私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

極東で最も美しい居留地~神戸2

2012年04月30日 | 旧居留地

以前からどうしても見てみたかった
国の重要文化財である神戸の『旧ハッサム住宅』と「旧小寺家厩舎」を見学しました。
場所は相楽園という神戸市所有の庭園の中にあります。
ここは2年前に時間がなくてよれなかった場所。今回の旅行でどうしても寄りたかったところです。

旧ハッサム住宅は明治35年、イギリス人建築家ハンセルが設計したということで、
1階のアーチ、そして2階のベランダが明治時代に建てられた神戸の洋風建築の特徴を表しているそうです。










また、1階は接客もできる応接室や居間があり、2階は家族の生活の場で、寝室や浴室があり、
使用人や厨房は別棟ということで、生活する家族のプライバシーが守られていたようです。




住宅は北野の異人館街から昭和38年に移築され、神戸市の管轄に入り、近代洋風建築保存の先駆けとなりました。
ボランティアガイドのAさんが、常に洋風建築保存には莫大なお金がかかるんですよ、と
言っていましたが、明治の建物を現在も当時の姿を失わせずに守っていくことは、お金の面、保守技術の面で
相当な苦労があると思います。
阪神淡路大震災の時にレンガ積みの煙突が室内に落下して、屋根や天井、床が破損したそうですが、今はきれいに
補修されています。



小寺家の厩舎は明治43年頃建築されたそうで、河合浩蔵氏の設計です。
全体的にはどっしりとした感じですが、円形の塔や急勾配の屋根、と屋根の小窓など変化に富み
ヨーロッパの雰囲気が感じられます。





下の写真はハッサム邸から見た厩舎です。





さて、その後、元町の方に坂を下っていきました。
途中、フランスルネサンス様式の建物で明治45年にできた兵庫県公館を見学。
(自由に入れます)







写真は旧居留地38番地の大丸神戸店です。
洋風建築をそのままうまく現代にとけ込ませた品のある老舗デパートで、ヴォーリズの設計です。










上の写真は大丸の横を通る明石筋からトアロード方向を眺めた歩道。
下は海岸通り10番地あたり。




下の写真は旧居留地9番地のチャータードビル




チャータードビルは大正時代末期に来日したアメリカ人設計士J・H・モーガンが1944年(昭和13年)
イギリスのチャータード銀行にオーダーされ、建てました。
建築家モーガンは1920年に日本フラー建築会社の設計技師長としてアメリカから来日しました。
フラー社は関東大震災後、日本から撤退してしまいましたが、モーガンはそのまま日本に残りました。
モーガンの作品は横浜市中区山手町にベーリックホール、山手111番館などが残っています。

旧居留地は
1868年に神戸にやってきたイギリス人の土木技師JWハートによって計画されました。
彼は南米のペルーを経て、中国上海でドッグの建設に携わったあと、神戸居留地行事局に雇われた『御雇い外国人』です。
初代兵庫県知事の伊藤博文と協議して、72年に居留地の計画図を作成。
公園、運動場、下水道、ガス灯などが完備した町づくりは、『極東のモデル居留地』であり、
ハートは神戸にユートピアを作り出そうとしていた、と言われています。

居留地は30年を経て、返還されますが、そのときのフランス領事のスピーチが以下です。

「30年前、日本当局がわれわれ外国人に神戸の居留地を引き渡した時、その地は正真正銘の砂浜でした。
今日、私たちは、その同じ場所を、美しい建物が立ち並び、倉庫という倉庫には商品があふれた、
立派な町に変えて日本政府に返還いたします。

この町こそ西洋諸国民の才能の真髄を現す実例であり、象徴であります。
(中略)広く美しい並木通り、夜間ガス灯が明るく照らし出す見事な煉瓦造りの歩道、
石畳の十字路、今後更に美化され、利用度が高められようとしている遊園地、
この整然として清潔な神戸居留地のたたずまいがいたるところで話題を呼び、
『極東のモデル居留地』という賞賛をいただいております。」

(神戸外国人居留地研究会、2005)


現代までの神戸の貴重な遺産を歩いて見ることができました。





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへにほんブログ村






参考文献・出典
http://www.kobe-kyoryuchi.com/index.htm神戸旧居留地
神戸新聞社(2004)「神戸ゆかりの50人」Part2 歴史と観光の散策ガイド 神戸新聞総合出版センター
http://www.tcs-kobe.com/concept.html ザ・チャータードスクエアの誕生







近江八幡とヴォーリズ1

2012年04月30日 | 御雇い外国人 建築家
私は、休みを利用して時々、節約旅行に出かけます。
歩く旅がメインですが、季節ごとに売り出される青春18切符の大ファンでもあります。

春、ちょうど桜の咲く頃に、近江八幡に出かけました。
東京から快速電車と普通電車を利用し、静岡、豊橋、名古屋、大垣を経て、7時間かけて近江八幡へ。

滋賀県の近江八幡は1585年(天正13年)に豊臣秀次が八幡山に城を築き、
その城下町として発展しました。
琵琶湖の水運を利用し、近江商人が活躍した商人の街です。

こんなのどかな水郷の街に明治38年2月2日、ウィリアム・メレル・ヴォーリズは英語の教師として
アメリカからやって来ました。
後にヴォーリズ建築として日本の建築界、さらには、医療、教育、製薬に大きな影響を与え
蒼い目の近江商人とも呼ばれたキリスト教の宣教師です。

ヴォーリズは明治13年、アメリカのカンザスで生まれました。
2歳ごろから両親に伴われて長老派の教会に通い、後に洗礼を受けました。
両親とも熱心なクリスチャンで、特に母親のジュリアは自身が海外に行き、キリスト教を
伝道したいと願っていたようです。

ヴォーリズはもともと身体があまり丈夫ではなかったため、7歳の頃、両親は彼のため
気候のよいアリゾナ州に家族で移住しました。
その後、彼の勉強や将来を考えてコロラド州デンバーに移りました。
ヴォーリズはデンバーの高校を卒業すると建築家を目指し、コロラド大学に入学しました。
実はヴォーリズは名門マサチューセッツ工科大学への入学が決定していたのですが、
家族の負担を考え、地元の大学に進んだということです。

大学3年生の明治33年(1902年)、ヴォーリズに人生の転機が訪れます。
彼はコロラド大学の代表として『海外伝道学生奉仕団(SVM)』の
第4回世界大会(カナダ・トロント)に参加しました。
ここで、ヴォーリズは中国の宣教にかかわっていたジェラルディン・テイラー女史の講演を聴きます。
テイラー女史の義父は中国奥地宣教団の創始者であったジェームズ・ハドソン・テイラーです。
彼女は義和団事件を通して多数の宣教師やクリスチャンが殉教したことを話し、
「自ら一切を投げ出して進むべき道を妨げているものは何なのでしょうか?」
と聴く人に語りかけました。

ヴォーリズは衝撃を受けました。
自分が志した建築家になるという夢は、もしかしたら本来担うべき自分の道を
妨げているのではないか、、、と。

この大会後、彼はコロラド大学にもどり、すぐさま、建築科から哲学コースへ転科をしました。
建築家の夢を捨て、海外宣教を生涯の道と決めたのです。


ちなみに、この大会にはのちに関西学院大学を大きく発展させた
カナダ人のC.J.Lベーツも参加しており、ヴォーリズと同じように海外宣教に進む
決意をしました。
(ヴォーリズとベーツ関わりについては、また別の時に、、ということで。)

大学卒業後、ヴォーリズはコロラドスプリングズのYMCAの主事補となりましたが、
明治37年(1947年)にヴォーリズはニューヨークの国際YMCA本部に海外での就職を依頼し、
海外学生奉仕団を通して、日本の滋賀県が英語の教師を求めていることを知ります。
彼はただちに承諾。
翌年明治38年の1月10日には、サンフランシスコから汽船チャイナ号に乗り、
19日をかけて1月29日、横浜港に着きました。
2月2日、17時間の汽車の旅をして、やっと近江八幡に到着しました。

当時、近江八幡の駅周辺は民家や旅館が数軒あっただけで、あとは田畑が広がる場所でした。
24歳の若き英語教師は、その風景を見て唖然としたということです。
「寒い、寂しい、頭痛がする、誰も知っている人がいない、しかしもうここにきてしまったのだ、、、」
と、ヴォーリズは日記に書いているそうです。

彼は近江八幡にあった滋賀県立商業学校の創立から12人目の外国人英語教師として着任しました。

しかし、宣教に燃える若いヴォーリズは、近江八幡に赴任してわずか6日後の2月2日
自宅となった魚屋町元の家で最初のバイブルクラスを開きました。


さて、ヴォーリズのお話は次回に続きますが、、、、

先日近江八幡を訪ねた時の写真を紹介したいと思います。
最初の写真は平成3年に「国重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた街並みです。




上の写真は八幡堀。
時代劇のロケ地としても有名です。



駅から徒歩20分ぐらいのところにみるべき史跡、街並み
ヴォーリズ建築が集まっています。
私は2日かけて、じっくりと街を歩きました。



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへにほんブログ村





参考文献
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/More_HTML/Hosokawa/essa/essay296.html
http://library.kwansei.ac.jp/e-lib/seisho/relation/015/index.html
http://www.ifsa.jp/index.php?GMerrell
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハドソン・テーラー
http://vories.jp/







外国人居留地~神戸1

2012年04月27日 | 旧居留地


先日、関西方面に旅行しました。
今回の目的は、神戸の旧居留地を歩くことです。

三宮に着いてすぐに異人館のある北野に行きました。
2年前にお世話になった、神戸のNPO法人KOBE観光ガイドボランティアの幹事Aさんを
訪ねるためです。
でも、観光シーズンの春はボランティアガイドのみなさんは各種イベントで大忙し。
その中でも中心的な働きをされているAさん。
今回は残念ながらガイドをお願いすることができませんでしたが、
お忙しい中、時間を取ってくださり、居留地歩きのポイントを教えてくださいました。




もともと、北野は山の斜面にたくさんの畑地があり、
国の重要文化財である「風見鶏の家」のある場所は沼地だったということです。
ガイドさんのお話だと、風見鶏の家を建てたトーマスさんは大金持ちだったので、
金に糸目をつけず、開墾、家の土台を作ったのだそうです。
土台のしっかりしている家は百年経った今でもしっかりしていますね。




1868年(慶応3年)の神戸開港の際に、港近くに外国人のための居留地が作られました。
当時、居留地の建物は1階が事務所、2階が住居となっているところが多かったそうですが、
職住が一緒になっている使い勝手の悪さがあったようです。
また、外国人の増加による居留地内での住宅地不足も起こっていました。

しかし、明治政府は諸外国との条約上、居留地を広げることは治外法権区域の拡大を意味するため、
居留地の拡大を認めず、範囲を区切って日本人との雑居を許しました。
神戸港を一望できる山の手の高台が新たな住宅地として認められ、
それが北野の異人館の始まりとなったそうです。



その後、山の手から居留地の仕事場まで約2キロほど、現在の『トアロード』を通って
通勤するというライフスタイルが外国人たちに定着したようです。


さて、写真の風見鶏の家ですが、ドイツ人の貿易商ゴットフリート・トーマスの邸宅で
同じくドイツ人の建築家ゲオルグ・デ・ラランデが設計し、明治42年頃に完成させた家です。
どっしりとした石積みの基礎のある家で、重厚な雰囲気があります。
また、その名の通り尖塔には風見鶏がついています。
風見鶏は風向きを知らせるだけでなく、警戒心の強い雄鶏として、魔除けの意味が
あるといいます。




トーマス邸はその後、中国人の学生たちの寮になります。
寮には寮監がいて、きちんと管理をしていたとのことで、比較的状態良く残っていたそうです。

100年も経っているいる家にはいろいろなエピソードがありそうですね。
家に歴史あり、です。
しかし、
最盛時、200軒ほどあった異人館は戦争を経て激減、現在では30棟あまりになってしまいました。
異人館の保守・保存にはとてもお金がかかるそうです。
ですから、現在は多くの異人館が入場料を取って館内を開放しています。
あるいは神戸市の管轄に入って、無料公開されている家もあります。







北野の周辺は
若い女性やカップルが目立つので、ちょっぴり原宿っぽい感じもしないでもありませんが、
異人館はとてもロマンチックな雰囲気ですから、若い人が集まるのは当然かもしれませんね。



参考文献・出典
http://www.kobe-kyoryuchi.com/index.htm神戸旧居留地
神戸新聞社(2004)「神戸ゆかりの50人」Part2 歴史と観光の散策ガイド 神戸新聞総合出版センター
http://www.tcs-kobe.com/concept.html ザ・チャータードスクエアの誕生





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへにほんブログ村



明治の外国人~宣教師ヘップバーン

2012年04月27日 | 日本に影響を与えた宣教師たち

『お雇い外国人』と聞くと、何それ?
最近の外国人労働者を冗談っぽく呼んでいるの?
と言われるかもしれませんが、、、。
現在の外国人労働者のルーツをたどってみると、、、。

今から150年ほど前、明治政府は日本の近代化(文明開化)を
図るため、多くの欧米人の専門家を日本に招き、その技術や学問を積極的に学びました。
なんと、1898年までに、イギリスから鉄道開発、電信、公共土木事業、
建築、海軍制、などの専門家、6177人、
アメリカから外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などの
専門家、2764人、フランスから陸軍制や法律家、619人、
イタリアからは主に絵画や彫刻といった芸術45人、合計で1万人以上の
外国人専門家が日本を訪れているのです。

彼らは当時「御雇い外国人」と呼ばれていました。
また、多くのキリスト教の宣教師もキリスト教の解禁とともに日本にやってました。

さて、
1859年(安政元年)、医者であり、キリスト教の宣教師であったヘップバーンが来日しました。

実はヘップバーンは日本に来る前には中国での宣教を目指していました。
一度は中国アモイに入ったものの、大流行していたマラリアを患い、帰国を余儀なくされました。
その後、ニューヨークで病院を開業し、コレラの治療などで成果をあげ、
彼の病院は有名になりました。
病院経営はその後も順調でしたが、ある時、ヘップバーンは日本でのキリスト教の宣教に使命を得ます。
人生の分岐点です。
彼はすべてを投げ打ち、ひとり息子も知人に託して妻のクララとともに日本にやって来たのです。
(ものすごい決断ですよね!)

宣教に燃えていたヘップバーンは
来日後はすぐに、横浜の寺で医療活動と教育活動を始め、
横浜居留地(外国人は居留地に住まなければなりませんでした)に小さな学校(塾)を開きました。
のちにこの塾は明治学院大学、フェリス女子大学へと発展していきます。





さて、
このヘップバーンというのはヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士のことで、そして小さな学校は
ヘボン塾のことです。
博士は日本と日本人を愛し、日本語を熱心に勉強しました。
そして、英和辞典の編纂や聖書の和訳にも尽力しましたが、
当時、言葉を翻訳するということは困難で手間のかかる作業でした。
また、多くの優秀な日本人学生を育てました。
ヘボンの弟子には高橋是清や島崎藤村がいます。

ヘボン博士にとって日本での時間はあっという間に流れていったのではないでしょうか。

「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」

と日本を離れる時に、ことばを残しています。
ヘボン博士はこのとき77歳になっていました。
彼は母国を離れ、33年間も日本に滞在し、日本のために貢献したのです。

「Do for others」

これがヘボン夫妻の生涯を貫く信念だったと言われています。





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへにほんブログ村

出典:明治学院大学の歴史と現在 http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/history.html
明治という国家 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/187912/



はじめましてのページ

2012年04月26日 | はじめましてのページ


はじめまして。
歴史好きのヨッシーです。
ふたりの大学生の息子がいる主婦です。

このブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。
かなりマニアックなブログになりそうですが、興味を持っていただければ幸いです。

さて、
2012年2月末の国内の完全失業率は4.6%
(2012年総務省「労働力調査」)となり、
正社員の有効求人倍率も0.71%という厳しい雇用状況が続いています。
その反面、日本に居住し、日本国内で就職する外国人は年々増加しています。
厚生労働省の発表によると、2011年10月末の外国人労働者数は68.6万人と
前年同期比5.6%増です。
東日本大震災後の不品不足や節電、原発事故などの影響で一時的に外国人労働者が減少した
ようですが、その後(意外にも)労働者数が回復しています。

今や外国人労働者が様々な日本国内の企業で重用されています。
特に、正規雇用の技術者に増加の傾向が見られます。
彼らのパワフルで積極的な働き方は、日本人が見習うべきモデルでもあります。

外国人が日本で働く、というのは、いつごろからだったのでしょうか?
長い間鎖国していた日本では、外国人は特異な存在だったと思います。

今から150年ほど前、明治政府は日本の近代化(文明開化)を
図るため、多くの欧米人の専門家を日本に招き、
その技術や学問を積極的に学びました。
なんと、1898年までに、イギリスから鉄道開発、電信、公共土木事業、
建築、海軍制、などの専門家、6177人、
アメリカから外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などの
専門家、2764人、フランスから陸軍制や法律家、619人、
イタリアからは主に絵画や彫刻といった芸術45人、合計で1万人以上の
外国人専門家が日本を訪れているのです。

彼らは当時「御雇い外国人」と呼ばれていました。
また、多くのキリスト教の宣教師もキリスト教の解禁とともに
日本にやってました。

このブログでは『御雇い外国人』と呼ばれる彼らにスポットを当てたいと思います。
これから少しずつ記事を書いていきます。
どうぞ、広い範囲でご意見をお寄せくださるようお願いいたします。



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログへにほんブログ村