(ここからは、
200824(21)日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。よりの引用である。)
司馬遼太郎は、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」などという名著を多数表しているので、それなりに尊敬に値する小説家と思っていたが、このような幼稚園児的な認識の持ち主だと言うことが分かり、全く以って唾棄すべき思想の一面を持っているのではないか、と言うことが分かった次第である。
ここにも記述されているように、板付や菜畑の遺跡の発見は、司馬のケンブリッジ大学での特別講演より、7~9年も前のことである。だから縄文時代が「闇の時代」ではないことは、十分に知っていなければならないことであった。
(ケンブリッジ大学での)
司馬遼太郎・英国講演 1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム
板付遺跡の水田遺構の発見 1978年(S53) 講演の9年前に判明
菜畑遺跡の水田遺構の発見 1980年(S55) 講演の7年前に判明
大平山元I遺跡出土の土器 1998年(h20) 世界最古の土器発掘、
16,500年前のもの
このように、縄文時代は決して司馬遼太郎の言うような「闇の時代」などではなくて、相当進歩していた時代なのである。決して狩猟採集だけの時代ではなくて、イネも陸稲ではあるが6000年も前から栽培されていたのであるし、土器も世界でも最も早くから使われていたのである。
大平山元I遺跡は別にして、少なくとも板付遺跡や菜畑遺跡の3,000年前の水田跡が発見されていたことぐらいは、知識として持っていなければならないものであった。縄文時代はだから、決して闇の時代などと確定的に言えるほどの文化の低い時代ではなかったのである。
1998年(h20)になるので司馬の英国講演の後にはなるが、何はともあれ、青森県外ケ浜町の大平山元Ⅰ遺跡と言う縄文時代草創期の遺跡から出土した土器は世界最古のものであり、世界最古の弓矢使用となる石鏃も発見されているのである。縄文時代は、文化的にも世界最先端を走っていた、ということである。
また2003年9月のことであるが、中国よりも古い世界最古の漆の器も、北海道などで発見されているのである。約9000年前の縄文時代早期前半のもので、中国河姆渡の漆器は約7500年前のものであったので、それよりも2000年ほども古いものであった。闇の時代などとたわけたことを言うよりも、日本の縄文時代は世界最先端の技術を持っていたと言うことを知っておくべきであった。
・・・・・
司馬遼太郎の本名は福田定一と言うそうで、1923年(T12)大阪市生れ。 Wikipediaによれば、1936年(S11)私立上宮中学に入学し、そこで理由は定かではないが中国や朝鮮にシンパシィを抱くようになったようだ。そして今もって、中国や朝鮮なんぞにシンパシィを感ずると言うその神経がおかしいと言わざるを得ないものであるが、司馬遼太郎こと、福田定一とはどんな神経を持ち合わせていたのであろうか。福田と聞くと、あの光市母子殺害事件の殺人犯の朝鮮人・福田孝行を思い出すが、福田定一も在日ではなかったのかな、と一瞬思ってしまう。
( ここからは
200825(22)日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。よりの引用である。)
だからその書・長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)の冒頭の「初めに」で、次のようなものが紹介されているのであろう。その内容に対して、一寸面食らった次第です。
「日本民族はどこから来たのでしようね
・・・・・・・・・・
日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないのか
・・・・・・・・・・ 」
(「街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971)
1971年のことである様なので、司馬の英国講演の更に前のことであるので、当然板付遺跡や菜畑遺跡はまだ発見されていない。
(ケンブリッジ大学での)
司馬遼太郎・英国講演 1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム
街道をゆく!湖西のみち 1971年(S46) 日本民族はどこから来たのでしょうね
板付遺跡の水田遺構の発見 1978年(S53) 講演の9年前に判明
菜畑遺跡の水田遺構の発見 1980年(S55) 講演の7年前に判明
大平山元I遺跡出土の土器 1998年(H20) 世界最古の土器発掘、
16,500年前のもの
(続く)