日々の気付き

自分への提言

新しい「永遠」

2020年06月10日 12時35分25秒 | 日記
 肉体の「現在」(肉体の在る時刻と場所・感知する波動の全て)から、眼前の環境をも含めた、あらゆる時空のあらゆる現象のアウトラインを脳内に描き、その現実化を図る作業は、それを望む私たちの意志自体が、外形的・局所的な物であるがゆえに、よりち密に知り創ることの出来る(私たち以外の)意思との協力を必要とします。
 すなわち、私たちが何かを「成し遂げたい」という願望自体は、宇宙全体の意思とも呼べる物から出るので、共通の(全体という)目的の下に集められた人員が、それぞれの役割を果たすように、外形専門の作業を、私たちが受け持ち、細部の整然生と緻密性は、別の人が担当するのだ、と考えて良いでしょう―結局のところ、「それ」がいかなる物であれ、私たちが抱える願望の実現は、宇宙全体と調和するように仕組まれているので「あとは野となれ」の精神で生き、創造し、知覚してゆけば、それで良いでしょう。
 しかし、ある現象を私たちが望むとき、私たちは全体の構成を改変する事になりますので、願望の具体化作業と「新しい全体」への認識とは、本来、1体であるのですが、私たちは、1現象への偏重によって、「不幸」を抱えることが多い―「良いこと」を望んだのに、そして、それは実現したのに、結果的に不幸になるケースが、しょっちゅうあるのです。
 全体的視野を持ちながら創造を行なうように、常に意識することは、「幸福」になるためには、不可欠なのではないでしょうか?

妙なる仕事

2020年06月01日 12時29分18秒 | 日記
 「既に1個人が抱えている『現れ(出来事)に対する解釈』を、別物に取り換えるように促すこと」が、他人を啓発し、導く、最終的な目的ではありますが、現実の社会を見ると、より粗雑に物事を見るように、他人をそそのかしている人が、いかに多い事か・・・。
 より精妙に、「物事の表れ」を解釈することが出来れば、それにより、個人は進歩した事になります―この「進歩の定義」は、宗教家でも科学者でも、共通して認める所でしょう。
 そうすると、他人を導こうとする人は、何かを隠したり、相手の意思を踏みにじって何かを強行したり、逆に、徹頭徹尾の恭順を示すことでは、1歩の進歩をも、相手に与えられないでしょう。
 他人が、物事の白黒にこだわり、殊更に、1方を善と見なして、押し付けてくる場合、私たちはどのように対処すれば良いのでしょうか?
 おそらく、その善は、粗雑であるが故に、完全なる誤りでありましょう―行為その物ではなく、その思想の全体が・・・。
 いかなる「真理」といえども、その命題を構成する概念の全ては、抽象的な物に限定されるはずです―と言うのも、具体的な概念は、1時的な類型に過ぎず、普遍的ではなく、幻想と言うより無いからです。
 「特定の行為を強要する思想」の全ては、誤解以外の何物でもない、という事を、私たちは理解する必要があります。
 他人に無理を強いることなく、「行為の選択に関しては、無限のバリエーションの『良きこと』が存在する」事を、暗に、示唆し、念じ、伝心し続けることが、(相手を啓発する為に)私たちに出来る唯1の作業なのです。
 兄弟が7度過ちを犯したなら、7度許してやりなさい―福音書
 完全なる罪などという物は、この世に存在せず、ただ、本人の思想の変更が、要求されるのみです―特定の行為を罪と見なそうという意欲その物が、(粗雑さという)あらゆる「罪」の始まりであるのです。