九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

番組紹介・・・NHKスペシャル 「日本海軍 400時間の証言」   

2009年08月09日 14時26分33秒 | Weblog

★坂井貴司です。
         転送・転載歓迎。

8月に入ってから、戦争に関する優れたテレビ番組が数多く放送されています。
暑さでノビている私がフォローできないほどです。
 
 さて、8月9日から3回シリーズで、NHK総合テレビが、旧日本海軍の知ら
れざる側面を伝える番組を放送します。
 
 今も根強く存在する俗説に「陸軍悪玉、海軍善玉論」というものがあります。
 
 満州事変から太平洋戦争まで、日本を戦争の泥沼に引きずり込んだのは陸軍で
ある。一方、海軍は海外事情に通じていたことから、一貫して戦争には消極的で
あり、特に太平洋戦争開戦には強く反対した、という論です。
 
 これは誤りです。
 
 海軍もまた陸軍と同様、戦争を推進したのです。
 
 それを裏付ける資料が最近発見されました。
 
 1980年から11年間、絶大な権力を振るった海軍の中枢『軍令部』のメンバー
が、「海軍反省会」という秘密の会合を開き、400時間に渡る録音テープを残
しました。70,80歳代に達していた軍令部のメンバーたちは、開戦に至る経
緯、その裏で行った政界・皇族・陸軍などへの働きかけ、神風特攻、戦後の東京
裁判対策などの内幕を語りました。
 NHK総合
 
 NHKスペシャル 「日本海軍 400時間の証言」
 
 「第一回 開戦 海軍あって国家なし」
 http://www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html
 8月9日(日) 午後9時00分~9時59分

 海軍がどのようにして政治にかかわっていったかを明らかにします。
  
 「第二回 特攻 やましき沈黙」
 http://www.nhk.or.jp/special/onair/090810.html
 8月10日(月) 午後10時00分~10時59分
 
 現場の熱意から始まったとされる神風特別攻撃が、実は海軍中枢が組織的に計
画していたことを明らかにします。 
 
 「第三回 戦犯裁判 第二の戦争」
 http://www.nhk.or.jp/special/onair/090811.html
 
 太平洋戦争敗戦後に始まった戦争裁判の裁きからどう海軍を守るか、海軍をい
かにして復活させるかを語ります。

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本の紹介・・・・高瀬毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」

2009年08月09日 14時06分52秒 | Weblog
★長崎に原爆の遺構のないのが不思議でした。何年か前、長崎を旅した時に新しい浦上天主堂の記念館に被爆した鮮烈な巨大被爆遺構の写真をみて衝撃を受けるとともに残されていないのを非常に残念で不思議に感じていた。

 ところが、今日の中日新聞の読書特集に高瀬毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」という本の紹介があり興味を引いた。
 著者によれば浦上天主堂の廃墟は原子爆弾を告発する第一級の被爆遺構になるはずであったという。被爆から13年後に天主堂は二度目の破壊で消滅した。
 この本はその謎に満ちた経緯を追跡したノンヒィクションである。
 当初保存を考えていた田川市長が米国のセントポール市との日本初の姉妹都市提携で渡米しそれを支援した「アメリカ広報文化庁」との折衝の中で態度が変容し議会の反対を押し切って撤去を強行する。アメリカとの間に何があったのか、冷戦の拡大の中で米国の強い意向が想像されると著者は推測している。
 戦後の日米の関係をしるうえにも今後も探求をつづけてほしいものである。
                         (まもる)

附【浦上天主堂の概要】
1895年
大聖堂の建設を始める。これは、大浦にも負けない、東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、20年の年月を要した。
1945年
8月9日、原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された(また、原爆投下時間に8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていた。そのため中にいた神父を始めとする信者の全員が死亡している)。後、被爆した天主堂を訪れた俳人、水原秋桜子はこの惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。
1958年
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。

浦上天主堂遺壁(爆心地公園)※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の山口司教は、天主堂の立地には江戸時代のキリスト教迫害の時期に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできないという意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
当時の市長田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。
ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。

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知ってほしい、・・・名古屋にも原子爆弾の模擬弾が

2009年08月09日 09時26分52秒 | Weblog
★再び八月九日がやってきました。今や被爆慰霊の日に広島で日本の核装備を主張する講演がなされる時代になっています。今一度あの頃の名古屋で何があったか思い出していただくために、昨年の今日投稿された記事を再掲載したいと思います。
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【模擬爆弾(パプキン)で失明した名古屋の山田さんの話】    まもる

今日は8月9日長崎に原子爆弾が投下され十五万人が死傷した日です。
 先月この長崎原爆投下に関するNHKの特集を見ました。
 それは、原爆投下の訓練に日本の各都市に「模擬原爆(パンプキン)」を投下していたというルポルタージュでした。

 しかも名古屋の昭和区にも投下され死傷者が出ていたという報道でした。

 米軍は、日本に対する人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練を目的として、1945年7月20日から8月14日にかけて、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島(福島県)島田・焼津・浜松(静岡県)、名古屋、春日井・豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)など1都2府15県に模擬原爆49発を投下し、約420人が死亡、約1200百人が負傷したというものです。

 8月9日に長崎に落とされた原爆「ファットマン」を模していた模擬原爆は、ファットマンとほぼ同じの形長さ3・5メートル、直径1・5メートル、重さ4・5トンのずんぐり型でカボチャによく似ていたところから、米軍内部では「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれていた。
 模擬弾といっても、通常の火薬(TNT火薬で約4.5トン)が充填されて巨大爆弾で、投下地点ではかなりの被害が出た。しかし、厳しい報道管制で事実は報道されず、多くの国民には知らされなかった。

 最初の一発は、7月20日、B―29から新潟県長岡市の信濃川近くの畑に投下され、畑にいた20歳と15歳の兄弟を含む4人が死亡、5人が負傷、31戸が罹災。
 同日午前8時34分、福島市の福島駅近くの渡利地区にも投下され、当時14歳だった1人の少年が命を落とした。自宅近くの田んぼで草とりをしていたところ、約30メートル離れた地点に爆弾が落ち、爆風に襲われたのであるが、時の新聞は「被害極めて軽微なり」としか伝えなかった(なお、爆弾の破片が同市渡利の瑞竜寺に残っている。亡くなった少年の父親が拾い、「息子のかたき」と寺に預けたという。
 同日日立市にも模擬原爆が落ち、1人が死亡、10人近くが負傷した。
 最大の被爆は同日午前9時26分、大阪市・田辺上空のB-29から1発の模擬爆弾が投下され、死者80人、重軽傷者73人、倒壊など485戸の被害が出た。直径数10メートルの巨大な穴ができた。
 その後も7月29日、山口県宇部市に模擬原爆が投下され、20数人が死亡。
 8月9日の長崎原爆投下1日前、8月6日広島原爆投下2日後の8月8日重要港湾都市の一つであった福井県敦賀市の東洋紡敦賀工場上空のB-29から模擬原爆が落とされ、キノコ形の煙が上がった。工場は「がれき」の山となり、死者は33人に達した。学徒動員で働いていた敦賀中学校と敦賀高等女学校の生徒や教員も犠牲となった。

 東海地方では愛知・岐阜・三重・静岡に投下され20発、400名の犠牲者を出している。
 静岡県では7月20日を皮切りに、焼津・島田・浜松などで多くの死傷者が出、
 岐阜の大垣、三重の四日市、愛知の春日井・豊田でも被爆し死傷者を出した。
 そして、愛知県では、敗戦前日の8月14日、愛知県豊田自動車挙母工場(現・トヨタ自動車本社工場)を狙って3発の模擬爆弾が投下され、死者こそ出なかったが、工場には大きな被害があり、春日井にも投下され被害を与えた。

 名古屋では春日井と同様、何とすでに広島・長崎に投下された後である8月14日に被爆。(その理由は、この巨大爆弾が空襲に有効か検証するためであった。)
 
 名古屋に落とされたのは八事日赤交差点付近で数名が死亡したという。     その時、被爆した山田さんは、当時のことをこう語っている。

「私が爆弾で負傷したのは18才の時、凄い音と風で周りが吹き飛び、私の眼に何かが起こりました。病院に行ったのですが、麻酔もなく片目を摘出しました。
 その痛さは忘れることが出来ません。終わってこれがあなたの目だとビンに入った片目を貰って帰りました。その後も痛みは辛かったのですが父が名誉の負傷だと愚痴を許してくれませんでした。戦後もう一方の眼も視力がなくなって、ずーっとマッサージ師をして暮らしています。もう思い出したくない出来事です。」

★名古屋それも昭和区八事に落とされた「模擬原爆パンプキン」それがもたらした一人の婦人の戦後の人生を考えると胸に迫るものがあります。


 参考文献・映像
・NHK特集
・春日井の戦争を記録する会編『5トン爆弾を投下せよ!』(91年刊)/『模擬 爆弾と春日井』(95年刊)
・『米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎』(東方出版 93年  刊)
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当ブログ・アクセス人数、記録更新!!  文科系

2009年08月09日 06時53分01秒 | Weblog
表題のことが、昨日までの先週、起こりました。
8月2日から8日までの毎日のアクセス人数を合計した数字が、1931人!! 1日平均にすると300人近い人が、ここを訪れていることになります。1日のアクセス数のなかにはダブリ人数は含まれていませんから、こういう数の個々人が先週、延べで6512回ここを訪問したということです。この数も過去の最多数6765回(7月18日までの1週間のことでした)に次ぐ多さでした。

先週のこの記録は、飛躍的なものでした。前の記録が1792人(今年6月28日からの週)だったからです。なお、1000人を超え始めたのが去年の6月辺りからで、この6月辺りから1500人を常時超えるようになり、今回の更新に至ったものです。
みんなで喜び合うとともに、ますますの健闘を誓い合いたいと思います。


 

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