私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

築地散歩~Do for others

2013年05月05日 | 歴史おもちゃ箱

今日は午後から築地散策に出かけました。
築地というと場外市場ですよね。
ゴールデンウィーク真最中、進もうにも進めないすごい人出で、
場外市場の食堂にはどこも長い行列ができていました。




築地場外市場から本願寺、そして
聖路加看護大学まで歩きました。
聖路加のある築地明石町は昔の築地居留地のあったところです。
築地居留地とは
「1868年(明治1)から99年までの期間,外国人居留地のことで
そこだけが外国人の居住・営業を許され,治外法権が認められた特別地域で東京の中の外国であった」
と、Wikipediaに書いてあります。

横浜には横浜居留地があり、こちらは港を背景に外国の貿易商が集まり、多いに発展したのですが、
築地には13のミッションスクールや教会が作られ、どちらかと言うとアカデミックな独特の雰囲気が漂っていました。
13の学校の中には
立教大学、明治学院大学、慶応大学、関東学院大学、工学院大学、女子学院、暁星学園などがありました。
下の図は築地居留地の中の学校の位置を示した図です。100年以上前のものです。




さて、
1859年(安政元年)、医者であり、キリスト教の宣教師であったヘップバーンが来日しました。

実はヘップバーンは日本に来る前には中国での宣教を目指していました。
一度は中国アモイに入ったものの、大流行していたマラリアを患い、帰国を余儀なくされました。
その後、ニューヨークで病院を開業し、コレラの治療などで成果をあげ、
彼の病院は有名になりました。
病院経営はその後も順調でしたが、ある時、ヘップバーンは日本でのキリスト教の宣教に使命を得ます。
人生の分岐点です。
彼はすべてを投げ打ち、ひとり息子も知人に託して妻のクララとともに日本にやって来たのです。
(ものすごい決断ですよね!)

宣教に燃えていたヘップバーンは
来日後はすぐに、横浜の寺で医療活動と教育活動を始め、
横浜居留地(外国人は居留地に住まなければなりませんでした)に小さな学校(塾)を開きました。
のちにこの塾は明治学院大学、フェリス女子大学へと発展していきます。



このヘップバーンというのはヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士のことで、そして小さな学校は
ヘボン塾のことです。
博士は日本と日本人を愛し、日本語を熱心に勉強しました。
そして、英和辞典の編纂や聖書の和訳にも尽力しましたが、
当時、言葉を翻訳するということは困難で手間のかかる作業でした。
また、多くの優秀な日本人学生を育てました。
ヘボンの弟子には高橋是清や島崎藤村がいます。



ヘボン博士にとって日本での時間はあっという間に流れていったのではないでしょうか。

「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」

と日本を離れる時に、ことばを残しています。
ヘボン博士はこのとき77歳になっていました。
彼は母国を離れ、33年間も日本に滞在し、日本のために貢献したのです。

「Do for others」

これがヘボン夫妻の生涯を貫く信念だったと言われています。





今は、ヘボン博士の作った明治学院大学は芝白金にありますが、もとをただせば築地明石町が
発祥の地です。

今日はいいお天気に恵まれ、ほんとうにいいお散歩をしました。
万歩計は1万歩を超えました。



にほんブログ村 ライフスタイルブログへにほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へにほんブログ村




Hepburn is Editor of a Japanese-English dictionary,also he established The Hepburn System of Roma-ji and
translated The Bible into Japanese.

Hepburn is known by most people as"the creator of roma-ji ". This, however ,is only one of his many legacies
in Japan. Hepburn 's role in the modernization of Japan spanned various fields.
He was a physician ,a missionary, the editor of a Japanese-English Dictionary. a Bible translation committee member ,
and educator and the creator of The Hepburn system of Romaji spelling.

James Curtis Hepburn is widely known in Japan as "Hebon". Born in Milton Pennsylvania on March 13 ,1815.
His father was a lawyer with strong religious faith, and his mother , a teacher' s daughter.
He was admitted to the junior class at Princeton University at the age of 16, and graduated the following year.
He then entered the University of Pennsylvania Medical School,graduating with a doctorate in
medicine at the age of 21.
His faith led him to missionary work overseas. While he was in private practice, Hepburn met a teacher .
She shared his belief that hi was " destined to go to a country where they don't know
God and there are no doctors." They were wed in 1840..

When they heard in 1858 that Japan was opening,the Hepburns immediately decided to go to Japan as missionaries.
They arrived in 1859 and first lived in the Johbutsu Temple in Kanagawa .
(now Kanagawa ward in Yokohama.)
When the Hepburns first arrived in Japan ,there were many royalist and anti-foreigner incidents.
As Christian proselytizing was prohibited , they busied themselves studying Japanese.
They treated sick people and made house calls when requested. Hepburn immersed himself
in writing a Japanese-English dictionary.
In 1862,Hepburn moved into a new built home and charity hospital in Yokohama.
It was here that his medical service grew in earnest. Mrs. Hepburn opened a private English school.
This school become known as the Hepburn School"
In 1867 , after 8 years work, the first Japanese- English dictionary in Japan was published.
The dictionary gave English definitions for 20700 Japanese words and had 10000words in the English-Japanese index.

Hepburn' s next consuming project was the translation and publication of the Bible.
Determined to avoid a one-person translation , Hepburn urged, along with Samuel Robbins Brown,
that missionary from various denominations from joint translation committee.
The translation of the New Testament was completed in 1879 after 5 years and 7 months.
Hepburn also left a tremendous legacy in education. The Hepburn School developed into a boy's school,
which moved to a new facility in TSUKIJI, TOKYO, in 1880. The school was briefly renamed Tsukiji Colleg,
then Tokyo Icchi Divinity School. When the school moved to Shiba Shirogane in 1887
it become Meiji Gakuin University with Hepburn as its first president.

Hepburn returned to the United States after 33 years ,having accomplished his mission
and leaving behind him a vast legacy in Japan.




その時代のアメリカ

2013年05月01日 | 歴史おもちゃ箱

NHKの「八重の桜」が何かと話題になっています。
八重の夫役の新島襄(1843~1890)は私のお気に入りの俳優、オダギリジョーさんが演じますね。
実際、新島襄はオダギリジョーと同じようにかっこよかったらしいです。

上州安中藩の武士の家に生まれた新島襄は二十歳の時に
漢文のキリスト教の書籍を読み、キリスト教に強く惹かれます。
その後、新島襄はこっそり函館までいき、アメリカ船ベルリン号に乗って密出国します。

この2年後、長州藩もこっそりと二人の青年を密出国させます。
後の伊藤博文と井上馨です。
次の年、薩摩藩も幕府に内緒で13人の若者を密出国させました。
どちらも、藩が送り出したのですが、
新島襄はたったひとりで国を出たのです。

新島襄はアメリカに10年いて、大学卒業後、キリスト教の神学校に進みました。

その間、日本では江戸から明治へと時代が進みました。

新島襄はあるとき、教会の伝道集会で語ります。
「日本では革命が起こりました(明治維新)しかし、新しい国家はまだ国の方針を見つけていません。
我が同胞3000万の幸福は物質文明や政治の改革によってもたらされるものではありません。」
「私は日本においてキリスト教主義の大学を作るつもりです。その資金がなければ日本に帰れません。」
と感情を込めて語りました。

演説が終わるや否や、ひとりの男性が立ち上がって1000ドルの寄付を申し込みました。
その後次々に人々が寄付を申し出、最終的には5000ドルものお金が集まったといいます。
当時の5000ドルは現在の日本円にするとどれほどのものでしょうか、、、。
大学がひとつ作れるほどの金額です。




新島襄が演説を終えて、壇上から下りてくると、ひとりの貧しい身なりをした農夫が
2ドルを差し出しました。
それは、彼が会場から自宅まで戻る汽車の運賃でした。
彼は2ドルを差し出し、家まで歩いて帰ることにしたのです。

この時代のアメリカは熱い信仰のある国でした。
そのアメリカ人たちの期待と善意の贈り物として、同志社大学が生まれたのかもしれません。

堂々とした同志社大学の校舎を見ると、「すごいな、アメリカ人の善意と期待」と思うのです。




にほんブログ村 ライフスタイルブログへにほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へにほんブログ村










時には読書も、明治維新を歩くため

2012年11月10日 | 歴史おもちゃ箱

最近はブログの更新を怠っています。
この間、
何冊かの本を読み、映画を見に行き、友だちと一緒に食事に行きました。

何冊か読んだ本の中から
幕末から明治維新の大きな変化について詳しく書いてある本、
NHKスペシャル『明治1~変革を導いた人間力」と
『明治2~教育とものづくり 独創力をいかに育てるか』は
幕末、維新の初心者にはわかりやすかったです。


http://www.amazon.co.jp/明治%E3%80%881〉変革を導いた人間力-NHKスペシャル-NHK「明治」プロジェクト/dp/4140810351


特に『明治1』の方は経営学者のピーター・ドラッカー氏と
評論家文明史家の加藤周一氏へのインタビュー形式になっており、
それぞれの立場からの独特の意見が述べられていました。


二人のインタビューの中に共通して現れた人物
『渋沢栄一』については文春新書の『渋沢家三代』を読みました。


http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_ss_i_6_8?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%8Fa%91%F2%89%C6%8EO%91%E3&sprefix=SIBUSAWA%2Cstripbooks%2C0


『財無き財閥』と呼ばれた澁澤一族ですが、幕末から明治、大正、昭和と
日本に資本主義を根付かせた渋沢栄一の足跡をたどることができました。

けっこう感動しましたし、共鳴もしました。

しばらくの間、教育の一端に携わっていた私には
NHKスペシャル『明治2教育とものづくり 独創力をいかに育てるか』は
明治維新のお話ではありますが、現代の教育にもつながる問題を投げかけているように思えます。

「『個性』か『学力』か、『模倣』か『独創』か
人材の育成と技術の発展。
明治新政府の目標は明確に定められた。
「ひとづくり」をとおして「ものづくり」の力を蓄え、
それを『国作り』に繋げようというのである。
しかし新しい教育はいつしか詰め込み教育と画一化の弊害をもたらし、
先進国から導入した技術もやがて日本の独創性を加味することなく受容されていく。」

(NHKスペシャル明治2より)

たまには、ちょっと難しくも魅力いっぱいの本を読んでみるのもいいものだな~、と思いました。


最初の写真は、新装となった東京駅。
東京駅にはけっこうハマっています。
また、別の機会に書いてみたいと思います。




にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村









ドイツのマイスター制度と外国人マイスターたち

2012年10月11日 | 歴史おもちゃ箱


今回、函館、小樽、札幌、弘前と旅行をし、
改めて「マイスター」という制度と人材について考えてみました。

実は小樽へ行った時に、小樽ビールの工場併設のレストランに行き、
ドイツ人エンジニアマイスターの作ったビールを飲みました。
私はあまりお酒が強くはないけれど、
小樽ビールは本当に美味しかった(^O^)

飲む前には、工場見学ツアーに参加。



まだビールになる前の酵母だけの液体を味見させてもらいました。
これが甘くて独特の味わい。ちょっと忘れられません。

⬇酵母発酵のための槽



この「小樽ビール」持って帰れません。この場所でしか飲めないそうです。
ちょっとでも動かすと味が変わってしまうから、だそうです。




すごいマイスターのこだわりですね。




小樽の観光名所、運河のある倉庫街にビアレストランはあります。




さて、ドイツ人マイスターのこだわり、を函館小樽で実感しましたが、、、。


ドイツでは、3つの階級による古くからの徒弟制度が今でも続いています。
戦後になり、職種はぐんと減りましたが、それでも41種の仕事で
「レーリング(見習い)」「ゲゼル(職人)」「マイスター(親方)」からなる制度が残っています。
マイスターというのは、業務独占資格、つまり日本でいう医師、弁護士、会計士などのようなものです。
ただ、石材加工、ハム・ソーセージなど、手工業など多様な職種があります。
この資格がないと良くも悪くも仕事ができない、ということになります。

ドイツは現在10%を超える高い失業率が社会問題になっています。
それを解決する一つの手段として
2004年に新手工業法が生まれ、伝統的なマイスター制度に変化が起きました。

これまで94種類あったマイスター制度の業種を41種類に半減させました。
例えば、「タイル工事」「塗装」「彫刻」「メッキ」「木彫」「ブラインド・シャッター」
「紳士・婦人服仕立て」「製靴」「ベーカリー」「ケーキ」「ビール醸造」「理髪」
「クリーニング」「楽器製造」「広告看板」などの職種は資格不要となりました。

どれも技術や職人芸など長いキャリアが必要とされるものですよね。
ただこれらの業種は、マイスター制度の規制対象からはずされることで
仮に技術レベルや人材の質の低下が起こったとしても、マイナーな業種であるから
それが直接ドイツ企業や産業の国際競争力の低下につながるとは考えにくい、ということです。

それではマイスター制度が継続されたのはどんな職種でしょうか。
例えば、
大工・食肉加工・ベーカリー・家具製造・眼鏡技師・整形靴・理髪師などです。
これらは、技術の習得が困難、第三者の健康や生命に危険を及ぼす恐れがある、
などの理由から残されました。

さて、ちょっと個人的な話になりますが、主人は整形靴のゲゼル(職人)です。
ドイツ人ではありませんが、ドイツの資格を持っています。
しかし、ゲゼルまではどうにか資格を取得できても、外国人がマイスターになるに
ドイツ語のほか、かなりの資金と修業がいる、ということで難関です。

日本は例えば、パンやケーキなど、自分で作るのが得意であれば、幾つかの申請などを通して
開業することもできます。
その点、市場はずっと自由です。
それに比べて、ドイツはマイスター制度の伝統を守ることで良い製品を作る技術を保ってきたものの、
時代が流れた現在では、市場を狭くしてしまうという現象が起こったのです。

しかし、
長い時間と大金を費やして、2004年以前にマイスターを取った
ドイツの職人たちは嘆いていることでしょう。

そういえば、日本でも、
以前国家資格であった「通訳ガイド試験」は今は民間資格となりました。
語学は実力本位ということなのでしょうか。
難関のガイド試験に苦労して受かった人たちは、この改革を快く思っていないようです。
また
私の持っている「産業カウンセラー」という資格も受験した時には
労働大臣の名前と認印がありましたが、今は民間資格です。

最近取得した「キャリアコンサルティング」の資格はまだできて数年ですが、
国家資格となっています。
時代とともにいろいろ変わって行くものですね。
社会の波にうまく乗るっていうスキルも必要なんでしょうかね~?






にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村


「愛すべき名前」の呼び方

2012年09月11日 | 歴史おもちゃ箱

「愛すべき名前の呼び方」というのも何だか変な題名なのですが、、、
表記と呼び方についてちょっとした感想を書いておきたいと思います。

時々、外国の方からの電話をとります。
彼らの姓名は日本人にとってはとっても聞きとりにくいなー、と思うのです。
私の友人に「ジェトウィッツ」という人がいますが、最初
どうしてもその名前を聞き取ることができませんでした。
家族が電話をとった場合は、
「ジェ、、、何とかっていう外人から電話があったよ。」
という具合になってしまいます。

ある学校でに外国人に日本語を教えていた時に
「オウさん、オウさんの作った日本語の短文は何だかワンパターンね。」というと、
何人かの学生が、密かに笑っています。
初級の学生たちだったので、外来語の「ワンパターン」がわからないのかな、
と思い、説明しようと、「あの、ワンパターンの意味はね、、、、」
(笑い声)

実は、ワン・パータンという中国語があって、
その意味は「バカ、アホ、この怠け者!❌10」ぐらいのひどい言葉だったのです。
つまり、私は王さんに
「オウさんは、バカ、アホ、この怠け者❌10 です。」って言っていた感じなのです。

言葉の聞こえ方は不思議ですね。




さてお雇い外国人の先生たちはどんな名前で
明治時代に呼びかけれれていたのでしょうか。


ヘップバーン=ヘボン
あのヘボン式ローマ字のヘボン先生はヘップバーンなんです。
でも、ヘボンっていう呼ばれ方が気に入っていたみたいです。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/1d10a2c5d9cf870fbff90aad7994e05b

ベンネット=ベネット
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/0bcaf689b4bf2cce1183e2277bbd0fec
関東学院の創設者です。
ご本人は周りの人にベンネットと呼ばれるのが好きで、
「ベン子(ね)ット」とサインしていたようです。


ヘルン=ハーン 小泉八雲です。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/ce2c3827cfe2cb46a5d284c84ab8606b
富山大学には「ヘルン文庫」孫の小泉時は「ヘルンと私」という本を書いています。

ガードナー=ガーディナー
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/ce2c3827cfe2cb46a5d284c84ab8606b
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/c7b3fdfb7e02826b3b3e308318653fd4

立教大学校の校長で、明治時代のすぐれた建築家です。
以前ブログに「ガードナー」という表記で記事を書きましたが、
日本人には「ディ」の発音が難しく、周りの人は、ガードナー先生、と呼んでいたようです。
出典にWikipediaから引用したところ、執筆者に指摘を受けました。
ガードナー先生と呼ばれていたという記事は
「築地居留地研究会会誌vol.1」にありました。

ヴァーヴェック=フルベッキ
明治政府の顧問となったお雇い外国人フルベッキの次女は
エマ・ヴァーヴェックとして、明治時代、立教女学院に務めていました。
日本生まれですから、日本語も堪能だったそうです。


何と読まれるか、
キムなのか金(キン)なのか、オウなのか、ワンなのか、
父はフルベッキ、娘はヴァーヴェック、
呼ばれ方は本人の決定によるのでしょうか、ね?







にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村