イギリスのカンタベリーはイギリス国教会カンタベリー大聖堂があるところ、
として有名です(残念!イギリスには、まだ行ったことはありません、、、、)
メリア・ヘレナ・コンウォール・リー女史はこの地で1857年に生まれました。
コンウォール家の本家は英国の名門男爵家で、彼女の家は分家でした。
相当な資産家だったようです。
しかし、幼い時に英国陸軍中佐だった父はインドで戦死。
リー女史と母はコンウォール本家の庇護を受けることになりました。
リー女史は恵まれた環境を活かし、勉学を続けました。
その後、母と一緒にヨーロッパ各地に滞在したり、
世界一周旅行をしたり、37歳の時には初めての文学作品を書きました。
彼女のイギリスにおける使命は家を守ることでした。
彼女の父は早くになくなり、父の兄も40代で他界しました。
1907年、リー女史のお母さんが亡くなり、
リー女史はイギリスでの自分のすべきことを全部なし終えたと考えたのでしょう。
彼女は、宣教師として日本に行く決断をしたのです。
1907年11月、51歳のリー女史は横浜に着きました。
その後、横浜や東京などで宣教師として働いていましたが、
草津における、ハンセン病の人たちの生活を知り、
リー女史がハンセン病患者のための働きを始めたのは59歳のときでした。
⬇はリー女史の働きの拠点となった聖バルナバ教会。
リー女史は自分自身の財産を使い果たしてまでも
ここにハンセン病の人たちのホームを作りました。
男子、女子、家族、感染してしまった子どもたちのホーム
感染していない子どもたちのホーム、などなど。
さて、私が草津に行った時にはバルナバ教会に付設する「リーかあさま記念館」は
休館日でしたが、特別に教会の牧師さんが鍵を開けて見せてくれました。
その後、感染していない子どもたちのホーム「聖マーガレット館」も特別に見学させて
くださいました。
⬇
ハンセン病の親から生まれた子どもたちは、できるだけ早く親から離す必要があったそうです。
発病してしまうと、平均で30歳ぐらいまでしか生きられなかったとのことでした。
社会の差別も激しく、ここでは感染していない子どもを成長させ、自立させることを目的にしていたそうです。
財産を使い果たしたリー女史は、アメリカに講演に行き、草津の実情を訴え、資金の援助を願いました。
その時、自分の愛する幼い娘を病気でなくした一人の夫人が援助を約束してくれました。
その資金で「聖マーガレット館」が建てられたのだそうです。マーガレットはその夫人の娘さんの
名前だということです。
ハンセン病は特効薬が開発され、不治の病ではなくなりました。
今は全国にハンセン病の医療施設がいくつか残されていますが、
そこに暮らす方々も高齢者が多くなったとのことでした。
草津のハンセン病施設は、リー女史という強力な指導者が与えられたことで、国内では最大規模の
療養施設となったそうです。
しかし、その裏側でたくさんの人々の協力があったことは言うまでもありません。
リー女史は1941年、兵庫県の明石で逝去。
遺骨は遺言により、草津の聖バルナバ教会の納骨堂に納められたそうです。
50歳を過ぎてから来日、草津で精力的に働き始めたのは59歳のとき。
そして亡くなるまでの34年間、日本の人、特にハンセン病患者のために働いたリー女史。
同じような年齢の私としては、彼女の足跡に非常に感動したのです。
自分にはそのパワーも努力も工夫もないからでしょうね、、、、。
でも、草津は私にとっていい刺激の旅になりました。
参考文献
写真集・コンウォール・リー女史物語 コンウォール・リー女史顕彰会編 日本聖公会来た関東教区
「草津」聖バルナバミッションとコンウォール・リー女史記念事業 ニュースレター2
最初の写真はコンウォールリー女史を記念したリー女史頌徳公園
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