パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

拡大解釈の可能性

2014年08月31日 19時46分14秒 | Weblog
国連の人種差別撤廃委員会は日本に対して
ヘイトスピーチを規制する勧告を行ったが
この一件何でもないような、当たり前そうな事柄が
法律の拡大解釈でねじ曲げられる可能性がある

自民党の高市早苗政調会長は会合で、
国会周辺のデモや街宣について「党本部でも議員会館でも(騒音で)仕事にならない。
仕事の環境も確保しなければならない」と指摘。
「秩序ある表現の自由を守っていく観点から議論を進めてほしい」と求めた。

国会周辺では、東京電力福島第一原発事故後、
反原発を訴えるデモ活動が毎週金曜日の夜に行われている。
警察庁の担当者はPTの会合で、国会周辺での拡声器使用を制限した静穏保持法による摘発は年間一件程度だと説明した。
  中日新聞 8月29日より

騒音と思えるようなデモも(それが反原発でも)規制すべきである
となってしまわないか?
こんな不安が頭に浮かぶ

そもそもヘイトスピーチと騒音問題は別個の問題
これをヘイトスピーチのように音量が大きいからといって
様々なデモも規制対象となってしまうと少しばかり考えすぎなのは、
小説「原発ホワイトアウト」にこれとそっくりのエピソードが
あったからだ

それは国会前のデモで少しばかり騒音をあげたら
法律違反で直ぐに逮捕されることになり
一気にデモは収束することになってしまったと言うくだり

つまり、官僚や法律を扱う連中はこの手の
ヘイトスピーチではなくて騒音問題と意図的にごっちゃにして
拡大解釈をやって、妙な法律を作り上げてしまうかもしれないということ

法律の抜け穴、解釈は実は作り手が
一番知っているのかもしれない
あらゆる可能性を想像して、そして意図的に文章を作成する
その意図を見抜くのは誰の仕事なのか

国民が気づいた時には時既に遅し
なんてことにならないといいのだが、、
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日本人はまともだった!

2014年08月28日 20時00分30秒 | あれこれ考えること
との見出しで、ウエブ上のスポーツの記事が書かれていたことがあった

何事かといえば、ワールドカップの日本戦のテレビ視聴率のこと
今回は時差の関係で、朝の出勤時間に放送される事があって
日本人はテレビ視聴をしないで、普段と同じように仕事に出かけて
それがアッパレ!というもの

しかし、これには違和感を感じてしまう
果たしてこれが「まとも」なことなのか
こんな些細なことを取り上げてあれこれ言うのが、
まともかどうかと言うのではない
こんな状態(テレビ視聴をしないで出勤する姿)を
「まとも」と言い切ってしまうのはどうなんだろう

ある国ではワールドカップで自国のサッカーの試合がある場合、
その時間は(午前中は)官公庁の仕事は休みにしたとか
そこまでしなくても、普段とは違って大騒ぎをしている国は
たくさんあった
そしてそれらの国はそれが当然だったし当たり前だった
つまり、日本では変と思うようなことが当たり前で
まともなことだったわけだ

大げさに人生を説くつもりはないが
人は何のために生きているのか
といえば、些細な刹那的な楽しみのために生きることもある
サッカーの楽しみもその中の一つ
しかも4年に一度
世界中のお祭りの真っ最中
そんな中、普段と同じような我慢を要する生き方と言うのは
果たしてまともなのか?

日本人から見ればラテン系の人間は
随分いい加減な生き方をしているように思えたりする
シェスタと言うお昼寝タイムがあって
バカンスを長くとったりして、、

しかし、どうなんだろう
人生を楽しむということに関しては
彼らは我々の上を行っていないか?
ヨーロッパを賛美するのではない
しかし、日本の一見真面目そうだがつまらない
息苦しそうな社会はホントはまともじゃないのではないのか

江戸時代、いやその前も
人々はそんなにしゃかりきになって働いていたわけではなかった
のんびりと、たいがいたいがいに生きていた
もっと努力すべきと言えないこともないが
それでも人々は一部の一時期の人たちを除けば
気楽に生きていた

仕事だけに真面目に生きることがまともなのではない
自分の人生の大事にすべきものを大事にしてこそ
まともだと思うのだが
(仕事が大事と思う人はそれでいいが
 全員にその価値観を強要するのはちょっと違うのではないか)

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金閣寺

2014年08月27日 19時43分29秒 | 
なかなか前に進まないのが三島由紀夫の金閣寺

図書館以外の本で、久々に購入した小説
わざわざ購入したのだから読み気はあったのだが
どうも途中下車してしまう
読む気が持続しない

確かに饒舌な表現力、語彙も知識も豊富
たいした推敲もなく書き進められる力は
天才的なものと思われる

しかし、簡単に言ってしまうと波長が合わない
彼の生み出そうとしているイメージ、世界は
そうした世界もあるとは認めたとしても
どうも美しかったり、特別なものとは自分には思えない

印象的なエピソードがあってもどこか人工的
つくりもの的な感じがして
それが自分の読書への推進力にはならない

人工的なところが気に入らないのは事実だが
もっと気に入らないのは、多分、物語を語っている
つまり物語を支配している書き手の人格的なもの

実際に会えばそんなことはないかもしれないが
本で判断するだけでは、この人とは合いそうにない

もっとも自分に合わないなと感じたのは三島由紀夫だけではない
若い時期にハマるらしい太宰治もどうも苦手
わざとらしい自虐的な感じがどうもついて行けない

とか何とか言ってもせっかく購入したものだから
読み終えないともったいない
しかし、頭は図書館で借りた宮部みゆきの本の方に
関心は移っているが、、、
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生き延びるための一つのオプション

2014年08月27日 08時32分41秒 | あれこれ考えること
意識が存在するかどうか人間に知ることの出来ない他の生物
人間の感覚からすればそれらの生物は「生きる」ことに関して
純粋だと言える

その生きる(伸びる)方法はほんとうに様々
最貧読んだ本「弱者の戦略」稲垣栄洋著 新潮選書には
これでもか!というくらいたくさんの例が紹介されている
一つ一つが非常に興味深いが自分が気になったのは本も
おしまい近くの「プレゼントも横取り」の章


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ガガンボモドキと言う虫のオスは、メスにプレゼントをして
求愛する。この時プレゼントが小さいとメスは求愛を受け入れない。
そして、大きなプレゼントを持ってきたオスとだけ交尾をする。
オスにとっては大変である。
しかも求愛を成功すれば良いかというとそうではない。
求愛を受け入れたメスは、卵を2~3個生むだけである。
そして、また新たにプレゼントを持って現れるオスを待つのである。
そのため繁殖時期のメスは狩りをしなくてもエサを手に入れることができる。
オスは大変だ。メスのご機嫌を伺いながら、プレゼントを用意しなければならない。
これは労力も多いし、リスクも大きい。そこでメスに化けるオスは現れるのだ。
ガガンボモドキのオスはメスを誘うために、プレゼントを持って葉などにぶら下がる。
すると、メスに化けたオスがやって来て、メスのふりをしながらエサの大きさを確かめる。
そして、もらったプレゼントを持ち逃げしてしまうのである。
こうして手に入れたプレゼントで、メスを誘うのだ。なんとも手の込んだ方法である。

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神の作り上げた世界が完全であるのなら、何故「悪」が存在するのか?
と考えたのはライプニッツだったが(?)一見人間の世界では
「悪」の様に思えてしまうこうしたメスに化ける行為も
生き延びることへの純粋な行為としては一概に否定できるものではない
生命は生き延びるために様々なオプションを予め用意している
そのオプションの中にこうしたずるい方法で生き延びる手段も存在するのかもしれない

以上のことを認めるとしたら、人間の世の中に時々存在する
横着して人のものを盗む、横取りする行為というものは
これらの生き延びるためのオプションの遺伝子を持っているためではないか
とさえ思ってしまう

人間は理性とか教育で世界を変えうると思っているが
実は理性と感情と喧嘩をすれば勝つのは大概感情の方
そして感情すらもコントロールするような脳の中の僅かな電流の働きを
支配するかもしれない遺伝子の役割
つまり、生物としての人間は想像以上に理性以外のモノに支配されているということ

しかし、ずるい盗み、詐欺が
遺伝子や生き延びるためのオプションのひとつとして仕方がない
と判断されてしまっては人間社会は混乱してしまう
本当はそうかもしれないが、なんとかして理性上位の世界をつくらねばならない
そこで教育、道徳が存在するのだが、その世界を息苦しく感じてしまう
何%のグループが存在してしまうのはどうしてもでてしまうことだろう

確かに言えそうなことが、「悪いこと」をなす人間の方が生命力に富んだ
感じがしてしまう(政治屋、強欲な経済人、詐欺師など)
仮に生き延びることが生命にとって何よりも優先課題だとしたら
はたして「悪」とは何かと決めることはなかなか難しい

それでもやっぱり人間にできることは、
人間は他の生物と比較すると巨大な脳を持っていることを活かすこと
その脳を機能させて(理性の分野で)ムダのない、ロスのない、戦いのない
生き延び方を選択すること

しかし、やはりある程度の悪さをする存在が出てしまうのは仕方がないか
人間は自分はそんなことはしない、そんな存在ではないと思っても
いつ何時、別の人格になってしまうかは分からないし


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ブルックナーの音楽と風景

2014年08月25日 20時25分54秒 | 徒然なるままに
作曲家が生活したその場所に立ってみる
同じ景色を見てみる
同じ空気を吸ってみる
そんなことで何かしらより深い理解をしたような
気分になれることがある

昨年はブルックナーがオルガニストを勤めた聖フローリアン修道院は行ったものの
丁寧な見学はしなくて、結局ブルックナーオルガンの下の
文字があるところも、また見ものの図書館にも行かなかった

しかし、それで不満足かといえばそうでもない
修道院から少しでたところのレストランみたいなところで
ビールを飲みながらぼんやりとその地区の自然を、風を、
空気に身を任せたとき、教会内よりもむしろオーストリアの自然に
ブルックナーは育てられたのだと思ったりした

この風景を見ながらバスの時間までビールを飲んだ

そして昨日、2番の交響曲の2楽章を朝比奈、ヨッフム、アイヒホルンで
聴き比べをしてみた
2番は結構好きな曲、3番、4番よりも好きかもしれない
ところで風景と音楽の関係
昨日聴いていた時不意に雨のあのフローリアン修道院周辺の景色が
頭に浮かんだ気がした

バス停近くの建物 何故か記憶に残っている
雨に濡れるこの建物のイメージ、、一体何故なんだろう

ブルックナーは誰にも文句を言われなかったら
どんな曲を作り続けたのだろう
8番の初稿の演奏を聴いた時の印象は
「これもあり!」

ブルックナーは多分ロマン主義者よりはもっと自然児だったに違いない
自分が好きなのは実はその点なのかもしれない


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日本は山の国

2014年08月24日 10時05分45秒 | 徒然なるままに
飛行機の窓から覗くという経験はそんなに多くない
第一飛行機に乗ったのは数える事ができるくらい
38年前にハバロフスクからモスクワが一番最初で
その時の旅で次にモスクワからパリ
あとはコペンハーゲンからウィーン
フランクフルトから東京

この旅が済んでからは全然飛行機に乗る機会なし
やっと一昨年名古屋から松山往復を経験
そして去年名古屋からヘルシンキ経由でドイツへ
帰りはウィーンからやはりヘルシンキ経由で名古屋へ

飛行機、ホテル、鉄道などの手配をしていただいた旅行会社の方が
親切な方で、飛行機の席は窓側が今ならお取り出来ますが
と飛行機にあまり乗らない人用に声をかけていただいた

そこで窓側にしてもらったわけなのだが
窓際は楽しい(子どもみたいに)
昔ハバロフスクからモスクワにアエロフロートで行った時にも
窓際だったが、そこから除いたロシアの大地の広大なことはずっと記憶にあった

そして去年のも同じ印象を持った
ツンドラといわれる地域の川が曲がりくねって
途中その川が三日月湖に変化していく様が現在進行形で見られる
日本で旅をすると何処に行っても人が住んでいると思ったりするが
いかにも寒そうな大地には人っ子ひとりいない雰囲気が満ちている
人工的なものが少しも見えない
ロシアの大地  本当に凄い

そういえば上からの景色で印象的だったのが
やはり最初の旅のパリの上空でみた景色
パリ市内を俯瞰できたのだがその時の第一印象は
石の町、石ばっかり
街が石で出来ている
この印象が強烈だった

昨年のドイツ周辺は丘や平原の中に村がぽつんと
存在して穏やかな住みやすそうな印象

ところが日本に帰ってくるとその上空から見た景色といえば
山ばっかり
日本は山の国
木に囲まれた山の国
使える土地が少なくてほとんどが山の国

だからどうなんだ!
と言われそうだが、
実感として深くそんなふうに感じたということ

あいかわらず、どうでもいいことだけれど
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そうなのか!(白い蛾の多くなったのは個々の環境対応ではなかった?)

2014年08月24日 09時36分07秒 | あれこれ考えること
教科書で教えられたから疑いなく信じていることに進化論がある
しかし、その進化論もどうも疑問が出てくることがある
もっとも進化論を(分子生物学を含めて)完全に理解しているわけではないから
その疑問も単なる思いつきのレベルを超えないが

工業暗化と言う言葉がある
イギリスの産業革命時代に白い蛾よりも黒い蛾が多くなった
と言う現象を説明する時に使われる
昔は白い蛾が多かったのだが煤煙などで街自体が黒っぽくなると
蛾も天敵から見分けにくい色(黒っぽい色)のものが増えるが
それが生物としての蛾が環境に対応して黒くなったと説明されていた
(つまり進化論の説明として)

しかし、これは素直に信じられなかった
第一にそんなに早く環境に対応ができたり、
対応ができたとしても生態が変わったものを遺伝子として
次の世代に残すという機能がそんなに早くできたのか
疑問で仕方なかった

ところが最近読んだ本によると
蛾は最初から白い蛾と黒い蛾が存在して
普通の状態では白い蛾が多いけれども
少ない割合で黒い蛾も存在する
産業革命時代のイギリスでは環境に対応したのではなく
わすかに存在する黒い蛾のほうが生き残りやすいために
結果的に黒い蛾が増えきたというのが本当のところ
と説明があった

なるほど、これなら無理なく理解できそう
生物はいろんな条件を予想して(?)いろんなオプション用意して
可能性を残しておく知恵(?)が備わっているということ

働かない蟻、使わない脳、
人間の知恵の範囲では直ぐに理解できない事柄は
まだまだ多く存在する

世の中は不思議に満ちている
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時々思う「どうでもいいこと?」

2014年08月24日 05時43分19秒 | あれこれ考えること
時々思うことがある
記憶や知識はどこに保存されるのだろう
脳の地図上のことではない
そしてその物理量は現実にどこに存在するのだろう

ある刺激は脳のある場所を活性化させて
微弱な電流が流れるという
ニューロンが伸びたり作成されたりすることが
記憶につながる現象なのだが
それがどんな記憶かは分からない

一般に記憶や知識は文書化されて
そこに残っているとされる
しかし、その文章を読んで解釈する力のない人は
その文章は記憶でも知識でも何でもない

例えば古文書
古い言葉を知っていて、読むことが出来て
尚且つ必要とされる知識がある人には
その古文書は記録とか記憶のきっかけの一部となる

しかし、古文書の知識のない人は
それらを前にしても、脳に微弱な電流さえ流れないに違いない
目の前にあるのはある物質だけ

つまり記憶とか知識の存在とは
ある刺激に対する反応のようなもので
脳の中で起こる中にしか存在しない
そしてその物理量は残念ながら計測できないし
その内容は分からない

同じものを見ても同じものを見ているという事実は確かだが
同じように見えているかは分からない
例えば色もそうだ
右目と左目を片方ずつである景色を見ると
その色彩は微妙に違う
視覚に関する組織、網膜の僅かな違いが引き起こすのだろうが
同じ人間の中でさえそうなのだから
他人ではもっと違うと想像しても不思議ではない

ただ厳密な意味ではなくアバウトの部分では
みんな同じように(色を)感じているということは言えそう

音楽を聴く時、多くの人が一緒に聴いたとしても
そのジャンルの音楽に慣れているか慣れていないかで
聞き取る情報量が全然違う
例えば同じくらいの経験者であったとしても
生きている過程が違うので、やっぱり感じることの違いは存在する
それらは全て脳の中で起きている微弱な電流のなせる技

しかし、その中にもやはりある種の共通というしかないような
感情や印象を持つことがある
それは一体何なんだろう

こんなことは普通に考えれば当たり前の現象
でも少しまじめに考えたりすると極めて不思議なこと
もっともこの不思議を感じることが
生きていく上で必要かどうかは大いに疑問だが

ところで本を読む時(黙読)最初は確かに頭の中で声がする
そのうちに声の存在は忘れて内容に集中することができるが
この最初の声は(音質)は何なんだろう
普段の自分の体を通しての声とはどうも違うみたいだし
音色があるようなないような、、、

ま、どうでもいいことだけれど


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レコードの音

2014年08月21日 19時24分37秒 | オーディオ
少し前にカートリッジの交換の時にミスってしまって
レコードプレーヤーを修理に出していたが
ようやく帰ってきて改めて聴いてみると
やっぱりCDの音とは全然違う

いい音とはなにか?
立ち上がり機敏さ
濁りのない音、、、

そんな面倒なことを考えるより
聴き比べるのが一番
聴いてみればはっきり断言できる
現時点では音の好き嫌いを越えて
圧倒的にレコードの音のほうが良い

聴くのはクラシック音楽とジャズ
それにロック、他にもJポップや演歌
つまり雑食系でなんでも聞くが
特にクラシックの音はレコードは生の楽器の音がする
マイクを通して電気での再現なのだが
それでも楽器本体を共鳴させて独自の音を聞くことができる

CDの音は休止などの静寂は問題ないが
どうも電気で録音された音と言うイメージから抜け出せない
ヴォリュームを上げても音は要求された音量で鳴るだけ
だがレコードはヴォリュームを上げるとその分だけ楽器(音源)に
近づいているような気がする

いい音楽、いい演奏
その印象はレコードを聴いた時とCDとは随分変わってしまう
ならば何を基準にいい演奏とか、いい音楽ということができるのか

思い起こすと感動した演奏はいつもレコードで聴いた方だった
レコードの面を取り替えるのが面倒でもそんなことは気にならずに
音楽の興奮で喉をカラカラにしながら一気に聴き込んだものだった

CDは便利だが、本当に音質をもっと求めないと
似非の音楽体験になってしまいそう

ちなみにオーディオ機器は


スピーカー/ タンノイ スターリング
CDプレーヤー/ Musical Fidelity A3.2
アンプ/ C&R 300B
フォノイコライザー/ EAR 834P
レコードプレーヤー/ ノッティンガム ハイパースペース(中古品を購入)
カートリッジ/ デンオンDL103


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欲=目標・夢?

2014年08月19日 20時19分39秒 | あれこれ考えること
時々実感するのはキレイ事ではなく本当はこうではないのか
と思えるようなこと
充実した人生を送るためには夢を持つべき、いや夢よりも具体的な
目標を持つべきと自己啓発では説かれる

しかし、その根本となるのは案外低次元な「欲」ではないか
金欲、名声欲、自己顕示欲、
こうしたものは案外馬鹿にならない
この手の欲に正直な人は、図々しくて人には関心がなくて
自分の思うままに行動する傾向がある
そして運がよい場合にはそのバイタリティー故に
成功する場面に出くわす
この時人は欲を夢とか目標という言葉に置き換える

しかし、人間社会が(特に経済社会が)欲がもたらす
生存競争だけで成り立っているのだとしたら
それは他の生物と大差のない生き方をしているように
思えてならない

人には何故、感情という物を手にしているのか
共感する機能は何のためか
それらは決して闘うためのものではないはず

何かが違う
最近何かがおかしい
そんなふうに思うのは年寄りが今の若いものは
と愚痴を言うのと同じ事なのだろうか

いや、やっぱり最近は何かが違う

欲に、いや本音に正直すぎて
世の中に余裕とか潤いがない

今の日本人は反応しているだけ
何かを考えだしたり作り出すというより
瞬間的に反応しているだけ

自己啓発のお勉強はノウハウ・ハウツウものとしては
優れているかもしれないが、必ずしも心豊かな人間をつくるものではない
と思えてしまうのは、何故なんだろう
(最近この手の講習を受けていて、どこか違和感が抜け切らないので)

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