古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

ふしだらの語源

2024-04-28 08:46:29 | 古代の日本語

今月の8日は花まつり、お釈迦様の誕生日でした。

お釈迦様が説かれた教えは、6世紀中頃には日本に伝来したとされ、その教えを記録するのに使われた言語である梵語(ぼんご=サンスクリット)は日本語に大きな影響を与えました。

そこで今回は、『国語中の梵語の研究』(上田恭輔:著、大同館:1922年刊)という本を参考にして、梵語由来の「ふしだら」という言葉をご紹介します。

「ふしだら」は、漢字で書くと不修多羅で、修多羅(しだら)は、梵語の「スートラ」を漢字で音写したものだそうです。

現在では、「スートラ」は経典を意味し、例えば5世紀頃に編纂されたとされる『ヨーガ・スートラ』は、ヨガの根本的な経典として有名です。

しかし、最初は織物を織る機(はた)に付属する「筬」(をさ)に経糸(たていと)を通して糸を整え、糸目を整然とさせることを意味したそうです。(筬については次図参照)

手織機の筬

【手織機の筬】(『新撰機織学 上巻』(工業教育振興会:1932年刊)より)

それが後世には事物の秩序をつけること、次に規則のこととなり、更に今日のようにもっぱら経典を意味するようになったのだそうです。

そして、国語の「しだら」という言葉は、梵語の古い時代の意味を保存していて、主として規律や秩序を意味していますが、この言葉が使われる場合は、必ず語頭に否定の「ふ」(不)をつけて、「ふしだらな女」などと言います。

また、「だらし」も「しだら」から派生したもので、これも必ず「だらしがない」という否定形で使われますが、「ふしだら」とは微妙に意味が異なるのは面白いですね。

そして、この「しだら」が更に転じて自堕落(じだらく)という言葉が誕生したそうです。

なお、修多羅を「しゅだら」と読んで、僧侶の袈裟(けさ)を飾る、色とりどりの紐(ひも)で組んだ装飾品を意味する場合がありますが、これも「スートラ」が語源です。(『大日本国語辞典』より)

梵語由来で、語源を知らずに使っている日本語は「ふしだら」以外にもあるので、『国語中の梵語の研究』に載っているものをいくつかご紹介します。

【悪】(あく)

 梵語で善または良を意味する「クサロ」に、否定を意味する「ア」を付けると、不善不良を意味する「アクサロ」となる。仏典翻訳者が、悪という漢字を製造し、「アクサロ」の「アク」を悪の音とした。

【阿弥陀】(あみだ)

 阿は否定の意味、弥陀は英語のメジャーと同系統の言葉で「量」(はかる)という意味で、無量寿または無量光と訳す。そして、この哲学的述語を人格化したものが阿弥陀如来である。
 したがって、「弥陀の本願」のように阿の字を省略した表現は、実は梵語の本来の意義に矛盾することになる。
 なお、阿弥陀籤(あみだくじ)は、紐状の籤の一端を束ねて、他端を数名の者が引っ張ると、阿弥陀如来像の後光のように放射状になることから名付けられた。

【卒塔婆】(そとば)

 梵語の「ストゥーパ」を音写した言葉で、塔を意味する。
 卒塔婆は、一片の木標に梵字を記した臨時の墓碑であるかのごとく心得ている人が多いが、インドでは仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の遺骨)を安置する高大な土饅頭型の塔を「ストゥーパ」とよび、これが中国に伝わって、一層堅固で荘厳なものとなった。

【喇叭】(らっぱ)

 梵語の「ラヴァ」、すなわち喚叫(かんきょう=わめきさけぶこと)、音響、ならびに動物の咆哮を指した名詞であって、この名詞は、叫ぶ、咆える、音を立てるなどの意味があるラブという動詞から転じて、ラブ、ラヴァとなり更に転じてラッパとなった。
 元来、ラッパは角笛が発達したもので、飴屋のラッパないし豆腐屋のラッパの類であった。徳利の口を自分の口にあてて酒を飲むことを「ラッパ飲み」というが、これは古(いにしえ)のラッパを巧みに形容した趣がある。

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光線を意味する古語

2024-03-17 07:51:34 | 古代の日本語

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、飛鳥時代を代表する歌人で、三十六歌仙の一人としても有名です。

また、『玉川児童百科大辞典 21 別巻 世界人名辞典』(玉川大学出版部:編、誠文堂新光社:1968年刊)という本によると、彼は次のような功績を残したそうです。

1.長歌(五七五七五七・・・五七七)を、序詞・枕詞などを自由に使いこなして、最高の形式的完成にみちびいた。

2.それまで長歌に付属するものであった反歌(五七五七七)を長歌から独立させ、ひとつの詩としての完成にみちびいた。

3.叙事性と叙情性を一身にそなえた「万葉集」最高の歌人として、日本文学史の上に一時代を画した。

このため、紀貫之は柿本人麻呂を歌聖とたたえたそうです。

そして、旧暦の三月十八日は彼の命日とされ、『柿本人麻呂と鴨山』(矢富熊一郎:著、益田郷土史矢富会:1964年刊)という本によると、彼は死後まもなく神として祀られ、その千年忌にあたる享保八年三月十八日には、正一位柿本大明神の神階と神位が宣下されたそうです。

そこで、今回は柿本人麻呂の有名な歌を、『万葉集注釈 巻第一』(沢瀉久孝:著、中央公論社:1957年刊)という本を参考にしてご紹介します。

【万葉集第一巻 48番の歌】

原文
読み
意味
ひむかしの 東の
野炎 のにかぎろひの 野に陽光のかがやきが
立所見而 たつみえて さしそめて
反見爲者 かへりみすれば うしろをふりかへると
月西渡 つきかたぶきぬ 月が西空に傾いてゐる

原文の「東野炎立所見而反見爲者月西渡」は、まるで暗号のように難解で、古くは「あずまののけぶりのたてるところみて・・・」と読んでいたのを、国学者の賀茂真淵(かものまぶち)が現在のように改訓したのだそうです。

また、炎を「かぎろひの」と読む根拠としては、古事記の履中記に「迦藝漏肥能」(かぎろひの)という言葉を含む歌が登場することなどからの類推だとされています。

そこで、『紀記論究外篇 古代歌謡(下)』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本を参考にして、該当する履中記の歌をご紹介します。

【古事記に収録された履中記の古代歌謡】

原文
読み
意味
波邇布邪迦 はにふざか 埴生坂に
和賀多知美禮婆 わがたちみれば 立って見わたすと
迦藝漏肥能 かぎろひの 陽炎(かげろう)の
毛由流伊幣牟良 もゆるいへむら 燃えのぼる一群の集落がある
都麻賀伊幣能阿多理 つまがいへのあたり それは自分の妻の家のあたり(らしい)

この歌は、古事記によると、履中天皇が、弟の反乱によって焼かれた難波宮を見て詠んだ歌とされていますが、歌の意味から考えて、まったく関係のない歌が挿入されていると考えられるそうです。

ここで、第三句の「かぎろひ」は陽炎(かげろう)を意味していて、柿本人麻呂の歌に出てくる「炎」(陽光のかがやき)とは異なるようです。

これについて、前回ご紹介した『新編日本古語辞典』(松岡静雄:著)には、カギルヒという単語が載っていて、次のように説明されています。

「カギルヒ(炎)-カギルはカゲ(光線)の活用(連體)形、ヒは日(太陽)-照射する太陽をいふ。」

つまり、古代において「かげ」は光線を意味していて、その連体形「かぎる」+「日」は、照射する太陽を意味するということです。

したがって、言語学者・松岡静雄氏の見解によると、柿本人麻呂の歌の第二句「野炎」は、「のにかぎひの」と読むのが正しく、これなら陽炎(かげろう)と区別することができます。

なお、日の当たらない場所を意味する「かげ」という言葉も昔から存在していて、次のように漢字を使い分けていました。

日影と日陰

【日影と日陰】(『大日本国語辞典』より)

ちなみに、松岡氏によると、「かげ」(影)は「かがやく」の「かが」から転化した言葉で、「かげ」(陰)は「かき」(垣)の転呼なのだそうです。

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月の名前の語源

2024-02-18 07:51:46 | 古代の日本語

2月は、旧暦では正月にあたり、これを睦月(むつき)とよんでいましたが、この意味を漢字から類推して、「親戚が集まって仲むつまじくする月」などととする俗説が流布しているのは残念なことです。

そこで、『新編日本古語辞典』(松岡静雄:著、刀江書院:1937年刊)という本を参考にして、月の名前の語源についてまとめてみました。

月の名前
読み
語源
睦月 むつき メツキ(芽月)の転呼、発芽する季節を芽月とよんだ
如月 きさらぎ キアラツキ(木新月)の約濁、草木更新の月を意味する
如月と書くのは、『爾雅』という本に「二月爲如」(二月を如となす)とあるため
弥生 やよい イヤ(弥)オヒ(生)の転呼で、草木がいよいよ生い茂るという意味
卯月 うづき ウツツキ(たがやす月)の約濁で、田ウツ月という意味であろう
田植えのために田をウツのは旧暦4月頃であるから、十二支の4番目の卯の字を借りたと思われる
皐月 さつき サ(挿)ツキ(月)で、苗を挿す月、すなわち田植えの月という意味
水無月 みなつき 旧暦の6月は日照りに苦しむことが多かったので水無月となった
文月 ふみつき 原語はフツキで、ホツキ(穂月)の転呼(旧暦の7月には稲が穂を出す)
フツキの音便がフムツキで、これに文月という字をあてたためフミツキと訛ったと思われる
葉月 はつき ハエ(南風)ツキ(月)の転訛、台風が多い月という意味であろう
(南風については、本ブログの「南風を意味する古語」で解説済み)
長月 ながつき ナは食を意味し、食之月、すなわち新穀を収穫する月という意味
神無月 かみなつき ナは食を意味し、カムナヘツキ(神嘗月)、すなわち新穀を神にそなえる月という意味
霜月 しもつき これは文字どおり霜が降る月という意味
師走 しはす シハ(終)シ(下:スヱ(末)の語源)の転呼、年の終末の月という意味

いかがでしょうか? これは、言語学者・松岡静雄氏の見解ではありますが、古代の日本人が四季の移り変わりを月の名前にしたことは明らかなようです。

なお、旧暦は月の満ち欠けの周期に同期するため、年によって太陽暦とのズレが変化し、季節が定まらないという欠点があります。

例えば、旧暦の正月元旦は、去年は1月22日でしたが、今年は2月10日、来年は1月29日、2026年は2月17日となり、2023年と2026年では26日ものズレが生じます。

一方、節月(せつげつ)という、二十四節気を用いた月の区分があり、これは太陽暦に準拠しているので、季節がズレないという利点があります。

そこで、次のように月の名前を節月に対応させれば、その意味がより明確になるように思われます。

節月
期間
月の名前
語源
寅の月 立春(2月4日頃)から啓蟄の前日まで むつき メ(芽)月、発芽する月
卯の月 啓蟄(3月5日頃)から清明の前日まで きさらぎ キアラ(木新)月、草木更新の月
辰の月 清明(4月5日頃)から立夏の前日まで やよい イヤオヒ(弥生)、草木がいよいよ生い茂る月
巳の月 立夏(5月5日頃)から芒種の前日まで うづき ウツ月、田をたがやす月
午の月 芒種(6月6日頃)から小暑の前日まで さつき サ(挿)月、田植えの月
未の月 小暑(7月7日頃)から立秋の前日まで みなつき 水が無い、日照りの月
申の月 立秋(8月8日頃)から白露の前日まで ふみつき ホ(穂)月、稲が穂を出す月
酉の月 白露(9月8日頃)から寒露の前日まで はつき ハエ(南風)月、台風が多い月
戌の月 寒露(10月8日頃)から立冬の前日まで ながつき ナ(食)が月、新穀を収穫する月
亥の月 立冬(11月7日頃)から大雪の前日まで かみなつき カムナヘ(神嘗)月、新穀を神にそなえる月
子の月 大雪(12月7日頃)から小寒の前日まで しもつき 霜が降る月
丑の月 小寒(1月5日頃)から立春の前日まで しはす シハシ(終下)、年の終末の月

このように書き直すと、月の名前と四季の移り変わりの対応がはっきりしますから、月の名前は本来は太陽暦に対応したものだったのかもしれませんね。

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西暦601年の大革命

2024-01-21 07:55:11 | 古代の日本語

前回、西暦601年を基準に、その1260年前、すなわち21回前の辛酉の年である紀元前660年が大革命の年と考えて、これを神武天皇即位の年としたことをお伝えしましたが、そうなると、西暦601年も大革命の年だったことになります。

そこで、歴史を調べてみると、西暦589年に隋が中国を統一していて、その歴史書(隋書東夷伝)には西暦600年に倭国から遣隋使が派遣されていることが記録されていました。

その全文を掲載すると煩雑になるので、ここでは古代の日本語に関係する部分だけを抜き出してご紹介します。

【隋書東夷伝の倭国の記録】

原文
翻訳
開皇二十年俀王 西暦600年に倭王
姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌 姓はアメ、字(あざな)はタラシヒコ、オホキミと号す
遣使詣闕・・・ が使いを遣わし宮城に詣で・・・
(中略)
 
王妻號雞彌後宮有女六七百人 王の妻はキミと号す、後宮に女六七百人有り
名太子爲利歌彌多弗利 太子を名づけてワカミトホリとなす

なお、原文は『朝鮮史 第一編第三巻』(朝鮮史編修会:編、朝鮮総督府:1933年刊)という本を参考にしました。

また、日本語を書き写したと思われる部分の読みについては、『文学論輯(15)』(文学研究会:編、九州大学教養部文学研究会:1968年3月刊)という雑誌の「隋書倭国伝における国語表記について 利・尼・堆などの用法」(森山隆:著)という論文を参考にさせていただきました。

この研究によると、当時の発音は、利=ラ、阿=オ、輩=ホ、多=ト、弗=ホ、などとなるそうです。

ところで、興味深いことに、日本紀にはこの年の遣隋使については記録がなく、西暦607年に初めて遣隋使を派遣したことになっています。

私が思うに、これは西暦600年の遣隋使によって大陸の文化や政治制度に関する情報が大和朝廷に伝えられた結果、あまりにも日本が遅れていることに驚き、直ちに政治改革に着手したものの、それを記録に残すと国家の威信に傷がつくので、なかったことにしたのではないでしょうか?

当時の朝廷は、推古天皇を聖徳太子が摂政として補佐していたわけですが、西暦603年には冠位十二階を、その翌年には憲法十七条をそれぞれ制定し、国家としての体裁を整えています。

こういったことは、思いついてすぐに実行できるものではないので、やはり、西暦601年が明治維新にも匹敵する大革命の年だったことの証拠ではないかと思われるのです。

最後に、隋書東夷伝の補足をします。

1.「俀王」について

これは見慣れない表記ですが、隋書東夷伝の俀国条の書き出しが「俀国在百濟新羅東南」(俀国は百済・新羅の東南にあり)となっていて、他に日本に関する記述が存在しないので、「俀国=倭国」であり、「俀王=倭王」であると判断できます。

2.「姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」について

8番目の文字「北」は「比」の誤記と判断するのが一般的で、「姓は天、字は足彦、大君と号す」と解釈して、天皇に対する一般的な呼称と考えることができるようです。

例えば、『日支交通史 上巻』(木宮泰彦:著、金刺芳流堂:1926年刊)という本では、第六代考安天皇・第十二代景行天皇・第十三代成務天皇の諱(いみな)に足彦が使われているので、足彦は天皇の異名であったと論じています。

一方、これを固有名詞とする考え方もあって、例えば『出雲神道の研究 千家尊宣先生古稀祝賀論文集』(神道学会:1968年刊)という本に掲載されている「國號「日本」成立の由来」(村尾次郎:著)という論文では、「阿毎多利思比孤」を「アマタラシヒコ」と読んで、聖徳太子の国家統治権の執行者としての名号であると主張しています。

確かに、当時の政治は聖徳太子がすべてを取り仕切っていたと思われますから、この可能性も無視することはできないのかもしれません。

この場合、聖徳太子の妻の名前は菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)なので、「王妻號雞彌」(王の妻はキミと号す)という記述とも整合することになります。

3.「利歌彌多弗利」について

古代の日本語にはラ行の音で始まる言葉は存在しなかったので、先頭の「利」は「和」の誤記と判断するのが正しいとされ、これを「わかみとほり」と読むことができます。

ところで、『大日本国語辞典』を見ると、「わかんとほり」という単語が載っていて、意味は「皇室の御血統」とされています。

わかんとほり

ここで、「わかんとほり」を「わかみとほり」の音便だと判断すると、西暦600年当時は「皇太子」を意味していたものが、時代を経て意味が変化したのではないかと推測できます。

つまり、「みとほり」(御通り)が「皇室の御血統」で、それに「わか」(若)を付加して「皇太子」を意味していたと考えられるのです。

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皇紀について

2023-12-24 09:04:53 | 古代の日本語

前回、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一したと書きましたが、戦前に使われていた皇紀では、神武天皇が即位した年を西暦の紀元前660年と定めていました。

そのため、私の主張に対して違和感を感じる人がいるかもしれませんから、皇紀が定められた経緯をご説明したいと思います。

『暦と占いの科学』(永田久:著、新潮社:1982年刊)という本によると、日本で初めて暦を採用したのは西暦604年で、中国の暦法を輸入したそうです。

中国では、十干と十二支の組み合わせで年数を数えていたので、10と12の最小公倍数である60年で同じ干支が繰り返されることになります。(十干については本ブログの「あ行の「え」のまとめ」をご覧ください。)

【十干と十二支の組み合わせによる年数の数え方】

干支 番号 干支 番号 干支 番号 干支 番号 干支 番号 干支 番号
甲子
1
甲戌
11
甲申
21
甲午
31
甲辰
41
甲寅
51
乙丑
2
乙亥
12
乙酉
22
乙未
32
乙巳
42
乙卯
52
丙寅
3
丙子
13
丙戌
23
丙申
33
丙午
43
丙辰
53
丁卯
4
丁丑
14
丁亥
24
丁酉
34
丁未
44
丁巳
54
戊辰
5
戊寅
15
戊子
25
戊戌
35
戊申
45
戊午
55
己巳
6
己卯
16
己丑
26
己亥
36
己酉
46
己未
56
庚午
7
庚辰
17
庚寅
27
庚子
37
庚戊
47
庚申
57
辛未
8
辛巳
18
辛卯
28
辛丑
38
辛亥
48
辛酉
58
壬申
9
壬午
19
壬辰
29
壬寅
39
壬子
49
壬戌
59
癸酉
10
癸未
20
癸巳
30
癸卯
40
癸丑
50
癸亥
60

したがって、何かの歴史的事件が60年前に起こったのか、それとも120年前だったのか、あるいは600年前だったのか、この数え方では区別がつきません。

また、暦を輸入する際に、暦に関する伝説も日本に伝わったのですが、中国では辛酉(かのととり)の年には革命が起こるという伝説があり、さらに、21回目の辛酉の年には大革命が起こるとされていたそうです。

そのため、西暦604年からもっとも近い辛酉の年である西暦601年を基準に、その1260年前である紀元前660年が大革命の年と考えて、これを神武天皇即位の年としたのだそうです。

そして、これに合わせて歴史を改ざんし、例えば、応神天皇即位の年は庚寅(かのえとら)の年で、これを皇紀930年(西暦270年)のこととしたのですが、実際には本ブログの「年代推定-応神天皇」に書いたように、西暦390年が正しいと考えられるのです。

つまり、皇紀では、応神天皇即位の年を120年も古く見せかけているわけで、具体的には、各天皇の在位期間を、応神天皇は20年以上、仁徳天皇は約67年、允恭天皇は約23年、それぞれ延長していると考えられます。

このことは、それ以前の天皇についても同様で、例えば、第六代孝安天皇の在位期間は102年、第十一代垂仁天皇の在位期間は99年とされていて、明らかに異常な値となっていますから、これらを修正する必要があるわけです。

なお、修正案の一例を本ブログの「彌馬升=孝昭天皇説の検証」に示してありますので、よかったら参考にしてください。

結論として、皇紀には何の根拠もなく、神武天皇即位の年を二世紀の初め頃に想定するのがとても合理的だと考えられるのです。

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