇る

残酷な現実だが人には個人差がある
物覚えの良い人とそうでない人
学校での勉強を難なく理解できる人と、そうでない人
それは勉強に向かう気持ちの問題だ、、
と一言で言い切ってしまえない現実がある

それは速く走ることのできる人と、走れない人の違いのようなもので
それも個性と言うのは違うかもしれないが、教える側を不安にさせる

「〇〇くん、漢字は画数が多くて覚えるもの大変だけど
 日本人も覚えるのは大変なんだよ。だから我慢して覚えよう
 今日、全部でなくてもいいから少しでも覚えよう、、」
「僕、日本人じゃないもん。大きくなってお金を貯めたらブラジルにお母さんと帰るもん」

この一言が、昨日のボランティアの終わった時の気分を支配していた
彼は日本での暮らしを楽しんでいない(それはもしかしてお母さんも)

何よりもショックだったのは、彼は自分が見捨てられている(かもしれない)と
気づいているかもしれないことだ
宿題は間違っていても1ページが埋まっていれば○が書かれ
放っておけば一ヶ月も同じ字を書かされる
それは彼に対する無関心の現れだ(あるいは彼に対する諦めだ)

ここでは教師に対して声をあげるつもりはない
直面すれば、ついそうしてしまいそうな気持ちもわからないではない

人の能力の差、遺伝と環境によるものとの影響についていろんな研究がなされている
ある程度は環境による要素が大きいとされているが、彼の家庭を考えてみる
彼の家庭だけがそうではないが、家に帰ると彼はポルトガル語で会話する
家にはテレビはない
ディスプレイはあるが、ポルトガル語の配信される何かを見ている
そして子どもに対して教育は大事だ!(日本語の習得も大事だ)
という認識はあまりない

同じような環境の家庭でも、教育は大事で、日本語の勉強も大事だ!
と認識していた家庭はブラジルに行ってもzoomで勉強を続けていた家庭だ
彼らの家にはテレビがあって、日本にいたときは日本語の番組を見るようにしていた

環境のせいで差がついてしまうの現実だが、実は子どもの時点でなく
親の時点で相当な差が生まれている
ある家庭は教育が大事だと認識する人たちと交流する機会が多い
一方、そうでない人の交流は「類は友を呼ぶ」の例えどおり
教育に価値観を持たない人が多い(だろう)

つまりは親ガチャだ
親の資質だけでなく親の環境、親が接する人たちの差がそのまま
子どもたちに引き継がれてしまう

彼のことを考えると、親御さんにいろいろと考えてもらわなければならないが
どこまで口を出していいか、わからない
それが為に、ますますイライラが募る

彼はあの年齢で、もう未来に対して夢を持っていないのではないか?
不意にそんな不安が頭に浮かぶ

自発的にやる気を出す様になる、、多分これが一番と思うが
一体どうすれば良いのだろう
子どもにどのような言い方をすればわかってくれるのだろう

これはこうした外国にルーツのある家庭だけに限らず
親ガチャは想像以上に深刻な問題だと実感する

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失恋の歌

2022年06月23日 10時03分13秒 | 音楽

世の中には失恋の歌と、恋が成就した歌とどちらが多いか?
おそらく前者の方だと思われる
少なくとも印象に残っているのはそちらだ

最近の歌には疎いので、この傾向が今もあるのかどうかはわからないが
不意に(いつものことだが)歌詞に結婚式が出てくる歌を思いだした
それも全く違うジャンルの曲だ

1つ目はグスタフ・マーラーの「さすらう若人の歌」の一曲目

1 僕の愛しい人が嫁ぐとき
僕の愛しい人が嫁ぐとき、
喜びいっぱいの結婚式を挙げるとき、
それは僕にとっては悲劇の日だ!
僕は自分の小部屋に行って、
暗い小部屋に!
泣くんだ!泣くんだ!僕の愛しい人を想って、
僕の愛する人を想って!

小さな青い花よ!小さな青い花よ!
しぼまないでくれ、しぼまないでくれ!
かわいい小鳥よ!かわいい小鳥よ!
お前は緑の荒野で啼いているんだね!
ああ!なんてこの世は美しいんだろう!
ツィキューット!ツィキューット!(ツィキューット!)

啼かないでくれ!咲かないでくれ!
春はもう過ぎ去ったのだ!
歌うのはもうおしまいだ!
夜、眠りにつくとき、
僕は我が苦しみを思う!
我が苦しみを!

最近はめっきり聴くことの少なくなったマーラーの曲
だがこれは、青春の初々しさとか痛々しさがストレートに伝わって
それが今も感じられるかと自分の年齢変化を確認しながら聴いている

この曲はマーラー自身の作詞で、この曲のやりきれない思いが感じられるのが
マーラー指揮者のイメージがないフルトヴェングラーとフィッシャー・ディスカウ
の組合わせだ
(ワルターやバーンスタイン指揮よりも好きだ)

歌詞の中に泣くという言葉が出てくるが、
簡単に泣くもんじゃない!というよりは、わかるな!という感じ

2つ目の曲は「サルビアの花」で
この中にも元恋人の結婚式のシーンが出てくる
そしてここでも泣いている
(歌は「もとまろ」のが一番好き)

この2つとも架空の話だが、架空の話が説得力をもって心に響く
人生の一時期があるということだろう
結局は、いつでもどこでも同じような人がいるのが人の世の中なんだろう

それぞれの歌の動画はこちら

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen, Fischer-Dieskau & Furtwängler (1952) さすらう若者の歌

もとまろ サルビアの花

 
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政治家の虚栄心と、くじけない人

2022年06月22日 17時28分55秒 | あれこれ考えること

6月22日 参議院の公示日
若い人の投票率が上がらない、、などという声もあるが
Youtubeではタレントさんが自発的に投票を呼びかけたりしている

先日の東京の杉並区の区長選では投票率が5%あがって
大きな変化が見られたようで、冷笑的に眺めている人も
動けば変わる!と実感できれば良いのだが

最近、自分たち庶民に代わって物事を決める権利を持つ議員さんについて
思うことがあって、去年読んだマックス・ウェーバーの
「職業としての政治」をパラパラとめくった

その中に学者さんのモデル化した理屈の内容ではなく
いかにもありそうな部分があったので書き残しておいた

職業としての政治 マックス・ウェーバーから(116から117ページ)
政治家は毎日、毎時間のように、自分のうちに潜んでいる瑣末で、あまりにも人間臭い〈敵〉と戦い続けねばならないのです。この敵とは、ごくありふれた虚栄心で、これはすべての仕事のへ献身の、そしてすべての距離(この場合には、自分と距離をおく事ですが)の不倶戴天の敵なのです。
 虚栄心は、誰にでも見られる特性で、虚栄心のない人はおそらくいないでしょう。そして学者や教養のある人々では、虚栄心はある種の職業病のようなものになっています。しかし学者の虚栄心は、どれほど鼻持ちならないものであっても、比較的無害なものなのです。原則的にこれが学者の仕事を妨げる事は無いからです。 しかし政治家の場合にはそうはいきません。政治は避〈避けられない手段〉として、権力を追い求めるからです。その意味では「権力本能」とよく言われますが、この本能は政治家にとってはごく当たり前の資質なのです。しかし政治家という職業の聖〈聖なる精神〉に対する罪が始まるのは、この権力の追求が仕事への献身とは関わりなく、個人的な自己陶酔の対象となるときです。
政治家という仕事にはいわば2種類の大罪があります。仕事に献身しない姿勢と、無責任さであり、この2つは同一のものではないとしても、しばしば重なって現れるものです。虚栄心とは、自分ができるだけ脚光浴びるようにしたいという欲望のことで、この欲望のために政治家はこの2つの大罪の片方を、ときには両方を犯すよう、強く誘惑されるのです。民衆政治家(デマゴーグ)の場合には、「効果」を考慮に入れなければならないだけに、この誘惑は極めて強いものとなります。 そして俳優のように振る舞い、自分の行為に対する責任を軽く考え、自分の行為が与える「印象」ばかりを気にするようになる危険に、常に脅かされているのです。

つい誰かを想像してしまったが、自分が想像している人物とは違うひとを想像するのは
それほど難しくないだろう

議員は選良と言われることがあっても、現実は極めて人間的な感情のやり取りの要素が多いことは
自分の市の議員さんを見ればわかる
賛否の判断の基準は本質ではなく属性で決められていることも多いように見える
また個人個人の関心事が狭い範囲に限られているので、全てに適切な判断ができているか
といえば、そこは怪しいかもしれない
(正確な判断をするためによく調べるなどということはないので)
だが、多数が間違うことはないだろう、、とする現在の制度では
文句が出そうなときがあっても、仕方ないかもしれない
それにしても、個人の資質に依存することの大きいこと、、

ありそうなことではなく、こうあってほしいとする政治家のモデルは
本の最後の部分にこう書かれている
(これは国会議員の分野だろうが)

156から157ページ
政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、硬い板に力を込めて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、今可能と思われることも実現できない事は確かですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。 しかしこれを成し得るのは、指導者でなければならないのであり、単に指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることでさえ、実現できないでしょう。
現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑属に見えたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでも私はやる」と断言できる人、そのような人だけが政治へ「召命(ベルーフ)」「天職」をそなえているのです。

理想を語り、諦めず、意見の違う相手の尊厳を認めた上で
具体的な知恵を出せる人、、、
そういう人を選ぶことが、今回できれば良いのだが

 

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iPad

2022年06月22日 09時06分11秒 | 徒然なるままに

今まで使っていたiPad Airは、ドイツの旅にも持っていったから
かれこれ7年ほど使っていることになる
流石にバッテリーのもちが悪くなってきた

特別不満があるわけではないが、
現在販売中の普通のiPadはコストパフォーマンスが良いとの評判で
新製品が出て価格が上がらないうちに購入することにした

製品は昨日届いた
設定は楽ちんだ
バックアップはicloudに残してあるので、それを引き継いで
大した時間もかからずに前と同じように使えるようになった

ただ、ものによってはIDとパスワードを入力しないといけないものや
何故か、サブスクの加入が必要とされるような文言が出てきている
(これはもう少しして確かめるつもり)

おっさんになると目が情けないことになる
いくら便利でもスマホの画面では小さすぎて見えない
外に出ているときは、スマホで我慢するしかないが
家の中でソファに座って見るのは、大きな画面のiPadの方だ
つまりは、ハズキルーペを使っているような感覚で
iPadを使っているということだ

6年の技術の進化は、動作の速さに現れた
メールの表示が前よりも大分早くなっている
これより上位の機種はもっと速いだろうが
自分の使用法では、そんなに高機能なものはいらない

アップルペンシルでいろんなことができそうだが
今のところは(先のことはわからないが)出費を抑えておくつもり

ただ、新しいものに触れるというのは
それなりにウキウキした気分になれるのも実感する
(だが、これで欲しいものは、本以外は出現しないかも)

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