ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

「かんなかあさんがすき いつもめいわくばかり」

2024-02-22 09:43:25 | メディア時評

「かんなかあさんがすき いつもめいわくばかり」

 

昨今、「知的障害者」 を 「(高度)脳機能障害者」 と呼ぶこともあるようだ。つまり、知性ではなく、脳機能の障害なんだ、という認識がアカデミズムの世界からは出てきているようなのだ。とはいえ、どちらの表現も 「障害者」 と呼んでいるには変わりはない。この言葉じたいには多少異論もあるのだが、以下の記事ではそこが中心的なテーマではないので、自力での発声と筆記が困難な人々をあえて 「障害者」 という漠然とした表現で済ませている。

 

 

さて、いわゆる知的障害者とされている人々から言葉を引き出す実践を十数年重ねてきている國學院大學人間開発学部の柴田保之教授は、今までにさまざまな方法を試してきている。当初は、パソコン画面に50音字表を出して、当事者がボタンを押したりレバーを引いたりという操作で文字を選んで文を作るのを、手を添えて介助する方法を使っていた。

 

その当時、最重度と見なされる、緩名(かんな)という名の少女から 「かんなかあさんがすき いつもめいわくばかり」 という言葉を図らずも引き出してしまった柴田氏は、それによって自分のそれまでの考えを根底から打ち砕かれてしまう。

 

言語学習をしていないはずの、しかも、ふだん家族とまったく言葉のやり取りがなかった、いわゆる知的障害児とされる10歳(小4)の少女がどうしてここまでのメッセージを発信できるのか?ふだん家族とも、障害者施設の誰とも言葉を交わしたことがなかった非力な小さないのちが紡ぎだした言葉・・・。自分の母親に対する愛着、そしてその母親に負担を与えていることについてのすまない気持ち、負い目を表わす、わずか20字のメッセージ。(2004年)

      「かんなかあさんがすき いつもめいわくばかり」 

 

この言葉を必死に綴ったかんなちゃんは、その半年後、その小さな生涯を閉じた。

柴田教授は自分のそれまでの考え方では説明がつかない事例を目の当たりにして途方にくれた。無いはずの言葉がどうして出てくるのだ?彼はその後もパソコンを使った様々な方法で試行錯誤してきた。パソコンを介した方法では、以下のようなメリット・デメリットがある。

1) 介助者の側には訓練の負担は比較的少ない

2) パソコンが介在するので、障害者の発信に比較的客観性がある

3) 障害者にパソコン操作という負担を負わせてしまう  

4) 障害者がメッセージを伝達するのが難儀で、コミュニケーションが間延びしてしまう

 

 

 

「指ひつだん」 と 「ペンひつだん」 という方法

柴田教授はここ数年来、障害者の手指から主にひらがなを直接読み取る 「指ひつだん」 という方法を使っているようだ。柴田氏は、その実践のデモンストレーションでは発信者からのメッセージを指先から読み取るそばから読み上げる。それはまるで恐山のイタコのようで、初めて見るひとには何とも不思議な光景である。一方、指先でひらがなを次々に書きながらメッセージを発信しているはずの障害当事者の方はそっぽを向いていたり、ときどき奇声を発したりしているのだ。

 

さて、障害者からの発信を効率よく受信する方法を模索しているのは柴田教授だけではない。同じくパソコンを介在させない方法でも、介助者がペン(ペン状の筆記具)を持った障害者の手を支えて文字の筆記を援助する 「ペンひつだん」 という方法も行われている。

 

障害者のための上記の2つの介助つき筆談を、この記事では以下のように区別してみた。

「筆談」 ではなく、「ひつだん」 とひらがな表記することによって、一般的に理解されている 「筆談」 と違って、障害者の手指を使ったコミュニケーション援助の方法とする。

 

● 「指ひつだん」 と表記した場合は、「障害発信者の手指」 が書く文字を 「介助者の手指」 が読み取る方法を意味する。

 

柴田教授の場合は、原則として受信したメッセージをそばから読み上げる。おそらく、それを発信者自身に聞いてもらってメッセージが正しく伝達されているかを当人に確認してもらうためであろう。

 

 

 

● 「ペンひつだん」 と表記した場合は、障害者の手指がペン(ペン状の筆記具)を使って文字を書くのを介助者が支える方法を意味する。

障害者は自力でペンを持って文字を書くことはできないが、介助者が手を添えてあげることによって筆記が可能となる。介助者は発信者が書こうとする文字を感じ取って、字の大きさ、バランスをコントロールしながら、できるだけ見やすいように筆記を援助する。

 

以下は、「ペンひつだん」 を、エクソスケルトンというモデルで説明したものである。

 

指であれ、ペンであれ、障害者の側は介助者に援助してもらいながら自分の頭の中の文字のイメージを手指の動きで再現している。ここで多くの人が疑問に思うだろう。「ろくに学校にも行っていないのにどうしてひらがなを知っているのだ?」 と。実は障害児たちは自分は家族とは話さないが、家族同士の会話を聞きながら人知れず言葉を習得している。そして、身の回りで自分が目にする文字列と、耳から入ってくる音声パターンに対応があることに気づく。やがて、頭の中に音声パターンと文字パターンとがセットになった言葉が次々に集積されながら、それらによって思考が豊かになり、内面世界が構築されることになる。

物や人の名前だけでなく、食べる、怒る、といった動詞や、しゅっぱつ(出発)、あいじょう(愛情)、といった抽象名詞もその場の状況から少しずつ意味を把握して頭の中の自分の辞書に追加していく。こうした孤独な言語学習が両親や家族や施設の介助者にもほとんど知られることなく何年も何年も続いているのだ。たとえて言うならば、幼い子供の頃は六畳間の大きさの巨大なジグソーパズルを埋める無数のピースをいつも拾い集めていたのだ。そして、それが今では体育館のフロアの大きさなのだ。何万ものピースを頭の中で少しずつ少しずつはめ込みながら自分の世界を築いているのである。そして、それはわれわれには知られざる、彼らの密かな楽しみでもあるのだ。

 

健常者の場合、言葉の学習は、他者とのメッセージのやりとりという相互的なプロセスが主である。しかし、発声や手の運動といった体のコントロールが困難な障害者の場合、他者との相互的なコミュニケーションによらない方法で言語習得がなされる。厳密にいえば、自分の中のもう一人の自分との相互的なコミュニケーションによる言語習得と言える。

 

 

さて、「指ひつだん」 と 「ペンひつだん」 という分類と表記は、わたしの勝手な解釈によるものであり、障害者問題の世界で一般的に使われているものではまったくないし、障害者問題に関わる人々の了解を得ているわけでもない。単にここの記事で使っているだけのものである。

 

 

ここで確認しておきたい点がある。

障害者の中には、発信したいメッセージを山ほど持っていても、それを伝達する方法が無いために(話すための音声コントロール、文字を書くための手指のコントロールが非常に困難)、沈黙の年月を長く過ごしてきた人々がいるということである。前回の記事 知的障害者ではなく、伝達困難者? 言葉の泉が噴き出した! での表現を使えば、「言葉の無人島の生存者」 ということになる。空を行き交う飛行機を見上げる日々・・・ 

そうした言葉の無人島の生存者の  メッセージ発信への渇仰 に応えるかたちでの 複数の介助的な方法 が実際に功を奏しているという事実があると言える。少なくとも障害を持つ当の発信者がそうした方法によって、自己表現の機会を得て喜んでいるという現実がある。彼らの頭の中は、膨大な量の未送信のメッセージが充満している。それが外部からこじ開けられた開口部からとめどなく噴出するので、ふつうの健常者は驚いて、いぶかしむのだ。

 

 

しかし、障害者教育という学術的(アカデミック)な世界では、「知的障害者が言葉を綴ることはあり得ない」 というのが厳然たる 「学会的常識」 になっている。柴田教授は、こうした学会での無理解と懐疑 「そんなバカなことがあるわけないだろ!」 に包囲された四面楚歌の状況で20年近く現在の仕事を続けている。まるで柴田教授自身が 「真実の陸の孤島」 のロビンソンクルーソーようなものだ。

 

 

 

さて、20024年 2月12日、13日の両日に、わたしはその 介助的な方法によるコミュニケーション の実際をつぶさに観察し、撮影する幸運に恵まれた。実はこうした機会はわたしにとっては5年ぶりで、まったく初めてというわけではなかった。しかし、障害者が介助者の援助を受けながら雄弁に、ときに饒舌に 「言葉を綴る」 事実をあらためて目の当たりにしたのは前回にも増して衝撃的であった。

 

 

今回実際に観察して知ったのは、「介助による ”ひつだん”」 にしても、複数の方法が可能ということである。

幸運にも今回、柴田先生による 「指ひつだん」 と 七野先生による 「ペンひつだん」 を仔細に観察することができた。

さて、「ペンひつだん」 については、エクソスケルトン・モデルによって理解して頂けるのではなかろうか。「ペンひつだん」 には、紙の上に文字としてメッセージが客観的に顕在化するので、観察者にはわかりやすいというメリットがある。

 

しかし、「指ひつだん」 の場合は、障害者が指先で書くひらがなを介助者が自分の手のひらで敏感に感じ取って、その書かれた文字を読み上げるというかたちでメッセージが顕在化する。つまり、顕在化すると言っても、目で見える紙の上の文字ではなく、そばから消えてゆく音声としてなのである。しかも、それは障害者自身の口からではなく、介助者の声なのだ。ここが非常にトリッキーなところで、「指ひつだん」 に対する疑念や批判が集中するところだ。懐疑派はこう言う。

 

1.「介助者が障害者になりすまして、勝手にしゃべっているだけではないのか?」 

2.「そもそもふだん言葉をまったく話していない障害者が、「指ひつだん」 になると、俄然次から次と言葉を発するのはおかしくないか?」

3.「元々あるはずの無いものが、どうして出て来るのだ?」

4.「介助者は障害者に善意から寄り添い過ぎるあまり、障害者を勝手に代弁しているだけなのではないか?」

 

次回の記事 「動画:ひつだん in 奈良」 で 「ひつだん」 の実際を動画でご紹介するが、動画を見たあとでも上記4つの疑問を主張し続ける人間がどれだけいるだろうか?  

 

柴田教授は障害者の指先からの微かな動きを読み取ろうと神経を集中するためにときどき目をつむる。一方、発信しているはずの障害者の方は滅多に介助者の方を見ることもなく、そっぽを向いていることが多い。

 

つまり、障害のある発信者からのメッセージを受信して次々に読み上げる介助者とは対照的に、発信しているはずの当事者側のコミュニケーションにおける関与性が非常に乏しいのだ。片手を介助者に預けてはいるのだが、ほとんどそっぽを向いていて、コミュニケーションへの積極的な関与の姿勢があまり見て取れないことが多い。

もし発信者である障害者自身が介助者の方を向いて、介助者が読み上げるメッセージ毎に強く頷いていれば、見ている観察者にはメッセージが発信者から受信者に着実に流れていることがはるかに了解しやすいことだろう。しかし、実際にはそうなることはほとんどないのだ。

障害者たち(主に自閉症児)は概して、人と目を合わせるのが苦手であるだけでなく、手や体に触れられるのを嫌い、ほとんど外部世界と隔絶したマイワールドに閉じこもって生きている。そのように発信者側の非関与性、不在感が際立つ結果、介助者による 「指ひつだん」 が、 謎めいたイタコ的イメージ を醸し出してしまう。

 

しかし、そこには神秘的なものは一切ない。柴田教授の技法は超能力でも何でもないのだ。障害者が言葉の世界を持っているというゆるぎない信念があるからこそ、彼は障害者にとことん寄り添っていくのだ。実は障害者の側はちょっと痛し痒しなのである。彼らは本当は他人に手に触られたり、そばに寄ってこられるのはとても苦手なのだが、自分の言葉を本当に受信してもらえる夢のような期待のほうが上回ってしまうのだ。初めて会うおじさんなのにニコニコしながら自分の手を取り、自分が綴る文字を魔法のように読み上げてくれるのだ!信じられないような体験に、彼らは一様に柴田氏の手のひらにこう綴る、「人間として認めてもらえてうれしいです」 と。

 

 

「指でどうしてこんなに書けるのか不思議ですが、うれしくて涙があふれてきました。どういう気持ちかというと、やっと人として認められる日が来たという喜びの涙ですね。
やっぱり、言葉をわかっていることが伝えられなくてとても悔しかったけれど、これを機会にわたしも人として、しっかりと生きていきたいと思います」 (2024. 2.12. ひつだん in 奈良)

 

 

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3 コメント

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Unknown (ウボ)
2024-02-22 17:04:59
言葉を「失う」こと:

 おもわすぐっとこみあげました。
 われわれ高齢者介護の現場では、例えばパーキンソン病などで入居の方が言葉を発しなくなることがあります。言葉を「失う」きっかけは他にも脳梗塞とかいろいろだと思います。

不思議なことがありました。私の勤めていた特養のユニット(10名)に、重い寝たきりで長いあいだ発話していなかったような高齢女性がおられて、夜間、たまたま隣のユニットの男性職員が担当シフト(夜間は一人で2ユニットをみる)で、排泄介助のためにその方の部屋へ訪室した。すると声がしたのです。彼はキョロキョロ見回した。天から降ってきたか? しかし彼女しかいない。しっかり聞き取った言葉は

「いま何時?」

だったそうです。思考は表面よりずっと深くあるらしい。
赤ちゃんも同じです (りんご)
2024-02-28 10:15:48
娘が生まれる前に、胎児に話しかけてコミュニケーションを取ると言葉の発達が進み、生まれてすぐからコミュニケーションが取れるという本を読んだので、生まれてすぐジェスチャーをいくつか決めて教えたところ、あーうーしか言えなくても関係なく「おいしい(片手の掌で頬をなぜる)」「それが欲しい(両手グーを胸の前でぶつける)」などのコミュニケーションを100%取れることが分かりました。体もぐにゃぐにゃしていても出来るような単純な動きのジェスチャーでなら、十分可能でした。生後3か月になると、突然出先で「ママ、ここはどこなの?」や、着替えをしている親を見て「これから出かけるの?」と完全な文章で話始めました。のどの運動がコントロールできないだけで、赤ちゃんもすでに言葉を理解しているのだと、その本に書かれていた通りでした。障がい者や、病気で話せなくなり体の動きが制御できない人も、皆同じなのでしょうね。
Unknown (乳毛ロング)
2024-04-26 18:35:46
素敵で愛しい魂たち魂方たちを、みんなで決して、宇宙の凶悪質元凶『工作宗教神システム押し付け工作犯同士達』と、それらマウント逃げ続け都合身分化工作続け持続可能な宇宙環境作り工作反映化策便乗犯達にとっては、拝ませ崇ませマウント逃げ支えさせ環境作りで必須としてるような侵害や、履き違い合わ無き様にわきまえ合いながら、守り合いましょう。??

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