私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

JR日光駅の謎~東照宮を外した日光の楽しみ方 1

2012年09月21日 | 旅日記

大人の休日倶楽部の格安チケットを使って、東京ー日光―函館―小樽―札幌―弘前―東京の
旅行をしました。
居留地や明治大正時代の建物を見る5日間の旅です。
少々お金と時間はかかりましたが、今年はすべての居留地を回る、という目標を立てたので
5日間、新幹線、特急、普通列車乗り放題で2万3000円の
大人の休日倶楽部のチケットは大変ありがたかったです。

ただ、やっぱり北海道は東京から列車を使うと遠いです、、、、

さて、日光へは20回以上も行っていますが、JR日光駅は初めてです。



降りてびっくり。
駅舎じたい、とっても美しい建物だとすぐにわかったからです。
ホームには「貴賓室」もあり、、なのです。



早速、駅員さんに
「すみません、この駅舎、いつぐらいにできたんでしょうか。」と聞いてみました。
すると
「100年以上前です。」
「えー、すごい!素敵な建物ですよね、どなたの設計ですか?」
「それが、戦後のごたごたで資料がなくなってしまって、よくわからないんですよ。」
ということでした。

ちょっと、気になる、、、いえ、すごく気になったので、さっそく調べてみました。
確かに設計者は不明となっています。
明治23年8月開業、大正元年に改築。ネオバロック様式の素敵な建物です。
それに、知る人ぞ知る「関東の駅100選」に選ばれています。
選定理由は「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」だそうです。確かに!


2006年11月7日の産經新聞栃木版に以下のような記事が掲載されたそうです。

>>現役で活躍する駅舎では日本で二番目に古いJR日光駅の設計者が、
日光東照宮近くにある歴史的家屋、赤門を設計した米国人建築家だった可能性が浮かび上がった。

これまで帝国ホテルの設計者のフランク・ロイド・ライトや
旧運輸省OBの説があったJR日光駅の設計者。
今春、見つかった棟札をもとに産経新聞社が調べた結果、
日光になじみの深い人物だったことが分かった。(昌林龍一)

明治23(1890)年に平屋建てで開業後、大正元(1912)年に
現在の二階建てネオ・ルネサンス様式に改築され、鉄道マニアに人気のJR日光駅舎。
その設計者として浮かび上がったのは、明治13(1880)年に米国聖光会(←聖公会の間違え)から宣教活動者として
日本に派遣された建築家、J・M・ガーディナー(1857~1925)だ。

ガーディナーは、日本聖光(公)会日本真光教会(日光市本町)を拠点に、
布教活動の傍ら建築技術を教えた。
日光市内では同教会の設計のほか、日光東照宮近くの赤門などを設計したとされる。
立教大学(東京)の建築にもかかわった。

JR日光駅では今年4月、駅舎の施工者などの氏名が書かれた棟札が見つかり、
棟梁の名は「高山譽三郎」と書かれてあった。
産経新聞社で該当者を捜したところ、日光市内で工務店を経営する高山一夫さん(77)の親族と判明した。
高山さんによると、父親やその兄弟全員が大工で、「国鉄の日光駅の仕事をした」と話していたことを
覚えているという。
高山さんは「(高山譽三郎は)叔父の音三郎ではないか。
当時、棟札は神に献上するもので、音の当て字に『譽』という縁起のいい字を使ったのだろう」と話した。

また、石工として建築に加わった故・柳ケ瀬さんの孫にあたる
柳ケ瀬工務店の柳ケ瀬雄平さん(71)は「私が小さいころ、祖父から
『ガーディナーさんという外国人と駅の仕事をした』と聞かされたのを覚えてます」と振り返った。

日本(←日光)真光教会の施設管理人、藤平功さん(62)はこんな事実を明かす。
「昨年、北海道の人から『JR日光駅を見たときに、地元の古い学校の校舎とそっくりでビックリした』
という連絡があった。その校舎は、遺愛学園(←学院)といい、ガーディナーの設計なんです」。
藤平さんは「当時は今のように設計者という概念がなく、棟梁にアドバイスする形だったので
棟札に名前が刻まれなかったでは」と推測している。

設計者の新説が判明したことについて、日光観光協会は
「日光の歴史的な建築物について、歴史的な経過を記した資料は意外に少ない。大変喜ばしいこと」と話している。

(産経新聞 栃木版より)

それでは日光駅と遺愛学院本館を比べてみましょう。
実は今回の旅行で、函館の遺愛学院を訪ねました。
ガーディナーが設計した重要文化財遺愛学院本館とホワイトハウス(旧宣教師館)を見に行ったのです。
遺愛学院本館は函館が誇る明治41年(1908年)竣工の歴史的建造物です。
淡いピンクの本館、シンプルな設計のようですが、細部はかなり凝った設計になっているそうです。
今回は事前にお願いしておかなかったので、外観だけささっと撮影しました(残念!)










⬇はもう一度日光駅です。






何となく、似ているといえば似ていますね。
駅前の説明板には
「旧博多駅と共通する複雑な屋根、正面にデコラティブな半円形の窓、
外壁ハーフティンバーの柱の白壁で作られ、2階は1等客の特別待合室として使用されていました。」
とあります。

木造2階建ての駅舎は大正元年に建てられたものです。
当時、ガーディナーは日光を頻繁に訪れていました。
奥さんのピットマン女史と出逢ったのも日光です。
1914年(大正3年)ガーディナーは日本聖公会の日光真光教会を設計し、完成させました。
微妙に合う駅舎の開業。
このあたり、本当に歴史に隠れた謎ですね。

日光駅の駅舎、重要文化財に匹敵する素晴らしい建物です。





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参考文献
http://docile.way-nifty.com/nwes/2006/11/jr_715e.html
http://fifabakutyouou.cocolog-nifty.com/nikkousannsou/2007/09/post_c9d4.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/日光駅
菅原涼子「J・M・ガーディナーと日光」築地居留地研究会 2002『近代文化の原点 築地居留地VOL2』P119

長崎居留地~坂のお話

2012年09月19日 | 旧居留地

長崎居留地、と言えば、グラバー園や大浦天主堂を思い出します。

それから坂道。
長崎には自転車に乗っている人が多くはありません。
やっぱり、坂がきつ過ぎますものね。



⬆国宝大浦天主堂に続く階段。息切れします。
この辺りには神社、寺院もあり、祈念坂と呼ばれているそうです。




⬇斜面都市の眺め。グラバースカイロードから撮ったものです。




東山手地区の活水女学院も見えますね。
1879年エリザベス・ラッセル女史によって開校された女子のための学校です。
本館はヴォーリズ建築事務所が手がけた歴史的建造物です。



明治時代はこんなふうに見えたようです。⬇




別名、長崎は斜面都市というのだそうです。
斜面にたくさんの建物がへばりつくように建っている、という人もいます。
長崎居留地は海岸に近い方から上等地、中等地、下等地に分けられていたのだそうです。
海沿いの上等地には貿易のための商館や倉庫が建てられ、中等地には
銀行、ホテル、娯楽地があり、
海や山が眺められる下等地には、個人の邸宅や教会などが建てられました。




⬇国宝大浦天主堂の横にある重要文化財「旧羅典神学校」



国内の神父を養成する初めての学校だったそうです。



グラバー園の中に入ると居留地の標石が⬇



旧三菱第2ドックハウス⬇
明治37年に建てられたものです。



旧リンガー邸⬇




旧スチール記念学校⬇


学校の階段らしいですよね。


あまりよく撮れなかったけれど
グラバー邸です。



グラバー邸を出てから
南山手伝統的建築地区を歩きました。一回り30分ほどです。






⬆個人のお宅 お医者さんだったようです。
⬇マリア園




⬇どんどん坂



はい、ここまで来て、本当に疲れました。
この日は10キロは歩いたようです。約2万歩。
けっこうがんばっています。

次回の東山手伝統的建築物地区に続く。



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「愛すべき名前」の呼び方

2012年09月11日 | 歴史おもちゃ箱

「愛すべき名前の呼び方」というのも何だか変な題名なのですが、、、
表記と呼び方についてちょっとした感想を書いておきたいと思います。

時々、外国の方からの電話をとります。
彼らの姓名は日本人にとってはとっても聞きとりにくいなー、と思うのです。
私の友人に「ジェトウィッツ」という人がいますが、最初
どうしてもその名前を聞き取ることができませんでした。
家族が電話をとった場合は、
「ジェ、、、何とかっていう外人から電話があったよ。」
という具合になってしまいます。

ある学校でに外国人に日本語を教えていた時に
「オウさん、オウさんの作った日本語の短文は何だかワンパターンね。」というと、
何人かの学生が、密かに笑っています。
初級の学生たちだったので、外来語の「ワンパターン」がわからないのかな、
と思い、説明しようと、「あの、ワンパターンの意味はね、、、、」
(笑い声)

実は、ワン・パータンという中国語があって、
その意味は「バカ、アホ、この怠け者!❌10」ぐらいのひどい言葉だったのです。
つまり、私は王さんに
「オウさんは、バカ、アホ、この怠け者❌10 です。」って言っていた感じなのです。

言葉の聞こえ方は不思議ですね。




さてお雇い外国人の先生たちはどんな名前で
明治時代に呼びかけれれていたのでしょうか。


ヘップバーン=ヘボン
あのヘボン式ローマ字のヘボン先生はヘップバーンなんです。
でも、ヘボンっていう呼ばれ方が気に入っていたみたいです。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/1d10a2c5d9cf870fbff90aad7994e05b

ベンネット=ベネット
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/0bcaf689b4bf2cce1183e2277bbd0fec
関東学院の創設者です。
ご本人は周りの人にベンネットと呼ばれるのが好きで、
「ベン子(ね)ット」とサインしていたようです。


ヘルン=ハーン 小泉八雲です。
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/ce2c3827cfe2cb46a5d284c84ab8606b
富山大学には「ヘルン文庫」孫の小泉時は「ヘルンと私」という本を書いています。

ガードナー=ガーディナー
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/ce2c3827cfe2cb46a5d284c84ab8606b
http://blog.goo.ne.jp/yoshimotokeiko/e/c7b3fdfb7e02826b3b3e308318653fd4

立教大学校の校長で、明治時代のすぐれた建築家です。
以前ブログに「ガードナー」という表記で記事を書きましたが、
日本人には「ディ」の発音が難しく、周りの人は、ガードナー先生、と呼んでいたようです。
出典にWikipediaから引用したところ、執筆者に指摘を受けました。
ガードナー先生と呼ばれていたという記事は
「築地居留地研究会会誌vol.1」にありました。

ヴァーヴェック=フルベッキ
明治政府の顧問となったお雇い外国人フルベッキの次女は
エマ・ヴァーヴェックとして、明治時代、立教女学院に務めていました。
日本生まれですから、日本語も堪能だったそうです。


何と読まれるか、
キムなのか金(キン)なのか、オウなのか、ワンなのか、
父はフルベッキ、娘はヴァーヴェック、
呼ばれ方は本人の決定によるのでしょうか、ね?







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小泉八雲~明治日本の面影

2012年09月10日 | 旅日記

8月の長崎居留地の記事もまだまだなのに、
現在、列車で日光ー函館ー小樽ー札幌ー弘前の旅の車中です。

青森から北海道への海底トンネルを出た後、
函館から札幌へ向かう海岸線、札幌から小樽への線路沿いの海、
どこまでも空の色を映していて、青く深く、何とも素敵です。

長い列車移動の中で読んでいるのは
明治政府のお雇い外国人、
ラフカディオ・ハーンの名作選集「明治日本の面影」、
小泉八雲の名前で出版されました。

この本の中で、八雲の「もの」を観察する目の鋭さ、
多面的な分析、言葉の使い方には感心してしまいます。
また、人を差別することの愚かさを説いています。
特に最初の短編、「英語教師の日記から」には明治23年1890年から
出雲(島根県)の松江の尋常中学と師範学校にお雇い外国人として1年間雇われた
日々が綴られていて、現代と比べると興味深いです。

自分は日本語が何もわからないのに
学校で教えることがとても愉快で楽しい仕事だと書かれています。

「近代日本の教育制度の下では、すべての教育は親切と優しさを旨としておこなわれている。
教師は字義通り教師teacherであって、英語の支配関係のmasterではない。
生徒に対して兄の関係なのである。
教師は自分の意思を生徒に押し付けようとはしない。
叱責することはなく、批判することもあまりなく、罰することもまずしない。
(略)
西洋では規律が必要と考えられているが、
日本の生徒はそれとは反する自立を要求しそれを享受している.。
公立の学校はどれもこれも熱気に満ちた小共和国で、
実際問題として、教師がその地位を確保できるのは教師の能力と、品性が
生徒に支持された時だけである。」

八雲は日本の学校にはお金持ちの子供も貧乏な子供もいるが、皆が助け合って
勉強に励み、勉強をすることに喜びを感じている、というような感んそうも述べています。
現代の学校とは何か違っているような気がしますね。

生徒たちはかわるがわる八雲の家に遊びにきて、会話を楽しんだり、
八雲の興味のあるその土地に伝わる物語や絵、伝統工芸の品などを見せてくれます。


ハーンはギリシア生まれで、アイルランド人の父とギリシア人の母の
間に生まれます。その後、アイルランドに移り住みますが、
幼い時に母は精神を病みギリシアに帰国。
父は単身赴任中であり、母とは離婚、すぐに再婚したので、
実の両親とはほとんど会えずに大叔母に育てられます。
フランスやイギリスで学びますが、16歳の時に学校で遊んでいて右目を失明。
叔母の破産や父の死もあり、20歳の時にアメリカに渡ります。

不遇な少年時代だったように思えます。
彼は神学校で学んだこともありますが、すぐに退学してしまいます。
ファーストネームは実はパトリック、
パトリック・ラフカディオ・ハーンというのですが、キリスト教に懐疑的であり
聖パトリックにちなんだファーストネームを嫌ったと言います。

彼は流暢に話せたフランス語を武器に20台前半からジャーナリストとして
アメリカで活躍します。
最初の結婚は、黒人女性とでした。
彼はそれで会社を結果的には辞めることになります。
まだまだ人種差別に厳しい社会だったのですね。
しかもその結婚は1年しか持ちませんでした。1877年のことです。

その後、彼はニューオーリンズに行き、ニューオーリンズ万博の時、
日本の農商務省の服部一三と出会います。
1890年、ハーンは女性ジャーナリスト、エリザベス・ビスランドの話を聞き、
日本という国に非常な興味を覚え、その年の4月にはアメリカの雑誌社の特派員として
早くも日本の横浜につきます。
そして7月には服部一三の紹介で松江の学校に
英語教師として赴任することになったのです。
生まれて初めての教師生活です。

ある時、一人の生徒がハーンのところにきて、言いました。
「先生は、前の先生と違います。」
「どういう風に違いますか。」
「前の先生は私たちのことを野蛮人だ、と言いました。」
「それはなぜですか?」
「ゴッド、といっても、その先生のゴッドですが、、そのキリスト教の神様以外に貴ぶべきものはなく
卑俗で無知な者だけが、それ以外のものを尊敬するのだと言いました。」

「その先生はどの国からきた人ですか?」
「牧師で英国臣民であるといっていました。(略)
ヘルン先生はこのことについてどう思われますか?」
「それは、君、その先生こそが野蛮人なのです。卑俗で無知で野蛮人なのです。
君のためにも祖国のためにも、君が先ほど述べたような悪意のある低俗な言葉を聞いたなら、
その人がどの国の誰であろうと、それに対して義憤を発することが君の義務です。」

ハーンはジャーナリストですから、その国の慣習、人々の文化を貴ぶべきことと心得ていたのですね。
あ、それから、ハーンは「ヘルン」と生徒や周りの人から呼ばれていて、
その名を気に入っていたようです。

さて、この「明治日本の面影」は文庫版で500ページのものですが、
怖いお化けのお話だけではなく、
ハーンの日記や随筆が収められており、題名通り
明治日本のある一面を知るにはとても素晴らしい教本だと思います。


今は帰りの新幹線の中です。
さすがに5日の旅行はきつかったです。
でも、自分のテーマに沿った旅がでたし、ハーンの本も読めてとても満足です。






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洋館で一休み~オランダ坂ケーキセット

2012年09月08日 | 旧居留地


長崎はあまり大きな街ではありませんが、
可愛い市電が走っていて、初めての観光客でも十分ひとりで
観光地を回ることができます。
それに駅前の観光案内所に行けば、テーマごとに地図や説明の載った
パンフレットをいただけます。

私はまず、朝早くグラバー邸に行き、見学。
その後、長崎駅まで戻って眼科にかかりました。
何と旅行中に「流行り目!」(ウィルス性結膜炎)になってしまったのです。
ちょうど長崎駅真上にあるホテルに泊まったのですが、
運良く駅ビルの中に眼科がありました。
まさか、長崎で眼科にかかるとは思ってもみませんでした。
「流行り目」強力ウィルスです。
長崎居留地を回リながら、左目から涙がポロポロ。
完治まで10日ほどかかりました。

さて、目薬をもらって、居留地巡りを再開しました。
活水女学院へ行くオランダ坂の途中の洋館。
可愛いカフェがありました。



オランダ坂ケーキセット 500円なり。



ここには長崎居留地研究会のメンバーが在駐していて、観光客の
様々な質問に答えてくれます。
今年は秋に「全国居留地研究会」の長崎大会が開かれるということで、
皆さんとても期待して準備を重ねているようでした。

お話が弾みました。
何しろ居留地やお雇い外国人の興味のある人はあまり多くないので、
質問するとすぐに応えてくれる同じような興味を持つ方々は貴重です。
(ある意味、とってもマニアックな趣味です)

何だか私も全国大会へ参加してみたくなっちゃいました。




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