私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

食の国際交流~長崎カステラ

2012年10月24日 | グルメ

「居留地研究会全国大会 in 長崎」に参加する!
と言ったら、家人から
『じゃ、長崎のカステラ、3種類買ってきて』と言われました。

前回、所用で長崎に行った時に地元の方から勧められたF屋のカステラを食べ、
本場長崎カステラのファンになりました。

我が家は私以外は全員男、ですが、とにかく甘い物好きで
カステラが大好きです。

特に主人と私は『カステラ一番、電話は2番、3時のおやつはB堂』という
コマーシャルを聞いて育った世代です。
主人は「B堂のカステラが食べたい。」
と言ったのですが、私は『B堂は東京にもあるじゃない。』
と言い返しました。
主人は「きっと、味が違うよ、本場だから。」
『とにかく3種類ね。』と念をおされました。


さて、カステラの由来ですが、一般的にはスペインのカスティーリャ王国(Castilla)の
ポルトガル語発音であるカステーラ(Castela)だそうです。
16世紀の室町時代末期に、ポルトガルの宣教師によって平戸や長崎に伝えられたとされています。
当初のカステラは鶏卵、小麦粉、砂糖で作った簡素なものであり、
ヨーロッパの菓子類としては珍しく乳製品を用いないことから、乳製品を生産、常用しない当時の日本にも残ることができた、
ということです。
またカステラの製造に重要なオーブンは当時の日本には存在せず、オーブンに代替する天火として、
引き釜という炭火を用いる日本独自の装置が考案された、とのことでした。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/カステラ)

ところで、長崎と言えば、オランダ、清国、長崎出島 鎖国 と想像するのですが、
まだ出島ができていなかったころ、(出島は1636年完成)
ポルトガル人と日本人はおおらかに交流をし、カステラの作り方が日本人に伝えられたのではないか、
ということです。
多分、当時のカステラと今のカステラでは味がだいぶ違うのでしょうね。
日本人はもともとの味にいろいろな工夫を加えて、現在のとろけるような味のカステラができたのだと
思います。

さて、主人から『カステラお願いね』というメールを、その後2回も受け、
東京に帰る前に、長崎駅前のF屋(8月にはここのカステラを買いました)に行き、1本調達
次にすぐそばの売り場のS軒に行って、1本。
S軒のスタッフはF屋のカステラの袋と私の持っていた荷物を
大きなS軒の袋に詰め替えてくれました。
その近くのB堂に行って注文している間に、B堂の総本店が泊まっていたホテルのすぐそばだったのを
思い出し、
お店の人に「ごめんなさい、B堂の総本店がホテルの近くなのでそちらで買ってみたいんです。』と言うと
『あ、そうですか。建物もこことはちょっと違うので、ぜひそちらに行ってみてください。』と勧められました。



⬆大波止の総本店

そこでB堂まで駅からぼちぼちと歩き、
総本店でカステラを1本買いました。
B堂のスタッフは私が持っていたS軒の袋をみて、『こちらにお荷物をまとめましょうか?』と
言ってくださったので、「はい、ありがとうございます。」と言ってお願いしました。
S軒の袋の中味はS軒のカステラとF屋のカステラ、他、ですから、
ちょっと複雑な気持ちがしたかもしれませんね。

そんなちょっと図々しい私にも、美味しいお茶と私が買ったカステラと同じ種類のものを1切れ、
どうぞ召し上がってください、と持ってきてくださいました。
熱いお茶と甘いカステラ、おいしかったです。


東京の家には午後9時ごろ戻りましたが、さっそく
長崎居留地研究会の会員でカステラのお話をしてくださったkobaさんのおすすめ通り
銘柄を隠して、3種類を一口大に切って、食べ比べてみました。
(主人は食べ比べをしてみたかったのですが、銘柄を隠して、とは思わなかったようです)

さて、1番美味しい、と全員一致で選ばれたのは、、、、どこのものだと思いますか?
前回のみんなのお気に入り、F屋でしょうか。

実はB堂だったのです。家族4人、全員がB堂を選びました。
本当にしっとりとしていて上品な感じで、おいしかったです。

中国語では本当においしいものを食べたとき「口福」と言います。
口がしあわせになる、という意味ですが、、、
まさにその通りで、あまりに美味しかったので、B堂のホームページに書き込みをさせてもらいました。

美味しさは人それぞれ、だとは思います。
また、その時の体調によっても味覚は異なると思いますが、今回の結果はそんな感じとなりました。
ちょっとおもしろい食べ比べ、でした。

参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/カステラ
福砂屋 カステラ縁起
松翁軒 カステラおぼえ
文明堂総本店 カステラの由来

*文明堂総本店と東京の文明堂は別組織なのだそうです。
だから味も違う、ということでした。
主人が「ほら、だからいったでしょ」と鼻高々でした。




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長崎居留地を歩く 1

2012年10月23日 | 旧居留地

長崎の居留地研究会全国大会に2泊3日で参加しました。
この全国大会には日本全国の5つの居留地から会員の方が集まってきました。
会場は普段は勝手に見学できない旧居留地の中にある「活水女子学院」です。



当日は長崎市民100名以上も参加されたということで、
長崎市をあげての「全国大会」であったのではないでしょうか。
大会の裏側で準備をされた長崎居留地研究会のみなさまの努力とエネルギー
素晴らしいものでした。

実は今年の8月、始めて長崎の居留地を歩いた時に、
オランダ坂のところにある13番館という洋館で休みました。



オランダ坂セットという、コーヒーにロールケーキがついたものを頼んだのですが、
由緒ある建物で休憩できて、本当に疲れが取れました。
(その日はとっても暑かったのです!)



そのときに話しかけてくださったのが、長崎居留地研究会のYさんでした。
『今年は長崎で居留地の全国大会があるんですよ.』と教えてくださったので、
『それならぜひ参加したい。』と応えると
さっそく、全国大会の準備の中心になっていらっしゃるKさんに、携帯で連絡をしてくださいました。

あっという間の連携プレーでした!

それから3ヶ月、私は東京の築地居留地研究会の会員として、長崎の大会に参加しました。
まさにYさんとKさんとの出会いがなければ、2度目の長崎はなかったと思います。



(写真を撮ってくださったのがKさんなので、⬆はYさんと私)

また、8月に来た時に
長崎居留地研究会の会長であるブライアン・バークガフニ先生(長崎総合科学大学教授)の書かれた
『霧笛の長崎居留地 ウォーカー兄弟と海運日本の黎明』長崎新聞社刊』を買って、ちょうど読み終えたところでした。



http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/2006/03.html

紹介文⬇

「三菱の大型蒸気船の船長として
明治維新から海運日本の草創に貢献した
英国人のウォーカー兄弟。
やがて長崎の外国人居留地を拠点に
事業で成功を収めるが、歴史の大波に翻弄されて―。
彼ら家族の波乱の生涯を新事実をまじえ紹介。」


さて、このバークガフニ先生の大会基調講演『長崎における日英の出会いと居留地の誕生』は
とてもわかりやすく、長崎居留地の魅力を十分に伝え、さらに興味を持たせる講演でした。
この講演を聴くだけでも、東京から参加したかいがありました。

2日目は
エクスカーション。
長崎居留地研究会の会員の方々が特別な居留地のコースを案内してくださいました。
⬇はKさんが編集したエクスカーションコースマップです。



さて、
私は幸運にもバークガフニ先生のいらっしゃるグループだったので、著作にサインもしていただきました。
いいことばかりですね!



コースは
旧香港上海銀行長崎支店集合、



その後、8月には立ち入り禁止(耐震工事のため?)になっていた旧イギリス領事館の中に入りました。








オランダ坂を上がって、東山手12番館で休憩。





⬆活水女子学院を創設したラッセル女子の使っていた聖書。

坂を上がり切ったところにある日本聖公会のチャニング・ウイリアムス司教の住居跡。⬇





英国聖公会会堂碑跡⬇



⬆この左側の民家のあたりだったそうです。

旧英国領事館坂道 海星学園のあたりだそうです。⬇



明治時代から全く変わっていない坂道(海星学園の中)⬇






南山手27番館





坂を下ると



ウォーカー家跡 表札だけですが、カタカナでウォーカー と読めます。



その後、祈念坂のところに出て、
大浦天主堂(国宝)で解散となりました。


8月に歩いた時とは違い、長崎居留地研究会のメンバーでさるくガイドの方、バークガフニ先生のコメントが
至る所であり、一人もいいのですが、
やっぱりガイドさんがいると歩き方が深くなるな~、と実感しました。

さて、長くなりました。
続きは次回にしたいと思います。

8月の記事は下記です。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/m/201208 長崎チャンポンで始まる居留地の旅
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/d/20120903 旧香港上海銀行長崎支店~影と光の建築家
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/d/20120908 洋館で一休み オランダ坂ケーキセット


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外国人居留地研究会全国大会in長崎2012

2012年10月20日 | 旧居留地

まだまだ函館のことについて書きたらないのですが、
函館から帰って、次の週に沖縄に行き、今長崎にいます。

実は明日から長崎で日本の中にある6つの居留地の代表や会員たちが集まって
「第5回外国人居留地研究会全国大会in長崎2012」が開かれるのです。



案内パンフレットによると

今大会は「異文化の出会い-居留地における伝道・外交・貿易」を共通テーマに掲げ
基調講演ではブライアン・バークガフニ長崎居留地研究会会長からイギリス(人)との
交流を中心にお話しされる予定です。
次に、各地の代表者が研究活動について報告します。
そして、パネルディスカッションでは、これらを受けながら、
当該テーマである「異文 化の出会い―居留地における伝道、外交、貿易」
についてのディスカッションを深めるとのことです。
特に、居留地の多角的な交流(日本人と居留地人、居留民間のコミュニケーション、
居留地間のネットワークなど)「人の交わり」に焦点を当て、
第 2 にこの議論の上に、 国や、国境を越えて交わる「人際交流」の重要性に
焦点を当てるということのようです。

さらに楽しみがふたつ。
こんな状況の中、上海から租界の研究をしている中国人教授が加わることです。
私は、上海と天津、青島などの疎開を歩きましたが、
日本疎開だけは中国の街に同化してしまい、特徴があまり残っていません。
ちょっと興味のあることだけに、楽しみです。

また、今回おシンポジウムの会場は活水女学院。
歴史的建造物のある女子大で、普段はキャンパスにはいることができません。
それを見るのも楽しもの一つ。




今日は長崎港そばの格安ホテルの泊まっています。
時々船のきて木が聞こえてくるのが、何とも異国情緒たっぷりの長崎に
ぴったりです。


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ドイツのマイスター制度と外国人マイスターたち

2012年10月11日 | 歴史おもちゃ箱


今回、函館、小樽、札幌、弘前と旅行をし、
改めて「マイスター」という制度と人材について考えてみました。

実は小樽へ行った時に、小樽ビールの工場併設のレストランに行き、
ドイツ人エンジニアマイスターの作ったビールを飲みました。
私はあまりお酒が強くはないけれど、
小樽ビールは本当に美味しかった(^O^)

飲む前には、工場見学ツアーに参加。



まだビールになる前の酵母だけの液体を味見させてもらいました。
これが甘くて独特の味わい。ちょっと忘れられません。

⬇酵母発酵のための槽



この「小樽ビール」持って帰れません。この場所でしか飲めないそうです。
ちょっとでも動かすと味が変わってしまうから、だそうです。




すごいマイスターのこだわりですね。




小樽の観光名所、運河のある倉庫街にビアレストランはあります。




さて、ドイツ人マイスターのこだわり、を函館小樽で実感しましたが、、、。


ドイツでは、3つの階級による古くからの徒弟制度が今でも続いています。
戦後になり、職種はぐんと減りましたが、それでも41種の仕事で
「レーリング(見習い)」「ゲゼル(職人)」「マイスター(親方)」からなる制度が残っています。
マイスターというのは、業務独占資格、つまり日本でいう医師、弁護士、会計士などのようなものです。
ただ、石材加工、ハム・ソーセージなど、手工業など多様な職種があります。
この資格がないと良くも悪くも仕事ができない、ということになります。

ドイツは現在10%を超える高い失業率が社会問題になっています。
それを解決する一つの手段として
2004年に新手工業法が生まれ、伝統的なマイスター制度に変化が起きました。

これまで94種類あったマイスター制度の業種を41種類に半減させました。
例えば、「タイル工事」「塗装」「彫刻」「メッキ」「木彫」「ブラインド・シャッター」
「紳士・婦人服仕立て」「製靴」「ベーカリー」「ケーキ」「ビール醸造」「理髪」
「クリーニング」「楽器製造」「広告看板」などの職種は資格不要となりました。

どれも技術や職人芸など長いキャリアが必要とされるものですよね。
ただこれらの業種は、マイスター制度の規制対象からはずされることで
仮に技術レベルや人材の質の低下が起こったとしても、マイナーな業種であるから
それが直接ドイツ企業や産業の国際競争力の低下につながるとは考えにくい、ということです。

それではマイスター制度が継続されたのはどんな職種でしょうか。
例えば、
大工・食肉加工・ベーカリー・家具製造・眼鏡技師・整形靴・理髪師などです。
これらは、技術の習得が困難、第三者の健康や生命に危険を及ぼす恐れがある、
などの理由から残されました。

さて、ちょっと個人的な話になりますが、主人は整形靴のゲゼル(職人)です。
ドイツ人ではありませんが、ドイツの資格を持っています。
しかし、ゲゼルまではどうにか資格を取得できても、外国人がマイスターになるに
ドイツ語のほか、かなりの資金と修業がいる、ということで難関です。

日本は例えば、パンやケーキなど、自分で作るのが得意であれば、幾つかの申請などを通して
開業することもできます。
その点、市場はずっと自由です。
それに比べて、ドイツはマイスター制度の伝統を守ることで良い製品を作る技術を保ってきたものの、
時代が流れた現在では、市場を狭くしてしまうという現象が起こったのです。

しかし、
長い時間と大金を費やして、2004年以前にマイスターを取った
ドイツの職人たちは嘆いていることでしょう。

そういえば、日本でも、
以前国家資格であった「通訳ガイド試験」は今は民間資格となりました。
語学は実力本位ということなのでしょうか。
難関のガイド試験に苦労して受かった人たちは、この改革を快く思っていないようです。
また
私の持っている「産業カウンセラー」という資格も受験した時には
労働大臣の名前と認印がありましたが、今は民間資格です。

最近取得した「キャリアコンサルティング」の資格はまだできて数年ですが、
国家資格となっています。
時代とともにいろいろ変わって行くものですね。
社会の波にうまく乗るっていうスキルも必要なんでしょうかね~?






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ハム・ソーセージマイスター カール・レイモンの人生と味

2012年10月11日 | 旧居留地

函館ハリストス正教会(国指定重要文化財)



カトリック元町教会(函館市伝統的建造物)



函館製ヨハネ教会など元町エリアを歩いていたら、もう午後1時半になってしまいました。

そこでたまたま(奇跡的に)見つけたのが、こんなクラシックなお店。




中でホットドックやサンドイッチなど軽食を食べることができます。⬇



この、たまたま入ったお店はハム・ソーセージのドイツ人マイスター、カール・レイモンのお店でした。
カール・レイモンのソーセージを食べたら、これまで美味しいと思っていたソーセージが
ぼそぼそとしたはりのない味に感じられてしまいます。



ソーセージセット⬆

これ、味音痴の私が『ん、美味しい!』と久しぶりに感じた味です。
あまりに美味しかったので、お店の2階にあるカール・レイモンの記念館も見学しました。
そこでまたまた、彼の波瀾万丈の人生にびっくり!です。

1894年3月28日、ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)のカルルスバ-トという町で、生まれるた
カール・レイモンの父は4代続いた食肉加工のマイスターだったそうです。
父の白いエプロンにつかまって仕事場に入ったレイモンは、ハム・ソーセージができあがる工程を
来る日も来る日も飽きることなく眺め続けていたそうです。
父がレイモンを友人のマイスターのもとへ送り、ハム、ソーセージの本格的な修業を始めたのは14才の時だったといいます。
14歳で一生の仕事を決めるなんて、すごいことですよね。

その後、レイモンは18歳の時に独り立ちするまで、厳しい修行を重ねます。
故郷を離れベルリン、フランス、スペインで修行を重ね、帰国後マイスターの資格を取ります。

第一次大戦後にはレイモンはアメリカに渡り、3年間の期限付きで大量の缶詰の技術を学ぶのですが、
アメリカからヨーロッパに戻る帰途の1919年、日本に立ち寄ります。
そこで偶然にも東洋缶詰の重役を紹介され、日本にハムソーセージの技術指導をするため
函館に赴くことになります。

1920年から1年、函館に住むことになり、レイモンは勝田旅館に滞在しましたが、そこで
生涯の伴侶となる勝田コウと大恋愛をします。
予期せぬ出来事なのか、運命だったのか、、、ふたりの交際はコウの両親に大反対されてしまいます。
コウは思い詰めますが、レイモンの情熱とふたりの若さと強さゆえ、
大正11年(1922年)別々に日本を出国、コウは下関から釜山に渡り、天津でレイモンと再開します。
今の時代でも国際的な駆け落ちは相当勇気のいることだと思うのですが、
ふたりはそれをやってのけてしまいます。

その後、苦労して上海でドイツ行きの旅券を発券してもらい、レイモンの故郷で結婚します。
しかし、その3年後、レイモンが函館に帰る、と言い始めます。
「知らない土地で神経を摩り減らす私の姿を見ていた主人は、自分が“異国人”になったほうがいい、
きっとそう思ってくれたのだと信じています」とはコウのお話。
1925年、レイモン31歳、コウ26歳のときです。

それからずっとレイモンとコウは第2時世界大戦も乗り越えてハムとソーセージを作りました。
自宅横の工場の入口には「北海道創始者仕事場(HOKKAIDO PIONEER'S WORKSHOP)礼門」の看板を立て、
ここでレイモンはドイツ伝統の製法によるハム・ソーセージづくりを守り続けました。
すでに日本に来てから50年の月日が経っていました。

レイモンは日本の国民の食生活に変化を持たせ、健康を維持できるような改善をしたいと願っていました。
また、北海道畜産開発プランを北海道庁に何度も提出します。
信念を貫き通す強い意志を持った人なのですね。

レイモンは
1974年、西ドイツのハイネマン大統領から、日本とドイツの友好に関する彼の長年の努力を称えられ
「功労勲章十字章」が贈られました。
1979年は、財団法人サントリー文化財団が設けた第1回地域文化賞の優秀賞に選ばれ
1985年11月、「北海道新聞産業経済賞」を受賞。
さらに横路北海道知事から「産業貢献賞」の授与を受けました。
そして1986年5月、長年の日本の畜産業への貢献により、「勲五等双光旭日章」を受賞したのです。

1987年12月、レイモンは93歳で亡くなりました。
波瀾万丈の人生でしたが、最後までドイツ人マイスターとして、強い意志を持って生きた人でした。




レイモンの手です。⬆


『私がずーっと心がけてきたことは、ただまじめに働くことですよ。
そして私の作ったハムやソーセージを喜んで食べてくれる人が一人でもふえるのですからね。
これはお金では買えないものね。
だから羅私は、胃袋の宣教師だと思っているんですよ.』

『花を見ればわかるでしょう。
花の色は中から出てきます。
人の健康も体の中から出てくるものなのです。』


参考文献
カールレイモン歴史展示館 パンフレット
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/reimon.htm
http://www.raymon.co.jp


さて、私は函館駅で、カールレイモンの製品を買ってクール宅急便で東京に送りました。
宅急便の女性スタッフが
『このソーセージを食べたら、他のソーセージは食べられませんよ。
私の息子なんて、ホントここのしか食べませんから.』
ですって、、、。

愛されていますね、カール・レイモン。




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