私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

ちょっとだけ古い京都1~三条通の歴史的建造物

2012年08月06日 | 近代の歴史的建造物

京都には何度も行きました。
特に南禅寺や哲学の道、四条、五条の街並などは大好きな場所です。

今回、たまたま所用で京都を訪れることになり、前泊しなければならないので、
それならと、前の日の朝6時半の新幹線に乗り、京都に入りました。
所用の前にひと歩きです。
今回の歩く旅のテーマは「ちょっと古くて新しい京都を歩く」です。

まずは京都駅上のホテルに荷物を置いて、そのまま三条通りへバスで向かいました。
京都市バス一日乗車券、500円を購入です。

三条通は京都の近代建築が何軒も続けて建てられています。
河原町三条の方角から烏丸通の方に向かって歩き始めました。

⬇ スタート地点




まずは1928ビル(今はレストランが数軒、入っています)
建築の年がとってもわかりやすいビルの名前です。ここは旧毎日新聞社京都支局ビルでした。⬇




設計は関西建築界の父と呼ばれる武田五一です。
武田五一は明治5年生まれ、ヨーロッパに留学して新しいアールヌボーなどの様式を
学んできました。
1928ビルは毎日新聞の社章である星の形が窓にデザインされていますが、、、
私が撮った写真ではちょっと見にくいですね。

⬇ 旧家邊徳時計店 登録有形文化財  明治23(1890)年の建築 煉瓦造2階建、 瓦葺 
この建物は日本で最古の煉瓦石造洋風商店建築で
建築資材は煉瓦、その他すべてをドイツから輸入したそうです。




いい味わいのでている明治のちょっと古いビルディングです。


⬇はSAKURAビル。(旧不動貯金銀行京都支店)富小路道
このビルは、日本近代建築の基礎の部分を担った辰野金吾の作品です。
(http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/5e31f89c1aba6b3f0e83296955176df6
「プリンセストヨトミと辰野金吾の遺産」5/21のブログを参考にしてください)
辰野金吾はジョサイア・コンドルの弟子であり、東京駅などを作りました。




⬇このがっしりとした造りを見てください。「辰野堅固」とあだ名されたように
重厚な玄関です。







⬆ビル中の階段、1906年の建造です。
この建物は煉瓦と木造のハイブリッド構造の珍しい建物だそうです。

SAKURAビルからちょっと歩くと日本生命京都三条ビルがあります。柳馬場通
1914年の建物で、内部に鉄骨が入っており、耐震性のあるれんが造りとなっています。





京都文化博物館別館はもともとは旧日本銀行京都支店でした。
「私は東京駅、日本銀行、国会議事堂を作ってみたい。」と語った辰野金吾の設計です。
竣工は1906年。
⬇赤い煉瓦に白い石のラインがトレードマークの辰野式です。




正面玄関に特徴がありますよね。扉の厚み、聞くの御門をあしらった金具などもあるそうです。
⬇(残念ながら当日は月曜で、休館日でした!)





⬇東洞院通の中共郵便局です。
1902年、明治時代に第一次、第二次国会議事堂をドイツ人建築家のアドルフ・ステヒミューラー
と共に設計した吉井茂則の作った建物で、現在も郵便局として
使われています。「ファサード保存」という外観を残し内側を改築する特殊な
施工をされ、大切に保存活用されています。





途中、こんな古い建物も三条通に発見!創業1864年
⬇分銅屋足袋



最後は烏丸通を越えたところにある文椿(ふみつばき)ビルヂング
1920年の竣工です。ビルヂングやふみつばき、という名がレトロな感じですね。





フミツバキビルヂングの正面はお茶の伊右衛門の喫茶店でした。
おしゃれな感じです。







三条通は明治大正期には、金融機関、保険会社が立ち並び、重厚な厳めしい感じが漂っていたようですが、
現在は近代建築物の宝庫として、
「人が歩く街」として整備されているようです。
ただ、残念なのは電線が多く、建物の写真を撮るのに苦労します。
今後、電線を地下に通すなどの整備が行われるといいのですが、、、。





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人生は不公平

2012年08月05日 | 旅日記


「人生は不公平かな、って思うことがあります。」
岩手県の大船渡線沿線のある高校の男子生徒が言ったことばです。

この高校は昨年の2倍の就職希望者がいます。
東日本大震災で生活の根底から覆されてしまった人たち。
進学したくても進学ができません。

もう見るからに野球部、という高校3年生が言いました。
「英語が大好きなんです、だけどこれからは英語を勉強できるかわかりません。」

「えっ、そうなの?」
「はい、川崎の工場に就職することがだいたい決まりました。
3交替だから、、、。」

「あの、川崎ってどんな感じですか?」
彼の質問の素朴さに、、、ちょっと心が辛くなりました。

でも、彼には
人生は不公平かな、って思っても、それを覆す忍耐力がある、
と思うのです。
それに「体力と健康には自信があります!」と
大きな声で答えていました。

彼のがんばりに期待!
でも、心配です。
親元を離れての初めての都会暮らし
負けないでほしいな~と思います。



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"Do Your Best and It Must Be First Class" ~最善を尽くし一流たるべし~

2012年08月04日 | 歴史おもちゃ箱


山梨県清里の清泉寮は高校時代から時々訪れているお気に入りの場所です。
ここはポール・ラッシュ博士が、第2次世界大戦で破綻した日本を再建するため、八ヶ岳山麓の農村をモデルに、
酪農を中心とした高冷地農業を全国に広めました。
現在は公益財団法人キープ協会となっているそうです。

2年前、キープ協会の主催したサンライズツアー(午前4時スタート)に参加した時の写真を
見つけました。
⬇は清泉寮前です。



暗いうちに出発、ハイキングをします。



夜が明けてきます。




ポール・ラッシュ博士は1925年、関東大震災で破戒された聖路加国際病院再建のために
アメリカで募金活動を積極的に行い、現在価額で約100億円を募金したと言われています。

ポール・ラッシュ博士は、28歳で来日してから、82歳で亡くなるまで、
生涯をかけて日本の社会事業に身を捧げました。
"Do Your Best and It Must Be First Class"は、博士が無償の奉仕で社会事業に取り組んだ際の心構えであり、
日本の若い人たちに残した教えの言葉として有名です。

実はこのことばを博士に贈ったのは聖路加国際病院を創立したトイスラー先生です。
(昨日のブログ記事を参考にしてください)

トイスラー先生はポール・ラッシュ博士の19歳年上です。
彼は

「ラッシュ君、もし君が主イエスの名において事業に取り組むのであれば、君は最善を尽くさなければならない。
しかも、それは人々が目標とし、まねができるよう、本物の、一流の仕事でなければならない。」

と語ったそうです。

この言葉は、「人が一生において取り組むべき事業は、金や栄誉のためだけではさもしいものになってしまう。
正義のために、そして他の人々の向上のためになるよう、最善をつくしなさい、」という意味で、
トイスラー先生は若きポール・ラッシュ博士への励ましとして授けられたのだそうです。


"Do Your Best and It Must Be First Class"

そして
“Let the work go on.”

日本の若い人たちへの熱いメッセージだと思います。

参考文献
http://quilt.slcn.ac.jp/lukapedia/index.php/トイスラー
http://www.keep.or.jp/ja/discover/qa.html キープ協会


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佃島、石川島、築地 2 “Let the work go on.”

2012年08月04日 | 旧居留地

佃島、石川島を一回りして、佃大橋を渡り築地に入りました。




築地(中央区明石町)は明治時代、外国人居留地のあったところです。
築地居留地の特徴は宣教師と学校発祥の地、ではないでしょうか。
たくさんの学校がこの地で宣教師によって創設されました。

中央区教育委員会の説明によると




築地居留地跡
所在地 中央区明石町地域
江戸幕府は安政五年(一八五八)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、
横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。
居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。
江戸(東京)の開市は明治元年(一八六八)、明治政府になってからで、
この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。
築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、
海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行ったため、
築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。
(略)
平成十五年三月
中央区教育委員会




築地の居留地には教会関係者や学校関係者が多く集まったようです。
例えば、聖路加国際病院は現在の築地でとても有名ですが、明治33年(1900年)に来日したアメリカ聖公会の医療宣教師
R・B・トイスラーが創立した病院です。

トイスラー先生は若くて(来日時24歳)長身でハンサム、今で言う「イケメン」ドクターだったようです。
冒険心と好奇心に富み、(それでなくては日本に来られません)
非常にてきぱきとした性格であったそうですが、一方で激しやすく短気な熱血漢、
いったん目標を定めたら一途に邁進するタイプ、だったそうです。

彼は医療宣教に邁進しました。
日本やアメリカで寄付金を集め、病院の他に看護学校を明治37年に発足させます。
その後隅田川沿いに4000坪の土地を購入します。

しかし、関東大震災で病院や学校は崩壊。
アメリカの赤十字本社やロックフェラー財団、アメリカ聖公会に復興の支援を求めました。
トイスラー先生の前へ前へと突進する活動により
2年後、ロックフェラー財団より40万ドルの援助を得ることができました。

医療伝道一筋に進んだトイスラー先生ですが、58歳の時に急逝します。
彼の臨終の時のことばが “Let the work go on.” だったそうです。
どんなふうに訳すか、それは読んだ人に任せられていますが、、、、。
トイスラー先生の意思、決意、目的、をよく表している感動的なことばですね。

⬇はトイスラー先生を記念して作られたトイスラー記念館。





トイスラー記念館の玄関にあるプレート⬇








さて、築地はその他にも、関東学院(以前のベンネット先生の記事を参照してください)⬇



慶応大学⬇






女子学院⬇




立教女学院⬇



立教学校⬇




などが生まれた街です。


佃島、石川島とは全く異なる外国人居留地があった
西洋文化を脈々と伝える街だということが、歩いてみるとよくわかります。



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