あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ワールドカップ雑感

2014年06月27日 18時00分29秒 | Weblog
 サッカー・ワールドカップ・ブラジル大会ではついに予選リーグが終わり、決勝トーナメントへの出場国が決定した。残念ながら日本を含めてアジア・太平洋地域、というより東半球の国は全滅した。オーストラリア、イラン、韓国、ロシアはすべて消えた。
 いくつか感じたことがあったのでランダムに書いてみる。

 勇気について。
 今回の日本代表は全く良いところがなかった。初戦敗北後、リスクを恐れず勇気を持って戦わないからダメなのだという批判が多かった。相手は強いのだから守りが手薄になっても攻めて行けということだ。いずれにせよ何も失うものが無い最終対コロンビア戦では、そこでとにかく突っ込んでいく戦術が採られた。その結果が大量失点による敗北となった。
 こうした結果を見て評論家は、これが現在のリアルな実力であると分析している。妥当な評価だと思う。
 もちろんこれは所詮ただのゲームだから、それでよい。強い者もいれば弱い者もいる。選手のひとりがインタビューで「勝ち負けのあるスポーツだから」と語っていたが、まさにそのとおりだ。敗者がいるから勝者がいる。大きなリスクを背負って捨て身の攻撃をするのもアリだ。勝ち目がなさそうな者があっと驚く方法で巨大な敵を打ち倒すところがおもしろい。
 ただ、結果として示されたのは、日本代表には別に勇気が足りなかったわけではなかったという事実であった。「勇気」を持って突撃したら完敗したので、これはつまり無謀と言うことだ。当初、消極的に見えた日本代表の戦法は仕方のない、合理的で常識的な判断だったということが、逆説的に証明されたのである。まあどのみち勝てないことに変わりはないが。
 繰り返すが、ゲームならどういう戦術を採ってもよい。ゲームである以上だれかが負けることは当初から決まっているのだし、負けても次の試合、次の大会はある。しかしこれが政治や経営や戦争だったら、そんなことが言えないのは明らかだ。現実社会はゲームではない。
 資本主義社会=近代の論理の中にいると、我々はしばしば現実をゲームとして捉えてしまいがちだ。競争社会という言葉がそもそもゲームのニュアンスを含んでいる。評論家もよく「アメリカでは失敗した人にも次に成功するチャンスが与えられている」などと口にする。しかし現実の社会の中では誰かの失敗はその人だけの不幸では済まない。大きな成功の裏側には同じだけの「失敗」が存在し、さらにその裏にはより大きな不幸が存在する。現実の社会は勝ち負けだけではない複雑な連関がある。だから裏の裏は表ではなく、裏の裏にはさらに奥深い裏がどこまでも続く。
 サッカーにおいては格好の良い勇気であったことが、現実では誰かの横暴や蛮行でしかないことを、ちゃんと理解しておかねばならない。

 責任について。
 ザッケローニ監督は予選敗退後、即座に辞任を表明した。内田篤人選手もその真意はわからないが代表からの引退問題に触れた。
 本当に彼らが責任をとらなくてはならないのかどうかは、ぼくにはわからない。しかし彼らが自分の立場と責任をしっかり自覚しており、結果に対して自分の役割は終わった、次の人材に託すべきだと冷静に判断しているのなら、それは立派なことだと思う。現在の日本の政治家、官僚、経営者には求むべきもない潔さである。

 応援スタイルについて。
 応援する人達のスタイルは、もちろん自由だ。別に批判するつもりはないが、個人的には不快なものもある。
 よく日章旗の問題が話題になるが、実はほとんどの人が本物の日章旗と別の旗との区別が付けられないそうだ。ぼくもよくわからないが、日章旗によく似た別の旗というのが色々存在するらしい。たとえば海上自衛隊の旗は正確には日章旗ではないそうだ。右翼から攻撃の的にされる朝日新聞の旗だって日章旗に似ている。
 ただここにはセクハラと同じ問題が存在する。日章旗がレイシズムのシンボルとして批判され、またそれに対する反発が起こる。それぞれに言い分はあるのだろうが、結局のところ、その場にいる相手がそれによって不快になるかどうかで、それがレイシズムかどうかが決まるのである。
 正直に言ってぼくは日の丸と君が代がとても不快だ。ただそれを純粋に信奉する人がいる以上、時と場合によっては我慢しなくてはならないときがあるとも思う。重要なのは日の丸を掲げ、君が代を歌う人々にもそれを理解してもらいたいということである。不愉快に思い、それを拒絶する人がいるということを認めないのは人権侵害なのだ。
 もうひとつ、今回のテレビ中継を見ていてこれはアウトだろうと思うスタイルもあった。日の丸鉢巻きに「神風」と書いてあるやつだ。戦争末期の特攻戦術を否定するにしても肯定するにしても、それを軽々しく扱うことは不謹慎だと思う。暴走族が神風鉢巻きをするのは、ある意味でこの社会に対する反発と自らがアウトローであるという自覚を根底にしていて、そこには複雑で屈折した「特攻」のメタファーがあるのだけれど、世界的にスタンダードな場所で日本代表に対する公の応援としてはいただけない。
 こうした問題はようするに戦争の問題につながっていく。簡単に言えば侵略と戦争への反省がないと言うことだ。安倍首相をはじめ歴代の日本政府は公式には昭和の戦争を侵略であったと認め、反省すると述べているにもかかわらず、現実の日本国内における教育では全くそれを反映させようとしない。むしろそれを隠蔽して逆にかつての戦争を肯定しようというキャンペーンをやっているというのが実態だ。そのことがまさに神風鉢巻きを平気で巻き、それを平気で世界中にテレビ中継させてしまうことにつながっているのだと思う。
 それでは何故かつての戦争を否定できないのか。それは戦争責任を問われたくない人々がいたからだ。はっきり言って昭和天皇も軍部も財閥も、みな戦争を推進した責任があった。しかし実際には数人の政治家と多数のBC級戦犯だけに罪を押しつけて、本当に責任があった人々は何もなかったように戦後社会に復活し権勢をふるった。実はそのことこそが最も悪い負の遺産なのである。最も重い責任を持つ者が最も責任をとらない体質がレイシズムのひとつの原因でもある。

 応援マナーについて。
 その一方で今回は日本サポーターが試合終了後にゴミ拾いをしている姿が報道され、世界のメディアが賞賛した。東日本大震災でも略奪がなかったと国際的に驚かれた。しかし原発事故の責任を誰もとっていないことが伝えられたら、更に驚かれるだろう。責任をとらないエライ人と自ら進んで責任をとる民衆、まさにこれが日本である。
 それではなぜ日本人はマナーがよいのか。これはおそらく戦後民主主義がもたらした成果が大きい。
 もちろんその前提には明治以降の国民統治の歴史もある。明治政府は先進国と肩を並べることを目指し、統一国家形成の戦略を採った。そのひとつが身分制度の廃止である。その装置としては天皇制が使われた。日本国民は天皇の赤子(せきし)として平等であるという教育を行ったのである。事実としては激しい階級・階層間の差別があったのだが、それが戦後民主主義の導入とともに理念として花開いた。高度成長期には一億総中流などとも言われた。
 それは企業の家族型経営、終身雇用と年功序列制度によって、能力にあまり左右されずに安定的な収入を保証することにもつながったし、平等主義を基礎とする人権意識の高まりも生んだ。先日自分の年間報酬を9億円と公表したカルロス・ゴーン日産社長は、日本の役員報酬は低すぎると語ったが、まさに日本型経営においては経営者と労働者の報酬格差が比較的低く抑えられてきたのである。
 平和と秩序と安定は平等によってもたらされる。自由主義者はそれを停滞と呼んで怨嗟するが、激しい競争と格差の社会は人々の心を荒廃させ、不安定化を呼び込む。しばらく前までは日本人は個性が無さ過ぎる、均一化しているという批判が日本人論でよく語られたが、それは日本人の平等主義のひとつの現れでもあった。またそれは閉鎖的なムラ社会の原因だとも言われた。確かにイジメ問題においては、ひとつの集団の中で同一化、均一化していないと排除されてしまう構造が見て取れる。ただこの問題はまた改めて考えよう。
 現在、政府や経済界から労働力不足の対応として外国人労働者への門戸を広げようという意見が強まっている。ぼくは基本的に外国人受け入れを拡大するべきだと思っているが、しかし現在言われいてる外国人労働者受け入れ論には強い違和感を感じざるを得ない。
 政府や経済界がやろうとしているのはあくまでも安価で使い捨ての出来る労働力の確保であって、「人間」を受け入れようとしているのではない。日本人の若者が賃金が安くてやる気にならないような仕事を、もっと安く実現しようとしているだけだ。いわばロボット導入と同じ発想なのだ。
 これは大変危険なことである。欧米がすでに何十年も前に(もしくはもっと前から)始めた政策であり、我々はすでにその結果を目にしている。移民排斥の極右の台頭と移民や下層労働者による暴動の頻発だ。つまり差別と貧困に苦しめられる移民と、その移民に職を奪われる下層労働者が爆発しているのだ。
 もし外国人労働者を受け入れるのなら、あらゆる面で日本人と平等にしなければいけない。もちろんそうしたら企業の目論む大きな利益は得られないだろう。しかしそれはこの現在世界から賞賛される日本社会の長所を守るために絶対に必要なことである。
 東日本大震災で暴動も略奪も起きなかったというエピソードに、関東大震災の史実を重ね合わせてみると良い。そこで起きたのは朝鮮人虐殺だった。このことはしっかり考えておかねばならない。