パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

制度と実態(パブリックコメント)

2020年04月30日 09時38分46秒 | あれこれ考えること

どのような理屈があるとしても、その実効性に疑問が残るのが
「最高裁判所裁判官国民審査」制度
衆議院選挙と同時に行われ、審査対象の裁判官のうち罷免すべき
裁判官の名前の上にチェックを入れるようになっている

この罷免すべきかどうかの判断がわからない
選挙の前に、対象裁判官の判断履歴を書いた書類が届けられ
それを参考にして欲しいとするものだが、これを読んでも
素人には法律用語が多くて、いったい何が書かれているのか
すんなり理解できない
おまけに、その裁判官の判断傾向(?)を見ようと、裁判官同士の
判断が分かれた場合の選択をチェックしようとするが
用紙に書かれているのは全員が同じ判断をしたものが多く
比較したり参考にすることはできない
果たして、これで「審査」は本当に機能しているのか?

このように感じることは多くの人も同じだろう
いたずらに(適当に)☓をつける人があるのは想像されるが
どの位置に書かれた人に罷免の印をつけられることが統計的に
多いかが解っているようで、国民審査の用紙も一種類ではなく
名前の順番が入れ替わったものがいくつかあるらしい

結局のところ、制度としては国民みんなに審査された、、となるが
実態としては、国民は何をしてるかさっぱりわからないまま
お墨付きの責任を負わされることになる

だが今日の投稿のテーマは、この国のシステムへの疑問ではなく
もう少し身近な問題で、この状況と似ていると思われる
地方都市で時々行われる「パブリックコメント」について

このパブリックコメントなる過程(ステップ)は、制度的には
もっともらしい段取りを踏んでいるとしても
そのパブリックコメントを求める本質的な意味が実現されているか
が多いに疑問に思えてしまう

最近の例では、現実として一ヶ月ほどの期間に市民に対して
パブリックコメントを求められる案件があった
(たまたまこの案件は少し自分も関わっていたので関心があった)
パプリックコメントの募集は、確か市の広報誌とHPで行われた

受付期間が過ぎて、結果が発表された(昨日の全員協議会で)
応募したのは締切ギリギリにメールで一人、6個の指摘があったとのこと
今回、自分はいろいろ言いたいことはあったが、敢えてダンマリを決めていた
それは現実把握をするためで、主権者・納税者・生活者である普通の市民が
どのくらいレスポンスをするか確かめたかったからだ

やっぱり、そうか
これが第一印象
そしてこの一人の応募者も、きっとあの方なのでは?と想像してしまった

このパブリックコメント、先に挙げた「国民審査」と同じで
まずは問われている内容がよくわからない(今回は新しい条例についてだが)
そもそも急に「この条例について何か意見をお聞かせください!」
と言われても、条例の文章に慣れている人(そこから想像される何かを感じ取れる人)と
めったにそんなものに触れることのない人とは、雲泥の違いがある
それにちょっとだけ見ると、そこには一種の理想的なことが織り込まれていて
別に批判するような(ケチをつけるような)ものではないような印象を持ってしまう
だから、問題なし、、関心なし、、となり
結果的にパブリックコメントのステップは踏んで、市民の同意(?)も得られた
と言われる素地を作ってしまう

市民自治なり主権者教育という言葉(あるいはそれに関する制度)は、
ある種の人には心地よく響く
そしてその制度が日本で一番最初にできた制度(条例)と世間対して声にすることで
一種のステータスになる
(つい補助金の申請書類には、画期的な、、、云々と書くのを思い出してしまった)

だが一番注視しなけれならないのは、その現実的な実効性ではないだろうか
そもそもその制度を作ろうとした思いは何で
その最初の部分で浮き彫りにされた問題はクリアできているのか、、

そうしたものが、制度(条例)という現実に存在するものによって
本来の目的は達成されなくなるのではないか
このような不安が頭に浮かぶ
(この件に関わって会議を行った際に、グループが一番時間をかけて話しあったのは
 法的な条例のことではなく、そもそも市民はどうあるべきか
 それにはどうしたらよいか、、という内容だった)

最初から設定した目的に向かって
正当なステップを踏んでいるように見せて(少し意地悪い見方?)
それで、ものごとが進められていく現実を今回は目の当たりにしたわけだが
「パブリックコメントはアリバイ作り」と巷で言われるのを
まさに実感してしまった

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知らないところで進められている話(昨日の全員協議会)

2020年04月29日 09時07分56秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

地元の新城市議会の話

新型コロナ感染防止のために三密を避けることが推奨されているなか
議会の傍聴をするのはどうか、、は気になるところ
だがその前に新城市議会では昨日(4月28日)全員協議会が
開かれていることを圧倒的多くの市民は知らない

3月議会の予算に関する大事な定例会が終わったので
議員さんは6月までお休み状態で楽ちんな仕事!
などと思っている人が多いかもしれない
しかし、議員さんの味方をするわけではないが
思いの外議員さんはすべき仕事が多いようだ
議会は全員協議会なるものが定例会の期間以外にも開かれる
みんなで集まって行うくらいだから重要なテーマについて
話し合われるのだが、昨日のテーマの一つが
「東三河広域連合の新城市割当の議員選出」

ここで「東三河広域連合」をは何?
となるのだが、正直言って名前はよく聞くが、何をしてるかわからない
時々宅配で広報誌が入るのだが、いい加減に読み飛ばしている
知らないのはこちらが悪いことになるのだが、そこで検索をかけて
いろいろ調べてみた

調べた中で昨日の全員協議会に関する重要なところは、この東三河広域連合には
新城市からは議会の中から3人選出されことになっている(広域連合の議員として)
(東三河広域連合の定例会は2月と8月、他に臨時で5月開催
 議員は市議会のように各委員会に分けられる
  全体的イメージはEU?分担金も収めて議員を送って運営してるので)
その3人は新城市では各委員会の中から一人づつ選出されるのが通例になっていた(委員長?)
(任期は基本的には議員の任期中だが、新城市では別のルールで進んでいる)
昨日はこの議会からの選出議員を誰にすべきか?
という点が議題に上がった

普段ならこれはいい意味でルーティンでウンもスンもなく行われる
ところが、今回は安易にルーティンで済まされるのは
ふさわしくないのではないか、、との声が数人の議員さんの中からあがった
普通にいけばウンもスンもなく済む問題が
何故ちょいとした騒ぎになってしまったのか、、

これは今回、東三河広域連合の議員に立候補した議員及び現在選ばれている議員が
新城市の代表として行くのにふさわしい人物なのか、、との指摘がされたのだ
すると、でてくる疑問は「何故ふさわしくないのか?」となる

実はこの人物を含めて総勢6名の議員は、市民から行政訴訟を起こされている
その内容は政務活動費の不正取得と思われる案件で
ある年度末の東京出張での視察が本当に必要不可欠で、効果のあったものか不明で
単なる政務活動費の使用のみを目的としたものではなかったか
との疑いがあり、その際の宿泊費の返却が訴えられたものだ
(本来あるべき報告書がなかったり、一旦出された書類に間違いが多かったりして
  かなり疑いをもたれても仕方のない状況)

といっても流石に裁判はお金もかかり、大げさなので原告となる人たちは
該当議員に訴訟前に「不当取得されたと思われる宿泊費」の市への返却を求め
返却されたなら、訴訟まではしないと告げていた
ところが、該当議員は提案に応じず「自分たちは間違っていない、」
と面倒な裁判に突入した経過がある

これは新聞記事にもなった
悲しいことに、この6人のうちの数人はこの裁判の他にも
滋賀県の大津の研修の際も政務活動費について少し疑わしいことをしてる
とNHKテレビでも放送された
(車で乗り合わせていったにもかかわらず、電車賃を請求し差額を懐に入れた疑い)

ところが裁判の途中で事態が急展開した
訴えられた6人が市に最近宿泊費の返却を行ったのだ
(自分たちは間違っていない、、との覚悟で裁判を迎えたのに、、)
これについて該当する6人は、誰かがメディアに対して一方的に自分たちの
主張をリリースしたが、市民や議会に対しては説明がされていない

今回、このように市民に対しても議会に対しても説明責任を果たしていない
中途半端なままの議員が市から代表として選出されしまうなら、
他の自治体の選出議員からどんな目で見られるか
少し恥ずかしいのではないか、、
今回は、ルーティンの選び方ではなく(各委員会からの選出など)
新城市の代表として誰がふさわしいか、、をじっくり検討すべき
との、ごく真っ当な意見が提案されたのだ

しかし少しばかり気が重いのは、こうした真っ当な意見は
数の力の前には力をもたない可能性があるということ
いざとなったら多数決!
で一般的にはおかしいとされることも、強引に突破されてしまう
(現在の力関係は、、、、)

市議会は傍聴しない人には、偉い人たちが真面目にちゃんとやっている
と思い込んでいる
しかし、現実は残念ながらそうばかりとは言えない
一方的に感情的に全部が全部ダメだダメだ!
は少し行き過ぎと思うが、明らかに時々議員に対する市民のチェックは
必要不可欠と思われる

ということで、知らないところでこんなことが起きているということ

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背後に見える総量

2020年04月28日 18時47分33秒 | あれこれ考えること

例えば一時間読書したとする
例えばドストエフスキーとかハンナ・アーレント
これらの本を読んだ後の身体に残る何かは
気軽なライトノベル(価値がないというのではない)を
読んだ一時間とは明らかに何かが違う

読書して感じるのは書き手の(人間としての)総量で
書かれていることというよりは、書き手の思考とか感性
(あるいはそれらに対する戦いの実態)
のような気がしてならない、、

これは音楽においても似たようなもので
ブルックナーの交響曲8番を聴いてる時間と同じ物理的な時間で
イージーリスニングを聴いているときとは、明らかに違う
(ブルックナーのときは彼が考えたり感じたことを
 追体験してるような気がしている)

最近、人と会話するときも相手の方の総量を感じてしまうことがある
例えば経営者などは実体験に基づくその人の総量を感じることができるが
修羅場を踏んでいない人、あるいは自己に沈潜したことのないと思われる人は
同じ会話を交わしても、まるで反射神経で会話しているような気がしてしまう

その総量というものは、もしかしたら暗黙知なることばで代表される
何かかもしれない

とまあ、へんちくりんな訳のわからないことを、取り上げたが
困るのはこれが案外あたっているのではないか、、と思えてしまうこと
人はより強い刺激を求めがちなので、どうしても総量の多い作品とか
人との出会いを求めてしまう
(いったい、なんのこっちゃ?)

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何故か項目が前年と変わっている

2020年04月26日 15時15分55秒 | 市政、市議会に関することなど

少し独断的な話

何かを時系列に比較する時は、例えばアンケートなら同じ質問を
続けたほうがわかりやすい
内閣の支持率アンケートも、あまりいい質問ではないと思うものの
質問を変えてしまうとその変化がわからない
だから、相変わらず同じ質問の調査をしている

ところが、同じことをしているのに項目(明細)が変わっていることがあった
縁があって手にした我市の事業の書類のなかにそれはあった
その事業は前年とは変わらないで継続することになった
ところが、その費用項目をよく見ると何故か前年の項目と同じではなかった
同じようなニュアンスだが微妙に違う
どちらかといえば、それが何を意味しているかわからない抽象的な
項目(名)になっていた

同じことをしているのだから、項目(明細)は変える必要はない
年による違いもわかるし、項目の表を作るときもコピペができて楽なのに
変えるほうが不自然なのだが、何故か変わっていた

こういう時は、何か隠したいことがあるのでは!
と、最近疑り深くなってしまった直感が動き出す

変える必要はないのに変えた
年度別の変化がわからないようになっている
何故?

実は、あれを隠したいのだな!と見当がついた(想像・独断だが)
決算(公会計)では普通に公表されているが
実際にはその事業は支払わなければならない、あまり表に出ていない金額がまだあった
(これは担当部署が意図的に隠すと言うよりは、公会計上のルーズさからきているものらしい)
決算の書類上はその年度内で問題ないように見えても
実際は年をまたいで支払いをしなければならない金額がある(この事実は現場は認めている)
それを正直に未払い分として計上することは(この事業自体の継続が問題になったので)
ためらわれたのではないか、、

と、こんな風に、疑問を持ってしまう書類だが、
手にした中にはまだまだ首を傾げる項目がいくつかあった
(果たしてそれは何か?)

本当は勝手な独断の勘違いで終われば良い!
と思っているお人好しな、同居人にはいつも叱られる自分がいるのだが、、、

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枕詞

2020年04月25日 15時40分35秒 | 徒然なるままに

最近楽しんでいるテンミニッツTV
いろんなジャンルの専門的な知識が10分の短い時間に
まとめられて紹介されている
今日、見たのが百人一首関係と「枕詞」についてのシリーズだったが
この枕詞の説明が面白かった

枕詞はそれ自体は殆ど意味をなさなくて、次に続く言葉を導き出すもので
そこでわかりやすく紹介されたのが、居酒屋に出かけた時の例
多くの人がつい口にするのが「とりあえず」の言葉
それに続くのは「ビール」で、枕詞はこのようなものとの説明があった

なるほど!と、一気にわかった気になれる
そこで、自分もそんな例を思い出した
それは通販番組の定番の言葉
「気になる」といえば、、、「お値段」
このセットだ
いつの日か、お値段の枕詞が「気になる」となる日がきたりして
(そんな訳ないか!)

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小学校の校歌

2020年04月24日 19時22分01秒 | 徒然なるままに

一番多く歌ってきたせいでだろうか、校歌の中では
小学校のそれが一番好きだ。
新城市立東郷西小学校の校歌は伸びやかなメロディで
大声で歌うととても気持ちよかった。
今どきだから動画にアップされているものがあるかな?
と検索してみたが、残念、なかった。

この校歌、自分は一番が男子、二番が女子、
三番は一緒に歌ったと強く記憶に残っている。
ところが、同世代の連中に聞くと「そうだった?」と答える
今の子の親御さんに聞くと「最初からみんなで歌う」と答える
今の時代ではそうなんだろうな、、と思いつつ、
でもあの頃は、絶対一番が男子で、二番が女子で、、、と思う

そういえば給食費の代わりに小学校まで薪を持っていった記憶がある
(給食費はお金でも薪でもどっちでも良かったような、、自信はないが)
いつも頭に浮かぶのは、踏切で電車が行き過ぎるのを待つ間
ブラブラと手持ち無沙汰気味に薪を持っているシーン
自分にはこれだけ記憶が鮮明なのに、同世代の仲間と話しても覚えていない(みたい)

そこで、あまりにも多くの人が覚えていないので、自分が間違ってるのかもとも思ってしまう
ついソロモン・アッシュの同調実験を思い出してしまうが
絶対自分は間違っていない、、、と思う(思いたい?)

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買い物を兼ねてウォーキング!

2020年04月23日 14時17分38秒 | 徒然なるままに

昨日は片道2キロ以上の道をお酒を買いに歩いた
そして今日は往復2キロちょっとの道のりを
食品を買いに歩いて出かけた

新型ウィルスの感染防止のため不要不急の外出を控えるように要請されている
でも家の中に引きこもりは体に良くない
そこで健康のためのウォーキングを兼ねて買い物に出かける
ただ店内に人が多くなるのはまずいので、家族は別々に
ちょこちょこと買い物に出かけている

昨日は家に帰ると汗ばむくらいだったが、今日は風が冷たい
今年は変な気候!とつい口に出る
庭の木(ニシキギ、ハシバミ、アズキナシ、シャラ)はいつものように新緑の様相
瑞々しい葉っぱと、木陰のできるこれからが自分の一番好きな季節だ

それにしても、あまり外に出ないから出費は少ない
自分の出納帳は今月は楽勝に黒字だろう
でも、その分世の中にお金が回っていかないだろうから
それだけで喜ぶわけにはいかない
不意に外国人のあの子の親御さんの経営してるカレー屋さんは
大丈夫なのか、、、と少し心配になる

早く平常に戻りますように、、、


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「災害ユートピア」と「火事場泥棒」

2020年04月22日 08時44分22秒 | あれこれ考えること

災害ユートピアと火事場泥棒
前者は非常時にみんな力を合わせ助け合って乗り切っていこうとする
心がほっこりする話
後者は非常時のどさくさに紛れて一儲けしてやろうとする
ちょいといただけない話
不思議なことに、これは同時進行している
だが不思議なのではなく、(確率的に)人はそうしたものだ、、
と思うほうが無理はないのかもしれない

西欧のキリスト教の文化の中では、神の創造した世界が秩序あるものならば
多くの思想家の頭を悩ました
「何故、悪が存在するのか?」との問に繋がり
その答えとして、人はそもそも神の意図を把握しえない、、とか
不完全の状態は何かを強いるキッカケとして存在するとか(違ったかな?)
とにかく、答えのないような問に必死に理屈の体系化を図ろうとした

日本人は多分思考に対してそこまでの掘り下げや、それに伴う忍耐力はないものと思われる
それよりは、身の回りにある自然をそのまま受け入れ、そこから生じる感覚的な印象
(もののあわれとか侘び寂びとか、全面的な肯定とか、諦めとか)の方が優先しがちのようだ

いずれにしても、全く反対のような行為が同時期に人間によって行われている
そこで頭に浮かんだのが、人間が利己的に活動する(火事場泥棒的な)のは、
哲学的・社会学的にモラルの欠如云々の問題ではなく
生物学的に生き延びる可能性を確保していくための手段(ウィルスの突然変異のような)
に過ぎないかもしれないとの考え
でも、これはきっと悪しき科学的な考え方なんだろう(?)
「サピエンス全史」を通して読んでみると、人は生き延びるために試行錯誤をしている
そこにはモラルの自然発生的な誕生もある(自分の理解した範囲では)
ある部分には不都合を生じても、全体的にはそうある方が良い、、
と社会のルール(正義・道徳・倫理)が生まれる
それが生き延びるコツだった、、、と思いたのだが、
この理解の仕方で良いのかどうかは自信がない
こう考えると、いやこのような考え方をしがちな自分はニーチェについては
どうしても否定的にならざるを得ない

ややこしい話は一旦横において、今も疑問で仕方ないのは
災害ユートピアと火事場泥棒の共存の他に
何故人はフェイクニュースを流してしまうのか
そして何故安易にそれを信じてしまうのか
誰かが悪い!といったシンプルな決めつけは何故多くの人の気持を掴んでしまうのか
(週刊誌広告の人を批判するニュースに何故ひかれてしまうのか?)
ひとはそもそも客観的に情報に接することはできるのか
何故、共感・同情する人がいる半面無関心な人がいるのか、、
自分で判断する自由は、本当に人の望んだ自由か(自由からの逃走、カラマーゾフの兄弟)
孤独と孤立はどう違うか
数人の中にいる自分と多くの中にいる自分は同じか(同じ判断をするか?)

とまあ、答えのなさそうな疑問が気になる
実生活には一向に役に立たないこうした問だが
何かを考えたり感じたりするキッカケにはなっているので
ボケ防止にはなっているかも

ところで最近読んだ本(部分的再読を含めて)は、
「世論」リップマン、「群集心理」ギュスターブ・ル・ボン
「自発的隷従論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、「責任と判断」ハンナ・アーレント
「法学の基礎」団籐重光、「処罰社会」「監獄の誕生」ミシェル・フーコーなど

これらは正直なところ自分の理解力を越えた内容だが、こうして何かを感じる癖が身についているので
身体の何処かに居場所を確保しているのかもしれない(と思いたい)

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討論の場ではなく裁判の場

2020年04月21日 09時03分00秒 | あれこれ考えること

少し真面目な話

国会中継を見たりすると、国会は議論や討論の場ではなく裁判の場のような印象をもつ
そこは究極の妥協案を模索するための場というよりは、野党・与党がそれぞれの主張する
ことに終始する
見ていてイライラするのは、ファクトに基づいてその場を進めて行く前提でありながら
そのファクト・あるいは資料が結局は数の力で公にされない状況になっていること
(野党が委員長に重要な資料の提出を求めても、委員長は後刻理事会で協議すると答え
  それは与党理事の多数の反対で実現されないのが常となっている)

裁判なら(多分)仕切り役の裁判長が目前のテーマについて論点を整理し、その進行に必要な
資料(証拠)を双方に求めて、お互いに納得行くステップを踏む
ところが、国会の場で起きていることは、自らの正当性を主張する準備書面は一向に提出せず
口頭で関係者に聞いたことを、その関係者が嘘を言っているかどうかもわからないのに
一方的にそれを信じて、何を言われてもその先には行かせない作戦を取る

国会の場は裁判の場ではないが、裁判官が見ていたらどんな風に感じるのだろう
などと常々思っていたら、YoutubeチャンネルのテンミニッツTVというところで
「民主主義は今危機に瀕している」とのタイトルで講義が行われていた
これは偶然目にしたが、このなかで最近の国会は「裁判の場になっている」
と自分が感じていたことを、拍子抜けするくらい自明のこととして扱われていた

その講義によると、本来議論・討論の場であった国会は今や「党派性」が
幅を利かすことになり、党の利益、イデオロギーをそれぞれが主張する場で
最初から最後まで考えを変えることはなくなっている
これは「裁判の場」の進め方と同じだと述べている

なんだ、自分の感じていたことは間違いじゃなかったんだ、、
と納得する反面、(結局は少数者の支配に繋がりそうな)
最近の党派主流の政治の流れは、、ちょいと不安になる

選挙に一番真剣になれる人たちは、その結果が生活に直結する人たちだ
選挙の結果で自分たちの分野にお金が流れてくるとなれば、真剣にならざるを得ない
自分たちの組織(?)ために投票以外にもロビー活動も行う
(それはそれで地道な活動だが)
ところが、自分の生活に直結していると実感のない無党派層とか無関心層の一部は
想像力を駆使することなく他人任せの方法を取ってしまう

本来はトランプさんのような人物が大統領にならないためのアメリカの予備選挙システムが
結果的には法に則ってトランプさんを大統領にしてしまったという事実
法とかシステムというものは、いつの時代も完璧なものはないと実感する
だからこそ「動的な法」という概念(法は解釈主義に終止するのではなくその都度変化すべき)
という考え方も生まれてくるのだろう

ところで、アメリカに限らずポピュリズムに支配される傾向は、
不安定な社会になっている現在はますますその勢いを加速しているかのよう
海外から見れば日本も、、ポピュリズム国家、、との判定を受けているかもしれない


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たどり着く人と、たどり着かない人

2020年04月20日 14時21分28秒 | あれこれ考えること

いろんなブログで取り上げられているのが
アメリカのホロコースト記念館の掲示されているファシズムの初期兆候

これを見て、つい現在の日本を想像してしまう人は少なくないだろう
だがこうしたメッセージに全然たどり着かない人たちが多くいることも事実

それは人には多様な考え方があるというのとは少し違う次元のこと

インターネットの初期、デジタルディヴァイドなる言葉が流行った
インターネット技術を利用できるものとできない者の情報格差を言い表したものだが
これとも違う気がする

こうして片方は、何故こんなことに気づかないのか、、と焦りを覚える
それに対して、もう片方は、何をそんなに拡大解釈して怒っているのか、、と思う

危険に対するセンサー機能が敏感な人の、どこか漠然とした不安、、、
これが杞憂であれば良いのだが、、、

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