奈良・佛教大学通信 奈良!奈良!いつもは京都

奈良大通信卒業後佛教大通信へ。日本史を学ぶOLD大学生の記録です。

奈良大学友会 東野治之先生の講演などに行きました

2023-06-19 22:54:00 | 旅行
長らく投稿していなかった。
奈良学友会の行事「悠歩の会」にコロナ禍をはさんで久々参加。悠歩といいながら、午前中は東野治之先生による「聖徳太子」の講演、午後は貸切バスで移動して法隆寺の見学。

久方ぶりの奈良大。


令和館。在学中はなかったような?



大学にいた頃、名誉教授であった東野先生の講義を受ける機会がなかった。なので楽しみにしていた。

講演は聖徳太子の人物像について。若干要約してみる。
日本書紀などにより作られた人物像(一般的イメージ)の確認。
「聖徳太子はいなかった」という説への反証方法。史料批判の必要性と批判から導かれた確証のない結論への反証は、その説に直接加えるのではなく、否定できない確実な史料(法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘など)によることになる。
同一史料から全く異なる解釈が生まれる。
太子像の変転経過とその背景。
太子は天皇の職務の一部を代行、蘇我馬子と共同で推古天皇の政治を助けたとされる。太子は用明天皇の子であるとともに、蘇我氏の深い血縁でもあったが、天皇(当時は大王)中心の政治体制を目指したらしく、十七条憲法の「和をもって尊しとなす」は豪族への牽制を意図したものではないか。
太子は仏教の興隆を導いたが戒律には触れていない。仏教を信仰していたのではなく、当時の日本人の民度を上げようとしたのではないか。
第二次大戦の敗戦後、GHQにより、戦中までの紙幣肖像人物は太子を除いて紙幣から排除された。これは昭和天皇が戦後も地位を失わなかったことと関係している。1921年裕仁皇太子が摂政に就任した。皇族の摂政就任は七世紀以来で太子摂政(当時、摂政という名称はなかったが)への関心が昭和天皇とのダブルイメージに繋がっていた。
東野先生の太子論は、『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア文庫)にまとめていると紹介があった。中高生向けのジュニア文庫なので、東野先生は原稿を、ここはもっと簡単な表現でなどとあれこれ言われ、それでも出来上がり本を「これはジュニア文庫ではなくシニア文庫だ」と言われたと(ここで会場爆笑)。

講演終了して昼食後、2台のバスで法隆寺へ。


長くなったので、見学の様子はまた後日。

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