山と海、どちらが好き?と聞かれたら、とても困ってしまいます。
どちらも好きなのですが、最近は山歩きに傾いているかも、、、、。
40代のころの中国の天山山脈や崑崙山脈、四川省の山々などへはよく仕事で出かけました。
(中国パキスタン国境付近カラクリ湖ー4000mから7000mの山を見る)
そのころから、低いところから高い山を見上げるのが好きです。
ところで、
山と外国人に関わる3つの「K」のつくリゾート地
軽井沢(KARIZAWA)を別荘地として発展させたカナダ人宣教師アレギザンダー・ショー(1846-1902)
アメリカ人宣教師ポール・ラッシュ博士の清里(KIYOSATO)
そして上高地(KAMIKOCHI)を登山基地として紹介したウォルター・ウェストン。
先日訪れた栂池自然園の資料室で、明治時代に日本に来たイギリス人宣教師、ウォルター・ウェストンの展示を見つけました。
ウォールター・ウェストンはイギリス山岳会の会員であり、 日本アルプスを世界に紹介し、
日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。
1861年、イギリスのダービーで生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業後、リドレーホール神学校で学び
1988年(明治21年)27歳のときに英国聖公会・ 教会伝導協会派遣の宣教師として
日本にやって来ました。
ウェストンはもともと山が大好きで、 聖職に就いた25歳頃よりスイス・アルプスで
本格的な登山をはじめヴェッターホルン、マッターホルン、ブライトホルンなどの登頂のほか、
アイガー、ユングフラウ等にも挑んでいたそうです。
ウェストンは宣教師として3度来日、熊本、神戸、横浜に居を構え、宣教活動の合間に日本各地の山々に登り、
日本の山村の風俗・ 習慣などを本に書き、海外に紹介しました。
上高地の宿、清水屋にはウェストンが残した外国人登山者のための署名簿「クライマーズブック」が残っています。
そこには以下のような記述があります。
「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて-
1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)より
ヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。
上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。
そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います、、、、、
この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から
1914年までの登山日誌のような形で書かれているそうです。
ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、
後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。
さて、明治のころは日本人に『山歩きをして楽しむ』というような習慣はありませんでした。
日本人は山は聖なるものとし、ウェストンが登山をしようとした時、『外国人に山を汚されてしまう』と
入山を拒んだ村もあったそうです。
その後、彼は日本山岳会創設にも尽力し、日本古来の信仰登山からスポーツやレジャーとしての登山、
ハイキングへと人々の意識を変えました。
ウェストンが登った山は以下です。
1891年 浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曽駒ヶ岳
1892年 富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳
1893年 恵那山、富士山、大町から針ノ木峠超え、立山、前穂高岳
1894年 白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1902年 北岳
1903年 甲斐駒ヶ岳、浅間山
1904年 地蔵岳、北岳、千丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳、富士山
1912年 有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年 槍ヶ岳、奥穂高岳、焼岳、霞沢岳、白馬岳
1914年 立山温泉から針ノ木峠超え、燕岳、大天井岳、富士山
すごいですね。
彼は山に登り、何を考えていたのでしょうか。
詩篇121篇1・2節を思い出します。
「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。」
山に登ると、ちょっとだけ他の人より天に近くなったような
そんな気が、私はします。
ウェストンは日本の近代登山発展のための貢献ははかり知れないものがあり、
日本の近代登山の大恩人なのですが、
一方で教会の反感を買うほど登山に夢中になり、最後には教会の職を辞してしまいます。
ほっ!やるね~、、、という感じ。
彼の記録をいろいろ調べると、登山関係は豊富なのですが、
宣教師としての足跡はたどりにくいです。
でも、1つ見つけました。
それは、次に続く、、、、ということにしたいと思います。
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参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウォルター・ウェストン