私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

名古屋を訪ねて(2)赤煉瓦の名古屋市市政資料館

2012年06月22日 | お雇い外国人の弟子たち

名古屋市の観光ミニバス「メーグル」に乗って、名古屋市市政資料館に向かいました。
落ち着いた静かな街並の一画が公園になっており、その中にドーンと
名古屋市市政資料館の煉瓦作りの建物が視界いっぱいに広がっています。
素晴らしい建築で、もちろん国の重要文化財に指定されています。



赤煉瓦作りの建物、何かどこかで見たことがあるような、、、。

資料によると、もともとここは名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所でした。
名古屋の司法の中心だったのです。

市政資料館は
「煉瓦造及び鉄筋コンクリート3階建の洋風建築で、
煉瓦積みの壁に白い花崗岩の外壁を持つ。屋根小屋組は木造。
内部の中央階段室はステンドグラスの窓や漆喰塗り・マーブル塗りによる仕上げが施された
「ネオ・バロック様式」を基調とする。




設計は司法省営繕課(工事監督)で、山下啓次郎(工事計画総推主任:司法技師
(参考:山下啓次郎はジャズピアニスト山下洋輔氏の祖父))
及び金刺森太郎(設計監督工事主任:司法技師)が担当した。
煉瓦造としては最末期の大規模近代建築であり、
現存する控訴院庁舎としては最古のものということもあって1984年5月21日に重要文化財の指定を受けた。
日本全国に8つ建設された控訴院の建物のうち、現存するのは名古屋と札幌のみである。

とあります。

設計者の山下啓次郎を調べてみました。
鹿児島県の薩摩藩士山下房親の次男として1867年(慶応3年)に生まれた啓次郎は
1876年(明治9年)上京して
第一高等中学校を経て帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)へ進み、辰野金吾のもとで、建築を学びました。

何となくどこかでこんな感じ見たな~、と考えていたら、「東京駅」に雰囲気が似ているような、、、。
そうなんです、啓次郎の先生は東京駅を設計した辰野金吾だったのです。

辰野金吾は日本の近代建築に大きな影響を与えたお雇い外国人、ジョサイア・コンドルの弟子です。
辰野金吾はがっちりとした建物を造り、辰野「堅固」とあだ名されていたくらいです。
(ブログの過去記事に「プリンセストヨトミと辰野金吾」、「ジョサイア・コンドル」
について書いたものがあります)

その後、啓次郎は警視庁へ入庁、1897年(明治30年)司法省に移り営繕を担当します。
1901年(明治34年)欧米の監獄を視察し、翌年帰国しました。
この市政資料館を除くと啓次郎の主な作品は「監獄」です。
さすが、辰野「堅固」の弟子ですね。

しかし、建物の中は華麗です。



NHKの「坂の上の雲」の撮影でも使われたそうです。



私が入ったのは閉館まじかの午後4時20分。(午後5時閉館)
他に人は誰もいない、贅沢な見学になりました。

この建物は名古屋城や犬山城に匹敵する名古屋の宝物ですね~。
本当に足を踏み入れた瞬間から、時を越えてしまったような気持ちになります。
短くても、本当にいい時間を過ごしました。

 
旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(1922年、名古屋市東区、現名古屋市市政資料館、国の重要文化財)



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参考資料
http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/52-7-0-0-0-0-0-0-0-0.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋市市政資料館





プリンセストヨトミと辰野金吾の遺産

2012年05月12日 | お雇い外国人の弟子たち


明治学院のヴォーリズ建築を後にして、東京駅、丸の内の
三菱1号館美術館に向かいました。

ここで丸の内の三菱一号館を創ったお雇い外国人ジョサイア・コンドル、その人と
コンドルの弟子たちについて簡単に書いてみたいとおもいます。

御雇い外国人のジョサイア・コンドルは明治時代にイギリスから来日、日本の近代建築の基礎を築き、
日本人の優秀な設計者を育てた人です。

コンドル先生は東京大学工学部の前身、工部大学校(港区虎ノ門)の教師でした。
その第1期生で、工部大学校を首席で卒業したのが辰野金吾です。
辰野はその後、コンドル先生の故郷、ロンドンに官費(国費)留学、西洋建築の学びに励みます。
帰国後は精力的に仕事に集中し、日本銀行本店、日本銀行大阪支店、京都支店
中央停車場(東京駅)大阪市中央公会堂などを設計しました。

赤煉瓦に白い花崗岩の横縞が見事な調和を見せるデザインは、辰野金吾が得意とした
ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、現在は「辰野式」とも呼ばれています。




上の写真は東京駅、下の写真は日本銀行本店



写真を見ると、赤れんがの建物はいかにも頑丈そうですよね。
そんなところから辰野は辰野『堅固』と名前をもじってあだ名で呼ばれていたそうです。


さて、本日地上波で放送される映画『プリンセス・トヨトミ』の原作本
万城目(まんきめ)学の同名の小説の195ページから、辰野金吾の設計した建物について触れられています。
実は大阪城や国会議事堂、赤れんがと白い花崗岩の洋風建築はこの物語の大切なポイントです。
(ネタバレになるので、ここまでにしておきます)
原作はけっこう引き込まれる面白さですが、映画は、、、
ミスキャストかな~、、という感じ。
原作のよさを描き切れなかったような感じがしますし、原作の変更の仕方に少々違和感を覚えます。
映画は原作を越えず、、、なのかな~
しかし、本を読まずに映画だけ見れば、なかなかの作品のようですよ。
(↑夫の話)

話を辰野金吾に戻しますが、
彼は九州唐津藩の貧しい武士の子どもでした。
彼の英語の師匠は有名な『高橋是清』で、彼のつてで上京し、工部大学校で
コンドル先生の第1期の教え子として学ぶことになります。
辰野金吾は貧しい下級武士の息子であり、彼を除けば同期生はみな上席の武士の息子か縁者でした。
ですから、辰野は明治という新しい時代を利用し、以前の身分を越えて
活躍しようというチャレンジ精神に燃えていたのではないでしょうか。

辰野金吾はあるとき、コンドル先生に言います。
『私は東京に3つの建築を残したいと思います。』
「それはなんですか。」
『まず第1に、日本の中央銀行です。次に東京中央駅、そして最後にいつか開かれるであろう国会議事堂です。』

これらの建物は近代国家を代表する建造物です。
3つの建物を造るということは、まさに国家的事業に必ずや参加したいという辰野の野心を表しているように思えます。
また、実際にその3つの建物のうち2つを設計し完成させるのです。

コンドル先生をはじめとする御雇い外国人に教育を受けた辰野らは、日々学び、技術を身につけ、経験を積んでいきました。
彼らが成長するにつれて、当然の流れかもしれませんが、日本の国家的事業は次第に外国人の手から離れていきました。


さて、最後に下の写真ですが、日本銀行本店のドアです。
頑丈そうですね。
もちろん辰野『堅固』の作品です。



それから、上のドア、『プリンセストヨトミ』の映画に出てきた地下通路に続くドアに

どことなく似ているような気がします。


<参考文献>
辰野金吾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 御雇い建築家ジョサイアコンドルの生涯』河出書房新社
梅渓昇『御雇い外国人~明治日本の脇役たち』講談社学術文庫
万城目学『プリンセス・トヨトミ』文春文庫

本日放送の映画『プリンセストヨトミ」ぜひ、ご覧ください。




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