おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

八柱。「金ヶ作陣屋」。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その3。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-23 20:47:37 | 鮮魚街道

                           「子和清水」から北に延びる「けやき通り」。

「新日本街路樹百景」に選ばれています。

                                                                          2010年代のようす。中央(「子和清水○」)から北に続く「けやき並木」。

南北に通じる道路として「さくら通り」が2本、「けやき通り」。東西の道路には、それぞれ「やまもも」「はなみずき」「ゆりのき」「えんじゅ」などと名づけられた通りがあります。

デニーズのところを右に進み、「八柱」駅方向へ。

「さくら通り」。

左手が新京成線「八柱」、武蔵野線「新八柱」駅方向。

旧八柱(やはしら)村

明治22年(1889年)、大橋・秋山・高塚新田・紙敷・和名ヶ谷・河原塚・田中新田・串崎新田の8ヶ村の合併によって発足する。これらの村々は同一戸長役場・学区に所属しており、農村地帯であった事に由来する。村名の「八柱」は8つの地域(旧村)が一致協力して新村の柱となり、民福増進にあたると言う意味

当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、ネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。                       

昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。

ところが、関東大震災で村立小学校(八柱尋常高等小学校、現在の松戸市立東部小学校)など多くの建物が倒壊しその再建の為に多額の負債を抱えた。更に世界恐慌が追い討ちをかけ同村財政は破綻寸前となる。

そこで昭和13年(1938年4月1日、八柱村は市制施行のために周辺との合併を進めていた松戸町に事実上の救済合併の形で合併されてその歴史に幕を閉じた。50年前に作られた「八柱」の名が残ったのは東京市の八柱霊園のみであった。

通称としての「八柱」

一旦使用されなくなった八柱という地名は、その後位置をずらして復活する。第二次世界大戦後に同地域に鉄道が開通するようになると、広く知られていた八柱霊園の最寄り駅ということで、新京成電鉄八柱駅(読み「やばしらえき」)、次いで国鉄(現・JR武蔵野線新八柱駅(読み「しんやはしらえき」)が開設された。そのため八柱霊園と駅を囲んだ一帯が今日において八柱という通称で呼ばれることがある。しかし両駅ともその所在地は旧八柱村内ではなく北隣の旧高木村に属していた場所に該当する。

そのため、現在において実際の旧八柱村中心部に一番近い駅は東松戸駅である。今日の八柱という地名は旧八柱村内には存在していないことになる。

(この項、「Wikipedia」参照)

「(常盤平)陣屋前」という表現が。「金ヶ作陣屋」があったことから。

金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)

下総国葛飾郡金ヶ作(現在の千葉県松戸市常盤平陣屋前)に設置された江戸幕府陣屋。主に小金牧などを管轄するために設けられた。

正確な設置年代は不明であるが、現地を治めていた野方代官が小金牧方面に用事がある時には、従来は江戸から現地に向かっていたのに対して、小宮山昌世(杢之助)が野方代官であった享保8年(1723年)8月を境として陣屋を活動の拠点としていること、小金牧の牧士の末裔とみられる三橋氏に伝えられる「従野馬始之野方万控」(鎌ケ谷市教育委員会所蔵)には享保8年に新しい陣屋が取り立てられたことをその詳しい間取りとともに記している(ただし、別の頁には陣屋設置を享保6年(1721年)とも記しているため、正確な設置年代を示す証拠にはしがたい)ことから、享保8年頃の設置とみられている。その背景には、将軍徳川吉宗の下で馬の育成が重視されたこと、同じく吉宗が推進した新田開発に小金牧の一部が充てられたことがあったとみられている。代官はここで野馬奉行らを指揮して小金牧の管理にあたった他、当該代官支配下の村々(小金牧の外側の地域含む)における訴訟業務も取り扱っており、陣屋内には白洲も設けられていた。また、江戸の公事宿2軒が金ヶ作に招かれて訴訟業務に参画した。

(この項「Wikipedia」参照)

「金ヶ作陣屋前緑地」。(「Googleマップ」より)

踏切を越えた右手、新京成線と武蔵野線とのあいだにあります。

この付近の歩いた道は旧道ではなさそう。一部(↓)が旧道か? 

1880年代のようす。

2010年代のようす。


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