私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

草津の湯~ベルツ博士の愛した温泉

2012年08月16日 | 御雇い外国人 教師


青春18きっぷを使って、14、15日と草津に旅をしました。
ただのんびりと、普通電車に乗って、東京から高崎、吾妻線に乗り換えて、長野原草津口で下り、
バスで草津に入りました。約4時間の旅です。

草津での宿は純和風のお得なお宿、一泊朝食付で7500円の田島屋です。




とっても親切な女将さんは、私の住んでいる東京から草津にお嫁に行った人でした。
「住めば都」彼女のことばです。
草津、、よいとこ、一度はおいで、、、、ということですね。

さて、一日目の午後は小さな街草津を歩きました。
お盆なのですごい活気があります。
細い道は渋滞。
車も人も多いです。
⬇は草津の中心、湯畑。




そこから歩いて、ベルツ博士記念館へ。



ベルツ博士はドイツ出身の医師です。
東大医学部の前身である東京医学校の教授として日本政府に雇われたお雇い外国人でした。
1875年のことです。
日本近代医学の父と言われており、写真を見るとちょっといかめしい怖そうな先生ですが、
とても優しく聡明な学者だったそうです。
在日29年の間に多数の門下生を教育し、日本の医学の発展に大変な貢献をしました。

博士は1876年(明治9年)6月6日に横浜へ着いて、休む暇もなく、
6月10日には早くも東京大学で講義を開始したそうです。
お雇い外国人の中には日本政府との数年間の契約が終わると早々に母国に戻る人が多かったそうですが、
ベルツ博士はその後、29年も日本に滞在したのです。

彼の功績は教育ばかりでなく、日本人の身体的な特徴を研究したり、肺ジストマ寄生虫を発見するなど
すばらしいものですが、特に日本人の妻、はなと結婚した1897年以降は、たびたび草津温泉を訪れ
「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある」と
日記に記しています(1904年9月の日記)。
彼は温泉の化学的成分を研究し、人々の身体にどのように作用するのか、研究をしました。
草津には健康を取り戻そうとする人が集まり、
ハンセン病に病む人たちの集落もできました。


草津の山々



草彼の日記はドイツ語、日本語、英語で出版され、草津は世界的に広く知られることとなりました。
草津町は町制施行100周年を迎えた2000年に草津温泉とベルツ博士の関係を後世に伝えるために
「ベルツ記念館」を開館しました。
(1階は道の駅、2階は記念館になっていますが、ベルツ博士の資料や本などの販売はありません)




一方、もともとスポーツマンだった博士はドイツに日本の柔道を初めて伝えました。
また、フェンシングの達人であった博士は
当時随一の剣豪であった直心影流の榊原鍵吉に弟子入りもしているそうです。

さて、「ベルツの日記」は単に外国人のお医者さんの日記ではありません。
明治維新後の日本政府の動き、一般の日本人の生活、
外国人教師たちのこと、など非常に客観的に冷静に書かれており、
明治時代を研究する人の必読の書となっているのではないでしょうか。

ただ、現在絶版になってしまっているのが、残念でなりません。


ベルツ記念館の帰り道、西の河原の露天風呂に行きました。



⬆これ、お湯の川です。

ベルツ博士の愛した温泉は、ちょっと熱過ぎ。
45度から50度ちかくあります。
20分が限度ですね、、、どんなにがんばっても。



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京都の旅はちょっとお休みです。


参考文献
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/06/post_649.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・フォン・ベルツ
http://www.nippon.com/ja/column/g00044/







しあわせを探す旅

2012年05月26日 | 御雇い外国人 教師


遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、誰かが言っていた、、、。

ドイツ新ロマン派の詩人、カール・ブッセ(Carl Busse,1872-1918)の有名な作品「山のあなた」は
明治時代の詩人、翻訳家、文学者である上田敏の翻訳詩集『海潮音』(明治38年)に収められています。


山のあなた
     カール・ブッセ
     上田敏訳 『海潮音』より

山のあなたの 空遠く
「幸い」住むと 人のいう
噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて
涙さしぐみ かえりきぬ
山のあなたに なお遠く
「幸い」住むと 人のいう


上田敏の訳は時代を超えた名訳と言われていますが、
もう少し(自分に)わかりやすく解釈してみると、、、


遠い遠い山のずっと向こうには幸せがあるんだって、と誰かが言っていた、、、。
それが本当なら、と
私も幸せを探しに行った。
私と同じように『幸せ』を探している人がたくさんいたけれど、
私が求めていた「幸せ」は見つからなかった。
悲しくて涙を浮かべながら、戻ってくると
他の人が教えてくれた。
その幸せはね、あなたが探しに行った山のもっとずっと向こうにあるんだよ、って・・・。




ちょっとさびしい、それでいて心惹かれる詩です。

人はみな確かで、壊れたり崩れたりしない確固としたものを
探して一生を旅しているのかもしれません。
それが『幸せ』なのか、何なのか、、、。


ところで、このカール・ブッセですが、1887年、来日して東大で5年間も哲学を講義していた、、、
ということです。
つまり、御雇い外国人のひとりだったのです。

ブッセはドイツに帰国後、大学教授となり、1892年出版した『詩集』で有名になりました。。
一方、ブッセの詩を翻訳した上田敏は1897年(明治30年)に東大を卒業しています。
ですから、二人の間には5年ほどのタイムラグがあり、面識はなかったということになります。

上田敏は東大の大学院でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の学生だったそうですが、
小泉八雲から
「英語を以て自己を表現する事のできる、一万人中、唯一人の日本人学生である。」と
最大級の賛辞を贈られています。

その後、東京高等師範学校(筑波大の前身)の教師となりましたが、東大を辞した小泉八雲の
後任として東大で教えます。
本当に優秀で、小泉八雲に可愛がられていたのでしょう。

1908年にヨーロッパに留学し、帰国してからは京都大学の教授となりました。
また1910年には、若干35歳で慶応義塾大学文学科顧問に就任しています。

ここまでは順風満帆のように思えますが、
残念なことに上田敏は大正5年(1916)7月9日
腎臓疾患(尿毒症)のため東京の自宅で急死してしまいます。
それは、親交の深かった森鴎外を訪ねようとしていた時だった、と言われています。
享年43歳。
まだまだ活躍してもらいたかった、、、あまりにも早すぎる死だと思います。

上田敏は東京の築地生まれ。築地には外国人の居留地があり、特に多くの教育者、
文学、語学の教師、宣教師の住んでいたところです。
こんな環境も上田が優れた翻訳者、文学者、教育者となる素地だったのかもしれません。


やまのあなたの、、のドイツ語原文を添えます。

Über den Bergen
                Karl Busse
Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit druben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.





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