私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

3つの異なる顔~佃島・石川島・築地の物語 1

2012年07月20日 | 旧居留地

月島でもんじゃ焼きを食べてから、この日はスタート。
(お腹が空いていて、写真を撮り忘れました!)
月島もんじゃストリートから佃島までは徒歩10分弱です。




写真は佃島から石川島方面の景色です。高層マンションは大川端リバーサイド21です。
古い街から眺める新しい高層都市、その違いがまたおもしろいですね。

佃島とは⬇

   佃嶋(つくだしま)で、現在の佃一丁目に当たる。1590年(天正一八年)八月一日、
   徳川家康が関東下降の際、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、
   1645年(正保二年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築島し永住することになり、
   この島を故郷にちなんで佃嶋と命名した。
   古い地図を見ると「田」の字の島が確認できる。
   現在の地図を見ても、佃一丁目の形状はそのような形状をしている。

のだそうです。
佃煮の老舗の店が何軒かあり、お醤油のにおいがしてきました。
佃煮のルーツは、つまり大阪にあり、大阪の味なのかもしれませんね。




⬆は佃公園の中にある石川島灯台。
階段を上ってみると「公衆トイレ」でした。

ところで、最近読んだ柴田錬三郎の時代小説に石川島にあった人足寄場の話が出てきました。
石川島は造船の街、最近ではリバーサイドの高層マンション群が並ぶ街、と思っていましたが、
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改方・長谷川平蔵宣以が作らせたものだと
いうことです。
「鬼平」は実在の人物で、相当な人格者だったようです。

人足寄場は正式には加役方人足寄場(かやくがたにんそくよせば)といい、
10代将軍徳川家治の時世に老中松平定信に長谷川平蔵が建議をし、創設した
軽罪人・無宿者の自立支援施設です。

時代は天保の大飢饉で死者が50万人も出た頃です。
農村は崩壊し、無宿者、行くところのない浮浪者などが江戸に続々と集まってきました。
人々の心はすさみ、その結果、犯罪も増えてしまいました。
そこで、佃島と石川島の間にあった湿地を埋め立て、そこに人足寄場を作り、
軽犯罪を犯した者、無宿人、などの収容所を行ったのです。

江戸時代にこんな画期的な収容所が作られているとは思いませんでした。
いくつのかの特徴を上げてみます。

・収容された人々に最初に「寄場人足共へ申渡書」 を読みあげ、
 人足寄場が犯罪者を収容する牢屋ではないことを強調した。
・人足寄場で守るべきことの条目を全員にわかるよう告げた。
・技術のあるものにはその仕事をさせ、手に職を持たない者には出所後のことを考え、職業訓練をした。
・作業からでた収益金は「人足寄場の経営」「それぞれへの作業報奨金」「出所後のための貯金(一時預かり)」
「日常生活に必要な物品の購入」に当てた。
・病人のための病舎を作った。
・読み書きを教える学校を作り、精神訓話も行われた。精神的にも自立できるような配慮がなされた。
・仕事を怠ける者にはたたき刑が行われた。
・寄場から逃げた者は死罪となった。
・出所のときには預かり金を与え、職に就く時に必要であれば身元を保証した。

江戸時代にこのような更生施設があったとは、驚いた事実です。
厳しくも人情味にあふれた長谷川平蔵の世界ではないでしょうか。


しかし、一時は500人以上が寄場にいたため、その運営は大変だったようです。
つまりお金がなかった、ということです。
ここを長谷川平蔵はその型破りな方法で乗り越えます。
まずは、幕府からお金を借り、銭相場に投資して利益を出し、運営費に回します。
また、大名屋敷跡を有力商人に資材置き場として貸し出し、賃料をもらう、など
どうやら商才にも長けていたのかもしれません。
優秀な人だったのでしょう。

このように佃島や石川島には様々な歴史があるのだな~、と調べてみてわかりました。
参考にした資料は以下です。

http://www.f-banchan.net/tokyo/tukuda/tukuda.htm 佃島
http://ja.wikipedia.org/wiki/加役方人足寄場
http://ksei.exblog.jp/9023055/断想 石川島人足寄場跡
http://www.digistats.net/doc/isj.htm 石川島人足寄場

さて、この日は炎天下でしたが、佃島、石川島とはまたひと味違う
築地に、佃大橋を渡って向かいました。
築地は明治維新後、外国人の居留地ができたところです。
たくさん書きたいことがあるので、次回に回します。


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お得な切符で旅行

2012年07月14日 | 近代の歴史的建造物

夏休みがだんだん近づいてくると、今年はどんなことをしようか、
いろいろ楽しい計画を思い浮かべて、行ってもいないのに
ワクワクしてしまいます。

私の趣味は古い建物を見ること。
今は明治時代の建築物にハマっています。

この建物を見に行くために、なるべく節約して旅行する術を
考えるのも大好き(´・_・`)
青春18きっぷの大ファンでもあります。
今年もこの18きっぷを使おうと思っていましたが、
さらにお得な切符があることに気づきました。

JR東日本の「大人の休日倶楽部」の限定切符です。

東日本方面しか乗れませんが、新幹線、特急など自由席は乗り放題、
指定も6回まで使えます。
5日間有効でJR東日本と北海道全域までプラスしたものが、2万3千円です。
(新幹線、特急の乗り継いで函館まで行くと片道2万3千円ほどかかります。)
ただし、年齢制限あり。
青春18きっぷは誰でも使えるのに、「おとなの」は50才以上、
つまり、おじさんおばさん以上でないと買えません(´・_・`)

私は今年の夏、これを使って青森、弘前、函館、札幌の
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが残した建造物を見に行こうと決めました。

もしかすると最北の地、稚内まで弾丸ツアーを決行するかも!

これは夢ですが、、、、

実は西の方へ行こうとも考えていましたが、利用する青春18きっぷは
普通列車と快速のみ、乗り放題。
行きは「これから見に行くんだ!」という気持ちが強いので8,9時間
普通列車に乗っても大丈夫なのですが、
帰りは、どうしても疲れてしまって、新幹線を使ってしまいます。
(やっぱり青春じゃありませんねヽ(´o`;)

だから、大人の休日倶楽部の新幹線の誘惑に負けて
小泉八雲を訪ねる山陰の旅は来年に延ばしました。



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写真はガーディナーが残した京都の聖アグネス教会です。
明治31年の赤煉瓦、ゴシック様式の教会です。




触れてみる

2012年07月09日 | はじめましてのページ

私の小さな楽しみは、古い建物を見ること、
触ってみること。

触ってみると、外観だけではわからない温かさや冷たさが伝わってきます。
手すりにも窓にも階段にも、当時の人の思いがあふれているような、、、。









壁の中に手を入れて触ってみる。



5世紀、三蔵法師が説法を行った寺院。
このコーナーに立って話されたそうです。
熱い、熱い想いが伝わります。





最近の一番のお気に入りは
ここが地球の、日本の、愛の中心という石碑
意味が深く、いろいろな想いが浮かんでは流れていきます。



⬆滋賀県の近江八幡です。


こんなものに触ってみる時、
ドキドキするような、小さな幸せを感じます。






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もちろん、猫にさわるのも大好きです。


明治村から~重要文化財の建物

2012年07月07日 | 近代の歴史的建造物

名古屋市から車で40分ほどのところにある明治村。
以前からぜひ訪ねてみたいと思っていたところです。
広大な敷地の中に明治の歴史的建造物が点在しています。
とてもとても徒歩で歩ききれる場所ではありません。
村内では可愛いバスを利用して、見学しました。

今回は明治時代に日本に来たアメリカ聖公会の宣教師で建築家の
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの設計した「聖ヨハネ教会」を見ることが
目的の1つでした。

「聖ヨハネ教会」は明治村1丁目の木々に囲まれた小道を登った
小高い丘の上にあります。



明治6年(1873)、江戸幕府の禁教令(1612)から260年近くを経て、
キリスト教の宣教が許され、イギリス、アメリカをはじめとする各国の宣教師たちが
続々と日本にやってきました。
ヘボンのように医者だった人もいれば、教師、や建築家だった人もいます。
聖公会の宣教師たちの中には数人の建築家がいて、
たくさんの教会や学校、集会所などを作っています。

ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーは
『宣教師、教育者、建築家』という3つの肩書きを持ち、どの分野にあっても
秀逸であった人です。

ガーディナーは1857年、米国セントルイスで生まれで、
ハーバード大学建築科に入学したのですが、1877年(明12年)に中退してしまいます。
その後、聖公会宣教師で日本の聖公会の責任を負っていた
立教学校の創設者、チャニング・ウィリアムズの要請で、
アメリカの聖公会伝道局から宣教師として日本に派遣されることになりました。
1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。

23歳の若きガーディナーは教育者として立教学校を経営しましたが、
同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、
洋風建築の建物を作っています。

1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガーディナーが設計した
立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガーディナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

さて、聖ヨハネ教会ですが、もともとは京都市下京区河原町に
日本聖公会京都五条教会堂として明治22年に建設されたものですが、
その後、明治40年にガーディナーの設計によりされ建て替えられました。
当時の名称は「京都聖約翰教会」です。


中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、
正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形の大屋根がある設計です。
窓が多く、教会内はとても明るくなっています。







構造は、1階がレンガ造りで、幼稚園や教会学校に使われ、
2階は木造で礼拝堂になっています。









屋根には軽い金属板が葺かれています。
これは明治東京大地震を経験したガーディナーの地震への配慮と考えられているようです。

⬇は教会堂の中の椅子。当時のままなのでしょう。



また壁にはこんなポスターが⬇



今でも1階はこどもたちが遊べるよう、部屋の半分ぐらいがすべり台になっています。
地元の子どもたちを大切にしていたのですね。

さて、この教会はガーディナーが設計したということで有名ですが、
そのうしろには、チャニング・ウイリアムスという日本の宣教に命をかけていた
司教の存在を忘れてはならないと思います。
彼の決断と資金の調達がなければ、この重要文化財の教会は
存在しなかったのですから。






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ガーディナーについては、また次の機会にも紹介したいと思っています。


参考文献
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0051.html文化財ナビ愛知
http://www.youtube.com/watch?v=byVN1dKNFZ4 明治村聖ヨハネ教会1階
http://izt.silklayer.shop-pro.jp/?eid=360414 京のこぼれ話
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャニング・ウィリアムズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ・ガーディナー




おじぎさせられちゃった

2012年07月06日 | はじめましてのページ


お花屋さんの軒先に1つ100円で売られていた「おじぎ草」
何かが触れると、とたんに葉を閉じて、しゅん、とうなだれてしまいます。
それから暗い夜も頭をたれたまま、、、。

なんだか、ストレスに弱い私のよう、、、。

ぴーぴー鳴いてまとわりつくので、「ピーピー」と呼んでいる子ネコ。
我が家の新しい家族です。

自分の方がこの家に2週間早くやってきたんだからね、とばかりに
すべての葉っぱにおじぎをさせてしまいました。






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