パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

下手に歌ってください

2022年05月31日 08時54分13秒 | 徒然なるままに

第75回カンヌ国際映画祭でカメラドール スペシャルメンション(特別賞)
を受賞したのが「Plan75」
その主演女優が倍賞千恵子さんだ

今朝のテレビ番組で、彼女が監督から言われて困った演技指導の話が紹介されていた
「下手に歌ってください」
その要求がこれだ
普通のおばあさんは音程はあやふや、声は出ない
そうしたよくいそうな女性のほうが映画にリアリティをもたせることができるからだろう

だが、とても丁寧な歌い方の歌手の彼女が下手に歌うということは、
簡単にできることではなさそう
音程やリズムが外れることは生理的に違和感を感じてしまうだろう
だから、普通なら簡単にできそうな下手な歌は、意図的な下手な歌の演技になってしまう
つくづく役者さんは大変だと思う

そう言えばポール・マッカートニーのライブがアメリカで行われているようだが
Youtubeでみるその様子は、80近くなって声が出なくなった現実を見せつけられるようで
少しばかり悲しい
その現実を受け入れて応援するのが本当のファンなのだろうが
彼には無理して声を張り上げて歌わなくて済む曲を今は歌って欲しい
(マイヴァレンタインとかアンド・アイ・ラブ・ハーとか64歳の時とか)

このところずっとカラオケなどは行っていないから、上手く歌うことは自信がないが
下手に歌うことは簡単にできそう(それも少し悲しい)


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「住民投票の結果に強制力がないのは何故か」を考えてみた(私論)

2022年05月30日 09時57分29秒 | あれこれ考えること

時々変なことを考える
あるいは変なことを思いつく
最近、そうなのかもしれない!と思い浮かんだのが
「住民投票の結果には強制力がない」の理由だ

それがあっているかどうかはわからないが
自分で思いついたことに、少しうれしいような気もする

新城では2015年に新庁舎の建設計画について住民投票が行われ
結果的には現計画の変更を大きく求める側が勝利をおさめた
ところがその住民投票の結果には強制力がなく
抽象的な「結果を重く受け止める」という言葉で曖昧な対応をされてしまった

善意に考えると「重く受け止める」は結果に従うとなりそうだが
多くの場合そう簡単にそうなるわけではない
むしろ、結果に従わないことでまた別の問題が起きてしまう

ここで話は変わって、地元最近の問題、給食センターのことに関連して考えてみる
自分たちの学校内でつくる給食と、どこかでまとめて作るセンター方式について
様々な問題が絡み合って、一部で混乱が起きている

様々な混乱をまとめて一つの問題と考えるよりは、その一つ一つの問題が
どこに問題があったのかと考えることが必要だと思われるが
感情を伴うものはそう簡単に割り切って考えられないのが現実だ

ここでは「誰が自校式が良いか、センター方式が良いかを決めることができるのか」
をあれこれ想像してみる
実態は、市民の多くが知らない中で校長会、教育委員会、教育総合会議、市政経営会議等で
数回の会議によってセンター方式と決定された
議員にはこの二者選択には関われず、予算案の賛否のみの参加となった

ここで一部の市民の中には
市民が知らない中で勝手に決められるのは問題はないか?
との声が上がった
現実に生徒を送り込んでいるお母さん方からは不満の声が大きい

だがそうした子どもを持っていない家族はこの問題については無関心だ(これも現実)
それで良いのか悪いのかは、意識高い系の人には許しがたいことかもしれないが
フト「多くの市民が知らないでいることは果たして悪いことなのか?」
と、そもそも論が頭に浮かんだ

現在の社会は、ひとりひとりの庶民が決断を要するような様々な問題に対して
関与することは難しい
第一にその判断基準となる各種情報を得て、それが説得力があるものかを調べなくてはならない
その上で、その情報を元に多面的な視点で考えなければならない
つまりはそうするために時間と知識、技術が必要だ
だから社会はその仕事を担う人を選んでその人達に任せることになる
(何も知らない素人の判断は無責任の可能性があるということ)

日本の社会は「何かを決める人を選挙で選ぶ」という形式の社会になっている
それが代表制民主主義で、首長には予算編成権者として重要な機能がある
簡単に言えば、庶民は選挙で選んだ人にある程度お金の使い方の提示は任せる
ということで、それでは暴走するかもしれないので、やはり選挙で選ばれた議員が
チェック機能を果たすという制度だ

ところがこれが正常に機能しているかと言えば、最近はどうも怪しい
国でもそうだが、少数者の利益になりそうなことが
多数決という数の暴力によってまかり通っているようだ
これは代表制民主主義のバグみたいなもので
これを何とかしないとまずいと考えかたが生まれ
直接民主主義的な要素を加えるようにしたのが「住民投票」のシステムのようだ
(と勝手に理解している)

ところが日本社会は制度としては代表制民主主義国家だ
これを前提に各種法律が体系化されている
ここで「住民投票の結果には強制力がない」理由がおぼろげに浮かんでくる
仮に強制力があると首長の予算編成権に対する矛盾が発生してしまう
みんなが選挙で選んだ人にお金の使い方を一応任せるという制度になっているが
皆が声をあげれば(住民投票で勝てば)選挙で選んだ人の判断を(選挙で落とす以外の方法で)
無理やり変えてしまうのは、法の体系から矛盾が生じてしまう

きっと、これだな!
となんだか頭の中が整理されたような気がした

こんな抽象的な思考実験のようなものは思いつきは
あまり意味のあるものではないかもしれないが
このことに気づいた自分は(間違っているとしても)少しうれしい気分

人の満足って一体なんだろう?
と考える次第

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最近はピアノ・ソロ音楽ばかり聴いている

2022年05月28日 09時08分49秒 | 音楽

最近の音楽は馴染めない(特にラップや女の子が大勢で歌う曲)
自慢じゃないがヒット曲やグラミー賞の楽曲はさっぱりだ
でも特に困っているわけじゃない
今はお気に入りの曲なり演奏が身近に有ればいいと開き直っている

マイブームはピアノ・ソロ音楽だ
きっかけはジャズピアニストのブラッド・メルドーの演奏する
ポール・マッカートニーの「マイ・ヴァレンタイン」(トリオの演奏だが)
アルバム「キス・オン・ザ・ボトム」に収録されたポールの叙情的な作品で
多くに知られていないらしいが好きな曲
東京ドームのライブではこの曲が演奏されたのは嬉しかった
(アナザーデイがあったのも感激したが)

この演奏は原曲が如何にいい曲かがわかる
ジャンクとかアンド・アイ・ラブ・ハーに通じる切ない感じが
過度な表現とならず控えめに表現される
My Valentine


音楽に浸っていると、演奏とは演奏している人の表現意欲というよりは
演奏している人の考えていることの表現のような気がした
考えていることとは、曲の変奏とかフレーズの切り取りとかリズムの崩しとか
そうしたものは、演奏者のその時点で考えているもの、アイデアの現れのような気がした

もっとも、音楽は元々そういうものなのかもしれない
演奏家が考えていること、作曲家が考えていること
再現芸術の音楽はそのどちらが主体となっているかわからないが
あるときは演奏家目線、あるときは作曲家目線で音楽を聴いている

特に最近は自分の内面に向かうような傾向のあるピアノ・ソロが
気持ちにしっくり来る
アンサンブルの楽しさよりも自分と向かい合っているようなところが
大げさな表現よりも切実感があっていい
(コロナで巣ごもり生活しているせいか?)

という訳で、ブラッド・メルドーのあとは同じくジャズのモンクのレコードを引っ張り出した
この人は変な演奏だ
横になめらかに流れるということはなくて、なにかゴツゴツしている
あるいはヨロヨロしている
だが慣れるとそこが良い  という気持ちにもなる
彼の考えていること、、そんなことを思いながら聴くと時の経つのを忘れる

聴く方も調子が出てきて、次に引っ張り出したCDはメシアンの「鳥のカタログ」
現代音楽の範疇でメロディとか和声を楽しむ音楽ではないが
鳥たちの鳴き声を模する音形が、、自分はとても好きで
あまり考えないで、まるで草原に寝転がって鳥の声を聴いているだけ
と思うと、結構楽しめる

そうだ、急に思い出した曲があった
いわゆる昭和歌謡で伊東ゆかりの「ふぁど」だ
あまりヒットしなかったが、絶対いい曲と自分では思い込んでいた
(いい曲とヒットする曲とはあまり関係ない、少なくとも自分の中では)
なんか、今の風潮と比べて大人の曲だなと思ったが、、どうなんだろう

伊東ゆかり ふぁど (1984)

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頭を良くする3つの方法(あるいは、、、)

2022年05月27日 08時55分36秒 | 徒然なるままに

ツイッターに「頭を良くする3つの方法」が投稿されていた
自分の頭の限界はわかっているし、今更頭が良くなることは期待しないので
「頭が良くなる」を「ボケない」と言い換えるといきなりリアルな話となる

まずは「頭が良くなる3つの方法」は
1つは人と出逢うこと。もう1つは本を読むこと。そして最後の3つ目は『旅』だそうだ。
これは「ボケない方法」として無条件に納得するし、実感もする。
要は外部の刺激を受けることによって、様々な比較もできるようになるということだ
フト感じたり、違いはなにか?何故違うと感じるのか?と考える
そうすることによって脳が刺激を受け考える力が鍛えられそうだ

だがここに必要なのは、この3つをしようとする気力(もしかして体力も)
気力に頼ると当てにならないので、無理矢理にでもこれらの3つを習慣化しないと
いけないかもしれない

だが楽な方にどうしても行ってしまう(魔笛のパパゲーノのように)
「言うは易し、行うは難し」も実感する

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給食の思い出

2022年05月25日 10時30分52秒 | 徒然なるままに

新城市では小中学校の給食が、まとめてつくり配送するンター方式に
一旦決まったが、その過程の杜撰さからいろいろ問題が噴出している

普段より給食という言葉に反応しやすくなっているが
ボランティアで面倒を見ている外国をルーツに持つ子どもの勉強の手伝いが
終わって別れるときに、ちょいと聞いたみた
「給食、何が好き?」
「ラーメン」
「塩?味噌?豚骨?」
「豚骨」
「量は足りる?」
「もっと食べたい」

そこで、地元の小中学校の情報が載っているブログで給食のページを見つけた
パンまたはご飯、牛乳、メインのおかず、そして付け合せみたいなもの
第一感はこれで足りるのかな?という思い(思いの外貧弱)
小学校は一人頭250円だからこんなもんかもしれない
量は小1と小6では欲しい量は全然違うだろう

その後、給食の量はほしい人はおかわりを、多すぎる人は少なめにしてもらう
ことができるとわかった(月木の校門までのウォーキングの際に聞いた)

しばらくして今度は、世界の給食はどうなっているか?
と気になって検索してみると、ネットには本当にいろんな情報があって
すぐさま見つかった
アメリカはポテトチップスとハンバーグみたいなもの(なんか餌みたい)
意外に良いのはアジアの国々で量もメニューもこれなら子どもは喜ぶだろな
と感じさせるものだった

給食は楽しい時間だと思われる
だが今は費用の制限があり子どもが楽しめるまでのメニューはつくれないかもしれない

不意に昔の給食を思い出した
自分が圧倒的に好きだったメニューはぜんざいだった
時々回ってくるそのメニューが待ち遠しかった
自分らの時代は脱脂粉乳の時代で、上に薄い膜が張っていて
それを箸でまとめていた事を思い出した
そうだ、パンは食パンだった、それも3枚あったような、、、

記憶はあっちこっちに羽ばたいて、その食パンを学校を休んだ子の家に
届けに行ったことも思い出した
なんだかのんびりしていた時代だった

ところで、給食の無償化等が時々議題にあがる
賛成する人、よく考えねばとする人様々だが
給食の費用をもう少しアップして、一月に一回でも良いから
豪華な給食の日を設けたらどうなんだろう?
それは全く不定期にやってきて、子どもは予想外のことに驚くなんてことを想像すると
少しばかり楽しくなる

今は黙食!が推奨されている
でも、つまらないだろうな!とつい同情してしまう
一緒に食べてお話する時間、幸せってのはそうした時間だと思う
早く厄介なコロナは収束しますように

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有資格者というだけで信用できるか?

2022年05月24日 09時57分19秒 | 養鶏所騒動

採点競技とか判定競技は、それを行うのが専門家であってもスッキリしないことが多い
先回の冬のオリンピックの平野歩夢の二回目のトライはもっと点数が出るはずだったとか
何時だったか忘れたが銀メダルとなった柔道の篠原の決勝戦は、見る人が見れば内股透かしで
一本で相手側の有利とした審判の判断とは真逆だ

人の関わる判断はこのように安定したものではない
有資格者のみが行うことのできる不動産鑑定という業務も、このようなバラツキの多いもので
その業者の中には、HP上で内部暴露したような本音を漏らしている業者がいる
そこには
1.不動産鑑定士の力量はピンキリである
2.鑑定評価の結果はバラバラである
3.鑑定報酬はバラバラである
4.鑑定事務所の場所と鑑定依頼地との接近性は気にしない方がいい 
とHPで紹介している

1の細かい説明では、資格者でありさえすればみんな同じ結論がでてくるとは限らない
それは有能な弁護士に依頼するか無能な弁護士に頼むかで結果は大いに違うように
肝心なのは誰に頼むかというということ

2では、不動産鑑定士は「10人の不動産鑑定士が同じ物件を鑑定して、価格が一致することはありえない」
というのが 本音ですし、現実にありえない!としてその理由として以下をあげている
鑑定評価の本質は「不動産の価格に関する専門家の 判断であり、意見である(不動産鑑定評価基準第
1章第3節)」のです。
つまり、鑑定評価は査定であって、算定 ではないのです。単なる計算をすることを算定といいます。
それに対して、査定というのは判断を介在させること をいいます。つまり、判断如何で結論は変わって当然なのです。

3では、鑑定業界には統一された民間報酬基準は存在しません。したがって、各社で自由設定となっています。

4では、「鑑定依頼地に近い所に居る不動産鑑定士がいいのでは?」と考えているかもしれません。
しかし、 実はこれは間違いです。地元だからこその「しがらみ」があるのが現状です。

このように意地悪いようなことを抜き出したのは、
裁判沙汰になっている案件の不動産鑑定が果たして適切だったのか?
に大きな疑問があるためだ(別の不動産鑑定と8倍の評価の違いが存在した)

その不動産鑑定は随意契約で行われた
大きな金額を要するので、普通なら競争入札になるのだが、随意契約としたのは
不動産鑑定の金額は報酬基準で決まっており、競争入札に適さないため実績のあるところに依頼したとしている
だが、その言い分も報酬基準が決まっているというのと自由に決められるとの違いがある

鑑定評価はバラバラであるから、誰に頼むかは重要なポイントとなる
そこで依頼される方の立場になって考えてみる
依頼先は発注主の意向を推察し忖度する(それこそが実社会では必要とされる能力かもしれないが)
そして依頼主が望むような答えを出す

不動産鑑定は個人の感覚とか印象に依存する面が多いらしい
参考とする場所が近くに無かった場合、別の場所を参考場所とするが、その時は補正として
何らかの係数をかけてシミュレーションのような作業を行う
(今回は参考地は市内が一箇所、他の3箇所は豊川市のため係数をかけて新城市として算出した)
ところが他の場所の良し悪しの評価は、かなり個人差の多いもので
ある学会ではこのような個人差の多い評価に基づく方法に警鐘を鳴らしている
つまり何らかの係数をかけて求める行為は妥当かもしれないが
その評価自体は、まともでない可能性もあるということだ

そして問題は「しがらみ」で、受注者は発注者の隠れた意図を読み取る必要性と
今後の継続した受注のための適切な忖度が必要となる

実際のところ、これは現実社会では珍しくもなんともないことで
色んな場面で、不動産鑑定によらず受注者は依頼主の要望に沿う答えを出そうとする

一見ちゃんとしたステップを踏んでいるように見えても
実態は出来レースだったというのが、実社会では多いのではないだろうか

とまあ、意地悪な見方をすれば、世の中はこんな風に回ってるということになるが
全部が全部こんな風でないとしても、時々は脅かすような指摘をしないと
なあなあで進められてしまって無駄遣いが多くなってしまいそう

今朝は、意地悪な自分の存在に気付かされた(本質でないことを望むが)





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みんな努力と工夫をしている

2022年05月23日 16時37分50秒 | 徒然なるままに

昨日は近所のスーパーが人で溢れていた
(食品の買い物は嫌いではない、でも余分なものを買うので同居人は、、、)
ポイントが倍になるので予想はしていた想像以上だった
駐車場は近いところは満杯、今までで一番遠いところに行くことになった

何人かはメモを見ながらものを選んでいる
ボケ防止にはメモしないで覚えておくほうが良いらしいが
老齢化の進むこの地区はメモしておいたほうが現実的だ

広告のお買い得商品を選んでいざレジに向かうと、
どの列も陳列棚の2つのゾーンを超えて人が並んでいる
その列はいつまでも動かないように思えてしまう

退屈でつい前の人に声をかける(知り合いではない人)
「今日は混んでますね」
「砂糖が今日は特別安いから、みんなそれを狙っていると思う
 いつもより断然安いから」
「そうか、主婦は物の値段をしっかり覚えているから、必死なんですね」

「列は少しも進みませんね。
 こういう時はキャッシュレス決済だと早く進みそうですね
 でも老人が多いからしばらく普及は無理ですかね」
「私もつい最近スマホデビューしたところ
 膝を痛めて病院にはいることになった時、娘が強引にスマホに変えるように手続きして
 いろいろいじっているうちに何とか、、、」

そんな話をして時間つぶしをしていても列は進まない
3列あるなかで一番進み具合がいいところを選んで列を変える
先程の方の顔は見えなくなった

最近はものの値段が高くなったと実感する
払う段になって、なんかいつもより高い、、と思えてならない
こんなだから主婦はシビアに買い物をする
最近つい納得してしまったツイートに
以前はメニューを決めて買い物に来たが、この頃は店でお買い得商品(時間ごとの)を
選んでメニューを考えるようにしている!というのがあった

つい、男でもバーゲン品を買うようになってますよ、、と付き合ったら
それはエライと褒められた(?)

年齢を重ね食も細くなったので、値上がりしても大きな影響はないかもしれない
でも子どもがいる家庭は大変だろうな、、と
近所の子どもの家庭のことを思い浮かべてしまった

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訓練、あるいは教育

2022年05月22日 09時52分32秒 | あれこれ考えること

人は生きてきた歴史や環境が違うから考え方が違うのは当たり前だ
だがそれをそのまま認めるのは意外と難しい
特に日本のような同質性の高い国、同調圧力の強い国、
社会正義を強要する傾向のある国は、違う意見の少数者は声に出しにくい

一般的に対話と討論とディベートは違うらしい
対話は意見の相違を認めた上で円滑な話し合いの争点などの整理を行い
妥協点をも探し出す行為
討論はディベートと似ていて話し合いで白黒をつける行為ということらしい
(知らんけど)

最近は対話ではなくて討論とかディベートが幅をきかして
弁舌の技術が高い人が有能と思われ勝ちのようだ
だがそこには一歩間違うと不毛な対立ばかりが生じてしまう
ということで、今こそ求められるのは対話(ダイアローグ)だそうだ

最近知った対話の訓練をする方法がなかなか面白い
ある時、教育現場で最近の出来事のロシアのウクライナ侵攻をテーマに行われた
ここに工夫があって対話の参加者は、くじ引きでグループ分けをされる
あるグループはロシア、別のグループはウクライナ、また他のグループはポーランド
ベラルーシ、スウェーデン、ドイツ、フランス、アメリカ、中国等の立場に立つように指定された
そして各グループは独自にそれぞれの事情を理解するために情報を独自に集める
それが終わった時点で、自分たちの立場を踏まえ、どうすべきかを話し合うという段取りだ

現在の日本のような西側の立場の情報やら、なすべきことの多い選択肢と違って
それぞれの事情を踏まえていくと、そこでは結論の出ないような頭を抱えることが多くなって
簡単に答えは出にくくなってしまう
だが、それでも対話をする、、という行為は、簡単に結論を出すよりも意味があるとしている
(と自分も信じたい)
それこそが熟議の民主主義と言われるらしい(?)

相手の立場を客観的に知るということは、自己の感情と相容れない結論を知ることにもなる
その時の自分の感情のコントロールの訓練になる
感情的な判断がいつも間違うとは思わないが、感情をコントロールした判断は
当事者同士の理解に説得力をもつ
そしてそれは相手側の人間の尊厳を認めるということになる

ということで、何でも役立つのは訓練とか場数だな、、
教育は教えられるのではなく、訓練だな、、と思う昨今
(そこには、いろんなアイデアがあるものだ)




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さじ加減(いい塩梅)

2022年05月20日 09時17分02秒 | あれこれ考えること

あまり深く考えることもなく、ぼんやりとそうなっているのだろうと思うのが
現在の代表制民主主義
庶民は詳細な情報を得て、広い視野をもって判断を行うだけの技術も時間もないので
その代わりをしてもらえる人(首長や議員)を選ぶ
任された議員・首長は関心があったり得意とする分野はあるが、
あらゆる方面の知識があるわけではないで、ある分野の役割を官僚(職員)に依頼する
任された官僚は委任したひとの意向を読んで行政的な方法(法案)を考え出す

これらの過程で、議員・首長は庶民の声をそのままストレートに反映すべきか
といえば、どうやら自己の裁量によって判断するのが通例となっているらしい
もしその裁量による判断が庶民にとってふさわしくないものであれば
次の選挙で落選の憂き目を見ることになるので、自分勝手ではいられない

官僚や職員も適切な作業がなされないならば、かれらは左遷にあうとか
ステップアップの機会を失うことになる
だから必然的に命令者の意図に沿った行動を取る

これらの過程で必要なのは説明責任という行為で、議員・首長は庶民に対して、
官僚(職員)は議員・首長に対して丁寧な納得の行く説明をすることが要求される
そうすることによって制度としての代表制民主主義は、まともに機能する
と考えられている、、、とその手の本には解説されている

ところが、現実世界はこのような善人を想定した社会とはなっていない
それは制度上の問題と言うより、人間が持っている本質的な傾向によるもののような気もする
制度として性善説をとるか性悪説をとるか、といった問題ではなく
生活者としての人には時と場合によって良くも悪くもなる可能性があり
現在はその負の部分が目立っている気がする
生活者としての職業人は、必ずしもその道のあるべきプロ意識を貫徹できるわけではない
彼の優先順位は多くの人と同じように、自分が大事!となる可能性は容易に想像がつく

こうなると、制度として存在していても、なかなかうまく回っていかない事態は
珍しいことでなないと思われる
だが、それでは困るので、どうやったら誤差を少しでも減らすことができるようになるか
を考えざるを得なくなる

まず今起きている状態を、そのまま理解する
政治的な対立関係の理解ではなく、そうした部分を除いて事実のみを理解する
それを知った庶民は(それを知ろうとする庶民は結果的に少ないのが問題だが)
四角四面にあるべき姿を原理主義のようにギチギチの解釈だけでなく
人間だからしょうがないなあ、、と言えるような、
ざっくりとした幅をもった理解の仕方も時には必要だと思う
ただ、これ甘くなるすぎると、それはそれで問題だ

結局のところ、適切なさじ加減が庶民にも必要ということ
(怒りの声も選挙行動への反映も)
適当なさじ加減、、
これは、言うは易し行うは難しそのものだ

ということで、社会はなかなか難しいな、、というのが実感
もう少し鷹揚に回って行かないものかな、、と思えてならない

いつものまとまらない話!



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あれこれ思うこと

2022年05月19日 09時08分51秒 | あれこれ考えること

ちゃんとした社会人を育てるのがスウェーデンの教育
良い労働者を育てるのが日本の教育
ある人から、こんな感想が出てきた
(先日のある勉強会で)


詳しく見ていけば必ずしも上手くいってるとは言えないかもしれないが
「あなた自身の社会」(スウェーデンの中学教科書)を読んだ人は
同様な思いをもつに違いない


若い人の投票率が低いと危機感を感じてる今の日本
だが実態は、18歳以下は政治的な話をするのは世間体が悪いという空気が
当事者にも周りにも存在する
自粛して避けてきた問題を、18歳になったからさあ投票に行こうと声をかけても
その気になれないのはわからないでもない

ただ、問題はこうした世間の空気だけが低投票率の問題ではなさそうなことだ
何故、投票に行かないのか?
と尋ねると、割合多いのが投票に行くよりも優先することがあるという答え
投票行動の前の考える時間を含めると、若い人は目の前のなすべきこと
気になることを消化するだけで精一杯だというのだ
(投票なんかに時間を費やす時間や価値がない、、と)
でも若い人の中にも問題意識を持って投票に出かけたり、投票の啓蒙活動をする人がいるのも事実

いったい何が違うのか?
少し敬遠気味に見られがちな意識高い系の人々は
個人が労働者としての立場だけでないと感じられる恵まれた社会的環境にいることが多い
自分の周りに意識高い系の人がいて頻繁に交流できていたり
他国の状況を実体験として、あるいは本を読んで比較できる環境にある

人は何かと比較することによって人は気づきを感じる
ある日突然になにかに目覚めるということはなくて、自分が当たり前と思っていたことが
別のところでは違う事実に対面して、それは何故だろうとか、どちらが良いのだろうと
考えることが気づきの一歩だ

そこには環境の差が存在して、それは経済格差と相関関係があるかもしれない
わかりやすく言えば、経済的余裕のある人は社会の問題を考える時間も
その情報に接する機会も多く、気づきも多くなる
もし投票率と経済格差に正の相関関係があるとしたら
下の階層の人は自分たちの望むものは自ら実行できないような行動をしている
ということになりそうと想像するのは極端すぎるか?

「自分で始めた人たち」に登場した人たちは、
その行動力とか意識の高さに頭が下がるが、みんな余裕のある環境下にいた
(留学経験とかITスキルの高さとか、、)

つまりは、ある程度の余裕のなる人でないと
他人を慮るような行動や判断はできないかもしれないという思いを持ってしまった

こうした現実は、広い視野と常識的な見識をもつ貴族に重要な判断は任せよう
というシステムに落ち着くのはなんとなくわかる
だが、人の集まりの社会はなかなか理想通りには動かない
信頼されるべき貴族の中にも困った人が混じってしまうのは、これまた現実
だからと言って、大衆に判断を任せるのは大衆はポピュリズムに振り回されそうで怖い

と、面倒くさいことをあれこれ想像しても前には進まない
やはり、意識高い系の人による啓蒙活動が必要なのかな、、と思うこの頃
相変わらずまとまらない話!

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