私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

しあわせを探す旅

2012年05月26日 | 御雇い外国人 教師


遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、誰かが言っていた、、、。

ドイツ新ロマン派の詩人、カール・ブッセ(Carl Busse,1872-1918)の有名な作品「山のあなた」は
明治時代の詩人、翻訳家、文学者である上田敏の翻訳詩集『海潮音』(明治38年)に収められています。


山のあなた
     カール・ブッセ
     上田敏訳 『海潮音』より

山のあなたの 空遠く
「幸い」住むと 人のいう
噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
山のあなたに なお遠く
「幸い」住むと 人のいう


上田敏の訳は時代を超えた名訳と言われていますが、
もう少し(自分に)わかりやすく解釈してみると、、、


遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、と誰かが言っていた、、、。
それが本当なら、と
私も幸せを探しに行った。
私と同じように『幸せ』を探している人がたくさんいたけれど、
私が求めていた「幸せ」は見つからなかった。
悲しくて涙を浮かべながら、戻ってくると
他の人が教えてくれた。
その幸せはね、あなたが探しに行った山のもっとずっと向こうにあるんだよ、って・・・。




ちょっとさびしい、それでいて心惹かれる詩です。

人はみな確かで、壊れたり崩れたりしない確固としたものを
探して一生を旅しているのかもしれません。
それが『幸せ』なのか、何なのか、、、。


ところで、このカール・ブッセですが、1887年、来日して東大で5年間も哲学を講義していた、、、
ということです。
つまり、御雇い外国人のひとりだったのです。

ブッセはドイツに帰国後、大学教授となり、1892年出版した『詩集』で有名になりました。。
一方、ブッセの詩を翻訳した上田敏は1897年(明治30年)に東大を卒業しています。
ですから、二人の間には5年ほどのタイムラグがあり、面識はなかったということになります。

上田敏は東大の大学院でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の学生だったそうですが、
小泉八雲から
「英語を以て自己を表現する事のできる、一万人中、唯一人の日本人学生である。」と
最大級の賛辞を贈られています。

その後、東京高等師範学校(筑波大の前身)の教師となりましたが、東大を辞した小泉八雲の
後任として東大で教えます。
本当に優秀で、小泉八雲に可愛がられていたのでしょう。

1908年にヨーロッパに留学し、帰国してからは京都大学の教授となりました。
また1910年には、若干35歳で慶応義塾大学文学科顧問に就任しています。

ここまでは順風満帆のように思えますが、
残念なことに上田敏は大正5年(1916)7月9日
腎臓疾患(尿毒症)のため東京の自宅で急死してしまいます。
それは、親交の深かった森鴎外を訪ねようとしていた時だった、と言われています。
享年43歳。
まだまだ活躍してもらいたかった、、、あまりにも早すぎる死だと思います。

上田敏は東京の築地生まれ。築地には外国人の居留地があり、特に多くの教育者、
文学、語学の教師、宣教師の住んでいたところです。
こんな環境も上田が優れた翻訳者、文学者、教育者となる素地だったのかもしれません。


やまのあなたの、、のドイツ語原文を添えます。

Über den Bergen
                Karl Busse
Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit druben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村









130年の歴史の教会堂に響くジャズ

2012年05月24日 | 歴史おもちゃ箱


アレキサンダー・クラフト・ショーが創設した
東京港区、芝の聖アンデレ教会で、次のようなイベントを見つけました。
130年の歴史を刻む教会です。
行ってみようかな~、と思っています。

http://www.st-andrew-tokyo.com/web/jazzflier2012.pdf


教会にJAZZが来た!Ⅻ今年も開催!
チケット好評発売中です。

日  時:6月30日(土)17時00分開演(開場は16時30分)
会  場:聖アンデレ教会聖堂
       港区芝公園3-6-18 日本聖公会聖アンデレ教会
出  演:竹下ユキ&Big Wing Jazz Orchestra
前売券:2,000円
当日券:2200円


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村






歩く旅、屋根のない病院~軽井沢

2012年05月23日 | 旅日記

新緑の季節ですね。
学生時代はよく、この季節、軽井沢に行きました。
大きな別荘の間の森の道を自転車に乗って走る、
爽快でした。この頃から若い人が旧軽井沢にはあふれ、
夏の一時期はとても活気がありました。

軽井沢銀座には「茜屋珈琲店」があり、
ひとりひとりに合わせて、お店の人がカップを選んで珈琲を注いでくれるのです。
おしゃれでした。
珈琲1杯500円。
今では、普通かな、と思う値段ですが、35年ほど前の500円ですから
『高いな~。』と思っていました。
でも、せっかく軽井沢に来たのだからと、茜屋の珈琲は見栄でもなんでも
1回は味わいたいたかったものです。

そんな軽井沢もシーズンを外せば、
明治の外国人たちが避暑地として愛した静けさをあちこちに見つけられるのではないでしょうか。

スコットランド系カナダ人アレキサンダー・クラフト・ショーは、
リゾート地軽井沢を明治時代に紹介(開拓?)した人です。

ショーは1846年、カナダ(当時の英領カナダ)のトロント市に生まれました。
トロント大学で学び、在学中に聖公会聖職を志しました。
そして1869年に執事に、1870年に司祭となります。
同年、イギリスに渡り、ロンドンの教会に勤務するようになりました。

当時、英国聖公会は近代化のすすむ日本にキリスト教を広め、宣教師を送りたいと考えていました。
その宣教師に任命されたのがショーでした。
1873年(明治6年)、ロンドンから大西洋、アメリカ大陸横断を経て、横浜に到着し、
宣教師としての第一歩を踏み出したのです。

しかし、ショーが来日した当時、外国人にはまだ多くの制約が課せられていました。
日本人への宣教をしたくても、宣教師が居留地以外に住むことはできず、
日本人との交流を持つことができなかったのです。


そんな状況に苦慮していたショーですが、彼にあるチャンスがやってきます。
日本人の家に住み込み、英語の家庭教師の仕事をしないか、という誘いでした。
それに併せて、ある学校で「倫理学教授」に就任することになったのです。

それが「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」と
著書『学問のすゝめ』の中に書いた福沢諭吉の家です。
彼は諭吉の子どもたちの家庭教師になります。
そしてそれが縁で慶応義塾の教師に採用されたのです。

つまり、福沢諭吉の家族は明治時代で最初に外国人と共に生活したということになります。
逆に考えても面白いですね。
また、明治時代、ミッションスクール以外で、
公式に聖書を教えることを許可したのは慶応義塾大学だったということです。

ショーは本国に送った手紙の中で、
「日本宣教に赴いた者が教師になるとは何事だとの批判はあるかもしれないが、現状ではこれが最善の策。
私は学校で『倫理』、その実『聖書』を青年たちに教えている」と報告しています。

その後、1876年(明治9年)、ショーは東京・三田に最初の宣教拠点として聖保羅(パウロ)会堂を設置。
後に芝に移転して現在の聖アンデレ教会を創設し、その活動は発展していきました。

さて、話を軽井沢に戻しますが、
明治19年4月、ふたりの外国人が軽井沢にやってきました。
彼らはここで足を止めます。

ひとりは、東京・芝のアンデレ教会のアレクサンダー・クラフト・ショーです。
そしてもう一人は彼の友人で、当時、東京帝国大学で英文学を教えていた
ジェームズ・メイン・ディクソンです。

ふたりは軽井沢に魅せられます。
故郷のスコットランドに似た軽井沢の景観、そして、スコットランドや北ヨーロッパのように
霧が多く、昼夜の温度差が大きい、という気候。

『屋根のない病院』、ショーは軽井沢をそう呼んだそうです。

その2年後、彼は旧軽井沢の大塚山に別荘(現在のショーハウス記念館)を建てました。
また、ショーは、夏でも冷涼な気候の軽井沢をイギリス大使館の職員や宣教師ら、
日本の文人などに紹介し、
彼の勧めを受けた人々がここに別荘を持ち始め、いくつもの教会も建設されました。

考えてみれば、
人にとって異国で暮らすということは、特別で、異常なこと
(今までいた環境と異なるということ)です。
文化や習慣も違い、ストレスが溜まるでしょう。
軽井沢の自然の中を『屋根のない病院』と、ショーは述べていますが、
そこで、自分の心や身体を休め、次の活動へのエネルギーを蓄える時間が
彼らには必要だったのでしょう。
『歩く』そして『少し』『止まる』、休む。
まさにこの『歩く』という漢字は人間の活動を振り返り、次につなげるための大切な漢字だと思います。

その後、明治26年には、信越本線が全通して東京と直結。
交通の利便さから、次第に避暑地としての軽井沢が注目されるようになりました。


さて、さて、軽井沢ですが、
もう何年も行っていません。
新幹線で行けば、ショーが歩いて軽井沢を旅した時と異なり、
東京から1時間ちょっとでしょうか。

大病院で診察を1日かけて受けるより、
『屋根のない病院』に行き、ゆっくりとストレスを回復した方が
時にはよいのかもしれません。




にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村



参考文献
http://kazeno.info/karuizawa/4-kyuu/4-kyuu-1-11.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/学問のすゝめ







 


 

 

 







 

歩く支援の旅~ウォルター・ウェストン(2)

2012年05月19日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


日本アルプスを世界に紹介し、日本の山を愛した明治時代の宣教師
ウェルター・ウェストン。
日本山岳会の名誉会員です。
日本各地で今も『ウェストン祭』が行われています。
「上高地ウェストン祭」はとても有名ですが、それ以外にも
岐阜県の「恵那山ウェストン祭」、新潟県糸魚川市親不知では「海のウェストン祭」、
宮崎県高千穂町では「宮崎ウェストン祭」などがあります。

ところで、これらの山にかかわるウェストン祭とは異なるものが
『青森ウェストン祭』です。

時代は「八甲田雪中行軍」(私も映画で見ましたが、、、)の
大遭難がおきた1902年(明治35年)のことです。

青森は大飢饉に襲われました。
青森の悲惨な状況を知ったウェストンは翌年1903年(明治36年)の2~3月にかけて
雪の中、青森まで徒歩で旅をし、現地の様子を見たのです。
当時は鉄道などが整備されていなかったので、大変な旅だったと思われます。
やっと着いた青森では人々は食べられるものは食べ尽し、山の木の根などを掘ってまで
飢えをしのいでいたということです。

ウェストンはその惨状を英字新聞などで詳細に報告しました。
日本の横浜をはじめ、各地に居留していた英国人だけではなく
英国本国でも救済を呼び掛け、集まった資金や物資を被災地に送り届けました。
救援提供物資は、米・174トン、味噌・40トン、毛布13145枚など、ということです。

ウェストンが青森に来た時、戸来村(現新郷村戸来)も訪れました。
そして当時、同村の郵便局長をしていた戸来喜代治宅に宿泊しました。

その後、喜代治氏の子息・戸来爾氏がウェストンを偲(しの)び開催することとなったのが
「青森ウェストン祭」だということです。

青森ウェストン祭は他の県の美しい山々や景色を世界に紹介したウェストンを想うものではなく、
大飢饉、凶作という悲しい出来事を自らの足で青森までやってきて、あらゆる手段を使って
支援し、飢えている人々に物資を届けたウェストンの別の面を紹介しています。


青森には日本の人々を心から愛したウェストンの足跡が残っています。







参考文献
http://www.jac.or.jp/info/shibudayori/aomori/weston2006.htm 
http://www.kamikochi.or.jp/spots/weston-relief/
http://mahoro.exblog.jp/10919620/
http://www.mutusinpou.co.jp/日曜随想/2010/06/11960.html



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村











私は山に向かって目を上げる~ウォルター・ウェストンの道(1)

2012年05月17日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


山と海、どちらが好き?と聞かれたら、とても困ってしまいます。
どちらも好きなのですが、最近は山歩きに傾いているかも、、、、。

40代のころの中国の天山山脈や崑崙山脈、四川省の山々などへはよく仕事で出かけました。



(中国パキスタン国境付近カラクリ湖ー4000mから7000mの山を見る)

そのころから、低いところから高い山を見上げるのが好きです。


ところで、
山と外国人に関わる3つの「K」のつくリゾート地
軽井沢(KARIZAWA)を別荘地として発展させたカナダ人宣教師アレギザンダー・ショー(1846-1902)





アメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士の清里(KIYOSATO)





そして上高地(KAMIKOCHI)を登山基地として紹介したウォルター・ウェストン。





先日訪れた栂池自然園の資料室で、明治時代に日本に来たイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストンの展示を見つけました。




ウォールター・ウェストンはイギリス山岳会の会員であり、 日本アルプスを世界に紹介し、
日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。
1861年、イギリスのダービーで生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業後、リドレーホール神学校で学び
1988年(明治21年)27歳のときに英国聖公会・ 教会伝導協会派遣の宣教師として
日本にやって来ました。


ウェストンはもともと山が大好きで、 聖職に就いた25歳頃よりスイス・アルプスで
本格的な登山をはじめヴェッターホルン、マッターホルン、ブライトホルンなどの登頂のほか、
アイガー、ユングフラウ等にも挑んでいたそうです。

ウェストンは宣教師として3度来日、熊本、神戸、横浜に居を構え、宣教活動の合間に日本各地の山々に登り、
日本の山村の風俗・ 習慣などを本に書き、海外に紹介しました。 

上高地の宿、清水屋にはウェストンが残した外国人登山者のための署名簿「クライマーズブック」が残っています。
そこには以下のような記述があります。

「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて- 
1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)より
ヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。
 上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。
そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います、、、、、

この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から
1914年までの登山日誌のような形で書かれているそうです。
ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、
後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。

さて、明治のころは日本人に『山歩きをして楽しむ』というような習慣はありませんでした。
日本人は山は聖なるものとし、ウェストンが登山をしようとした時、『外国人に山を汚されてしまう』と
入山を拒んだ村もあったそうです。
その後、彼は日本山岳会創設にも尽力し、日本古来の信仰登山からスポーツやレジャーとしての登山、
ハイキングへと人々の意識を変えました。


ウェストンが登った山は以下です。

1891年 浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曽駒ヶ岳
1892年 富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳
1893年 恵那山、富士山、大町から針ノ木峠超え、立山、前穂高岳
1894年 白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1902年 北岳
1903年 甲斐駒ヶ岳、浅間山
1904年 地蔵岳、北岳、千丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳、富士山
1912年 有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年 槍ヶ岳、奥穂高岳、焼岳、霞沢岳、白馬岳
1914年 立山温泉から針ノ木峠超え、燕岳、大天井岳、富士山

すごいですね。
彼は山に登り、何を考えていたのでしょうか。

詩篇121篇1・2節を思い出します。
 「私は山に向かって目を上げる。
  私の助けは、どこから来るのだろうか。
  私の助けは、天地を造られた主から来る。」

山に登ると、ちょっとだけ他の人より天に近くなったような
そんな気が、私はします。


ウェストンは日本の近代登山発展のための貢献ははかり知れないものがあり、
日本の近代登山の大恩人なのですが、
一方で教会の反感を買うほど登山に夢中になり、最後には教会の職を辞してしまいます。
ほっ!やるね~、、、という感じ。

彼の記録をいろいろ調べると、登山関係は豊富なのですが、
宣教師としての足跡はたどりにくいです。
でも、1つ見つけました。
それは、次に続く、、、、ということにしたいと思います。


にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村


参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルター・ウェストン