映画的・絵画的・音楽的

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関ヶ原

2017年09月08日 | 邦画(17年)
 『関ヶ原』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て良さそうと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1600年の戦いの前日の関ヶ原。
 ススキの生い茂る野原を、西軍の石田三成岡田准一)や島左近平岳大)らの少人数の武将が馬で進んで、周りの状況を調べています。
 また、彼らとは別の方角に歩く少人数の侍たち(東軍でしょう)もいます。
 三成は、土に埋もれている地蔵を掘り出して据え直し、それに祈りを捧げます(注2)。

 次いで、木場勝己によるナレーションが入ります。
 「いま、憶いだしている。筆者は少年の頃、近江国のその寺に行った記憶がある」云々(注3)。
 そして、画面では、日傘と扇子を手にした老人(注4:鴨川てんし)が登場して、「ここに太閤さんが座っていた」と付いてきた子供(林卓)に説明すると、その子供が「それって何年前のこと?」と尋ねるものですから、老人は「350年前」と答えます(注5)。
 またナレーションです。
 「少年のころの情景が、昼寝の夢のように浮かび上がった」、「ヘンリー・ミラーは「思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ」、「そういうぐあいに話をすすめよう」。

 そして、「1522年」(注6)。
 このあたりに鷹狩にきていた秀吉滝藤賢一)がいきなり寺に入って、茶を所望します。
そして「三献茶」の逸話が描かれます(注7)。
 秀吉は少年の頃の三成(河城英之介)に「お前の名は?」と尋ねると、三成は「佐吉と申します」と答え、秀吉は「コヤツ、気に入った」と呟きます。

 次は「1558年」の大阪城。
 秀吉が三成に「次は伏見に城を設ける」と言うと、三成は「その次は?」と尋ねます。
 すると、秀吉は、「明国に決まっている」「すべてを臣下にしないと、戦は終わらない」と言います。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどんな物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、よく知られている1600年の関ヶ原の戦いを、司馬遼太郎の小説を原作にして映画化したものです。従来の常識的なイメージを改めて、石田三成をむしろ正義を重んじロマンに生きる武将として、徳川家康役所広司)を、それに対する野望に燃える狡知な武将として描き出そうとしています。ただ、沢山の人物が登場するので、予備的な知識がないと混乱する感じであり、なおかつ、セリフがよく聞き取れない箇所が多々あります。その上でのメインの関ヶ原の戦いとなるわけで、いったいこれは誰でそれがどうしたのかがはっきりしないままに、東軍の勝利となってしまう感じでした。

(2)本作は、上記(1)からもわかるように、かなり原作を意識して制作されています。
 なにしろ、原作の冒頭がナレーションで読み上げられるだけでなく、原作者の司馬遼太郎と思しき人物までも、少年としてですが登場するのです(注8)。
 そうであれば、本作全体も、かなり原作に忠実に制作されているのでは、と思いたくなってしまいます。
 ところが、本作では、例えば、上記(1)に引き続いて1595年の伏見城の場面が描かれ、関白秀次の正室や側室、侍女までもの処刑が決められ、次いで三条河原での処刑の場面となりますが、原作には対応する場面が見当たらないのです。

 とはいえ、本作は、原作の実写化とか、史実そのママを描き出すことが狙いではないのでしょうから、このようなストーリーを嵌め込んだとしても、そのこと自体何の問題もないでしょう。
 特に、本作では秀次事件を取り上げることによって、三成が家康のラフな格好を咎め立てするシーンを描き(注9)、また、初芽有村架純)を駒姫(注10)の侍女として登場させ三成と対峙させてもいます(注11)。



 原作にない場面を描き出すことによって、その後のストーリーの展開がスムースになっているように思われます。
 ですが、そうであるなら、本作が司馬遼太郎の『関ヶ原』に依拠することを、本作の始めの方のような形で前面に出す必要はないように思えました(注12)。

 としても、本作は、かなりの部分を原作に依っています。
 例えば、本作の主要登場人物である石田三成と徳川家康は、大体のところ、Wikipediaの「関ヶ原 (小説)」の「主な登場人物」の項で述べられているような人物像として描き出されています。
 すなわち、三成については、同記事において、「豊臣家に対する忠誠心は非常に強く、秀吉の死後に野心を露わにした家康を弾劾し、反家康勢力を取りまとめて総勢十万にも及ぶ大軍勢を組織し、未曾有の大戦を挑んだ。道理と信義を何よりも尊び、背腹離叛が日常の乱世において珍奇なほどの理想主義者。天下簒奪を狙う家康を「老奸」と呼んで目の仇とし、保身しか考えず家康に媚びる諸大名を憎悪する」云々と述べられています。
 そして、本作においても、三成は島左近に、「太閤様が信長様から受け継がれた義を受け継ぐ必要がある」と述べたり、小早川秀秋東出昌大)を説得するのに、「義のみが世の中を立て直す」などと言ったりします(注13)。

 ただ、原作は、文庫本で上・中・下の3冊であり、それらを合わせるとおよそ1,500ページ、とても1本の映画に収まりきれる分量ではありません。
 著名な場面がいくつも割愛されているだけでなく、描き出された場面においても、例えば、台詞の量が膨大なものとなっているばかりでなく、凄い早口で喋られる場合が多く、観客にとってはなかなか理解し難いものとなってしまっています(注14)。

 とはいえ、本作のクライマックスである関ヶ原の戦いの映像は、実際に誰が誰であり、画面に現れる武士たちがどの集団に所属するのが判然としない憾みがあるとはいえ、母衣をつけた騎乗の武士たちが駆け抜けたり、鉄砲や大砲の射撃が行われたり、長槍を持った集団が戦ったりと、なかなか迫力に満ちていました。



 また、いつもながらの生真面目さを全面に出した岡田准一の演技は、本作の三成によく適合していると思いますが(注15)、クマネズミには、役所広司が力いっぱいに演じる徳川家康の人物像に一層の興味を惹かれました。



 総じて言えば、2時間30分近くの映画の中に、実にたくさんのものが詰め込まれていて、予め原作を読んで頭のなかに入っている人なら別でしょうが、そうでもなくて漫然と本作を見たら、猫に小判といった状態になってしまうのではないか、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「三成と初芽の秘めた恋は、ヴィジュアルは華やかになるが、正直、必要ないとも思う。登場人物があまりに多く、セリフも膨大なので、歴史によほど詳しくないと、混乱してしまうのは、致し方ないところか」として55点を付けています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「原田監督の「駆込み女と駆出し男」と同様、膨大な情報量とスピード感に振り落とされないよう、付いていくのがやっとという部分も。誰もが結末を知る戦いだが、錯綜する人間関係についての知識を持って鑑賞したほうが戦いのただ中に身を置く感覚を味わえるのでは」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『日本のいちばん長い日』などの原田眞人
 原作は、司馬遼太郎著『関ヶ原』(新潮文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『追憶』、役所広司中嶋しゅうは『日本のいちばん長い日』、有村架純は『アイアムアヒーロー』、平岳大は『のぼうの城』、東出昌大は『クリーピー 偽りの隣人』、北村有起哉は『オーバー・フェンス』、音尾琢真は『森山中教習所』、キムラ緑子は『ぼくのおじさん』、滝藤賢一は『SCOOP!』、西岡徳馬は『神様のカルテ』、松山ケンイチは『怒り』で、それぞれ見ました。

(注2)本作では、戦いが終わった後、今度は家康がこの地藏と向かい合います。
 なお、この地蔵は、あるいは道祖神なのでしょうか?

(注3)本作では何の説明もありませんが、司馬遼太郎の『関ヶ原』の冒頭の部分。「筆者」とは司馬遼太郎のことでしょう。
 ただ、こうしたことを事前に知らずにこの部分を耳にする大部分の観客は、大いに戸惑ってしまうことでしょう(また、仮にその本を読んでいるとしても、そんな詳細を記憶している者はごく少数ではないでしょうか?)。

(注4)原作には、「老人は、洋日傘と、扇子を一本もち、糊のきいたちぢみのシャツとズボン下の上に、生帷子の道服じみたものを一枚身につけている」とありますが(文庫版P.10)、さらにカンカン帽をかぶっていることを除いて、この表現とぴったり合った服装の老人が本作に登場します(ちなみに、原作では、この老人のことは「かいわれさん」と呼ばれています)。

(注5)「350年前」というのは、クマネズミの聞き間違いかもしれません。
 ここで描かれる「三献茶」の逸話があったのは、小和田哲男氏のこの記事によれば、「時は、天正二年、秀吉39歳、三成15歳のとき。場所は近江の国(滋賀県)にある観音寺」とのこと。仮にそうだとしたら、逸話の出来事があったのは1575年で、それから「350年後」となると、1925年(大正14年)になります。他方で、「筆者」の司馬遼太郎は1923年生まれですから、ここに登場する少年よりも4、5歳ほど小さかったはずです。
 なお、この逸話に関する本作でのロケ場所は天寧寺

(注6)上記「注5」を参照してください。
 逸話の出来事については、司馬遼太郎の『関ヶ原』には「十代のはじめころであった」とされています(文庫版P.11)。従って、1522年とする方が三成の歳も12歳くらいとなりますから、より原作に合っています。ですが、そうだとしたら、司馬遼太郎がこの話を耳にする歳が0歳になってしまいます(あくまでも「350年前」とする場合ですが)。

(注7)上記「注5」で触れている記事、あるいはこの記事を参照してください。

(注8)上記「注5」や「注6」を参照してください。

(注9)家康が伏見城に参上する際に、家臣の本多正信久保酎吉)が「胴着のままではありませんか」と注意するものの、家康は「略装おかまいなし」と言って、聞き入れませんでした。
 それを、秀吉の前で行われた評定に際して、三成が「失礼ではないか」と見咎めるのですが、ただ隣の者に小声で言うばかりでした。

(注10)三成は、駒姫の助命を秀吉に嘆願しますが、秀吉は拒否します。

(注11)本作の初芽は、駒姫の侍女の設定ですが、原作の初芽は淀殿の侍女で、藤堂高虎から「淀殿にさまざまの告げ口をし、三成とのあいだを割くように」と命じられて送り込まれています(文庫版P.50)。
 〔劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「映画の初芽は三条河原の処刑場から登場しますけれど、あの部分は原作にはない本作のオリジナルです」と述べています。〕
 加えて、本作では、この処刑場に島左近がやってきたのを三成が見つけ、その後を追って三成は、遂には島左近を自分の家臣とすることに成功するのです(三成は、自分の禄高の半分を与えると島左近に申し出ます)。
 原作でも、三成が島左近を家臣にする時の話が書かれていますが(文庫版P.19~P.22)、秀次事件のからみで書かれているわけではありません。

(注12)「三献茶」の逸話を描くのは構わないとしても、洋日傘と扇子を手にした老人と少年をわざわざ画面に登場させるまでの必要性は乏しいと思います。

(注13)本作の原田監督は、公式サイトの「スタッフ」に掲載されているコメントにおいて、「国家の在り方が問われるこの不確かな時代をいきぬくために、我々にはもう一度、それぞれの立場で「正義」を問い直し実践する必要があります」、「正義とは一言で言えば、人間の価値です」「今三成の血を継承することの重要性を感じています」などと述べています。
 また、劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「今の政治の行方を見ていると、これだけものが言えない、また不正を疑われる閣僚がいる政権はないじゃないですか」、「三成が1万人もいれば、日本は変わるんじゃないか」などと述べています。
 さらに、映画評論家の小野寺系氏は、この記事の中で、「本作はここに、利益第一主義に奔走する現代の日本社会という問題を持ち出し、その原因を、三成の死、すなわち“正義の死”として表現することによって、現代的な視点からの思想的な意味づけを与えているのだ」と述べています。
 いずれも、司馬遼太郎の原作(あるいは、それに基づく本作)が描き出す三成像の中に、どこまでも「正義」を実現しようとする姿勢を見出し、それは現代社会の中で見られなくなってしまったものだと嘆きます。そして、三成の真反対に位置するものが家康であり、彼によって徳川幕府が築かれたことによって、現代まで続く「利害で固まった秩序」が確立してしまったのであり、現代に必要なのは、そうした「秩序」を打破する「三成の血の継承だ」というわけでしょう。

 でも、三成も家康も「天下泰平」を大きな旗印に掲げていたように思われますから、三成の「義」というのは、より具体的には、豊臣家を中心とする支配体制の確立ということであり、そのレベルで言えば、家康の「徳川家を中心とする支配体制の確立」と大差ないように思われます。
 また、家康を「利害で固まった秩序」を求めるリーダーとした場合、それに対立する三成の命題はどのようなものになるのでしょうか?あるいは、原田監督が言う「人間の価値」の尊重ということにでもなるのでしょうか?でも、三成が、小早川秀秋の慶長の役での戦いぶりに対して批判したことなどからすると、果たして彼が「人間の価値」を尊重する人物だったのかどうか、よくわからなくなってきます。むしろ、「利害」を重んずる家康の方が、もしかしたら「人間の価値」を認めているのかもしれません。

(注14)加えて、劇場用パンフレット掲載の「企画」担当の鍋島壽夫氏の談話「原田監督執念の作品『関ヶ原』の公開にあたって」に、「今回、監督は近江弁と尾張弁、さらには島津勢らが話す薩摩弁など、方言での会話にこだわっていました」とあるように、映画の中で多用される訛りのある話し方によっても、会話の中身がよく理解できないところがありました。

(注15)劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「原作だとわりと早く初芽は三成のお手付きになるんです。でも僕は三成の潔癖性、正義性を際立たせる意味でも、初芽に手を付けないほうがいいと思いました」と述べているので仕方がないのですが、ただせっかく原作に、「初芽、今夜は咄の相手をせよ」と三成が初芽に言う場面が書き込まれているにもかかわらず(文庫版P.198~P.200)、そうした場面が本作に描かれていないのは大層残念なことです(いうまでもなく、仮に原田監督がこの場面を取り入れようとしたところで、岡田准一と有村架純をキャスティングした段階で、このシーンは消滅してしまったのでしょうが!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:関ヶ原