猫カフェ と ふくろうカフェ、“動物虐待” か?
わたしが住む町には1年足らずのあいだに猫カフェとふくろうカフェが相次いで登場した。
猫カフェ
猫カフェができたのが2015年の春で、できて早々動物好きでネコ好きのわたしは足を運んだ。マンションの一室を猫カフェにしたもので、猫は20匹近くいた。この猫カフェは、“譲渡型”猫カフェ と称していて、気に入った猫がいれば、引き取ることも可能なシステムである。
猫の里親さがしをビジネス化したものといえるかもしれないが、もらわれていくあてもないまま “一生” 猫カフェで暮らすよりも、猫にとっては希望をもてるシステムと言えるだろう。一目惚れされてもらわれていく猫の身の上を思うと、こういう店がもっとあるといいなという気持ちになる。わたしのように自宅ですでに猫を飼っている人間ばかりでなく、猫が好きだが、家の事情で飼えないようなひとには、こうした猫カフェはぜひたまには行ってみたいところだろう。
ふくろうカフェ
さて、ふくろうカフェのほうは同じ2015年の冬になってオープンした。つい昨日たまたま娘と街を散歩していたときに娘が 「そういえば、たしかふくろうカフェがこのあたりに・・・」 と言ったので、以前からふくろうカフェなるものの存在に多大な関心を寄せていたわたしは、娘をせっついてそこに案内させて初めて体験したのである。
猫カフェに比べて、その希少性だけからしても訪問・体験する価値は十分にあると動物好きのわたしは常々思っていた。
商店街のビルの3階にあるその ふくろうカフェ は実は “カフェ” とは称していなく、ふくろうの森 と称している。実際、飲み物、食べ物の販売はいっさいない。せいぜい、ふくろうグッズ、つまりふくろうウの置物や縫いぐるみといったものが販売されているだけである。
一歩足を踏み入れて、驚いた。店に着くまで娘と「せいぜい2,3匹だろう」 と言っていたのであるが、フクロウはなんと14匹もいた。写真のように、店内は模造樹木の森になっていて、客が中を順に進むように順路ができている。そして、その随所にフクロウが模造樹木の枝にとまっているのである。よく見ると、どのフクロウも脚を丈夫なヒモで止まり木にくくりつけられてある。
正直言って、感動した。夜の森に潜んでいるはずのフクロウが、いま目の前に、止まり木にとまってじっとしているのである。それも何匹もいる。従業員の説明ではフクロウたちの頭を撫でてもいいのだそうだ。大人 600円、学割 500円 である。写真はフラッシュ禁止というだけであとは自由である。10種類近くの大小さまざまなフクロウを商店街の3階でつぶさに観察することができる不思議を感じながら、40分ほどいただろうか。店を後にしたときは、娘と感動を分かち合っていた。
しかし、家に帰ってきて、自宅の猫を見ていると、何とも割り切れない気がしてきた。
ここ36時間ずっと、フクロウたちのことが頭を離れない。あのフクロウカフェのフクロウたちはみな、大きいフクロウも小さいフクロウもただ止まり木に脚をくくりつけられているだけでなく、翼を羽ばたかせる腱を切ってある可能性もある。たとえ切っていなくても、羽ばたいて飛ぶ自由を奪われていることには変わりはない。鳥にとって、飛ぶという基本的な自由が奪われているのは、人間や犬や猫が歩けないように足を縛られているのと同じではなかろうか?
いわゆる “ふくろうカフェ” は “動物虐待”
さんざん考察したのち、わたしは、猫カフェ と ふくろうウカフェ は根本的に違う、 という結論に達した。
はっきり言って、ふくろうカフェ などと称する、鳥類、特に猛禽類を扱った商業施設は、動物虐待である。動物虐待を禁じる 動物愛護法 に抵触する。
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ペンギンやアザラシの場合を想像してほしい。ペンギンを自宅の浴室で飼育することは、決して不可能ではないが、ペンギンにとって生活の基本である自由に泳ぎ回れる広い空間を与えていないという意味において、明らかに動物虐待である。近所にそういうマニアックな住人がいたとしたら、警察に通報すべきである。
フクロウはたしかにおとなしく止まり木にじっとしている。それは単に脚を止まり木にくくり付けられて、自分が飛べない状態であることがもうわかって観念しているからである。「じっとしていておとなしい!かわいい!」 というのはたいへんな思い違いである。「かわいい!」 以前に、「かわいそう!」 であるはずだ。
ふくろうカフェのフクロウたちは、ヒモで繋がれたまま一生を終るのである。羽ばたいて飛ぶという、人間でいえば足で歩きまわるという、当たり前のことも許されずにである。
ふくろうカフェでなくても、個人でフクロウなどの猛禽類を自宅で飼うひとが昨今増えているようだが、ほとんどが似たような運命ではなかろうか。猛禽類を個人で飼育していて、犬の散歩と同じように飼っている鳥たちを毎日のように自由に空を飛ばさせているひとがどれだけいるだろうか。飼い主のエゴを満たすための “虐待の一生” に終わっているケースがほとんどであろう。
はっきり言おう。“フクロウを飼う” のは 体育館規模の巨大なケージ に入れるのでない限り、すべて “動物虐待行為” である。
フクロウやハヤブサを室内で飼うのは、ペンギンやアザラシをマンションで飼うのと変わらないのだ。
遺伝的にすでに組み込まれているはずの基本的な生活能力を発揮できない環境で飼育することは、それだけですでに “動物虐待” にあたると言えるのではないか?
猫はいいのか?犬はいいのか?
ならば、猫はいいのか?犬はいいのか? という声が聞こえてくる。
動物学的な知識に疎いひとたちのこういった素朴な問いもいちおうそれなりに意味がある。
まず、猫や犬は5千年から1万5千年もの長い間、人間に“家畜として”飼育されてきているという歴史的背景がある。そして、それによる彼らの側の遺伝学的適応がある。もはやDNA的には野生動物ではないのだ。
彼らは人間に依存して可愛がられて生きるようにDNAも変わってきているのである。つまり、今や猫や犬をまったくの自然環境の野山に放り出すことのほうが、むしろ動物虐待になるだろう。
フクロウは野生動物
それに対し、フクロウには人間の家畜としての歴史も背景も皆無に等しいではないか。フクロウはれっきとした野生動物である。
フクロウが野生動物だから動物虐待になる、と言っているのではない。そもそも動物虐待なのだが、“ましてや” 野生動物だ、と言っているのである。野生動物か家畜かで虐待か否かが変わるわけではない。
犬や猫はもっぱら地上を移動するだけの動物で、その点、人間と共通している。地上や床という平面での生活に適応しており、飛ぶための翼も泳ぐためのヒレも持っていないのは人間と同じである。
しかし、フクロウは鳥であり、翼があり、空中が彼らの生活空間である。森の中のその本来の生活空間から引き離して、室内の止まり木に一生くくりつけているのは、かなりの虐待であると言えないだろうか?
フクロウやハヤブサたちに飛ばさせないのは、犬や猫に歩いたり走ったりさせないのと同じである。
ふくろうカフェ は禁止すべき
ものを言わないフクロウが飛んでいかないように止まり木にくくりつけられているのを見て、 「カワイイ、カワイイ!」 と言って感動しているだけでいいのであろうか?ふくろうカフェを出たあとで、後味の悪さを感じないだろうか?
欧米ではおそらくこうした商業施設は動物虐待とみなされて摘発の対象となり得る。事業者は処罰を受けるはずである。
悲しいことに、日本人はどうも “自由を奪われている者への同情” が希薄である。
北朝鮮による多くの拉致被害者たちをいつまでも救い出さないでいるのも そのあたりに原因がありそうだ。
“飼うこと” イコール “大事にすること” とはかぎらないのだが、多くの人は 飼うことは可愛がることであって、とうぜん虐待の反対の行為だと思って疑わない。しかし、そもそも “大事にすること” とは、“相手の自由を尊重すること” が大前提ではなかろうか?
ちゃんと温度管理もし、清潔な環境で高額なエサを与えているから虐待なんかではないと思っている飼育者もいることだろう。しかし、それは人間の側の勝手な理屈である。いくら高額なエサを十分に与えていても、それによって虐待が帳消しになることはない。
わたし自身、ふくろうカフェで初めてフクロウをまじかに見たときは単純に感動していた。しかし、帰って来てから後味の悪さにさいなまれた。やはり、同じ動物としての、同じ生き物としての “憐みの気持ち” を忘れてはいけないのではなかろうか。簡単に言えば、「可哀そうじゃないか!」 ということである。
わたしは いわゆる “ふくろうカフェ” は動物虐待であって、他者の自由を奪うことを是認している点で教育上も好ましくなく、日本では禁止すべきである と考える。こういった流行を放置しておくと、日本の捕鯨を批判する海外の人々にさらにまた恰好の批判材料を与えることにもなりかねない。日本は “動物虐待天国” だとして叩かれることになるだろう。
地方自治体は昨今急増している “ふくろうカフェ” なるものの実態を調査し、しかるべき措置を取るべきである。
「動物をどう扱うかによってその国民の道徳的レベルがわかる」 "The greatness of a nation can be judged by the way its animals are treated." Ganghi ガンジー (2015.12.29 追記)
フクロウの本来の姿
「わたしたちは“ふくろうカフェ”に反対します」 反ふくろうカフェポスター No.1
“可愛いきゃ何でも許される?” 反ふくろうカフェポスター No.2
“カワイイ” 以前に “かわいそう” 反ふくろうカフェポスター No.3
”鳥がしゃべれたら・・・” 反ふくろうカフェポスター No.4
「真似してフクロウ飼わないで!」ハリポタ作者の声 反ふくろうカフェ ポスター No.5
ロンドンのふくろうカフェ、日本との違い:“ふくろうカフェ”から日本が見える
これが駄目なら動物園だって駄目なはず
公営の動物園が許されてるなら、これも私営動物園として
認めるしかないでしょ?
動物の権利を論ずる際に、一般論は時として、ほとんど建設的な議論にならないことがある。“動物” という種類の動物はいない。いるのは常に具体的なテナガザルであったり、オオアリクイであったり、イヌであったり、ハヤブサといった動物“種”である。みな棲息環境が違うのである。
わたしはここでネコとフクロウを比較して論じている。動物一般を論じているのではない。
「動物園でも動物を狭い檻に閉じ込めてるんだし、これが駄目なら動物園だって駄目なはず」 というのはあまりにも一般化した話で、ほとんど意味をもたない。
「公営の動物園が許されてるなら、これも私営動物園として認めるしかないでしょ?」 とのことであるが、世の中には動物保護条例に反するために摘発を受け、認可を取り消される動物園もあることをご存じないのだろうか?
また、同じ動物に“憐みの気持ち”を持つことは、意思を持つ人間特有のもので、自然界の常態が弱肉強食であるのならば、その気持ちは、人間の傲りに他なりませんが、人間である以上、その“憐みの気持ち”も自然なのです。
ただし、ふくろうカフェに居る猛禽類たちは、「野鳥」の範疇に入らないという事実をご存知ですか? ペット用にブリードされ、狩猟用に調教され、日本国内の生態系を崩すという名目で日本国内で野生化させることを禁じられた外来種であるということを。
“憐みの気持ち”も大切ですが、このような記事をお書きになるのならば、もう少し綿密な調査を行うことをお勧めします。
個人的には、ブリードすることも調教することも生態系を崩すことも人間の意思で行う行為なのだから、自然な行為と考えています。
「それにより人類が滅亡するのならば、それが「自然」なのだ」 とのことですが、実に皮相な単なるニヒリスト気取りです。
「同じ動物に“憐みの気持ち”を持つことは、意思を持つ人間特有のもので・・・」 “かわいそうだ、助けなくちゃ” という利他的な感情、行動は人間特有のものではありません。自分の産んだこども以外のこどもや仲間を捕食者から守ろうとする行動は広く見られ。現代の動物行動学では常識です。動物に対する理解の浅さに驚きます。
「ふくろうカフェに居る猛禽類たちは、「野鳥」の範疇に入らないという事実をご存知ですか? 」 知っています。わたしは野生動物のカテゴリーに分類されない動物は虐待されてもかまわないとは思わないだけです。
我が家にも猫がいます。家中自由に動きまわり、今は炬燵の中にいます。
飼うと言うことは、責任が生じますよね。
餌をあげるだけではなく、愛情を注ぐことです。
足を紐でくくり、羽根を飛べないように切る…私も虐待だと思います。
人間の好奇心や支配欲のためだけに動物の自由や生命を犠牲にするのはモラルに反するはずです。
「動物をどう扱うかによってその国民の道徳的レベルがわかる」 とガンジーは言っています。
ガンジーが言ったことは全て絶対なのか?
ま、俺に言わせれば犬を首輪と鎖で繋いだり、自由を愛する猫を家に閉じ込めるのは件のフクロウカフェと同等に残酷だがな。
野良猫を見よ。何と自由にのびのび生きていることだろう。
猫や犬を飼うということは、それによって"人間"が幸せ気分を味わえるというだけで、彼らの幸せなんて最初から考えていない、実に人間本意の行為である。
と目くじらを立てていらっしゃいますが、あまりにも短絡的ではないでしょうか?
わたしは彼の1つの言葉を参考までに引用しただけです。
たとえば、「宗教は民衆のアヘンである」というマルクスの言葉を引用したからといって、マルクス主義がすべて正しいということになりますか?わたしがマルクス主義者ということになりますか?
ふくろうカフェだけでなく、猫カフェも動物虐待だとのお考えのようですね。それもありかと思います。ただ、実際に猫を飼った経験のない方の “乱暴な一般論” に聞こえます。
猫はそんなに広大なテリトリーを必要としていないのです。ふつうの一軒家の内部で十分なのです。トラやヤマネコとは違うのです。
飼い猫が広大なテリトリーを必要しないのは、外敵もなく餌も用意されており、狭いテリトリーでも生存繁栄に困らないから。それはフクロウとて同じこと。餌もあるし外敵もないのに何故フクロウだけが広大なテリトリーを必要とする?意味がわからない。
飛べない環境でフクロウ飼うのは虐待?
それはただの思い込み。根拠ゼロ。
例えば飛べないことによって寿命が縮んでいるとかストレスで病気になりやすいとかの報告があるなら確かに動物虐待。でもそうじゃない。(根拠となる客観的学術的証拠があるなら是非読みたいものだw)
フクロウは野生動物って言ってるけど、フクロウカフェや個人で飼っているフクロウはペット用に人工繁殖されたもの。これがダメなら犬猫飼うのも動物虐待。(ちなみに、猫も犬もフクロウも数代で野生→家畜化あるいは家畜→野生化が起きる。四千年の歴史は必要としないw)
自分は猫カフェも犬猫の飼育もフクロウカフェも非難しない。好きにすればいい。元来、人間なんて動物側の幸せなど考えもしない手前勝手な生き物なんだから。(遺伝的にペット向きに改良されていればいいはず、なんて見当違いのことを言う人が偉そうに動物愛護を語るくらいだからねw)
もし少しでも人間が動物のことを思いやる気持ちがあるならこの世に「ペット」など存在しえない。
「何故フクロウだけが広大なテリトリーを必要とする?意味がわからない。」 とのことですが、
猫が10秒歩く距離とフクロウが10秒飛ぶ距離の違いが想像できませんか?
「飛べない環境でフクロウ飼うのは虐待? それはただの思い込み。根拠ゼロ。 例えば飛べないことによって寿命が縮んでいるとかストレスで病気になりやすいとかの報告があるなら確かに動物虐待。でもそうじゃない。(根拠となる客観的学術的証拠があるなら是非読みたいものだw)」 とのことですが、フクロウが飛ぶ自由を奪われるのは、あなたが歩く自由を奪われるのと同じなのです。
「歩けない環境に人間をおくのは虐待? それはただの思い込み。根拠ゼロ。 例えば歩けないことによって寿命が縮んでいるとかストレスで病気になりやすいとかの報告があるなら確かに虐待。でもそうじゃない。(根拠となる客観的学術的証拠があるなら是非読みたいものだw)」 と言っているのと同じであることがわかりませんか。
フクロウは野生動物だ」 とわたしが言ったのは、「“ましてや”、フクロウは野生動物だ」という意味だったのですが、「ならば家畜の虐待は容認するんだな」 と、とんでもない誤解をするひとがいるのは困ったことです。
わたしは野生動物であれ、ペットなどの家畜であれ、動物の虐待には等しく反対なだけです。もちろん人間の虐待にも反対であることは言うまでもありません。