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鎌倉近郊を歩く5.いたち川の新橋

2008-12-20 11:08:23 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 5
           いたち川の新橋



 鎌倉の北を流れる「いたち川」は、「出立川(いでたちかわ)」に由来するそうです。鎌倉の人たちは武蔵・秩父や那須など東北に旅立つ人を見送り、この橋のたもとで別れを惜しみました。東北からの旅人はいたち川の河畔で旅の塵や汚れを払い、衣冠を直して鎌倉に入りました。

 江戸時代の品川宿のように、いたち川の新橋(にいばし)辺りに多くの旅籠があったのでしょう。鎌倉時代の末ごろた兼好法師も、京都から下ってきてしばらく滞在したようです。母が金沢に住む次兄と一緒に暮らしていました。

 歩く:JR本郷台駅下車、駅前広場を通って南へ10分でいたち川、下流に進む

 新橋の北側に道しるべの石碑があり、右が弘明寺道、左が戸塚道と刻まれています。元禄4年(1691)という文字も読みとれます。赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年。石碑はそれより10年前からここに立って、道案内をしていたのです。

 鎌倉・中の道が戸塚道、下の道が弘明寺道で、ここが分岐点でしょう。文冶5年(1189)7月19日午前9時過ぎ、源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を征討するため、無地の白旗を掲げた千騎の武士に護られて鎌倉を出立しました。10時ころ、新橋を渡ったはずです。

 道々で迎え待つ武士たちの数は増えて、「諸人の郎従を加え軍士28万4千」と吾妻鏡にあります。頼朝は平泉に逃れた軍略家の弟・義経を泰衡に討たしていました。恐いものなしの鎌倉軍は、17万騎の奥州軍を鎧袖一触。泰衡は華麗な平泉館に火を放ち北へ逃亡しました。間もなく家来の河田次郎に首を討たれて頼朝のもとに届けられました。

 弘明寺道にそって東北へ進むと長光寺の前に出ます。「なんじゃもんじゃ」の異名がある巨木を見上げながら石段を登ると、本道の前に旅姿の親鸞上人の大きな銅像が立っています。門前の看板に、伊豆の豪族伊東氏によって創建されてからの歴史が詳しく記されています。

 最近できた広い車道を渡って東に少し歩くと、春日神社がお在します。平安時代に山内郷(ほぼ横浜市栄区)を支配した藤原氏の一族・首藤氏が創建したのだろうといわれます。首藤氏の館は、交通の要衝であるこの辺り小菅ヶ谷に在ったのだろうと思います。

 頼朝の乳母の息子・首藤経俊は石橋山合戦で頼朝討伐軍に参じ、弓矢で頼朝を射ました。頼朝が鎌倉の主となり経俊が捕えられると、乳母が泣きながら頼朝に助命嘆願したことが吾妻鏡にみえます。のちの首藤氏の活躍から推定して、頼朝は山内の地を没収しましたが、経俊を許したのだろうと思います。

 公田(くでん)とか本郷など、平安時代の地名が色濃く残るところです。春日神社の前を道なりに南へ少し歩くと京浜東北線のガード下に出られます。本郷駅はすぐ近くです。



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