私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

横浜旧居留地を歩く 洋風建築を訪ねて

2012年11月11日 | 旧居留地

急に思い立って横浜へ行くことにしました。
使うのは『横浜One Dayきっぷ』京浜急行の出しているお得な切符です。

これまでも横浜には何度も行っていました。
自宅からだいたい40分、乗り換え無しで着きます。
でも目的が「横浜ベイスターズ(今は名前が違いますね)」だったり
中華料理だったり、、、。

今回はただただ旧居留地を歩く、ということで向かいました。
まずは港の見える丘公園へ。
函館、長崎、神戸の居留地も海から丘を登った高いところに
外国人の住んだ家がありますが、横浜もまた坂の上に洋館が点在しています。



昔はもっと大きな海が見えたのでしょうけれど、、、、港の見える丘公園からの眺め⬆

そのすぐそばはフランス山と呼ばれていたところで、
生麦事件後、フランス領事館が置かれ、最大で300名あまりのフランス兵が駐留していたといいます。

今は2度の火災を経て、廃墟となっています。



赤い風車が見えますよね。煉瓦作りの井戸から水をくみ上げていたようです。
もちろん、作り直したものですが、そばに井戸の跡がきれいに残っています。
覗いてみると、けっこう深い、、、2、30mはありそうです。

次に山手111番館へ。



大正15年にアメリカ人のラフィン氏が注文したスペイン様式の洋館で
設計は当時横浜で活躍していたJ.H.モーガンです。
横浜市が平成6年に敷地の寄贈を受け、その後保存、改修工事を行って平成11年より一般公開しているそうです。 




内装やインテリアは本当に素敵で、
いろいろ参考になる(我が家みたいな小さな家でもこんなふうにできるかな~と思える)ところがあります。


111番館のお隣は横浜市イギリス館です。




昭和12年に建てられた英国総領事公邸です。
正面玄関





丸窓がかわいらしい感じがします。




玄関の横には王冠入りの銘版(ジョージ6世時代)が歴史と由緒正しいイギリス領事館だったことを照明しているようです。
1937という年号も見えますね。





次に山手資料館の前を通り⬇





山手聖公会 こちらもJ.H.モーガンの設計です。⬇







聖公会の教会堂のすぐ先にエリスマン邸があります。




萌葱色の可愛い外観です。
大正14年から15年にかけて建設されたもので、設計はアントニン・レーモンドです。
当時は和館付の洋館でした。
チェコ出身のアントニン・レーモンドは『日本の現代建築の父』と呼ばれ、
日本各地にたくさんの優れた建築を残しています。⬇





サンルームも窓が大きくて光がいっぱい入ってきます。





エリスマン邸の隣はベーリック・ホール(旧ベリック邸)⬇



この地域最大の洋風建築です。
昭和5年に建築され、その後カトリック・マリア教会、そして平成12年までセントジョセフインターナショナルスクールの
寄宿舎として使われていたそうです。

ホールにはグランドピアノが置かれ、各種のコンサートや集まりに使うことができます。




正面玄関。



玄関ドアの装飾が見事です。




設計は山手111番、山手聖公会を設計したJ.H.モーガンです。


フェリス女学院の横の道をまっすぐ進み、カトリック教会を越え、→の通りに行くと
外交官の家に出ます。
この辺りは石畳の歩道。ちょっぴり歩きにくいですが、、、函館も長崎もこんな歴史ある
石の道が続いていました。




外交官の家は、本当に日本政府の外交官だった内田定槌氏の邸宅で、もともとは渋谷区南平台にありました。
立教学校をはじめとする数々の洋風建築を作ったJ.M.ガーディナーの設計で、明治43年に建設されました。
内田氏のお孫さんからこの館の寄贈を受けた横浜市が、平成9年に南平台から移築したそうです。

山手地区唯一の国指定の重要文化財です。





この館に入って目を見張るのは至る所にあるステンドグラスです。










内装も素敵です。




玄関脇のお供の人が待つ部屋。
右側の小さな扉が特徴的です。
正面の写真は設計者のガーディナーの写真です。





外交官の家のお隣はブラフ18番館です。



かわいらしい窓とガーデニング。




ここは山手です。今はビルがたくさん見えますが、きっと以前は海が見えたのでしょうね。
遠くに見えるのはフェリス女学院の校舎です。
何となく、長崎旧居留地の活水女子学院を反対側の山手から見ているようです。




さて、その後、足が棒のようになっていましたが、
神奈川県庁






横浜開港資料館には閉館30分前に入り、さらさらと一周。
もう一度時間を作ってゆっくり見たい資料館です。




資料館の隣の日本最初の日本人のためのプロテスタント教会、横浜海岸教会も見ました。
すでにライトアップの時間になっていました。




夕方5時半
そろそろ夕食の準備に帰らなくちゃ、ということで、
とりあえず1回目の横浜旧居留地の旅を終わりにしました。

最後は横浜大桟橋から見た夕景。横浜らしいですよね。







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長崎居留地を歩く 1

2012年10月23日 | 旧居留地

長崎の居留地研究会全国大会に2泊3日で参加しました。
この全国大会には日本全国の5つの居留地から会員の方が集まってきました。
会場は普段は勝手に見学できない旧居留地の中にある「活水女子学院」です。



当日は長崎市民100名以上も参加されたということで、
長崎市をあげての「全国大会」であったのではないでしょうか。
大会の裏側で準備をされた長崎居留地研究会のみなさまの努力とエネルギー
素晴らしいものでした。

実は今年の8月、始めて長崎の居留地を歩いた時に、
オランダ坂のところにある13番館という洋館で休みました。



オランダ坂セットという、コーヒーにロールケーキがついたものを頼んだのですが、
由緒ある建物で休憩できて、本当に疲れが取れました。
(その日はとっても暑かったのです!)



そのときに話しかけてくださったのが、長崎居留地研究会のYさんでした。
『今年は長崎で居留地の全国大会があるんですよ.』と教えてくださったので、
『それならぜひ参加したい。』と応えると
さっそく、全国大会の準備の中心になっていらっしゃるKさんに、携帯で連絡をしてくださいました。

あっという間の連携プレーでした!

それから3ヶ月、私は東京の築地居留地研究会の会員として、長崎の大会に参加しました。
まさにYさんとKさんとの出会いがなければ、2度目の長崎はなかったと思います。



(写真を撮ってくださったのがKさんなので、⬆はYさんと私)

また、8月に来た時に
長崎居留地研究会の会長であるブライアン・バークガフニ先生(長崎総合科学大学教授)の書かれた
『霧笛の長崎居留地 ウォーカー兄弟と海運日本の黎明』長崎新聞社刊』を買って、ちょうど読み終えたところでした。



http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/2006/03.html

紹介文⬇

「三菱の大型蒸気船の船長として
明治維新から海運日本の草創に貢献した
英国人のウォーカー兄弟。
やがて長崎の外国人居留地を拠点に
事業で成功を収めるが、歴史の大波に翻弄されて―。
彼ら家族の波乱の生涯を新事実をまじえ紹介。」


さて、このバークガフニ先生の大会基調講演『長崎における日英の出会いと居留地の誕生』は
とてもわかりやすく、長崎居留地の魅力を十分に伝え、さらに興味を持たせる講演でした。
この講演を聴くだけでも、東京から参加したかいがありました。

2日目は
エクスカーション。
長崎居留地研究会の会員の方々が特別な居留地のコースを案内してくださいました。
⬇はKさんが編集したエクスカーションコースマップです。



さて、
私は幸運にもバークガフニ先生のいらっしゃるグループだったので、著作にサインもしていただきました。
いいことばかりですね!



コースは
旧香港上海銀行長崎支店集合、



その後、8月には立ち入り禁止(耐震工事のため?)になっていた旧イギリス領事館の中に入りました。








オランダ坂を上がって、東山手12番館で休憩。





⬆活水女子学院を創設したラッセル女子の使っていた聖書。

坂を上がり切ったところにある日本聖公会のチャニング・ウイリアムス司教の住居跡。⬇





英国聖公会会堂碑跡⬇



⬆この左側の民家のあたりだったそうです。

旧英国領事館坂道 海星学園のあたりだそうです。⬇



明治時代から全く変わっていない坂道(海星学園の中)⬇






南山手27番館





坂を下ると



ウォーカー家跡 表札だけですが、カタカナでウォーカー と読めます。



その後、祈念坂のところに出て、
大浦天主堂(国宝)で解散となりました。


8月に歩いた時とは違い、長崎居留地研究会のメンバーでさるくガイドの方、バークガフニ先生のコメントが
至る所であり、一人もいいのですが、
やっぱりガイドさんがいると歩き方が深くなるな~、と実感しました。

さて、長くなりました。
続きは次回にしたいと思います。

8月の記事は下記です。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/m/201208 長崎チャンポンで始まる居留地の旅
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/d/20120903 旧香港上海銀行長崎支店~影と光の建築家
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/d/20120908 洋館で一休み オランダ坂ケーキセット


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外国人居留地研究会全国大会in長崎2012

2012年10月20日 | 旧居留地

まだまだ函館のことについて書きたらないのですが、
函館から帰って、次の週に沖縄に行き、今長崎にいます。

実は明日から長崎で日本の中にある6つの居留地の代表や会員たちが集まって
「第5回外国人居留地研究会全国大会in長崎2012」が開かれるのです。



案内パンフレットによると

今大会は「異文化の出会い-居留地における伝道・外交・貿易」を共通テーマに掲げ
基調講演ではブライアン・バークガフニ長崎居留地研究会会長からイギリス(人)との
交流を中心にお話しされる予定です。
次に、各地の代表者が研究活動について報告します。
そして、パネルディスカッションでは、これらを受けながら、
当該テーマである「異文 化の出会い―居留地における伝道、外交、貿易」
についてのディスカッションを深めるとのことです。
特に、居留地の多角的な交流(日本人と居留地人、居留民間のコミュニケーション、
居留地間のネットワークなど)「人の交わり」に焦点を当て、
第 2 にこの議論の上に、 国や、国境を越えて交わる「人際交流」の重要性に
焦点を当てるということのようです。

さらに楽しみがふたつ。
こんな状況の中、上海から租界の研究をしている中国人教授が加わることです。
私は、上海と天津、青島などの疎開を歩きましたが、
日本疎開だけは中国の街に同化してしまい、特徴があまり残っていません。
ちょっと興味のあることだけに、楽しみです。

また、今回おシンポジウムの会場は活水女学院。
歴史的建造物のある女子大で、普段はキャンパスにはいることができません。
それを見るのも楽しもの一つ。




今日は長崎港そばの格安ホテルの泊まっています。
時々船のきて木が聞こえてくるのが、何とも異国情緒たっぷりの長崎に
ぴったりです。


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ハム・ソーセージマイスター カール・レイモンの人生と味

2012年10月11日 | 旧居留地

函館ハリストス正教会(国指定重要文化財)



カトリック元町教会(函館市伝統的建造物)



函館製ヨハネ教会など元町エリアを歩いていたら、もう午後1時半になってしまいました。

そこでたまたま(奇跡的に)見つけたのが、こんなクラシックなお店。




中でホットドックやサンドイッチなど軽食を食べることができます。⬇



この、たまたま入ったお店はハム・ソーセージのドイツ人マイスター、カール・レイモンのお店でした。
カール・レイモンのソーセージを食べたら、これまで美味しいと思っていたソーセージが
ぼそぼそとしたはりのない味に感じられてしまいます。



ソーセージセット⬆

これ、味音痴の私が『ん、美味しい!』と久しぶりに感じた味です。
あまりに美味しかったので、お店の2階にあるカール・レイモンの記念館も見学しました。
そこでまたまた、彼の波瀾万丈の人生にびっくり!です。

1894年3月28日、ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)のカルルスバ-トという町で、生まれるた
カール・レイモンの父は4代続いた食肉加工のマイスターだったそうです。
父の白いエプロンにつかまって仕事場に入ったレイモンは、ハム・ソーセージができあがる工程を
来る日も来る日も飽きることなく眺め続けていたそうです。
父がレイモンを友人のマイスターのもとへ送り、ハム、ソーセージの本格的な修業を始めたのは14才の時だったといいます。
14歳で一生の仕事を決めるなんて、すごいことですよね。

その後、レイモンは18歳の時に独り立ちするまで、厳しい修行を重ねます。
故郷を離れベルリン、フランス、スペインで修行を重ね、帰国後マイスターの資格を取ります。

第一次大戦後にはレイモンはアメリカに渡り、3年間の期限付きで大量の缶詰の技術を学ぶのですが、
アメリカからヨーロッパに戻る帰途の1919年、日本に立ち寄ります。
そこで偶然にも東洋缶詰の重役を紹介され、日本にハムソーセージの技術指導をするため
函館に赴くことになります。

1920年から1年、函館に住むことになり、レイモンは勝田旅館に滞在しましたが、そこで
生涯の伴侶となる勝田コウと大恋愛をします。
予期せぬ出来事なのか、運命だったのか、、、ふたりの交際はコウの両親に大反対されてしまいます。
コウは思い詰めますが、レイモンの情熱とふたりの若さと強さゆえ、
大正11年(1922年)別々に日本を出国、コウは下関から釜山に渡り、天津でレイモンと再開します。
今の時代でも国際的な駆け落ちは相当勇気のいることだと思うのですが、
ふたりはそれをやってのけてしまいます。

その後、苦労して上海でドイツ行きの旅券を発券してもらい、レイモンの故郷で結婚します。
しかし、その3年後、レイモンが函館に帰る、と言い始めます。
「知らない土地で神経を摩り減らす私の姿を見ていた主人は、自分が“異国人”になったほうがいい、
きっとそう思ってくれたのだと信じています」とはコウのお話。
1925年、レイモン31歳、コウ26歳のときです。

それからずっとレイモンとコウは第2時世界大戦も乗り越えてハムとソーセージを作りました。
自宅横の工場の入口には「北海道創始者仕事場(HOKKAIDO PIONEER'S WORKSHOP)礼門」の看板を立て、
ここでレイモンはドイツ伝統の製法によるハム・ソーセージづくりを守り続けました。
すでに日本に来てから50年の月日が経っていました。

レイモンは日本の国民の食生活に変化を持たせ、健康を維持できるような改善をしたいと願っていました。
また、北海道畜産開発プランを北海道庁に何度も提出します。
信念を貫き通す強い意志を持った人なのですね。

レイモンは
1974年、西ドイツのハイネマン大統領から、日本とドイツの友好に関する彼の長年の努力を称えられ
「功労勲章十字章」が贈られました。
1979年は、財団法人サントリー文化財団が設けた第1回地域文化賞の優秀賞に選ばれ
1985年11月、「北海道新聞産業経済賞」を受賞。
さらに横路北海道知事から「産業貢献賞」の授与を受けました。
そして1986年5月、長年の日本の畜産業への貢献により、「勲五等双光旭日章」を受賞したのです。

1987年12月、レイモンは93歳で亡くなりました。
波瀾万丈の人生でしたが、最後までドイツ人マイスターとして、強い意志を持って生きた人でした。




レイモンの手です。⬆


『私がずーっと心がけてきたことは、ただまじめに働くことですよ。
そして私の作ったハムやソーセージを喜んで食べてくれる人が一人でもふえるのですからね。
これはお金では買えないものね。
だから羅私は、胃袋の宣教師だと思っているんですよ.』

『花を見ればわかるでしょう。
花の色は中から出てきます。
人の健康も体の中から出てくるものなのです。』


参考文献
カールレイモン歴史展示館 パンフレット
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/reimon.htm
http://www.raymon.co.jp


さて、私は函館駅で、カールレイモンの製品を買ってクール宅急便で東京に送りました。
宅急便の女性スタッフが
『このソーセージを食べたら、他のソーセージは食べられませんよ。
私の息子なんて、ホントここのしか食べませんから.』
ですって、、、。

愛されていますね、カール・レイモン。




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夫妻は函館にイギリスの心を運んだ~旧イギリス領事館

2012年10月07日 | 旧居留地

函館の街は市電でのんびり、ガタゴトと回るのがいいみたいです。
朝、さっそく一日乗車券を買い、歩く旅に出発。



可愛い市電ですよね。そう言えば、長崎居留地も市電が便利でした。



まずは函館の旧イギリス領事館に行ってみることにしました。
函館どっく前行きの市電に乗って、末広町で降りました。
すぐ目の前の建物が⬇



創業は文久3年(1863年)相馬哲平氏が米穀商として開業した北海道屈指の老舗企業だそうです。
現在の若草色の建物は大正2年竣工、今も相馬株式会社の社屋として使われているそうです。


基坂を元町公園の方に上っていくと、途中にイギリス領事館があります。






最初の領事館は安政6年(1859年)にできたそうですが、
その後、残念なことに何度か火災に遭い、
現在の建物は大正2年(1913年)のものだそうです。



領事館の中は現在『開港記念館』になっていて、函館開港当時にタイムスリップできるとのことですが、、、。
例えば、こんな感じ、、、。⬇
顔を出しているのは私です。




第3代のリチャード・ユースデン領事は函館を愛し、彼のできる範囲で精一杯の貢献をし、市民に愛された領事として有名です。
初めて函館に着任したのは文久1年(1861年)でその後、慶応3年に再度函館に着任、明治13年(1880年)まで滞在しました。




ユースデン夫妻は、函館駐在中、公園の必要性を説き、理解させ、函館公園の開園に力を尽くしたそうです。
函館市民がのびのびと休める場所を整備しようとしたのですね。
当時、公園は日本全国、どこにもあまり見当たらなかったのではないでしょうか。

「公園とは病人に病院が必要なのと同様に、健康な人にも養生所が必要である」というのが領事の強い気持ちだったようです。
公園の工事は資金難で中断の恐れもありましたが、函館の役人、市民、近郊の農民等がボランティアとして工事に参加し
明治12年11月3日、函館公園開園しました。
きっとユースデン領事の信念が周りの人々に次々と伝わっていったのでしょう。

明治10年、友人の渡辺熊四郎が経済的に学校へ行くのが難しい子どもたちのために
無月謝の鶴岡学校を開設した際もユースデン夫妻は協力し、毎年25円の維持費を寄付し、
函館駐在が満期となって帰国した後も、2年間送金を続けた、ということです。
渡辺熊四郎はもともと九州の人でしたが、長崎貿易に係わっていたことから北海道に移住。
海産物の商売から始めて、一代で北海道一と言われるほどの身代を築いた人です。
しかし、彼はお金を稼ぐことだけに自分のすべてを注いだわけではなく、
学校や公園、病院等の公共事業にも非常に熱心でした。
そんなところがユースデン領事と気があったところなのでしょうね。



写真は領事の事務机です。
⬇の写真はユースデン領事が執務室から函館の街を見渡す様子です。



等身大であるこの像は身長160センチ。
ちょっと小柄なことから、『豆領事』というあだ名がついていたそうです。
領事が見たであろう、執務室から見た函館の街並です。⬇




領事館の中にはユースデン夫妻の居室もあったそうです。









アンティークなデスク。⬆


さて、聡明な領事には似たような奥さんがそばにいました。

明治時代、洋服の普及に伴い、西洋式の洗濯技術が入ってきました。
函館では「女紅場(じょこうば)」という遊郭で働く女性のための技術指導と学業の場を目的として
明治11年函館蓬莱町に開設された施設です。
和洋裁や和洗濯などと共に西洋洗濯が指導の科目とされましたが、指導者がいないためほとんど行われなかったということです。

この様子を知ったユースデン夫人は自宅(領事館)で西洋洗濯の方法を教えました。
その後、明治13年1月26日、会所町(現・元町)に「西洋洗濯伝習所」を開所し、
ユースデン夫人に西洋洗濯の手ほどきをしてもらうこととなりましたが、
同年10月領事と共に函館を離れ、この伝習所も翌14年1月で閉鎖されてしまうのです。
しかしわずか1年足らずの西洋洗濯講義の開講でしたが、この伝習所は次の女紅場へと引き継がれていったそうです。




さて、明治の大実業家の一人であった渡辺熊四郎は明治25年にロンドンの郊外に住むユースデン夫妻を訪ねたということです。
ユースデン夫妻の住まいの扉には『ホッカイドウハウス』と英語で書かれていたそうです。

ユースデン領事夫妻はもちろんイギリス政府の命令で日本に着任したのだと思いますが、
その仕事とは別に、強い意思を持って日本にイギリス文化を伝えたのだと感じました。



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最初の写真はイギリス領事館の紋章