私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

異文化コミュニケーションの達人~玄奘三蔵

2012年05月16日 | 中国の外国人 etc.


中国をめぐる様々なニュースが続いています。
中国ほど歴史的に興味をひかれ、面白く、深い国はないと思うのですが、
最近はちょっと心配ですね、、、。

写真は
シルクロードの調査隊に加わった時のものです。

玄奘三蔵が旅した道をたどる、というものでした。
『西遊記』で有名な三蔵法師は実在した人です。

もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、
経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といったそうです。
ですからたくさんの三蔵がいたはずなのですが、玄奘はきわめて優れていたので、
三蔵法師といえば玄奘のことと、多くの人が考えています。
(私も三蔵=玄奘=西遊記と思っていました、ずっと!!)

玄奘は、今でいえば国際交流の達人だと言えるでしょう。

唐の時代
西域(シルクロード)ではたくさんの国が興っては滅びて行きました。

玄奘はこのとき、30数カ国を旅をしてインドに仏典を求めて向かいます。
西域は広大です。国や地域によって言語が異なりますが、
ことばがよく通じなくても、玄奘は多くの国で大歓迎されました。
玄奘に留まってほしくて、出発を妨げようと画策した王もいたほどです。

玄奘の人柄、コミュニケーション能力は抜きん出ていたのでしょう。

3週間ほどの調査に同行して、学者やその助手,現地スタッフの話を聞いているうちに
私は玄奘が大好きになりました。
真実を求めてそれに真っ向からチャレンジしていく魅力的な人です。

シルクロードは隊商がたどった道ですが、実は『仏の来た道』でもあります。
玄奘はインドから仏典を持ち帰りましたが、他にもたくさんの修業僧がシルクロードを
通りました。
数えきれないほどの仏教の遺跡,石窟が今でも残っています。

例えば、敦煌の遺跡などもすごく有名ですよね。


あ~、もう一度行ってみたいな~。

実は現代でもシルクロードの旅は過酷な旅です。
40代の時には体力も気力もあったのですが、
今は、どうでしょうね~、、、、。

5年前のクチャ、カシュガルへの旅がもしかしたら最後になっちゃうかもしれません。


さて
玄奘三蔵は27歳の時、密出国し、43歳の時仏典を持って帰国します。
実に16年の歳月をかけて、シルクロードを往復したのです。
バスも列車も飛行機も使える現代の旅とは異なり、
砂漠のほとんどを歩いて旅したというのは驚異であり、
奇跡であったといえるでしょう。



敦煌の近くで小さな女の子に聞かれました。
「どこから来たの?」
『日本からよ。』
「日本まで何日くらいかかるの?」
『8時間ぐらいかな~、、、。』

何だか二人の会話の基盤がが微妙に食い違っているのに、
お互い気づいていたような、いないような、、、。

砂漠は砂漠のスケールがあるのだと思います。
玄奘三蔵のスケールかもしれませんね。









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マテオ・リッチ~東西の架け橋

2012年05月02日 | 中国の外国人 etc.


16世紀、日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの名前は
小中学校の歴史の授業にも出てくるので、誰でも耳にしたことがあると思います。

そのザビエルに比べると、同じイエズス会の宣教師『マテオ・リッチ』は
(授業でちょっとだけ触れられたぐらいで)
忘れてしまっている人が多いかもしれません。

ザビエルの伝道活動は戦国時代の日本の社会に大きな影響を与え、
キリシタン大名を何名も誕生させました。
ザビエルはその後、日本での伝道活動から、さらなる伝道のビジョンを与えられました。
それが「中国への伝道」です。

残念ながら彼のヴィジョンが叶う前にザビエルは他界してしまいます。

ザビエルの死から約30年後、中国への伝道を志した宣教師がいました。
それが、イタリア人のマテオ・リッチです。

マテオ・リッチは1552年10月6日、イタリアの東部、アドリア海に面した
Maceratat地方(現在のパルル州)の都市に生まれました。彼の父は薬屋だったということです。



(写真:パルル州の隣のピュオレンツオーネの中世の城)


(イタリアの田園風景)

14歳まで地元のイエズス会の学校で学び、17歳の時に
彼は家族の反対を押し切り、若くしてイエズス会に入会、ローマに。
Collegio Romana などで、ギリシャ語、ラテン語、数学や天文学を学びました。
この時ドイツ人の教師から、幾何学、天文学、数学、地図作製法、日時計、
機械仕掛けの時計、天文観測議などによる、当時のヨーロッパの最先端の技術である
時間と空間観察技法を学びました。

1578年26才のときに、マテオリッチはアジアでの伝道を目指し、ポルトガルのリスボンの港から出航
まずはインドのゴアを目指しました。ここに4年滞在した後、
さらに東を目指しマカオに到着、その後、彼は中国語を学びます。

当時の中国は明の時代で、マカオから広東州肇慶に出発します。
肇慶には8年もの間過ごしました。ここで、リッチは先輩宣教師の
ルッジエリと共にポルトガル・中国語辞典を編纂しました。
これは中国語をアルファベット表記した最初の辞書となり、
1934年にローマのジェスイット派古文書館で発見されました。


リッチは南京に入ります。
リッチは上から圧力をかけて服従させる宣教ではなく、その土地の習慣をよく研究し
中国古来の習俗や人々が信奉する儒教を通してカトリックの教義を教え、
神(デウス)を“天帝”と呼び、儒教とすりあわせながら伝道する道を選びました。
中国名・利瑪竇(Lì Mǎdòu )を名乗り、中国の儒者の服を着て中国人と同じような生活を送り
中国語、中国文化の研究に励みました。

リッチは伝統的な儒教思想はカトリックと矛盾せず、両者は同じだと教え、
中国人の祖先崇拝を容認したのですが、そのため後には典礼問題に発展し、
結果的に中国でのキリスト教禁止に到る原因となっってしまいました。


1598年に、彼はLazzzaro Cattaneo と共にもう一つの中国語・オランダ語辞書を編集しました。
これは現存していませんが、ローマ字表記の発音記号に加えて中国語の抑揚(四声)を
表示した最初の辞書であった、ということです。

一方でリッチはヨーロッパの天文学や数学などを中国の人々に教えました。
リッチが伝えた学問は、ドイツ人の教師から直接教えを受けた、当時の最先端の技術でした。

また、天文や測量に関する書物、キリスト教の教本、ユークリッド幾何学を訳した
『幾何原本』など数学書の中国語訳にも協力しました。
マテオリッチが中国で作った「坤輿(こんよ)万国全図」という世界地図は
とても有名です。

ヨーロッパから送られて来た珍しいおみやげ品を役人に贈り、
中国人との交流を様々な手段を用いて深めるよう努力していました。
その一方で、中国の文化をヨーロッパに紹介し、東西交流の懸け橋としての役割を担いました。


しかし、
リッチの目的はあくまでも中国での正式なキリスト教伝道の許可を得ることでした。
リッチはさまざまな方法で知識層を中心にその支持を増していきます。
中国に来て20年が過ぎた頃、宦官を通じ、リッチはついに念願の皇帝と会うチャンスを得ます。
1601年、リッチは『欧州大使』として万暦帝に持参の時計を献上し、
楽器・クラヴィアータを演奏しました。
万歴帝は彼の話に大変興味をひかれ、彼を紫禁城に3日間引き留めたということです。

このときリッチは、中国でのキリスト教伝道についての許しを皇帝に請い、許可されました。

中国での正式なキリスト教伝道はこのときから始まったのです。

1601年、イタリアを26歳であとにしたマテオリッチは、
この時49歳になっていました。


その後、リッチは北京に教会を建てて伝道活動に尽力しました。

北京には現在5つのカソリック教会がありますが、そのうちのひとつ、
北京南堂(無原罪の聖マリアに捧げられた教会 )は
北京の教会堂の中で、最も古いものです。
 マテオ・リッチが明朝の万暦帝の在位33年目の1605年に、
この場所に小さな教会堂を建設しました。
この建物は北京でのキリスト教宣教の始まりを記すものであり、
人々の間で「天の主の殿堂」(天主堂)として知られるようになったそうです。
(現在の教会堂は1900年ごろに再建されたものです)

余談ですが、
聖ミカエル教会 は1902年に建てられた教会で、
かつての各国の大使館が密集していた租界に位置しています。
多くの外国人たちがこの教会に集い祈りを捧げたとされています。
場所は北京の繁華街王府井から歩いて10分ほどの距離です。
この地域の歴史を調べてみると、義和団事件の時には、この地域にある教会に
たくさんの中国人、外国人(もちろん日本人も)の信徒、住民が立てこもって
抵抗したと言われています。
聖ミカエル教会の可能性が高いのではないか、と思っています。

実は私はこの教会に10年ほど前に立ち寄ったことがあります。
教会堂は中がすべて木でてきており、
高い天井の窓に飾られたステンドグラスのあざやかな輝きに
感動したことをよく覚えています。
歴史ある教会の中に自分が立っている、歴史に触れているという実感に
ちょっぴり震えたようなそんな気持ちが今でも忘れられません。


さて、マテオリッチに戻りましょう。
1610年5月11日、マテオ・リッチは亡くなりました。
イタリアで生まれ、キリスト教の伝道とともに東西文化の交流に力を注いだ国際人
マテオリッチは利瑪竇(り まとう、Lì Mǎdòu)として、
当時の皇帝万暦帝より中国北京の阜成門外の墓を与えられ、葬られました。

アメリカの『ライフ』誌は
西暦1000年から1999年の偉大な人物100人のひとりとして
マテオリッチを選んでいる、とのことです。


今日は長文ですね。
私の趣味のひとつ、歴史的建造物めぐりから思いついて、
調べながら書いてみました。
最後までおつき合いくださり、ありがとうございました。


典礼問題:ローマ教皇庁は中国人キリスト教徒の祖先崇拝と偶像信仰を禁止すると発表。
怒った康熙帝は宣教師をマカオに追放、
やがて清朝第五代皇帝・雍正帝が1724年にキリスト教全面禁止に踏み切った。


参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/マテオ・リッチ
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/muroga/mateo.html
http://www.sbfnet.cn/useful/history/40.html
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-mateo.htm





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