あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

集団的自衛権に関するふたつの矛盾

2014年06月28日 16時57分45秒 | Weblog
 世の中には理屈に合うことと理屈に合わないことがある。もちろん人間は理屈で生きているのではないから、別に論理に殉じる必要もない。
 ただ理屈が通らなくてはならない問題もたくさんある。政治家の言葉もそのひとつだ。だから政治家は必ず理屈を用意する。しかしだからこそ、逆に理屈が通らないことが明らかになったりもするのだ。

 先日、テレビ朝日の「モーニングバード」で、記者の玉川徹氏が国会議員の歳費削減問題を追及していた。共産党にこのことをインタビューした生々しいビデオが流されたが、ここで共産党側は削減を検討するべきだと言いながら、何度も話を政党助成金問題にすり替え、話をごまかそうとした。そもそもインタビューを拒否した与党や民主の方が上手とも言えるが、ここまであからさまに理屈に合わない発言をする共産党の程度というものが垣間見えた。

 さてしかし、共産党のちぐはぐな対応など比べものにならないほど理屈に合わないのが集団的自衛権行使容認論議である。
 公明党ははっきりと集団的自衛権に反対していたはずだが、結局いつの間にか自民党案を容認してしまったようだ。なんだか非常に細かい助詞の使い方を変更させたから暴走ストッパーの役目を果たしたと胸を張っているが、小手先のテクニックとも呼べないような言葉遊びで、実質的に憲法を否定することを認めてしまったのは、まさに権力のために最後の魂まで売り渡したと言われても仕方ない。
 政府・自民党は公明党との協議は儀式としてやっただけで、実際、政府答弁書などでは公明との協議ではなんとなくうやむやにした集団安保での武力行使を悪びれもせず明らかにしている。助詞の「は」だの「が」だの言っているレベルではない。

 今回の問題は自民党側の言葉遊び戦術に皆がはまってしまって、最も根本的な矛盾が見えなくなっている。もちろん当然見えてはいるが、あえて触れないだけかもしれない(山崎拓氏は正面から指摘していた)が。

 集団的自衛権問題はそもそも憲法問題であり、安保問題である。以前から指摘しているように、これはアメリカ合衆国の世界戦略の中で日本に「押しつけられた」裏と表の二つの憲法だ。そして国際法解釈上、安保の方が優位に立つ最高法規にならざるを得ない。
 合衆国側から見ると第二次世界大戦後、日本に永久的に武装解除をさせるこが最も良い戦略であった。そうしたアメリカの思惑と日本人の厭戦気分=もう戦争はしたくないという思いがマッチングして奇跡の僥倖として戦争放棄・平和憲法が誕生したのである。
 ところが極東情勢は合衆国の予想を超えて激変した。中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発である。さらに社会主義革命は東南アジアへ怒濤の勢いで波及していこうとしていた。合衆国の戦略は日本に強固な橋頭堡=軍事拠点を築く方針へと転換した。そこで生まれたのが日米安保である。
 しかしここにはすでに日本国憲法が存在していた。またアメリカとしても日本に再軍備を許して軍事大国化してもらっては困るという気持ちもあったはずだ。そこで日米安保は軍事同盟であるにもかかわらず極端な片務条約になった。つまり日本は米軍の浮沈空母としてアメリカが自由に使える基地を提供し、全面的に米軍基地を維持・保全する。米国はその自分の基地、極東における戦略拠点を守るために日本に対する武力攻撃から日本全体を守る、ということだ。
 こうして見る限り、日米安保は日本国憲法「押しつけ」よりずっと屈辱的な条約であることがわかる。しかし「愛国者」である右翼たちはなぜだか憲法にのみ敵愾心を燃やす一方で安保は大好きだ。これも理屈に合わない話ではある。

 ともかくも安保が片務条約になっているのは、日本の側の論理ではなくアメリカ側の意図によるのである。つまりアメリカに使いやすいように、日本を属国視して作られているのだ。
 そうなると現在語られているようなアメリカだけに負担を負わせてはならないなどという理屈は出て来ようがない。もし日米が平等になるのだと主張するのなら、片務条約を双務条約に改変するというのなら、まずもって日本側の一方的負担を拒否する方が先なのだ。もし日本側の負担をそのままに日本が集団的自衛権を発動するとなったら片務はよりひどくなってしまう。
 つまり集団的自衛権と現在の日米安保は矛盾する関係にある。対等な関係を構築するための集団的自衛権であるというなら、現在の安保は破棄されなくてはならない。

 もちろんこうした矛盾が発生するのは、そもそも安保が日本国憲法とセットとして合衆国が日本を支配(もしくは利用)するためのツールだからだ。そうすると当然憲法の問題も考えざるを得ない。
 だいたい今回の集団的自衛権の話は集団的自衛権を行使することを目的に始まったものだったのだろうか? 本当のところは安倍さんにしか分からないかもしれないが、思い返してみれば最初は改憲論議だったのだと思う。もちろん改憲の目的=本丸は戦争放棄の撤回と軍隊の保持にある。当初から安倍首相が目指しているのは日本を公然と戦争の出来る国家へ改変することである。
 しかし改憲論議がなかなか思うように進まない中、その代替策としてともかく実質的に戦争に参加できる道として見つけたのが集団的自衛権行使容認論だったのではないのか。

 ところがここにも大きな矛盾が存在する。
 自民党が作った新憲法草案はほとんど全面的に憲法を書き換えるものである。章立てこそ現憲法に似た作りになっているが、中身は全く別物になっている。ようするに石原老が分党を決断するまでこだわっている「自主憲法」である。
 これはもちろん現憲法の否定である。この憲法じゃダメだ、ということである。ところが集団的自衛権行使容認は憲法解釈の変更なのだ。これは根本的におかしいのではないだろうか。
 現に安倍首相は集団的自衛権行使容認についての記者会見では、さかんに現憲法の素晴らしさを強調し、このように国民を守るという精神に満ちた憲法が集団的自衛権を認めていないわけがないという論理で話を展開した。
 とすると、現憲法は十分現実に耐えうる憲法であると言うことなのだろうか。そうだとしたら改憲論はいったいどうなるのか。
 まさに改憲論の立場と今回の集団的自衛権行使容認の論理は完全に矛盾しているのである。支離滅裂と言うしかない。

 論理が破綻する、理屈が通らないことを言う、というのは、その論者が論理的思考でものを考えられないからなのだろうか。そんな人間が総理大臣をやっているのだろうか。もちろんそうではない。
 政治家や官僚、大企業経営者が論理的に矛盾したことを言うのは何か本質的なことを隠しているからである。共産党が議員歳費の見直し論議をするべきだと言いながら、その議論は今するべきではないと主張するのは、本当は議員歳費を下げられたくないからだ。安倍首相の支離滅裂も、それに乗せられる(ふりをする?)公明党も、日本を戦争国家にすることが目的だとは公然と言えないから、訳の分からないことを言って国民や支持者を煙に巻いているのである。

 問題なのは、そんなことは十分分かっていながら、やはり心の中では戦争国家になっていきたい人々が、積極的にせよ消極的にせよ、こうした矛盾に目をつぶり、表面的な議論についてだけああだこうだとさえずっているという現実である。それはマスコミであり、評論家であり、実はあなたの隣人だ。そして更に大きな問題は、あなたがそのことに無関心であることなのである。