私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

イギリス大貴族の一人娘と草津

2012年08月18日 | 日本に影響を与えた宣教師たち

イギリスのカンタベリーはイギリス国教会カンタベリー大聖堂があるところ、
として有名です(残念!イギリスには、まだ行ったことはありません、、、、)

メリア・ヘレナ・コンウォール・リー女史はこの地で1857年に生まれました。
コンウォール家の本家は英国の名門男爵家で、彼女の家は分家でした。
相当な資産家だったようです。
しかし、幼い時に英国陸軍中佐だった父はインドで戦死。
リー女史と母はコンウォール本家の庇護を受けることになりました。

リー女史は恵まれた環境を活かし、勉学を続けました。
その後、母と一緒にヨーロッパ各地に滞在したり、
世界一周旅行をしたり、37歳の時には初めての文学作品を書きました。

彼女のイギリスにおける使命は家を守ることでした。
彼女の父は早くになくなり、父の兄も40代で他界しました。
1907年、リー女史のお母さんが亡くなり、
リー女史はイギリスでの自分のすべきことを全部なし終えたと考えたのでしょう。
彼女は、宣教師として日本に行く決断をしたのです。

1907年11月、51歳のリー女史は横浜に着きました。
その後、横浜や東京などで宣教師として働いていましたが、
草津における、ハンセン病の人たちの生活を知り、
リー女史がハンセン病患者のための働きを始めたのは59歳のときでした。

⬇はリー女史の働きの拠点となった聖バルナバ教会。



リー女史は自分自身の財産を使い果たしてまでも
ここにハンセン病の人たちのホームを作りました。
男子、女子、家族、感染してしまった子どもたちのホーム
感染していない子どもたちのホーム、などなど。

さて、私が草津に行った時にはバルナバ教会に付設する「リーかあさま記念館」は
休館日でしたが、特別に教会の牧師さんが鍵を開けて見せてくれました。

その後、感染していない子どもたちのホーム「聖マーガレット館」も特別に見学させて
くださいました。



ハンセン病の親から生まれた子どもたちは、できるだけ早く親から離す必要があったそうです。
発病してしまうと、平均で30歳ぐらいまでしか生きられなかったとのことでした。
社会の差別も激しく、ここでは感染していない子どもを成長させ、自立させることを目的にしていたそうです。
財産を使い果たしたリー女史は、アメリカに講演に行き、草津の実情を訴え、資金の援助を願いました。
その時、自分の愛する幼い娘を病気でなくした一人の夫人が援助を約束してくれました。
その資金で「聖マーガレット館」が建てられたのだそうです。マーガレットはその夫人の娘さんの
名前だということです。

ハンセン病は特効薬が開発され、不治の病ではなくなりました。
今は全国にハンセン病の医療施設がいくつか残されていますが、
そこに暮らす方々も高齢者が多くなったとのことでした。

草津のハンセン病施設は、リー女史という強力な指導者が与えられたことで、国内では最大規模の
療養施設となったそうです。
しかし、その裏側でたくさんの人々の協力があったことは言うまでもありません。
リー女史は1941年、兵庫県の明石で逝去。
遺骨は遺言により、草津の聖バルナバ教会の納骨堂に納められたそうです。

50歳を過ぎてから来日、草津で精力的に働き始めたのは59歳のとき。
そして亡くなるまでの34年間、日本の人、特にハンセン病患者のために働いたリー女史。
同じような年齢の私としては、彼女の足跡に非常に感動したのです。
自分にはそのパワーも努力も工夫もないからでしょうね、、、、。

でも、草津は私にとっていい刺激の旅になりました。





参考文献
写真集・コンウォール・リー女史物語 コンウォール・リー女史顕彰会編 日本聖公会来た関東教区
「草津」聖バルナバミッションとコンウォール・リー女史記念事業 ニュースレター2


最初の写真はコンウォールリー女史を記念したリー女史頌徳公園




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横須賀つながり~ベンネット先生の足跡

2012年06月14日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


横須賀ネービーバーガーから始まり、
アメリカ海軍基地司令官デッカーさんの戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間の
「横須賀を日本復興の見本」にしようとした努力について、前回書きました。
ところでデッカーさんは
栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうですが、
この青山学院大学工学部は現在はありません。
青山学院の歴史を調べてみると、

1946年 米海軍横須賀基地第4代司令官であるデッカー大佐が、従軍牧師のリッカーを介し
キリスト教学校を通じた平和と民主主義の教育を提案。
神奈川県横須賀市に古坂僴城が分校の設立を決定。
1947年 海軍工機学校の設備を利用し、青山学院横須賀分校専門部機械科・土木建築科を設立。
翌1948年に第二高等部も設立される。
1949年 青山学院大学開学、文学部英米文学科・基督教学科、商学部、工学部を設置。
渋谷キャンパス復興で維持困難の為、横須賀分校を閉鎖。
1950年 工学部を関東学院大学に譲渡。

と、あります。
デッカー大佐が尽力したミッションスクール青山学院の工学部は、横須賀にある
関東学院大学に譲渡されたということでした。

さて、我が家の家族にもちょっとだけ関係した関東学院大学工学部。
そんな歴史があったのですね。

この横須賀の関東学院大学の創立期に深くかかわった
アメリカ人のバプテスト派の宣教師アルバート・アーノルド・ベネットについて
書きたいと思います。
実は「ベネット」と表記している名前ですが、彼自身は「ベン子ット」と自分の名前を書き、
周りの人々も「ベンネット先生」と親しみと尊敬を込めて呼んでいたようです。

ベンネット先生は1879年(明治12年)9月にマサチューセッツ州で結婚しましたが、新妻ベラとともに
そのわずか3ヶ月後には日本に赴任をしたのです。
彼は宣教師でしたから、横浜を起点に宣教活動をしました。
そのため日本語の勉強もすぐに始め、後には日本人と間違えられるほど上達したということです。
ネイサンブラウン博士は当時、新約聖書の日本語訳と日本語賛美歌の編纂を行っていましたが、
ベンネット先生はこの働きの補佐をし、同時に牧師の養成機関を作る努力を始めました。

1884年10月16日、横浜山手64番地に横浜バプテスト神学校が設立されました。
そこでは日本人のキリスト教伝道者の教育と育成がされました。
この神学校が現在の関東学院大学の前身となりました。

1896年(明治29年)岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmを
震源とする明治三陸大地震が起こりました。
M8.2~8.5という巨大地震で、地震後の津波が本州観測史上最高の波高38.2mを記録するなど
津波被害が甚大だったそうです。
ベンネット先生はこのとき、三陸大津波の救援のために横浜で救援金を集め、物資をたずさえ
現地に赴き、被災した人たちのために1ヶ月にわたり不眠不休の働きをした、ということです。

1909年、ベンネット先生は横浜バプテスト神学校創立25年記念会で病をおして奉仕し、
その翌日、天に召されました。
享年60歳。
30歳の時に来日、30年間日本の人々を愛し続けました。

横浜外国人墓地にあるベンネット先生の墓の墓碑銘には
“He Lived to Serve”(生涯にわたって奉仕の人であった)
と記されてあるそうです。



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『讃美歌 (1954年版)』48番「しずけきゆうべの」は、ベンネット先生が作詞し、夫人のベラが作曲したものだそうです。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルバート・アーノルド・ベネット
http://univ.kanto-gakuin.ac.jp/関東学院大学
関東学院大学「道を求めて―関東学院大学とキリスト教教育」1997
http://ja.wikipedia.org/wiki/青山学院大学

歩く支援の旅~ウォルター・ウェストン(2)

2012年05月19日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


日本アルプスを世界に紹介し、日本の山を愛した明治時代の宣教師
ウェルター・ウェストン。
日本山岳会の名誉会員です。
日本各地で今も『ウェストン祭』が行われています。
「上高地ウェストン祭」はとても有名ですが、それ以外にも
岐阜県の「恵那山ウェストン祭」、新潟県糸魚川市親不知では「海のウェストン祭」、
宮崎県高千穂町では「宮崎ウェストン祭」などがあります。

ところで、これらの山にかかわるウェストン祭とは異なるものが
『青森ウェストン祭』です。

時代は「八甲田雪中行軍」(私も映画で見ましたが、、、)の
大遭難がおきた1902年(明治35年)のことです。

青森は大飢饉に襲われました。
青森の悲惨な状況を知ったウェストンは翌年1903年(明治36年)の2~3月にかけて
雪の中、青森まで徒歩で旅をし、現地の様子を見たのです。
当時は鉄道などが整備されていなかったので、大変な旅だったと思われます。
やっと着いた青森では人々は食べられるものは食べ尽し、山の木の根などを掘ってまで
飢えをしのいでいたということです。

ウェストンはその惨状を英字新聞などで詳細に報告しました。
日本の横浜をはじめ、各地に居留していた英国人だけではなく
英国本国でも救済を呼び掛け、集まった資金や物資を被災地に送り届けました。
救援提供物資は、米・174トン、味噌・40トン、毛布13145枚など、ということです。

ウェストンが青森に来た時、戸来村(現新郷村戸来)も訪れました。
そして当時、同村の郵便局長をしていた戸来喜代治宅に宿泊しました。

その後、喜代治氏の子息・戸来爾氏がウェストンを偲(しの)び開催することとなったのが
「青森ウェストン祭」だということです。

青森ウェストン祭は他の県の美しい山々や景色を世界に紹介したウェストンを想うものではなく、
大飢饉、凶作という悲しい出来事を自らの足で青森までやってきて、あらゆる手段を使って
支援し、飢えている人々に物資を届けたウェストンの別の面を紹介しています。


青森には日本の人々を心から愛したウェストンの足跡が残っています。







参考文献
http://www.jac.or.jp/info/shibudayori/aomori/weston2006.htm 
http://www.kamikochi.or.jp/spots/weston-relief/
http://mahoro.exblog.jp/10919620/
http://www.mutusinpou.co.jp/日曜随想/2010/06/11960.html



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私は山に向かって目を上げる~ウォルター・ウェストンの道(1)

2012年05月17日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


山と海、どちらが好き?と聞かれたら、とても困ってしまいます。
どちらも好きなのですが、最近は山歩きに傾いているかも、、、、。

40代のころの中国の天山山脈や崑崙山脈、四川省の山々などへはよく仕事で出かけました。



(中国パキスタン国境付近カラクリ湖ー4000mから7000mの山を見る)

そのころから、低いところから高い山を見上げるのが好きです。


ところで、
山と外国人に関わる3つの「K」のつくリゾート地
軽井沢(KARIZAWA)を別荘地として発展させたカナダ人宣教師アレギザンダー・ショー(1846-1902)





アメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士の清里(KIYOSATO)





そして上高地(KAMIKOCHI)を登山基地として紹介したウォルター・ウェストン。





先日訪れた栂池自然園の資料室で、明治時代に日本に来たイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストンの展示を見つけました。




ウォールター・ウェストンはイギリス山岳会の会員であり、 日本アルプスを世界に紹介し、
日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。
1861年、イギリスのダービーで生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業後、リドレーホール神学校で学び
1988年(明治21年)27歳のときに英国聖公会・ 教会伝導協会派遣の宣教師として
日本にやって来ました。


ウェストンはもともと山が大好きで、 聖職に就いた25歳頃よりスイス・アルプスで
本格的な登山をはじめヴェッターホルン、マッターホルン、ブライトホルンなどの登頂のほか、
アイガー、ユングフラウ等にも挑んでいたそうです。

ウェストンは宣教師として3度来日、熊本、神戸、横浜に居を構え、宣教活動の合間に日本各地の山々に登り、
日本の山村の風俗・ 習慣などを本に書き、海外に紹介しました。 

上高地の宿、清水屋にはウェストンが残した外国人登山者のための署名簿「クライマーズブック」が残っています。
そこには以下のような記述があります。

「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて- 
1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)より
ヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。
 上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。
そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います、、、、、

この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から
1914年までの登山日誌のような形で書かれているそうです。
ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、
後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。

さて、明治のころは日本人に『山歩きをして楽しむ』というような習慣はありませんでした。
日本人は山は聖なるものとし、ウェストンが登山をしようとした時、『外国人に山を汚されてしまう』と
入山を拒んだ村もあったそうです。
その後、彼は日本山岳会創設にも尽力し、日本古来の信仰登山からスポーツやレジャーとしての登山、
ハイキングへと人々の意識を変えました。


ウェストンが登った山は以下です。

1891年 浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曽駒ヶ岳
1892年 富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳
1893年 恵那山、富士山、大町から針ノ木峠超え、立山、前穂高岳
1894年 白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1902年 北岳
1903年 甲斐駒ヶ岳、浅間山
1904年 地蔵岳、北岳、千丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳、富士山
1912年 有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年 槍ヶ岳、奥穂高岳、焼岳、霞沢岳、白馬岳
1914年 立山温泉から針ノ木峠超え、燕岳、大天井岳、富士山

すごいですね。
彼は山に登り、何を考えていたのでしょうか。

詩篇121篇1・2節を思い出します。
 「私は山に向かって目を上げる。
  私の助けは、どこから来るのだろうか。
  私の助けは、天地を造られた主から来る。」

山に登ると、ちょっとだけ他の人より天に近くなったような
そんな気が、私はします。


ウェストンは日本の近代登山発展のための貢献ははかり知れないものがあり、
日本の近代登山の大恩人なのですが、
一方で教会の反感を買うほど登山に夢中になり、最後には教会の職を辞してしまいます。
ほっ!やるね~、、、という感じ。

彼の記録をいろいろ調べると、登山関係は豊富なのですが、
宣教師としての足跡はたどりにくいです。
でも、1つ見つけました。
それは、次に続く、、、、ということにしたいと思います。


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参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルター・ウェストン






明治の外国人~宣教師ヘップバーン

2012年04月27日 | 日本に影響を与えた宣教師たち

『お雇い外国人』と聞くと、何それ?
最近の外国人労働者を冗談っぽく呼んでいるの?
と言われるかもしれませんが、、、。
現在の外国人労働者のルーツをたどってみると、、、。

今から150年ほど前、明治政府は日本の近代化(文明開化)を
図るため、多くの欧米人の専門家を日本に招き、その技術や学問を積極的に学びました。
なんと、1898年までに、イギリスから鉄道開発、電信、公共土木事業、
建築、海軍制、などの専門家、6177人、
アメリカから外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などの
専門家、2764人、フランスから陸軍制や法律家、619人、
イタリアからは主に絵画や彫刻といった芸術45人、合計で1万人以上の
外国人専門家が日本を訪れているのです。

彼らは当時「御雇い外国人」と呼ばれていました。
また、多くのキリスト教の宣教師もキリスト教の解禁とともに日本にやってました。

さて、
1859年(安政元年)、医者であり、キリスト教の宣教師であったヘップバーンが来日しました。

実はヘップバーンは日本に来る前には中国での宣教を目指していました。
一度は中国アモイに入ったものの、大流行していたマラリアを患い、帰国を余儀なくされました。
その後、ニューヨークで病院を開業し、コレラの治療などで成果をあげ、
彼の病院は有名になりました。
病院経営はその後も順調でしたが、ある時、ヘップバーンは日本でのキリスト教の宣教に使命を得ます。
人生の分岐点です。
彼はすべてを投げ打ち、ひとり息子も知人に託して妻のクララとともに日本にやって来たのです。
(ものすごい決断ですよね!)

宣教に燃えていたヘップバーンは
来日後はすぐに、横浜の寺で医療活動と教育活動を始め、
横浜居留地(外国人は居留地に住まなければなりませんでした)に小さな学校(塾)を開きました。
のちにこの塾は明治学院大学、フェリス女子大学へと発展していきます。





さて、
このヘップバーンというのはヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士のことで、そして小さな学校は
ヘボン塾のことです。
博士は日本と日本人を愛し、日本語を熱心に勉強しました。
そして、英和辞典の編纂や聖書の和訳にも尽力しましたが、
当時、言葉を翻訳するということは困難で手間のかかる作業でした。
また、多くの優秀な日本人学生を育てました。
ヘボンの弟子には高橋是清や島崎藤村がいます。

ヘボン博士にとって日本での時間はあっという間に流れていったのではないでしょうか。

「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」

と日本を離れる時に、ことばを残しています。
ヘボン博士はこのとき77歳になっていました。
彼は母国を離れ、33年間も日本に滞在し、日本のために貢献したのです。

「Do for others」

これがヘボン夫妻の生涯を貫く信念だったと言われています。





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出典:明治学院大学の歴史と現在 http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/history.html
明治という国家 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/187912/