以前、黒住宗忠さんという岡山県の偉人をご紹介しましたが、岡山県にはもう一人有名な偉人がいます。
それは、金光教の教祖の金光大神(こんこうだいじん)です。
この金光大神という名前は、のちに神が与えた名前で、最初の名前は香取源七(かんどりげんしち)、その後、養子に出たこともあって姓名がたびたび変わり、世間では赤沢文治という名前で知られているようですが、戸籍名は金光大陣です。
この人は、江戸時代末期の1855年、42歳のときに喉の病気に罹り、食べることも飲むこともしゃべることもできなくなって瀕死の状態になります。
医者にも見放され、後は神頼みということで、親類の人たちが集まって石鎚蔵王権現に祈念したところ、その中の一人が神懸かりになって、金神(こんじん)という神が現れます。
金神というのは、避けなければならない方位の神だそうで、その方位を犯して家を建てたり旅行をすると、家族七人が死ぬ恐ろしい祟りがある(金神七殺の祟り)とされたそうで、文治さんはこの金神を信仰していたそうです。
また、赤沢家では、文治さんの義弟、養父、長男、長女、次男の5人が20年ほどの間に相次いで亡くなっていて、近所の人たちは金神の祟りと噂していたようです。
金神が出現したとき、文治さんは突然声が出るようになり、自分たちの無礼を素直にお詫びしたところ、金神は命を助けることを約束し、文治さんは十数日のうちに全快します。
なお、金神は後に「天地金乃神」と名乗り、自分が根源的な神であることを知らせます。
その後も熱心に神を信仰した文治さんは、やがて直接神と会話できるようになり、1859年からは神の命により隠居して、亡くなる1883年まで神前に座って、病気や困り事などでやってくる人の願いを神に取り次ぎます。
この取り次ぎによって多くの病人が奇跡的に治ったそうで、例えば、1879年(明治12年)にコレラが大流行(全国で10万人以上が死亡)した際には、「昇天の勢いで人が助かった」と伝えられています。
金光大神は、毎日神前に座って取り次ぎを行なったそうですが、これは想像以上に厳しい仕事で、「生き神」と言われたこの人にしか務まらないことではなかったかと思います。
特にはじめの頃は、参拝する信者が早朝から途切れることがなかったため、早朝から夜更けまで神前に座り、食事も1日1食という状態が長く続いたそうです。
前置きが長くなりましたが、金光教の教えの核心は、「おかげは和賀心にあり」という言葉にあります。
その意味は、人間はみな、おかげのなかに生かされており、心の真(まこと)によって受けるおかげの量が変わってくるので、和賀心(和やかで喜ぶ心)になって、心でおかげを受けなさいということです。
つまり、心のあり方次第で病気にもなるし健康にもなるということです。もし、がんになったことさえ喜べる心になったならば、がんは自然に消えていくのではないでしょうか。
【金光教のまとめ】
◆教祖の生没年:1814年-1883年
◆数えで42歳の厄年に大病を患い、神に救われる
◆従来の迷信を明確に否定
物忌、方位方角、日柄、出産の穢れ、その他諸々
◆金光教の教えの核心 - 「おかげは和賀心にあり」
◆「信心の道に入った者は どのようなことがあっても
腹を立てたり 人をのろったりしてはならぬぞ」
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