最初の写真は明治時代のイギリス人建築家であるジョサイア・コンドルが作った
重要文化財、旧岩崎邸庭園洋館です。
華麗な造りですね。中に入ると、まるで時代が明治に戻ってしまったような錯覚を覚えます。
私用や美術館見学などで、最近はたびたび東京駅周辺に出没しています。
昨日、丸の内の三菱一号館(レプリカ)を再び訪ねました。
ここを作ったのも明治時代のお雇い外国人、ジョサイア・コンドルです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/32/9d/ff61a8632f13237a94427dbb00a0df65_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/58/9e/20834e4944584bde24429f617b99649b_s.jpg)
ジョサイア・コンドルは明治時代にイギリスから来日、日本の近代建築の基礎を築き、
日本人の優秀な設計者を育てた人です。
彼は、産業革命を経て、急激に発展していたイギリスをあとにして、どうして日本に来たのでしょうか?
あまり才能がなく、極東の果ての日本で一稼ぎしようとして、来日したのでしょうか?
お雇い外国人を調べていると、多少いい加減な考えで、出稼ぎに来たような人もいます。
さて、ジョサイア・コンドルは1852年9月28日にロンドンで生まれました。
ジョサイアのお父さんはジョサイア・コンドル、おじいさんまで、ジョサイア・コンドルという名前でした。
ジョサイアの父はイギリス銀行のエリートサラリーマンで、階級はジェントルマンです。
しかし、ジョサイアが11歳のとき、父が急死、
コンドル家は6人の子どもがいる母子家庭になってしまいました。
ジョサイアは奨学金を得て中学校に進学し、
そこを卒業してから父の従兄弟が経営する建築事務所に見習いとしてはります。
時代は産業革命による技術革新で鉄やガラスの大量生産ができるようになり、
建築技術にも影響を与えていました。
ジョサイアの従兄弟、トーマス・ロジャー・スミスはゴシック建築のスペシャリストでした。
当時、王立建築家協会会員、建築学会会長、
ロンドン大学教授という肩書きを持った建築界の重鎮でした。
温厚誠実な人で、ジョサイアは働きながら美術学校に通わせてもらい、
デザインのセンスをも磨きます。
5年後、独り立ちをすることになり、スミスの建築事務所を辞め、
建築家ウイリアム・バージェスの事務所に入ります。
ここもゴシック建築では一流の事務所でした。
バージェスの助手をしながら、ジョサイアはロンドン大学の美術講座にも通います。
バージェスはイギリスでは最も早く日本文化に注目したひとりだったそうで、
浮世絵などの日本文化のコレクションも始めていました。
ジョサイアはこのバージェスからも日本についての話を聞いていたに違いありません。
1872年8月、日本から岩倉使節団がロンドンにやってきました。
右大臣の岩倉具視を全権大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、
正式メンバーは50名、従者を入れると100名の大使節団でした。
ロンドンの人たちを驚かせたのは、この使節団のメンバーのほとんどが20代から30代前半の
青年たちだったことです。
新しい国家を作り上げようとしている中枢のメンバーが若さにあふれる人たちだったのですから、、、。
ジョサイアは当時、超一流の建築家のもとで修行し、勉強を続けた建築のエリートでした。
その後、ジョサイアはイギリスで最も権威のある建築界の新人賞、ソーン賞を受賞します。
ソーン賞受賞でジョサイアには多くの設計事務所からのスカウトが来たそうですが、、、、
なんと、ジョサイアはソーン賞を受賞してから4ヶ月後には日本政府と雇用契約を交わし
日本に向けて旅立ったのです。
もちろん、高給です。月給350円
(年俸4200円、現代で言うと3000万えんぐらいでしょうか。)
その他に住宅金、支度金、旅費などが別に支払われるのです。
しかし、ジョサイアは高給ということよりも、もう一方でその
「身分」に惹かれたのではないでしょうか。
身分は「工部大学校造家学科教師兼工部省営繕局顧問」 でした。
工部大学校の造家学科の教授はジョサイアのほか、わずかでした。
また工部省営繕局は殖産興業を担う場所でしたから、つまりは日本における建築教育と
官営建築事業の責任を負うこととなったのです。
つまり、ジョサイアは日本の建築の基礎を築く、その中心となり、
「西洋の建築技術を極東の国、日本に伝える」役割を担ったのです。
ジョサイアは鹿鳴館(現存せず)を作った建築家として有名ですが、
現存しているいくつかの建物はとても華麗で、繊細なところまでこだわった造りだと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/58/9e/20834e4944584bde24429f617b99649b_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/76/563963d709a6623501d07f9a538e34d9_s.jpg)
ここからはジョサイアのことをコンドル先生と呼びましょう。
コンドル先生は東京大学工学部の前身、工部大学校(港区虎ノ門)の教師になりました。
その第1期生で、工部大学校を首席で卒業したのが辰野金吾です。
辰野はその後、コンドル先生の故郷、ロンドンに官費(国費)留学、西洋建築の学びに励みます。
帰国後は精力的に仕事に集中し、日本銀行本店、日本銀行大阪支店、京都支店
中央停車場(東京駅)大阪市中央公会堂などを設計しました。
赤煉瓦に白い花崗岩の横縞が見事な調和を見せるデザインは、辰野金吾が得意とした
ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、現在は「辰野式」とも呼ばれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/56/cce24c51e33fbf1ab5066d4839b877fb_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/12/405474c7d589216fe199a94a7f85529f_s.jpg)
⬆の写真は東京駅、⬇の写真は日本銀行本店
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5e/e1/664eb9a2e9e3b65f6898ae26917b1cf5_s.jpg)
写真を見ると、赤れんがの建物はいかにも頑丈そうですよね。
そんなところから辰野は辰野『堅固』と名前をもじってあだ名で呼ばれていたそうです。
話を辰野金吾に戻しますが、彼は九州唐津藩の貧しい武士の子どもでした。
彼の英語の師匠は有名な『高橋是清』で、彼のつてで上京し、工部大学校で
コンドル先生の第1期の教え子として学ぶことになります。
辰野金吾は貧しい下級武士の息子であり、彼を除けば同期生は
みな上席の武士の息子か縁者でした。
ですから、辰野は明治という新しい時代を利用し、
以前の身分を越えて活躍しようというチャレンジ精神、ハングリー精神に
燃えていたのではないでしょうか。
辰野金吾はあるとき、コンドル先生に言います。
『私は東京に3つの建築を残したいと思います。』
「それはなんですか。」
『まず第1に、日本の中央銀行です。次に東京中央駅、
そして最後にいつか開かれるであろう国会議事堂です。』
これらの建物は近代国家を代表する建造物です。
3つの建物を造るということは、まさに国家的事業に必ずや参加したい
という辰野の野心を表しているように思えます。
また、実際にその3つの建物のうち2つを設計し完成させるのです。
コンドル先生をはじめとする御雇い外国人に教育を受けた辰野らは、
日々学び、技術を身につけ、経験を積んでいきました。
彼らが成長するにつれて、当然の流れかもしれませんが、
日本の国家的事業は次第に外国人の手から離れていきました。
さて、最後に下の写真ですが、日本銀行本店のドアです。
頑丈そうですね。
もちろん辰野『堅固』の作品です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3c/6a/6fc3b36d52a73844c90b8d40f3ef99ae_s.jpg)
次はコンドル先生の弟子の辰野金吾の弟子、山下啓次郎の建築物を見てみましょう。
最近、行ったばかりの名古屋市市政資料館です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/27/0a/7220ec16cfddab31d41607ce792ce62a_s.jpg)
設計者の山下啓次郎を調べてみました。
鹿児島県の薩摩藩士山下房親の次男として1867年(慶応3年)に生まれた啓次郎は
1876年(明治9年)上京して第一高等中学校を経て帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)へ進み、
辰野金吾のもとで、建築を学びました。
市政資料館は
「煉瓦造及び鉄筋コンクリート3階建の洋風建築で、
煉瓦積みの壁に白い花崗岩の外壁を持つ。屋根小屋組は木造。
内部の中央階段室はステンドグラスの窓や漆喰塗り・マーブル塗りによる仕上げが施された
「ネオ・バロック様式」を基調とする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/76/af3e96c6ced6ebab75e41963dd65d10c_s.jpg)
設計は司法省営繕課(工事監督)で、山下啓次郎(工事計画総推主任:司法技師
(参考:山下啓次郎はジャズピアニスト山下洋輔氏の祖父))
及び金刺森太郎(設計監督工事主任:司法技師)が担当した。
煉瓦造としては最末期の大規模近代建築であり、
現存する控訴院庁舎としては最古のものということもあって1984年5月21日に重要文化財の指定を受けた。
日本全国に8つ建設された控訴院の建物のうち、現存するのは名古屋と札幌のみである。
とあります。
市政資料館、
何となくどこかでこんな感じ見たな~、と考えていたら、「東京駅」に雰囲気が似ているような、、、。
啓次郎の先生は東京駅を設計した辰野金吾なのですから、、、。
その後、啓次郎は警視庁へ入庁、1897年(明治30年)司法省に移り営繕を担当します。
1901年(明治34年)欧米の監獄を視察し、翌年帰国しました。
この市政資料館を除くと啓次郎の主な作品は「監獄」です。
さすが、辰野「堅固」の弟子ですね。
しかし、建物の中は華麗です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/d2/7c510c753245208bbeaced99fe9c147d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/40/dc/00ca884f97bab2d160a94ae4ef6ca99f_s.jpg)
NHKの「坂の上の雲」の撮影でも使われたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/30/e0/4fa046f48c0343cb5744801dd91ba5a9_s.jpg)
旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(1922年、名古屋市東区、現名古屋市市政資料館、国の重要文化財)
ジョサイア・コンドルが育てた建築家たちは、日本各地で素晴らしい歴史に残る建造物を建てています。
「西洋の建築技術を極東の日本に伝える」、その責任を負う、というジョサイア・コンドルのミッションは
ほぼ実現した、と言ってもいいのではないのでしょうか。
素人の私は、そう考えてしまいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/1d/17a8a16042bda9b6a02135ee2c257209_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/20/11/6506ad17cf0e4787bf3f7cf343eb9e6a_s.jpg)
⬆三菱一号館
![にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ](http://travel.blogmura.com/walktravel/img/walktravel88_31.gif)
![にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ](http://history.blogmura.com/his_bakumatsu/img/his_bakumatsu88_31.gif)
参考資料
http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/52-7-0-0-0-0-0-0-0-0.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋市市政資料館
辰野金吾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
梅渓昇『御雇い外国人~明治日本の脇役たち』講談社学術文庫
万城目学『プリンセス・トヨトミ』文春文庫