私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

北仙台と黒糖きな粉もち

2013年05月27日 | 旅日記

仙台の友人と小鎌倉のような北仙台を歩きました。



場所は仙台輪王寺です。
このお寺は九代伊達政宗夫人(有名な伊達政宗は十七代です)の菩提寺でもあり、広大な敷地の中に
とても静かな和庭園があります。
正宗夫人は足利三代将軍義満の生母の妹にあたるので、特別に六代将軍が後花園天皇に奏請して、宸筆の額
「金剛寶山輪王禅寺」を賜ったそうです。
由緒あるお寺ですね。





ここは仙台の穴場中の穴場の見所です。
訪れる人はまばら、、。だから、自然の中でゆったりとした時間を過ごせます。




久しぶりに会った友人とは最近の近況報告を、庭園の中の東屋に座って、しばらく語り合いました。


ところでこの輪王寺はお寺にもかかわらず、クリスチャンたちの墓地が一画にひっそりとおかれています。
明治時代に日本にやってきて、押川義方とともに東北学院大学、宮城学院を作ったホーイ、シュネーダーら宣教師のお墓、
シュネーダー宣教師はアメリカ・ドイツ改革派教会宣教師で1888年に仙台に着任し、
創立直後の仙台神学校教授になりました。

その後は、東北学院で50年にわたり学院の発展に尽力した東北学院中興の祖、と呼ばれているそうです。
1938年亡くなるまで、仙台の地で活躍し、東北を愛しました。
「Life Light Love」という東北学院大学の建学の精神に一生を捧げて働き続けた宣教師でした。
家族もみなこの墓地に眠っています。

さて、輪王寺を歩き回って、ちょっとお腹が空きました。
偶然見つけた住宅街の中、輪王寺から徒歩5分ほどのところの「まるほカフェ」
ここでランチをしました。
かわいいカフェです。



中は洋風のレストランですが、もともとは和菓子屋さんで、デザートには和菓子が出ます。
今日は
限定20食のほわほわの具沢山のオムライス(サラダ付)とドリンクと和菓子のデザート980円を
注文しました。






⬆のお餅が黒糖きな粉、あん、ゴマ、醤油、とあってどれも絶品。
家へのおみやげに全種類と、豆もち、草餅、大福を買いました。

今日はお寺や宣教師のお墓、和庭園のお散歩とかわいいカフェでランチ、
なんとも変化に富んだ、それでものんびりとした一日でした。




にほんブログ村 ライフスタイルブログへにほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へにほんブログ村









函館までの旅の友

2012年10月04日 | 旅日記

日光をあとにして、


明治23年に開業した日光線で


宇都宮へ。



ここで、ささっと宇都宮餃子を食べて、
(とても熱かったので、口の中をやけど、、、ヽ(´o`;

新幹線で仙台へ。
仙台乗り換えの「はやて」で、新青森へ。



新青森でスーパー白鳥に乗り換え、函館へ。
青函トンネルを通りました。



私のお隣の60代の女性は農家のおくさん。
「北海道も暑くなってね、お米がとっても美味しくなったのよ。」
「今度ぜひ試して見てね。」
旅のおしゃべりは楽しいですね。
彼女は大人の休日クラブのチケットを札幌から東京まで、私とは逆に利用したのです。

私が
「北海道の歴史的な建物を見にきた。」というと、
「北海道は歴史がない、本州に比べたら、、、」
彼女は東北の寺院や建物が気に入っているようで、毎年東北に出かけているのだそうです。

「ぜひ、北海道なら自然を楽しんでね。」
とのことでした。

でも、私は北海道の都市の発展はすごいと思うのです。
わずか150年あまりで、100万人の都市まで生まれたのですからね。



一期一会の旅の友と話していたらあっという間に函館に到着。

始めての場所に降りた時は駅そばの宿と決めています。
お宿は駅近格安の「きくや」
一泊3800円で広い部屋、大浴場、無料の朝食付きです。
ただし、ちょっと古いけれど。
大満足で、次に函館に行く時も、この宿にしようと思いました。





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村





東照宮を外した日光の魅力~日本聖公会日光真光教会

2012年10月03日 | 旅日記


今回の旅で、日光を訪れた一番の理由は
J.M.ガーディナーの設計した日本聖公会日光真光教会を見るためです。
ガーディナーについては以前にもブログに何度か書きました。

日光真光教会は、日光東照宮のすぐそばにあります。
神橋をさらに進んだ西門のそば、国道沿いなので、すぐにわかります。




何回訪れても、素敵ですね。
東照宮で有名な日光は明治の時代から外国人たちにとても人気のある避暑地でした。




明治維新の時には必ず名前の出てくるイギリス領事館の書記官だった
アーネスト・サトウ(日本人ではありません)が
明治8年に出版した「a Guide book to Nikko」は多くの外国人に日光の魅力を伝えました。
ヘボン式ローマ字のヘボン(ジェームズ・ヘップバーン)も日光の自然を愛していました
その他、日光を訪れた外国人の中には、

大森貝塚の発見者E.S.モース、
維新政府の法律顧問として招聘されたG.ブスケ、
フランスのギメ東洋美術館の創設者エミール・ギメ、
更にはわざわざ英国からやって来た紀行作家の第一人者イザベラ・バード
そして、ガーディナーの友人だったフェロノサ(日本の美術界に大きな貢献をした)
などのお雇い外国人もいました。

明治20年代に入ると避暑のために夏の間の数ヵ月間を過ごす外国人が多くなりましたが、
その代表がガーディナーとその家族でした。

明治11年夏、ガーディナー夫人のピットマンはガーディナーよりも先に日光を訪れています。
実はガーディナーは明治14年、日光に避暑に行き、そこでピットマンと出逢い、
翌年5月に結婚しています。
二人にとって日光は忘れられない地となったのです。

宇都宮から日光までの鉄道が開通したのは明治23年8月1日で、それから
外国人の観光客や避暑客はますます増え、幾つかの外国人用のホテルもできました。
ガーディナーは二荒山神社の別当であった安養院に部屋を借り、
夏の間そこに住み、キリスト教の日曜礼拝もおこなっていたそうです。
ガーディナーは建築家とし有名ですが、ミッションアーキテクト、
宣教師だったのですから、当然といえば当然かもしれませんね。

その後、夏の間だけ主に外国人の礼拝を行う、木造の日光変容貌教会が作られました。
もちろん設計はガーディナーです。
しかし、しばらくの間、夏が過ぎればそこは誰もいない教会堂でした。

明治の終わりになり、米国聖公会伝道局より、アイリーン・マン女史が宣教師として
日光にやってきました。
マン宣教師は大正元年10月に、最初の幼稚園・愛隣幼稚園を設立し、日光の人々に喜ばれました。

その後、マン宣教師は日光にふさわしい教会が必要であると感じ、
日本聖公会本部や米国聖公会伝道局始め、多くの聖公会の信徒に働きかけ、資金を集めました。
設計は日光を愛し、聖公会のミッションアーキテクト、ガーディナーが行い、大正2年着工、3年の竣工でした。
事実、日光真光教会はガーディナーの設計として有名ですが、
実はこの建築の裏側にはマン宣教師のひとかたならぬ尽力があったのだと思います。




さて、教会は東照宮で有名な日光にもふさわしいよう、堂々として重厚な造りです。
地元の大谷川の安山岩や鹿沼石を外壁や内壁に使用し、平屋建てで、切妻屋根スレート葺き、
教会を見ていると、どこか外国にいるような雰囲気になってしまいます。



教会堂の中です。




外は石造りなのに、中はとても温かさを感じる丸みのある天井です。
とても素敵なステンドグラスがあります。(題材は新約聖書ヨハネの黙示録から)



どんな音色なんでしょうか。
歴史を感じるオルガン。





忘れてはならないマン宣教師のプレートです。教会の片隅に、でも輝いて飾られています。




来会者の記帳台。




外に出て教会の周りをぐるっと回ってみました。



中世の物語に出てきそうな石の壁とドア




静かな静かな教会です。
1時間半の日光滞在でしたが、とても充足した時間を過ごしました。

最後に、この穏やかな温かみのあふれる教会にはガーディナー夫妻が眠っているそうです。





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村



参考文献
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/nikkousinkoukyoukai.htm
http://www.concierge.ne.jp/002_classic/003_nikkokanaya_no01.html
菅原涼子「J・M・ガーディナーと日光」築地居留地研究会 2002『近代文化の原点 築地居留地VOL2』P119

JR日光駅の謎~東照宮を外した日光の楽しみ方 1

2012年09月21日 | 旅日記

大人の休日倶楽部の格安チケットを使って、東京ー日光―函館―小樽―札幌―弘前―東京の
旅行をしました。
居留地や明治大正時代の建物を見る5日間の旅です。
少々お金と時間はかかりましたが、今年はすべての居留地を回る、という目標を立てたので
5日間、新幹線、特急、普通列車乗り放題で2万3000円の
大人の休日倶楽部のチケットは大変ありがたかったです。

ただ、やっぱり北海道は東京から列車を使うと遠いです、、、、

さて、日光へは20回以上も行っていますが、JR日光駅は初めてです。



降りてびっくり。
駅舎じたい、とっても美しい建物だとすぐにわかったからです。
ホームには「貴賓室」もあり、、なのです。



早速、駅員さんに
「すみません、この駅舎、いつぐらいにできたんでしょうか。」と聞いてみました。
すると
「100年以上前です。」
「えー、すごい!素敵な建物ですよね、どなたの設計ですか?」
「それが、戦後のごたごたで資料がなくなってしまって、よくわからないんですよ。」
ということでした。

ちょっと、気になる、、、いえ、すごく気になったので、さっそく調べてみました。
確かに設計者は不明となっています。
明治23年8月開業、大正元年に改築。ネオバロック様式の素敵な建物です。
それに、知る人ぞ知る「関東の駅100選」に選ばれています。
選定理由は「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」だそうです。確かに!


2006年11月7日の産經新聞栃木版に以下のような記事が掲載されたそうです。

>>現役で活躍する駅舎では日本で二番目に古いJR日光駅の設計者が、
日光東照宮近くにある歴史的家屋、赤門を設計した米国人建築家だった可能性が浮かび上がった。

これまで帝国ホテルの設計者のフランク・ロイド・ライトや
旧運輸省OBの説があったJR日光駅の設計者。
今春、見つかった棟札をもとに産経新聞社が調べた結果、
日光になじみの深い人物だったことが分かった。(昌林龍一)

明治23(1890)年に平屋建てで開業後、大正元(1912)年に
現在の二階建てネオ・ルネサンス様式に改築され、鉄道マニアに人気のJR日光駅舎。
その設計者として浮かび上がったのは、明治13(1880)年に米国聖光会(←聖公会の間違え)から宣教活動者として
日本に派遣された建築家、J・M・ガーディナー(1857~1925)だ。

ガーディナーは、日本聖光(公)会日本真光教会(日光市本町)を拠点に、
布教活動の傍ら建築技術を教えた。
日光市内では同教会の設計のほか、日光東照宮近くの赤門などを設計したとされる。
立教大学(東京)の建築にもかかわった。

JR日光駅では今年4月、駅舎の施工者などの氏名が書かれた棟札が見つかり、
棟梁の名は「高山譽三郎」と書かれてあった。
産経新聞社で該当者を捜したところ、日光市内で工務店を経営する高山一夫さん(77)の親族と判明した。
高山さんによると、父親やその兄弟全員が大工で、「国鉄の日光駅の仕事をした」と話していたことを
覚えているという。
高山さんは「(高山譽三郎は)叔父の音三郎ではないか。
当時、棟札は神に献上するもので、音の当て字に『譽』という縁起のいい字を使ったのだろう」と話した。

また、石工として建築に加わった故・柳ケ瀬さんの孫にあたる
柳ケ瀬工務店の柳ケ瀬雄平さん(71)は「私が小さいころ、祖父から
『ガーディナーさんという外国人と駅の仕事をした』と聞かされたのを覚えてます」と振り返った。

日本(←日光)真光教会の施設管理人、藤平功さん(62)はこんな事実を明かす。
「昨年、北海道の人から『JR日光駅を見たときに、地元の古い学校の校舎とそっくりでビックリした』
という連絡があった。その校舎は、遺愛学園(←学院)といい、ガーディナーの設計なんです」。
藤平さんは「当時は今のように設計者という概念がなく、棟梁にアドバイスする形だったので
棟札に名前が刻まれなかったでは」と推測している。

設計者の新説が判明したことについて、日光観光協会は
「日光の歴史的な建築物について、歴史的な経過を記した資料は意外に少ない。大変喜ばしいこと」と話している。

(産経新聞 栃木版より)

それでは日光駅と遺愛学院本館を比べてみましょう。
実は今回の旅行で、函館の遺愛学院を訪ねました。
ガーディナーが設計した重要文化財遺愛学院本館とホワイトハウス(旧宣教師館)を見に行ったのです。
遺愛学院本館は函館が誇る明治41年(1908年)竣工の歴史的建造物です。
淡いピンクの本館、シンプルな設計のようですが、細部はかなり凝った設計になっているそうです。
今回は事前にお願いしておかなかったので、外観だけささっと撮影しました(残念!)










⬇はもう一度日光駅です。






何となく、似ているといえば似ていますね。
駅前の説明板には
「旧博多駅と共通する複雑な屋根、正面にデコラティブな半円形の窓、
外壁ハーフティンバーの柱の白壁で作られ、2階は1等客の特別待合室として使用されていました。」
とあります。

木造2階建ての駅舎は大正元年に建てられたものです。
当時、ガーディナーは日光を頻繁に訪れていました。
奥さんのピットマン女史と出逢ったのも日光です。
1914年(大正3年)ガーディナーは日本聖公会の日光真光教会を設計し、完成させました。
微妙に合う駅舎の開業。
このあたり、本当に歴史に隠れた謎ですね。

日光駅の駅舎、重要文化財に匹敵する素晴らしい建物です。





にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村


参考文献
http://docile.way-nifty.com/nwes/2006/11/jr_715e.html
http://fifabakutyouou.cocolog-nifty.com/nikkousannsou/2007/09/post_c9d4.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/日光駅
菅原涼子「J・M・ガーディナーと日光」築地居留地研究会 2002『近代文化の原点 築地居留地VOL2』P119

小泉八雲~明治日本の面影

2012年09月10日 | 旅日記

8月の長崎居留地の記事もまだまだなのに、
現在、列車で日光ー函館ー小樽ー札幌ー弘前の旅の車中です。

青森から北海道への海底トンネルを出た後、
函館から札幌へ向かう海岸線、札幌から小樽への線路沿いの海、
どこまでも空の色を映していて、青く深く、何とも素敵です。

長い列車移動の中で読んでいるのは
明治政府のお雇い外国人、
ラフカディオ・ハーンの名作選集「明治日本の面影」、
小泉八雲の名前で出版されました。

この本の中で、八雲の「もの」を観察する目の鋭さ、
多面的な分析、言葉の使い方には感心してしまいます。
また、人を差別することの愚かさを説いています。
特に最初の短編、「英語教師の日記から」には明治23年1890年から
出雲(島根県)の松江の尋常中学と師範学校にお雇い外国人として1年間雇われた
日々が綴られていて、現代と比べると興味深いです。

自分は日本語が何もわからないのに
学校で教えることがとても愉快で楽しい仕事だと書かれています。

「近代日本の教育制度の下では、すべての教育は親切と優しさを旨としておこなわれている。
教師は字義通り教師teacherであって、英語の支配関係のmasterではない。
生徒に対して兄の関係なのである。
教師は自分の意思を生徒に押し付けようとはしない。
叱責することはなく、批判することもあまりなく、罰することもまずしない。
(略)
西洋では規律が必要と考えられているが、
日本の生徒はそれとは反する自立を要求しそれを享受している.。
公立の学校はどれもこれも熱気に満ちた小共和国で、
実際問題として、教師がその地位を確保できるのは教師の能力と、品性が
生徒に支持された時だけである。」

八雲は日本の学校にはお金持ちの子供も貧乏な子供もいるが、皆が助け合って
勉強に励み、勉強をすることに喜びを感じている、というような感んそうも述べています。
現代の学校とは何か違っているような気がしますね。

生徒たちはかわるがわる八雲の家に遊びにきて、会話を楽しんだり、
八雲の興味のあるその土地に伝わる物語や絵、伝統工芸の品などを見せてくれます。


ハーンはギリシア生まれで、アイルランド人の父とギリシア人の母の
間に生まれます。その後、アイルランドに移り住みますが、
幼い時に母は精神を病みギリシアに帰国。
父は単身赴任中であり、母とは離婚、すぐに再婚したので、
実の両親とはほとんど会えずに大叔母に育てられます。
フランスやイギリスで学びますが、16歳の時に学校で遊んでいて右目を失明。
叔母の破産や父の死もあり、20歳の時にアメリカに渡ります。

不遇な少年時代だったように思えます。
彼は神学校で学んだこともありますが、すぐに退学してしまいます。
ファーストネームは実はパトリック、
パトリック・ラフカディオ・ハーンというのですが、キリスト教に懐疑的であり
聖パトリックにちなんだファーストネームを嫌ったと言います。

彼は流暢に話せたフランス語を武器に20台前半からジャーナリストとして
アメリカで活躍します。
最初の結婚は、黒人女性とでした。
彼はそれで会社を結果的には辞めることになります。
まだまだ人種差別に厳しい社会だったのですね。
しかもその結婚は1年しか持ちませんでした。1877年のことです。

その後、彼はニューオーリンズに行き、ニューオーリンズ万博の時、
日本の農商務省の服部一三と出会います。
1890年、ハーンは女性ジャーナリスト、エリザベス・ビスランドの話を聞き、
日本という国に非常な興味を覚え、その年の4月にはアメリカの雑誌社の特派員として
早くも日本の横浜につきます。
そして7月には服部一三の紹介で松江の学校に
英語教師として赴任することになったのです。
生まれて初めての教師生活です。

ある時、一人の生徒がハーンのところにきて、言いました。
「先生は、前の先生と違います。」
「どういう風に違いますか。」
「前の先生は私たちのことを野蛮人だ、と言いました。」
「それはなぜですか?」
「ゴッド、といっても、その先生のゴッドですが、、そのキリスト教の神様以外に貴ぶべきものはなく
卑俗で無知な者だけが、それ以外のものを尊敬するのだと言いました。」

「その先生はどの国からきた人ですか?」
「牧師で英国臣民であるといっていました。(略)
ヘルン先生はこのことについてどう思われますか?」
「それは、君、その先生こそが野蛮人なのです。卑俗で無知で野蛮人なのです。
君のためにも祖国のためにも、君が先ほど述べたような悪意のある低俗な言葉を聞いたなら、
その人がどの国の誰であろうと、それに対して義憤を発することが君の義務です。」

ハーンはジャーナリストですから、その国の慣習、人々の文化を貴ぶべきことと心得ていたのですね。
あ、それから、ハーンは「ヘルン」と生徒や周りの人から呼ばれていて、
その名を気に入っていたようです。

さて、この「明治日本の面影」は文庫版で500ページのものですが、
怖いお化けのお話だけではなく、
ハーンの日記や随筆が収められており、題名通り
明治日本のある一面を知るにはとても素晴らしい教本だと思います。


今は帰りの新幹線の中です。
さすがに5日の旅行はきつかったです。
でも、自分のテーマに沿った旅がでたし、ハーンの本も読めてとても満足です。






にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村


にほんブログ村 美術ブログ 建築・建築物へにほんブログ村