自分にできることを全てやったら、最後は神頼みです。神さまは、人間のことを非常に愛しておられるので、人間の祈りは必ず神さまに聞き届けられるでしょう。(なお、仏教の信仰をお持ちの方は、神を仏に置き換えてお読みください)
この世界は神さまの恵みに満ちているので、意識しなくてもその恵みを受けることができますが、やはり、神さまの存在を意識した方がより大きな恵みを受けることができると思いますので、まずは神さまに手を合わせる習慣を身につけることをお薦めします。
たとえ特定の宗教に属さなくても、朝起きたら「今日も一日宜しくお願いします」、夜寝る前に「今日も一日有難うございました」と神さまに向かって手を合わせるだけで、自然に心が穏やかになり、目に見えない恵みをいただくことができるようになると思います。
また、金光教では「拝み方は知らなくても、一心にすがればおかげをくださる」と教えています。もし、本気で神さまにがんを治していただく気になったら、心を込めて誠を込めて「がんが治りますように」と祈ってみてはいかがでしょうか。
ただし、がんを治すことは人生の目的ではないので、同時に「自分の使命が果たせますように」と祈ることで、人生をより豊かにすることが可能になると思います。
なお、がんは必要があって生じた可能性もあるので、たとえ祈ってもがんが消えない場合があるかもしれませんが、がんと共存できるなら、それもまた神さまの恵みではないかと思います。
ほんとは祈りに癌を治す力なんてないから、そんな言い訳に逃げてるだけなんだろ?ほんとに力があるなら、みんなで手分けして全ての病院まわって治してしまえばいいんじゃない?少なくとも今より少しでも祈りで生存率あげてみれば?出来るかな?さあどんな言い訳する?
なお、日本では、江戸時代までは加持祈祷(かじきとう)で病気を治すのは当たり前でした。つまり、祈りで病気が治ることをみんなが認めていたわけです。
明治時代になると、明治政府は「禁厭祈祷ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」(教部省達第二十二号)という通達を明治7年(1874年)に出して、禁厭(きんえん=まじない)や祈祷を禁止しました。
これによって、職業として祈りで他人の病気を治す人はいなくなりました。これは日本が文明国の仲間入りをするための措置ですが、祈りに効果がないということの証明にはなりません。
たとえば、アメリカ先住民のホピは、農業の専門家が見たら逃げ出すような荒れた土地にトウモロコシの種をまき、儀式を行い、祈りによって雨を降らせて豊かな収穫を得るそうです。
また、どんな大企業でも、工場を建てる際には地鎮祭を行ない、できた工場内にはお札を安置して、無事故や商売繁盛を祈りますが、これは経営者が祈りの力を実際に理解しているからではないでしょうか。
>生きるか死ぬかの瀬戸際にある本人が必死に祈るから効果があるのです
>祈りで病気が治ることをみんなが認めていたわけです
>祈りによって雨を降らせて豊かな収穫を得るそうです
>経営者が祈りの力を実際に理解しているからではないでしょうか
何の証明にもなってませんよね?ただの主観ですよね? 祈りによって雨が降るというのも、加持祈祷(かじきとう)で病気が治るというのも 勝手な因果関係を想定して信じてるだけですよね?
>生きるか死ぬかの瀬戸際にある本人が必死に祈るから効果があるのです
祈りじゃなくて医療の効果じゃない?
あまりくどくど書くのはどうかと思うので手短ですが またの反論お待ちしております。
私が祈りということを真剣に考えるようになったのは、この人に出会ったことがきっかけです。
http://www5c.biglobe.ne.jp/izanami/iihanashi/daitokuji.html
世の中には、ときどき大きな使命をもって生まれてくる人がいるそうですが、この人もそういう一人だと思います。私は、この人に祈りの大切さを教えてもらいましたが、やはり、こういうことは教えてもらわないと分からないと思います。
私自身は、昔から初詣にも行かない人間で、祈りの効果を実感したことがないので、そもそも祈りについて説く資格はないのですが、いろいろと調べてみると、どうもこの世界には、人間の祈りを聞き届ける仕組みが存在するようです。
国学者として有名な平田篤胤(ひらたあつたね)は、『仙境異聞』(せんきょういぶん)という著書に、天狗小僧・寅吉(とらきち)のことを書いています。
寅吉は、幼い頃から予言や透視などの超能力があり、7歳のときに仙人に出会って仙人たちの世界(仙境)に出入りするようになったそうで、一時、江戸市中は彼の話で持ちきりになったそうです。
この本によると、寅吉が出会った仙人は金毘羅様に仕えていて、人間の願いをかなえることが仕事なので、『況(ま)して正道なる祈願は、能(よ)く信心を徹しだにすれば、叶(かな)はずと云ふ事なきものとぞ。』と書かれています。要するに、正しい祈願なら必ずかなうということです。
また、江戸時代末期に誕生した金光教では、『神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である。』と教えて、実際に多くの人の祈願が成就したそうです。
こういったことは、いきなり信じるのは無理でしょうが、もし人間の祈りを聞き届ける仕組みがこの世界に存在するなら、やはり利用しない手はないと思います。特に、現在がんで闘病中の方には、大いに活用していただきたいのです。
大徳寺昭輝や平田篤胤やその他の事例を挙げられても何の証明にもなってません。誰かが言ってるや何処に書いてあるは何の証拠でもありません。
>実際に多くの人の祈願が成就したそうです
そうですではなく、因果関係が証明できるか?ときいているのです。
>もし人間の祈りを聞き届ける仕組みがこの世界に存在するなら、やはり利用しない手はないと思います
私もそう思います。だからこそ、証明してくれと言っているのです。あなたの祈りに力があるのか?あなたのじゃないものにか?祈りには何も力がないのか?証明されるまでは3つ目の選択肢が妥当だと思いませんか?
単純に「証拠のない主張は、証拠のない主張として却下される」(クリストファー・ヒッチンズ)と言うことです。
私は、金光教の本部がある岡山県の金光町で生まれ育った者です。金光教のお祭りの日には、全国各地から多くの人が金光町にやってきて本部にお参りするのを毎年見てきました。
この人たちは、祈願が成就してお礼に参った人たちであることは間違いなく、しかも遠方からはるばるやってくるわけですから、命や財産にかかわる重大な問題が解決したと考えてよいでしょう。
したがって、私は自分の経験から、祈願が成就した人が大勢いると断言できますし、これは祈りに効果があることの間接的な証明になると思います。(もし、確率論的に論じることができる人がいれば、直接的な証明にもなりうるかも知れません)
「多くの人」や「大企業」という言葉を使われるけど、科学は多数決でも権威でもないので、ほとんど意味をなしません。
>もし、確率論的に論じることができる人がいれば、直接的な証明にもなりうるかも知れません
私もそう思いますし、たぶん、あなた以上にそう思っているでしょう。むしろ、そのことです。「祈りの大実験」(R.ドーキンス 神は妄想である)というのがあります。読めとも言いませんし、あなたにやれという意味でもありませんが合理的な方法のひとつですので、参考になればと。
なお、ついでに言わせてもらうと、科学を信奉するのはどうかと思います。私も科学の恩恵を受けている身ですから、科学の悪口を言うつもりはありませんが、科学は本来、人類を幸福にするための道具であり、正しく使いこなすべきものです。決して信じ奉る対象ではないと思います。
それはさておき、科学的な態度とは、祈った集団と祈らなかった集団を比較して、願望がかなった割合に有意差があるかどうかを検証することだと思います。たとえば、末期がんの人で、がんが治るように祈った人の集団と、祈らなかった人の集団を調査して、1年後の死亡率を比較することです。私が確率論のことを言ったのは、この場合は統計学的にみて母集団が異なるので、生半可な知識を持った人では正しい計算ができないからです。
もし、「祈りの大実験」の中にそういう実験があるのであれば、ぜひご教示願います。
ようなことではなく、科学は合理主義の一形態であり、手法であり、それはおおいに間違いがありえ、常に改善され、更新され続けてるという意味においての信頼であります。的確な説明とは言えないかもしれないので、よく、理解出来なければ、指摘してもらえれば、また説明します。
>「何の証拠も提示出来ない人達」だと断定するのは不思議ですね。それこそ憶測であり、非科学的な態度ではありませんか?
http://extract.blog.shinobi.jp/Entry/248/「天空のティーポット」読んでもらえれば、理解していただけると思いますが、立証責任は反証する側ではなく、主張する側にあると思うので、どの祈りに対しても証拠として価値があるものを聞いた事がないので言ったのです。因みに信頼に足る価値ある証拠があれば、いつでも、祈りの力を支持しますが、そういのを聞いた事がないので、提示して!と言ってるのです。
>もし、「祈りの大実験」の中にそういう実験があるのであれば、ぜひご教示願います。
書いたつもりなのですが上手く伝わってなかったのですね。リチャード・ドーキンスの書いた本で「神は妄想である」というのがあり、P95に「祈りの大実験」という章があるので、まさにおっしゃるように近いことが書いてあるので、一例ではありますが読んでみて下さい。因みにネット上では見つけられなかったので図書館にでも行けばあると思うので、その気があれば、お手数ですが。
http://extract.blog.shinobi.jp/Entry/244/相関の解釈。
>強い相関が弱い相関よりもその原因をよく表すなどと考えるのは正しくない。
>。相関が原因を暗示するという根拠のない仮定は,おそらく人間の論理的思考のうち2つないし3つの最も重大で最も一般的な誤りに入る。
少しややこしい書き方をしていますが読んで貰えれば理解していただけるかもしれません。これは証明ではなく、科学に対する立場を示した例であり、祈りにだけではなく、全てについて言えることです。ですので、本部にお参りする人と、重大な問題が解決したという相関関係に何の因果関係もないということであり、証拠を提示してない人達といったのです。あなたが状況証拠とするものが科学の厳密さからすれば、子供の言い訳ぐらいにしか聞こえないので、確立でも統計でも他の方法でもいいので、単なる相関ではなく、因果関係を示す相関(証拠)を求めているのです。過去に読んだ少し古いものですが、わかりやすく、相関関係などについて書いてあるので、その気があれば、読んでみてください。谷岡一郎著「「社会調査」のウソ」。長文の駄文、すみません。
「科学で説明のつかないことが多いものですじゃなくて、まだ、科学で解明されてないか、その現象を説明する科学的知識を持ってないか、合理的に考えようとしないか、そんなところじゃない?」
というあなたの無意味な言葉から受けた私の率直な印象です。無意味というのは、世間では「まだ、科学で解明されてない」ことを「科学で説明がつかない」と言いますから。あなたは、どんな不思議なこともいずれ科学的に証明されるというニュアンスをこの言葉に込めたと私は判断しました。もし事実と異なるなら、訂正して謝罪致します。
また、祈りに効果があると主張しているのは私であって、金光教の信者ではありません。私は、金光教の信者が「祈りに効果がある」と言っているのを聞いたこともありません。したがって、金光教の信者には立証責任はないと思います。金光教の信者が「何の証拠も提示出来ない人達」だと証明する責任はあなたにあり、証明できないのであればそういう失礼なことを言うべきではないと思います。
ドーキンスについては、どこの図書館にあるかもわからない本を読めというのは酷ですね。それなら私も、聖書を創世記から黙示録まで読んでから反論してくれと言わせてもらいます。聖書はどこの図書館にもあるので。
「祈りの大実験」については、ドーキンスが何万人の人間を対象にどのぐらいの年月をかけてどのような実験を行なったのか知りたかったのです。簡単に教えていただければ結構です。
相関関係と因果関係については、たとえば私が、余命半年と診断されたがん患者を無作為に2万人抽出して、たまたま1万人は祈ることに同意してくれたとしましょう。1年後に、祈った集団は1万人全員が生存していて、祈らなかった集団は1万人全員が死亡していた場合、あなたは、相関関係はあるが因果関係はないと主張するのですか? もしそうなら、我々の議論は一生平行線のままなので、この辺で終わりにしましょう。