sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み
家人が新聞をとっているので、目にすることがある。朝日新聞という新聞 である。わたしはこの新聞は聖教新聞や顕正新聞と同列の“宗教新聞” と思っている。
その朝日に先日、一面の片隅に右のような広告があった。
“sippo” というロゴ →
このロゴは以前にも目にしたことがあり、ペット関連のものだなとは思っていた。それにしても、無理のあるローマ字で、ひっかかるものがあった。
今回あらためてよくみると、以下のように書いてある。
さらによく見ると、最小レベルの活字で “by The Asahi Shimbun” と書いてあるではないか。
なんと購読者数が激減している朝日新聞が生き残りのためにいよいよペットまで取りこもうとしているかのようだ。
“sippo” をググってみると、以下のようにヒットした。
「sippo (シッポ)は朝日新聞が運営する犬・猫などのペットの情報サイト」 だそうだ。
「朝日新聞社では、(2015年)3月から本紙朝刊で2カ月に一度、ペット面「ペットとともに」の掲載を始めるなど、グループ各社の媒体でペットに関する報道に力を入れている。一般社団法人ペットフード協会によれば、日本で飼われている犬猫の数は、2014年時点の推計で、約2030万匹。これは総務省が推計した2015年4月1日時点の15歳未満の子どもの数、約1617万人を大きく超えている。同社は「いまやペットは『家族』『パートナー』『子ども』とも言うべき存在で、ペット関連の情報のニーズが高まっている」とペットの報道に注力する背景を説明している。」 https://japan.cnet.com/article/35066631/
購読者激減の朝日新聞が生き残りのためにペットブームに目をつけたわけだ。まあ、それはそれでかまわないだろう。
しかし、わたしがまず注目したのは 「sippo (シッポ)」 というネーミングである。たしかに犬や猫には尻尾がある。しかし、ほとんどの動物には尻尾があるのだ。人間など尻尾の無い方が例外なのである。魚、鳥はもちろんのこと、ほとんどの哺乳類、すべての爬虫類、ほとんどの両生類には尻尾がある。
いかがであろうか? 「シッポ」 が客観的にどういうものを指すか、その意味範囲をご把握いただけたであろうか?
逆に尻尾の無い方を数え上げた方が早いくらいだ。人間、チンパンジー、ゴリラ、カエル、コアラ、モルモット、コウモリ、キウイ、カニなどである。
どうやら朝日新聞社は、少なくとも潜在的には “尻尾のある生き物” を対象としているようだ。
「sippo (シッポ)」 という名称を選んだいじょうは、とうぜん犬と猫の範囲を大きく “はみ出す” ことになるが、これはもちろん当の情報サイトの運営方針に織り込み済みの意図であるにちがいない。
しかし、これはある意味で非常に大胆なネーミングである。ペットに限定せず、動物一般に対する愛護の精神を鼓吹し、朝日新聞社のお家芸である “生命尊重” の高遠な理想を掲げ始めたかのような観がある。
この「sippo (シッポ)」 というネーミングとロゴについては、当然朝日新聞社内部でも何カ月もかけていろいろ議論を重ねて検討したはずだ。他の候補もいくつかあっただろう。おそらくこの「sippo (シッポ)」 への反対論もあったと思われる。
まず、なぜ “shippo” ではないのか? “シ” は、日本の普通のローマ字表記では “shi” のはずだ。 “アサヒ シンブン” みずから “Asahi Shimbun” と名乗っているではないか?
おそらく本当は “shippo” としたかったのであろう。しかし、使えなかったのだろうとわたしは推測する。
リサーチすると、運輸・配送(shipping)業界の或る会社が、右のムーミンのようなキャラクターとともにすでに “shippo” というこの名称を社名として使っていることがわかる。朝日新聞社の “sippo” の2年前である。
このため、朝日新聞社は “仕方なく” “sippo”,つまり、“スィッポ” でスタートせざるをえなかったのであろう。
こんな無理をしてまで、 “尻尾” に執着する必要があったのだろうかと問いたくなる。たしかに 「犬・猫などのペットの情報サイトです。」 とは言っている。しかし、“尻尾” を意味する 「sippo (シッポ)」 を当のウェブサイトの名称として使い続けるかぎり、“尻尾”のある動物を対象としている印象をいつまでも与え続ける運命にある。これは避けようがない。
「それは誤解です、ちゃんと “犬・猫などのペットの情報サイトです” と断っています」 などと言ってもダメである。
文頭に挙げた “sippo” の広告が載った朝刊と同日の夕刊にはたまたま以下の記事があった。“大風呂敷” が違法となりうる興味深いケースを朝日新聞じしんが報道している。
犬と猫は “シッポ” をもつ動物種全体のうち 「3割以下」 よりもはるかに小さな比率を占める。
TSUTAYA は故意か過失か、「見放題」 と言った。朝日新聞社は 「シッポ」 と言った。「見放題」 と言えば、そこにあるもの全部が対象であるはずだ。「シッポ」 と言えば、尻尾のある動物全部が対象であるはずだ。
ぜひ尻尾のある動物一般を対象にして頂きたいし、そう名乗るいじょうは、そうする責任も当然あるはずだ。動物好きのわたしとしては、むしろ大歓迎である。TSUTAYA のようなセコいことをせず、対象範囲をそのウェブサイトの名称のとおり、堂々と 「シッポ」 のあるものにしていればいいだけのことだ。広げた “風呂敷” を言い訳しながらコソコソ畳まず、広げた時の範囲のままにしていればいいのだ。
たとえば、この 「sippo (シッポ)」 というウェブサイトではさまざまなテーマを扱っている。
「動物実験を廃止」 「殺処分ゼロ」めざして」 といった “動物の権利擁護” のテーマも多い。
「sippo (シッポ)」 のウェブサイトで、
「殺処分ゼロをめざして ・・・ 」
大いにけっこうではないか。
猫と同じように、豚にも “シッポ” はある。
猫の 「殺処分ゼロをめざす」・・・大歓迎である。 しかし、同じように “シッポ” のある 豚の 「殺処分ゼロをめざす」 記事 は皆無のようだ。なぜだ?
犬と同じように、牛にも “シッポ” はあるぞ。
犬の 「殺処分ゼロ」・・・大歓迎である。同じように “シッポ” のある牛の 「殺処分ゼロ」 については、朝日新聞社の 「sippo シッポ」 は沈黙か?
「ペットと家畜は違うだろっ!」 というヒステリックな声が聞こえてくる。
お言葉ではあるが、「ペット」 と 「家畜」 の区別は、一部の人間の勝手な都合にすぎない。そもそも 「ペット」 は 「家畜」 である。“愛玩用の家畜” である。
“一部の人間” の勝手な都合にすぎない。
“生命に対する畏敬の念が欠落した人間” の都合にすぎない。
“自分は手を汚さず、人に殺させて食べるだけの人間” の都合にすぎない。
“動物好き” を自認している多くの猫や犬のペットオーナーのうち、肉食 をしているひとたちは “動物が好き” というよりも 単に “動物の肉が好き” なだけである。
ちなみに韓国ではふつうの犬を 「ケー」 と呼び、食用の犬を 「ヌロンイ」 と呼び、区別しているそうだ。
「ヌロンイ」 はもともと黄色い犬種だったそうだが、ネットで調べると、さまざまな犬種が出てくる。
殺されることを知ってか、怯えた表情、もしくはすっかり諦めきった表情である。
つまり、今日では単に 「食用にする犬」 を 「ヌロンイ」 と呼んで、ペットの犬(ケー)と区別して食べているのである。 韓国人も 「ケー(犬)」 としてはさすがに食べられないので、別の名前をつけているのだ。「ペット」 でなくて、「家畜」 だと言うのと同じである。「食用」 として勝手に分類することによって “正当化” しているだけである。「ペットと家畜は違うだろっ!」 と言うひとと同じ思考回路である。そもそもペットは家畜である。
毎日のように肉を食べながら犬や猫を可愛がるという偽善的な社会的慣習に耳の付け根まで浸(つか)って、疑問に思うことがないだけである。
“肉食生活” をしているペットオーナーたちは、セックススレイブ(性奴隷)を寵愛しながら、一般の奴隷を死ぬほどに酷使していた古代の放恣な王族と変わらないのである。
犬・猫 etc. (ペット) = 性奴隷 (カワイイ!)
牛・豚 etc. (食用) = 奴隷 (美味しい!)
自分はこんなにも奴隷(動物)を大事にしているという “自己欺瞞の生活” を送っているのである。
そういったひとたちは概していわゆるベジタリアンが嫌いである。自分の価値観に潜むような “不整合” をクリアしている連中のように思えて面白くないのである。
そして、「牛や豚は確かに “命あるもの” だけれど、お米や野菜だって “生命” じゃないか!牛や豚を食べないと言うんなら、お米や野菜も食べなきゃいいじゃないか!」 という “殺し文句” を投げつけて、憂さをはらす。
これによって、自分の現在の “肉食生活” が正当化されると思っているのである。ベジタリアンも、肉食派の自分も “命あるもの” を食べているんだからけっきょく同じなんだと。これで納得する人間は相当に幼稚ではなかろうか。
まずは、犬や猫を飼っている人たちから、“肉食生活” を見直す必要があるのかもしれない。
あなたがどのように動物を扱うかは、そのままあなたの人間観の反映である。他者を自分の欲望を満たすための手段と見るか、それとも、痛みも愛も感じる心を持った自分と対等の存在と見るかの違いがそのまま反映するのだ。
人間に食べられる韓国の犬たち
さて、 話を 「sippo (シッポ)」 に戻そう。
朝日新聞社は “立派” である。2015年のウェブサイト 「sippo (シッポ)」 のスタートにより、社運をかけて(?) “動物愛護運動” に取り組む姿勢を打ち出したのだ。このウェブサイトの名称じたいが、客観的にも、常識的にも犬や猫をはるかに越えた範囲を意味していることは明白である。その範囲(シッポを持つ生き物) にはとうぜん、牛や豚といった家畜が含まれることは言うまでもない。
朝日新聞社には、犬や猫だけでなく、牛や豚といった人間の管理下にある動物たちの過酷で凄惨な生活や生涯にも光を当て、ペットに限定しない動物の権利の擁護、動物愛護運動の推進のためにぜひ尽力して頂きたい。
まずは、「犬や猫の殺処分ゼロ」 だけでなく、同じ 「シッポ」 のある生き物である 「牛や豚の殺処分ゼロ」 のための運動、啓蒙活動もおこなって頂きたい。
これをしなければ、“TSUTAYA の大風呂敷” と同じである。
朝日 sippo (2) 「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?
「ザウルスでござる」 にときどきやってくるレギュラーの読者でも機嫌を損ねる人がかなりいるはずです。
「まさにその通り」 と言えるナオさまのような自脳層は稀(まれ)だと思います。
単純な前提から論理を推し進めた結果がこの記事です。朝日新聞社のsippo シッポのデスクもいずれこれを目にすることでしょう。どんな言いわけをするのかぜひ聞いてみたいものです。
私も、気にせずに食べている口ですが、こういった記事は、心が痛みます。
もちろん、私自身も食肉の文化に対し洗脳をされているという事です。
洗脳を解くのは、難しい事ですよね。
自身に不都合が無いと感じていて、更に、洗脳されている自覚もない。
脱洗脳自体を洗脳と感じ、それを拒絶する。
応援しています!
そういった価値観がいいか悪いか以前に、自分がどれだけ染脳されているかを知る必要があります。世間の大多数の人々の考え方、好みといったものを疑う必要があります。肉食文化もその一つです。
機械的な大量システムを不可欠の産業として組み込んでいる社会は、人間に対する大量殺戮兵器を不可欠のシステムとして備えることでしょう。
他者を抹殺し、消費することが “善” であるとわれわれは思い込まされています。肉食はまさにそれを体現するものです。肉食文化は快楽主義的以前に極めて攻撃的なものです。
多くの人々は 「そんなのこじつけだよ、考え過ぎだよ」と自分に言い聞かせながら、“脱”染脳 を拒否することでしょう。
「殺生=罪悪」の式はそれこそ宗教(仏教)に洗脳されてませんかね?
生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。
今更騒ぐほどの事でもあるまいに。
しかし、不思議なことにこの記事では 「肉を食べてはいけない」 とはどこにも言っていないのです。なのに 「肉食」 に反対しているかのように勝手に解釈して抽象的な見当違いな反論しているのはなぜでしょうか?
この記事は、動物好きを自認したり、動物愛護を謳ったりしながら、家畜の組織的“殺処分”を黙認している矛盾、論理的不整合を問題にしているだけです。
こうした論理的不整合、一貫性の無さが自分の価値観にひそんでいることが明示された場合、ひとは非常に感情的に反発します。なぜならば、その価値観は食事を含む毎日の行動にも反映するほど根深いものだからです。
自分が今まで疑わずにきた価値観に大きな矛盾が存在することを指摘されると、多くの人はそれを改めるよりは、何とかそのまま正当化しようとします。
そして、食事を含む毎日の行動の拠り所である自分の価値観を正当化するために、誰にも否定できなさそうな一般論をいきなりブチ上げて、その中に自分の価値観をすり込ませようとするのです。
そうして実に空疎な “一般論” や “抽象論” を展開し、相手がそれを否定できないのなら、自分の価値観も安泰だと思い込もうとするのです。このトリックはすべ自分の矛盾した価値観を正当化し、自分という人格を防衛するためなのです。これを “一般化のトリック” と言います。
一見抽象的な立論に見えますが、実は非常に感情的でヒステリックな反応なのです。
人間 さまの場合:「自分も動物界の一員だと思えば気ままに殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。ただそれだけのことじゃ。」 ダラダラと書いていますが、要するに 「何でもありだ」 という極端な一般論によって、自己防衛、自己正当化しています。
「昔から存在する議論ですね。」 ・・・ 無理やりの一般化です。
生命代表 さまの場合:「殺生が悪い?」 これは、誰も言っていない極端な一般論へのすりかえです。
「生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」 思いつく限りの抽象的な一般論を振りまわしての必死な自己正当化、自己防衛です。
そもそも「生命代表」と名乗ること自体がすでに “一般化のトリック” です。
追いつめられたひとほど必死になって “一般論” を振りまわすことが実によくわかります。
殺生とは何か、またそれをどう捉えて、どう付き合って行くのかの根本を問うているのですよ。
それがあやふやだから、それに派生する事項が全てあやふやになるという事に疑問を投げかけてるのです。
自論では「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」と思っています。しかるにこれに派生する事項も全てあやふやとして付き合わざるを得ない。
よって正解も間違いもない。
そもそもここの記事は「殺生に関する明確な答え」を出そうとしているわけではありませんよ。勝手に話をふくらませて、すり替えているようですね。
「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」 と勝手な結論を出していますが、誰が聞いたって論点をズラしています。
この記事は、動物好きを自認したり、動物愛護を謳ったりしながら、家畜の組織的“殺処分”を黙認している矛盾、論理的不整合を問題にしているのです。
この問題をあなたは「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」と言いながら、故意にボカして回避しています。つまり、逃げています。
みなさんどうお考えでしょうか?