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鎌倉近郊を歩く17.藤沢の遊行寺

2011-09-30 11:08:06 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 17
            藤沢の遊行寺


                   (写真はクリックして見てください)

 藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)は東海道に沿って、交通に至便な位置にあります。近世の
東海道は遊行寺から北東に進み武蔵國に入りました。古代の東海道は南東に進んで鎌倉を
通り走水から上総國に渡りました。多くの旅人が門前を通り、立ち寄ったのでしょう。

 歩く:JR藤沢駅 北口から商店街を通り抜ける 藤沢橋交差点を右折 約15分

 堺川を渡り、三島神社に同じの八角に三の字の定紋を見ながら、総門から入りました。
案内書に「冠木門で、天下の三黒門の一つ」とあります。少し坂道を上がると、大きな銀
杏の木がありました。樹齢650~700年とあります。鎌倉鶴岡八幡の銀杏の木が倒れてか
ら、この辺りでは最古の銀杏の木となりました。

 境内には宝物館のほか、敵味方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、国定忠治の一の子分で
あった板割浅太郎の墓などがあります。正面の本堂のほか、江戸時代に建てられた大書院
や小書院、中雀門などもあります。

 案内書に「遊行寺は一遍上人を開祖と仰ぐ時宗の総本山。一遍上人は寺に居住せず、ひ
たすら念仏の旅を続けて漂泊の捨聖の生活をしていた。四世遊行上人呑海が俣野の地頭の
弟で、この地にあった廃寺跡を譲り受けて清浄光院を創建した」とあります。

 呑海上人が遊行寺をつくる前の廃寺は、極楽寺だったそうです。その名からして、東海
道の行き倒れの人や、近隣で戦って死んだ人を葬った墓地だったのでしょう。

 歴史事典に、「一遍上人は、源義経に味方して壇ノ浦に平家を滅ぼした四国・伊予水軍
河野通信(みちのぶ)の孫で、幼名を松寿丸。出家して智真。三十五歳で伊予国を出る」
とあります。河野家を継ぎながら、なぜ、出家し漂泊したのか、理由がはっきりしないそ
うです。伊予水軍は河野から村上に継がれ、瀬戸内の海上交通を支配しました。

 通信は鎌倉御家人となり、幕府に出仕しました。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇側につ
き、敗れて奥州江刺に流され、その地で没しました。一遍上人は祖父の墓(北上市)に参
り回向しました(1280)。そのころから、一遍上人による念仏踊りが大流行しました。

 鎌倉に入ろうとして山ノ内で武士から拒まれた様子が、一遍上人絵伝に描かれています。
その場所は、北鎌倉駅から建長寺へ到る道筋だろうといわれます。片瀬の浜で念仏修行を
して、多くの人たちが雲の如く参集したと書かれています。51歳で兵庫和田崎の観音堂
で没しました(1289)。

 時衆(宗)は戦いのあと、敵味方の区別なく傷の手当し、戦死者を葬ったといわれます。
交通至便のこの地は、多くの旅人が休む場所でもあったのでしょう。近辺での戦いや喧嘩、
病など倒れて、ここで時宗の僧に手当されたり葬られたりしたに違いありません。

 説明パネルに、明治初年、天皇や皇后が何度も宿泊や休憩に立ち寄られたとあります。
西郷隆盛も宿泊しています。この地はよほど、東海道の往来に便利な所だったのでしょう。
護衛の兵を収容できる広さも、貴人が度々利用した理由なのでしょう。

 大木の銀杏が黄葉して散る光景は見事です。11月の末から12月初め、ご近所の銀杏の
黄変の様子をみて、訪問されることをお奨めします。



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