私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

コンドル先生の弟子、そのまた弟子

2012年07月01日 | 御雇い外国人 建築家

最初の写真は明治時代のイギリス人建築家であるジョサイア・コンドルが作った
重要文化財、旧岩崎邸庭園洋館です。
華麗な造りですね。中に入ると、まるで時代が明治に戻ってしまったような錯覚を覚えます。


私用や美術館見学などで、最近はたびたび東京駅周辺に出没しています。
昨日、丸の内の三菱一号館(レプリカ)を再び訪ねました。
ここを作ったのも明治時代のお雇い外国人、ジョサイア・コンドルです。








ジョサイア・コンドルは明治時代にイギリスから来日、日本の近代建築の基礎を築き、
日本人の優秀な設計者を育てた人です。
彼は、産業革命を経て、急激に発展していたイギリスをあとにして、どうして日本に来たのでしょうか?
あまり才能がなく、極東の果ての日本で一稼ぎしようとして、来日したのでしょうか?
お雇い外国人を調べていると、多少いい加減な考えで、出稼ぎに来たような人もいます。


さて、ジョサイア・コンドルは1852年9月28日にロンドンで生まれました。
ジョサイアのお父さんはジョサイア・コンドル、おじいさんまで、ジョサイア・コンドルという名前でした。
ジョサイアの父はイギリス銀行のエリートサラリーマンで、階級はジェントルマンです。
しかし、ジョサイアが11歳のとき、父が急死、
コンドル家は6人の子どもがいる母子家庭になってしまいました。
ジョサイアは奨学金を得て中学校に進学し、
そこを卒業してから父の従兄弟が経営する建築事務所に見習いとしてはります。

時代は産業革命による技術革新で鉄やガラスの大量生産ができるようになり、
建築技術にも影響を与えていました。
ジョサイアの従兄弟、トーマス・ロジャー・スミスはゴシック建築のスペシャリストでした。
当時、王立建築家協会会員、建築学会会長、
ロンドン大学教授という肩書きを持った建築界の重鎮でした。
温厚誠実な人で、ジョサイアは働きながら美術学校に通わせてもらい、
デザインのセンスをも磨きます。

5年後、独り立ちをすることになり、スミスの建築事務所を辞め、
建築家ウイリアム・バージェスの事務所に入ります。
ここもゴシック建築では一流の事務所でした。
バージェスの助手をしながら、ジョサイアはロンドン大学の美術講座にも通います。
バージェスはイギリスでは最も早く日本文化に注目したひとりだったそうで、
浮世絵などの日本文化のコレクションも始めていました。
ジョサイアはこのバージェスからも日本についての話を聞いていたに違いありません。

1872年8月、日本から岩倉使節団がロンドンにやってきました。
右大臣の岩倉具視を全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、
正式メンバーは50名、従者を入れると100名の大使節団でした。
ロンドンの人たちを驚かせたのは、この使節団のメンバーのほとんどが20代から30代前半の
青年たちだったことです。
新しい国家を作り上げようとしている中枢のメンバーが若さにあふれる人たちだったのですから、、、。

ジョサイアは当時、超一流の建築家のもとで修行し、勉強を続けた建築のエリートでした。
その後、ジョサイアはイギリスで最も権威のある建築界の新人賞、ソーン賞を受賞します。
ソーン賞受賞でジョサイアには多くの設計事務所からのスカウトが来たそうですが、、、、
なんと、ジョサイアはソーン賞を受賞してから4ヶ月後には日本政府と雇用契約を交わし
日本に向けて旅立ったのです。

もちろん、高給です。月給350円
(年俸4200円、現代で言うと3000万えんぐらいでしょうか。)
その他に住宅金、支度金、旅費などが別に支払われるのです。
しかし、ジョサイアは高給ということよりも、もう一方でその
「身分」に惹かれたのではないでしょうか。
身分は「工部大学校造家学科教師兼工部省営繕局顧問」 でした。

工部大学校の造家学科の教授はジョサイアのほか、わずかでした。
また工部省営繕局は殖産興業を担う場所でしたから、つまりは日本における建築教育と
官営建築事業の責任を負うこととなったのです。
つまり、ジョサイアは日本の建築の基礎を築く、その中心となり、
「西洋の建築技術を極東の国、日本に伝える」役割を担ったのです。


ジョサイアは鹿鳴館(現存せず)を作った建築家として有名ですが、
現存しているいくつかの建物はとても華麗で、繊細なところまでこだわった造りだと思います。








ここからはジョサイアのことをコンドル先生と呼びましょう。

コンドル先生は東京大学工学部の前身、工部大学校(港区虎ノ門)の教師になりました。
その第1期生で、工部大学校を首席で卒業したのが辰野金吾です。
辰野はその後、コンドル先生の故郷、ロンドンに官費(国費)留学、西洋建築の学びに励みます。
帰国後は精力的に仕事に集中し、日本銀行本店、日本銀行大阪支店、京都支店
中央停車場(東京駅)大阪市中央公会堂などを設計しました。

赤煉瓦に白い花崗岩の横縞が見事な調和を見せるデザインは、辰野金吾が得意とした
ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、現在は「辰野式」とも呼ばれています。







⬆の写真は東京駅、⬇の写真は日本銀行本店



写真を見ると、赤れんがの建物はいかにも頑丈そうですよね。
そんなところから辰野は辰野『堅固』と名前をもじってあだ名で呼ばれていたそうです。


話を辰野金吾に戻しますが、彼は九州唐津藩の貧しい武士の子どもでした。
彼の英語の師匠は有名な『高橋是清』で、彼のつてで上京し、工部大学校で
コンドル先生の第1期の教え子として学ぶことになります。
辰野金吾は貧しい下級武士の息子であり、彼を除けば同期生は
みな上席の武士の息子か縁者でした。
ですから、辰野は明治という新しい時代を利用し、
以前の身分を越えて活躍しようというチャレンジ精神、ハングリー精神に
燃えていたのではないでしょうか。

辰野金吾はあるとき、コンドル先生に言います。
『私は東京に3つの建築を残したいと思います。』
「それはなんですか。」
『まず第1に、日本の中央銀行です。次に東京中央駅、
そして最後にいつか開かれるであろう国会議事堂です。』

これらの建物は近代国家を代表する建造物です。
3つの建物を造るということは、まさに国家的事業に必ずや参加したい
という辰野の野心を表しているように思えます。
また、実際にその3つの建物のうち2つを設計し完成させるのです。

コンドル先生をはじめとする御雇い外国人に教育を受けた辰野らは、
日々学び、技術を身につけ、経験を積んでいきました。
彼らが成長するにつれて、当然の流れかもしれませんが、
日本の国家的事業は次第に外国人の手から離れていきました。


さて、最後に下の写真ですが、日本銀行本店のドアです。
頑丈そうですね。
もちろん辰野『堅固』の作品です。






次はコンドル先生の弟子の辰野金吾の弟子、山下啓次郎の建築物を見てみましょう。
最近、行ったばかりの名古屋市市政資料館です。





設計者の山下啓次郎を調べてみました。
鹿児島県の薩摩藩士山下房親の次男として1867年(慶応3年)に生まれた啓次郎は
1876年(明治9年)上京して第一高等中学校を経て帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)へ進み、
辰野金吾のもとで、建築を学びました。


市政資料館は
「煉瓦造及び鉄筋コンクリート3階建の洋風建築で、
煉瓦積みの壁に白い花崗岩の外壁を持つ。屋根小屋組は木造。
内部の中央階段室はステンドグラスの窓や漆喰塗り・マーブル塗りによる仕上げが施された
「ネオ・バロック様式」を基調とする。




設計は司法省営繕課(工事監督)で、山下啓次郎(工事計画総推主任:司法技師
(参考:山下啓次郎はジャズピアニスト山下洋輔氏の祖父))
及び金刺森太郎(設計監督工事主任:司法技師)が担当した。
煉瓦造としては最末期の大規模近代建築であり、
現存する控訴院庁舎としては最古のものということもあって1984年5月21日に重要文化財の指定を受けた。
日本全国に8つ建設された控訴院の建物のうち、現存するのは名古屋と札幌のみである。

とあります。

市政資料館、
何となくどこかでこんな感じ見たな~、と考えていたら、「東京駅」に雰囲気が似ているような、、、。
啓次郎の先生は東京駅を設計した辰野金吾なのですから、、、。

その後、啓次郎は警視庁へ入庁、1897年(明治30年)司法省に移り営繕を担当します。
1901年(明治34年)欧米の監獄を視察し、翌年帰国しました。
この市政資料館を除くと啓次郎の主な作品は「監獄」です。
さすが、辰野「堅固」の弟子ですね。

しかし、建物の中は華麗です。






NHKの「坂の上の雲」の撮影でも使われたそうです。



 
旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(1922年、名古屋市東区、現名古屋市市政資料館、国の重要文化財)


ジョサイア・コンドルが育てた建築家たちは、日本各地で素晴らしい歴史に残る建造物を建てています。
「西洋の建築技術を極東の日本に伝える」、その責任を負う、というジョサイア・コンドルのミッションは
ほぼ実現した、と言ってもいいのではないのでしょうか。
素人の私は、そう考えてしまいます。





⬆三菱一号館



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参考資料
http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/52-7-0-0-0-0-0-0-0-0.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋市市政資料館
辰野金吾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
梅渓昇『御雇い外国人~明治日本の脇役たち』講談社学術文庫
万城目学『プリンセス・トヨトミ』文春文庫




近江八幡とヴォーリズ1

2012年04月30日 | 御雇い外国人 建築家
私は、休みを利用して時々、節約旅行に出かけます。
歩く旅がメインですが、季節ごとに売り出される青春18切符の大ファンでもあります。

春、ちょうど桜の咲く頃に、近江八幡に出かけました。
東京から快速電車と普通電車を利用し、静岡、豊橋、名古屋、大垣を経て、7時間かけて近江八幡へ。

滋賀県の近江八幡は1585年(天正13年)に豊臣秀次が八幡山に城を築き、
その城下町として発展しました。
琵琶湖の水運を利用し、近江商人が活躍した商人の街です。

こんなのどかな水郷の街に明治38年2月2日、ウィリアム・メレル・ヴォーリズは英語の教師として
アメリカからやって来ました。
後にヴォーリズ建築として日本の建築界、さらには、医療、教育、製薬に大きな影響を与え
蒼い目の近江商人とも呼ばれたキリスト教の宣教師です。

ヴォーリズは明治13年、アメリカのカンザスで生まれました。
2歳ごろから両親に伴われて長老派の教会に通い、後に洗礼を受けました。
両親とも熱心なクリスチャンで、特に母親のジュリアは自身が海外に行き、キリスト教を
伝道したいと願っていたようです。

ヴォーリズはもともと身体があまり丈夫ではなかったため、7歳の頃、両親は彼のため
気候のよいアリゾナ州に家族で移住しました。
その後、彼の勉強や将来を考えてコロラド州デンバーに移りました。
ヴォーリズはデンバーの高校を卒業すると建築家を目指し、コロラド大学に入学しました。
実はヴォーリズは名門マサチューセッツ工科大学への入学が決定していたのですが、
家族の負担を考え、地元の大学に進んだということです。

大学3年生の明治33年(1902年)、ヴォーリズに人生の転機が訪れます。
彼はコロラド大学の代表として『海外伝道学生奉仕団(SVM)』の
第4回世界大会(カナダ・トロント)に参加しました。
ここで、ヴォーリズは中国の宣教にかかわっていたジェラルディン・テイラー女史の講演を聴きます。
テイラー女史の義父は中国奥地宣教団の創始者であったジェームズ・ハドソン・テイラーです。
彼女は義和団事件を通して多数の宣教師やクリスチャンが殉教したことを話し、
「自ら一切を投げ出して進むべき道を妨げているものは何なのでしょうか?」
と聴く人に語りかけました。

ヴォーリズは衝撃を受けました。
自分が志した建築家になるという夢は、もしかしたら本来担うべき自分の道を
妨げているのではないか、、、と。

この大会後、彼はコロラド大学にもどり、すぐさま、建築科から哲学コースへ転科をしました。
建築家の夢を捨て、海外宣教を生涯の道と決めたのです。


ちなみに、この大会にはのちに関西学院大学を大きく発展させた
カナダ人のC.J.Lベーツも参加しており、ヴォーリズと同じように海外宣教に進む
決意をしました。
(ヴォーリズとベーツ関わりについては、また別の時に、、ということで。)

大学卒業後、ヴォーリズはコロラドスプリングズのYMCAの主事補となりましたが、
明治37年(1947年)にヴォーリズはニューヨークの国際YMCA本部に海外での就職を依頼し、
海外学生奉仕団を通して、日本の滋賀県が英語の教師を求めていることを知ります。
彼はただちに承諾。
翌年明治38年の1月10日には、サンフランシスコから汽船チャイナ号に乗り、
19日をかけて1月29日、横浜港に着きました。
2月2日、17時間の汽車の旅をして、やっと近江八幡に到着しました。

当時、近江八幡の駅周辺は民家や旅館が数軒あっただけで、あとは田畑が広がる場所でした。
24歳の若き英語教師は、その風景を見て唖然としたということです。
「寒い、寂しい、頭痛がする、誰も知っている人がいない、しかしもうここにきてしまったのだ、、、」
と、ヴォーリズは日記に書いているそうです。

彼は近江八幡にあった滋賀県立商業学校の創立から12人目の外国人英語教師として着任しました。

しかし、宣教に燃える若いヴォーリズは、近江八幡に赴任してわずか6日後の2月2日
自宅となった魚屋町元の家で最初のバイブルクラスを開きました。


さて、ヴォーリズのお話は次回に続きますが、、、、

先日近江八幡を訪ねた時の写真を紹介したいと思います。
最初の写真は平成3年に「国重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた街並みです。




上の写真は八幡堀。
時代劇のロケ地としても有名です。



駅から徒歩20分ぐらいのところにみるべき史跡、街並み
ヴォーリズ建築が集まっています。
私は2日かけて、じっくりと街を歩きました。



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参考文献
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/More_HTML/Hosokawa/essa/essay296.html
http://library.kwansei.ac.jp/e-lib/seisho/relation/015/index.html
http://www.ifsa.jp/index.php?GMerrell
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハドソン・テーラー
http://vories.jp/