あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

科学の限界と法律の限界

2014年06月25日 23時22分36秒 | Weblog
 昨日、東京の三鷹の限られた地域に大量の雹が降った。テレビで見るとまるで大雪が降ったかのようだ。今日は埼玉県の朝霞で豪雨が降り、アンダーパスでクルマが何台も水没した。昨年は北関東に竜巻被害が続発した。このところ毎年、夏も冬も観測史上初という記録が当たり前のように出現する。
 それは日本だけの話ではない。世界中あらゆる場所で気候変動の兆候が観測されている。

 地球温暖化のせいである。そして温暖化の原因は人間が温暖化物質を大量に放出していることにある。誰もがそれを知っている。しかし科学者・専門家はいまだにそれを断定しない。それをいいことに政治家や企業家は温暖化対策への取り組みを遅らせに遅らせてきた。そしておそらく事態は手遅れになってしまった。この荒々しい気象はますます激しくなって人類を襲うだろう。

 科学者は客観的な証明ができなければ何事も断定できない。科学者の手法が裁判で使われたら、おそらく有罪になる人間はほとんどいなくなるだろう。犯罪、もしくは違法行為を客観的完全に証明することはかなり困難なことだからだ。
 同じく昨日の夜、東京・池袋で自動車が暴走し何人もの死傷者が出た。亡くなったのは若い女性とのことだ。クルマを運転していたのは中年オヤジで、いわゆる脱法ドラッグを買って吸った直後のことだったと言われている。
 脱法ドラッグは法律で取り締まることが難しい。ある化学物質を違法指定しても化学式の違う新しい物質は取り締まれないからだ。ここにも科学の限界がある。

 先日のマンガ「美味しんぼ」の福島での被爆問題でも、多くの科学者は被爆の事実を「科学的に」否定する。確かに現状の知見ではそうなのだろうが、もし仮に現在被爆による被害が出ていることが未来の科学で発見されても、現実の人間にとってはあまり意味がない。

 もちろん政治や法律は科学ではない(そのこと自体を研究する科学は存在するにしても)。だから科学の先回りをして何かを規制したり取り締まったりすることは可能だ。しかしそこには二つの限界が存在する。

 ひとつは信頼の限界だ。
 先日記事に書いた児童ポルノ法がその典型だが、法律の主旨には賛成できてもその運用の仕方が信頼されないから、危険性を感じざるを得ないのである。それは秘密保護法でも、現在の集団的自衛権行使容認でも同じだ。
 そのそれぞれは一般的には重要な問題なのかもしれない。しかしどう考えても政府の本音はは建前上の説明とは違っているだろうと推察せざるを得ない。だから本来はそれらが悪用されることを前提に法律が設計されなくてはならないのに、政府はむしろその逆の方向で実現させようとする。そこでますます信頼感が失われていく。

 もうひとつは恣意性が入り込む限界である。
 温暖化問題がそうであるように、政治家はある問題に対して完全に恣意的な判断をする。温暖化で言えば「疑わしきは罰せず」という対応をする。100パーセント完全に温暖化物質が100パーセント確実に多くの人の生存を奪うという完璧な因果関係が立証されない限り、政治家がこれを確実に取り締まることはないだろう。そして前述のようにその立証は大変困難なことでもある。
 一方で集団的自衛権行使容認の問題ではあり得そうもないようなケースを含めて、どれほど現実に起こるか全くわからないことを、さも明日にでも起こるかのように言いつのって、だから集団的自衛権が使えなくてはならないのだと主張するのである。
 現実に起き、進行している原発事故のリスクについては、ほとんど起こる可能性はないと断定しているのとは全く対照的である。

 我々はまず、科学にも法律にも限界があると言うことを前提にして考えねばならない。科学が全て答えてくれる、法律が全て問題を解決してくれるなどと考えるのは近代合理主義の神話に毒されきっているのである。
 科学や法律を否定しない。しかしだからと言ってそれに100パーセントゆだねない、そこにもっと成熟した人類としての知見でもって判断し対応する。そういう文化が必要なのだろう。